月曜日の朝、微笑んでいる生徒は一人もいなかった。城の中は異様な静けさに包まれていて、カナも朝食が喉を通らなかった。
 ひとつ目の試験がカナの得意な変身術だったのはさいわいだった。家具を生き物に、生き物を道具に変えるという呪文は、隠れてみっちり訓練した甲斐もあって、カナはけっこう満足のいく結果を得られた。しかし、ハーマイオニーはあれだけかんぺきな魔法を扱うにもかかわらず、納得がいかない出来だったとやきもきしては、試験でくたくたに疲れた他のみんなを苛立たせていた。

 慌ただしく昼食をとった後は、また教室に駆け上がって「呪文学」の試験だ。ハーマイオニーの言う通り、フリットウィック先生は「元気の出る呪文」を試験に出した。しかし、カナはまたネビルの呪文によって怒り出してしまった。ネビルを落第させたくなくて自分を抑えようとしたけれど、難しかった――フリットウィック先生が手元の羊皮紙に何やら書き込むのが見えた。大きなバッテンのようだった――
 夕食のあと、みんな急いで談話室に戻ったけれど、のんびりするためではない。次の試験科目を復習するためだ。「魔法生物飼育学」に「魔法薬学」、真夜中の「天文学」――

 火曜日の前半は「魔法生物飼育学」で、試験監督のハグリッドはまたもや心ここにあらずといった感じだった。試験内容もまったく腑抜けたものだった。獲れたばかりのレタス食い虫フロバーワームを大きなたらいいっぱいに入れ、一時間後に自分のフロバーワームがまだ生きていたら合格だと言い渡した。フロバーワームは放っておけば最高に調子が良いので、みんなこの一時間は肩の力を抜いていた。カナたちにとっては、ようやくハグリッドと話をするチャンスとなった。
「ビーキーは少し滅入ってる」虫が生きているかどうか確認するふりをしながら、ハグリッドはかがみ込んでカナたちに言った。「長いこと狭い小屋に閉じ込めてるしな。そんでもまだ・・・・・・あさってにははっきりする。どっちかにな」
「あの子に会いたいよ」カナがぽそっと言うと、ハグリッドの潤んだ目が光った。
「ああ――必ず会える、会えることになるさ」
 ハグリッドがまだ希望を捨ててはいないのだから――カナも、気持ちを持ち直した。

 午後は「魔法薬学」だ。スネイプ先生はカナの大鍋の中の「混乱薬」をつまらなそうに見て、自分のノートにつまらなそうに数字を書き込んでいた。対して、ハリーやロン、ネビルの席ではとても楽しそうに調合を眺めていた――どうせ不平等な採点をされるに違いない。毎年恒例なのだ。

 真夜中の「天文学」は散々だった。それまではなんとか乗り切っていた試験だが、そこからカナの自信をぼろぼろにした。水曜日の「魔法史」は中世の魔女狩りについてだったけれど、あと数センチ長さが足りなくなってしまったし、午後は茹るような熱気の温室で「薬草学」の試験だった。ドラゴン革の手袋の下にびっしょり汗をかきながら、みんな首の後ろをジリジリと焼いて、大暴れする「噛み噛み白菜」を押さえつけていた。

 試験最後の日。木曜の午前中は「闇の魔術に対する防衛術」だった。リーマスは生徒を机に向かわせるのではなく、独特の試験を出題した。屋外に用意されたそれは、まるで大掛かりなゲームのようだった。これまで授業で扱ったさまざまな生物と対峙して、途中で襲われてしまったら終了、というものだった。みんなこれには楽しく参加した。試験というよりも、まさに自分の実力を試しているようでワクワクした。
 けれど――カナは試験開始していきなり頓挫してしまった。ひとつ目の試練が、なんと――グリンデローの入った深いプールを泳いで渡る、というものだったからだ。カナは泳げない――ちらりと、試験監督であるリーマスを見た。リーマスはいつものあいまいな微笑みを浮かべていた。
「カナ、降参かな? 十、九――」
 リーマスがカウントを始めたので、カナは意を決して杖を握った。これで合格がもらえるかどうかわからないけれど、プールに足をつけるよりはましだ。
グレイシアス氷河となれ!」
 カナはプールの表面を凍り付かせた。その上を慎重に歩いて渡る。水魔は顔を出してはこなかった――リーマスも、とくに中断を言い渡さなかった。カナは進んだ。残忍なレッドキャップに襲われないよう、自分の足音をもうひとつ増やして、一人ではないように見せかけて巣穴を横切った。沼地では迷子にしようとヒンキーパンクが誘う。カナは相手のランタンよりももっと大きな光を杖に灯し、さっさと沼地を抜け出した。最後に、ボガートが閉じ込められている大きなトランク・ボックスに入らなければならなかった。
 トランクの中は見た目とは違い広々としたものだった。「検知不可能拡大呪文」が施されているに違いない。カナが見回していると、すぐ目の前にウォーレンが立っていた。にやにやとカナを見下ろしていた――怖気を吹き飛ばすように、カナは杖を振ってパン! と小爆発を起こす。すると、ウォーレンはポカンと口を開けて、呆然とそれを見ていた。やっぱりだ――ボガートは本物そっくり・・・・・・に変身するみたいだ。
リディクラスばかばかしい!」
 ウォーレンのズボンが、ベルトとともに引き下げられた。それで、カナの方へ足を踏み出していたものだから――ウォーレンは思いっきりずっこけた。
「ごめんね」カナはあちこちに飛んでいくウォーレンの衣服を見て笑いながら、まぬけな男を見下ろした。「結局ぼくの下着は戻ってこなかったわけだし、このくらいの仕返しはしたっていいよね?」
 ――カナがずいぶんスッキリした顔でトランクから顔を出したので、リーマスが意外そうに、でも嬉しそうに拍手を送ってくれた。
「おや、きちんとトラウマを克服したのかな?」
「まあ、泳ぐこと以外はね」カナはちょっと心配になりながら言った。
「ウン――いいよ。満点だ」
 カナはリーマスのすこし後ろで友だちの試験を見守った。ハリーはカナと同じく満点をもらっていた。ロンはヒンキーパンクまではうまくやったのに、光に惑わされて泥沼に腰まで沈んでリタイアとなった。ハーマイオニーはすべてを完璧にこなしてみせた――しかし、ボガートのトランクに入ったとたん、叫びながら飛び出してきた。
「ハーマイオニー」リーマスが驚いて声をかけた。「どうしたんだ?」
「マ、マ、マクゴナガル先生が! 先生が、私、全科目、落第だって!」
 ハーマイオニーはトランクを指さして絶句した――「課外授業」は結局受けられなくて、自分が最も恐れていることがなんなのか、ハーマイオニーは終ぞ知る機会がなかったのだ。彼女がもうすこし、自分の成績に自信というか、満足ができていたのなら、こんなことにはならなかっただろう。

 パニックになったハーマイオニーを落ち着かせるのにはしばらく時間を要した。ようやくハーマイオニーが普段の自分を取り戻したころ、四人は昼食のために城へと戻った。カナが慰めの言葉をかけ、ロンがボガート騒ぎをからかった。ふたりが、そしてハーマイオニーが喧嘩に突入しかけたとき、四人は自然と口をつぐんだ。正面玄関の階段のてっぺんに、誰かが立っていることに気がついたからだ。
 小柄で腹の突き出た、くたびれた相貌の男がそこに立っていた。細縞の分厚いマントを羽織っているのに、額に汗を浮かべている。
「だれ?」カナが聞いた。
「コーネリウス・ファッジ。パパのボスだよ」ロンがぼそっと耳打ちした。
「つまり、魔法省のトップ、魔法大臣」ハーマイオニーが補足した。
 四人に気がついたのだろう。ファッジ大臣は驚いた。
「やあ、ハリー! 試験を受けてきたのかね? そろそろ教科はぜんぶ終わりかな? 」
「ええ、はい」
 なんだ、ハリーの知り合いだったのかと、カナは納得した。ロンとハーマイオニーは居心地が悪いのか、後ろでぎこちなく体を揺らしたりしていた。
「いい天気だ」大臣は陽光を反射する湖面をまぶしそうに見つめていた――暑いのなら、そのぶあついマントとかっちり締まったネクタイを外してしまえばいいのに、とカナは思った。「それなのに・・・・・・それなのに」
 大臣は深いため息をついて、ハリーに向き直った。
「ハリー、あまりうれしくないお役目で来たんだがね。『危険生物処理委員会』が、私に狂暴なヒッポグリフの処刑に立ち会ってほしいと言うんだ。ブラック事件の状況を調べるのにホグワーツに来る必要もあったので、ついでに立ち会ってくれというわけだ」
「そんな。処刑が決まったんですか?」
 カナが愕然として声を出した。大臣もキョトンとしてカナのことを見て、目を瞬かせた。
「もう控訴裁判は終わったと言うことですか?」ロンも進み出て言った。
「いや、いや。今日の午後の予定だがね」大臣は口を挟んだ二人のことを興味深そうに見た。
「それだったら、立ち会う必要なんか全然なくなるかもしれないじゃないですか!」ロンが力強く言った。「ヒッポグリフは自由になるかもしれない!」
 大臣が口を開くより前に、背後の扉が開いた。城の中から出てきたのは、萎びた玉葱みたいな老人と、真っ黒な口髭をたくわえた大柄の魔法使いだった。
「やーれ、やれ。わしゃ、年じゃで、こんなことはもう・・・・・・ファッジ、二時じゃったかな?」萎びた老人が言った。
 髭の男のほうは、カナの太腿ほどの太さのある腰ベルトに、巨大な斧を挟んでいた。その鋭く光る刃を、太い親指が撫でていた――カナは察した。このふたりは「危険生物処理委員会」の役人と処刑人なのだ。
 カナとロンが口を開いたと同時に、ハーマイオニーが二人を肘で小突いて止めた。四人は黙って玄関ホールに入り、昼食の大広間へと向かう。
「なんで止めたんだ?」ロンが激昂した。「あいつら、見たか? 斧まで用意してきてるんだぜ。どこが公正裁判だって言うんだ!」
「ロン、あなたのお父さまの上司に向かって、そんなこと言えないわよ!」ハーマイオニーはそう言いながらも、自身も相当まいっているようだった。「ハグリッドが今度は冷静になって、ちゃんと弁護しさえすれば、バックビークを処刑できるはずないわ・・・・・・」
「あんなのが目の前にいて、ハグリッドは冷静になれるはずがないよ」カナは青い顔をして、すっかり俯いた。さっきの巨大な斧――あれで――カナは想像すると気を失ってしまいそうだった。
 大広間では、午後の試験さえ終われば解放されるのだと、楽しみにはしゃいでいる生徒であふれていた。けれど、カナたちはハグリッドとバックビークのことが心配で、とてもそんな気分にはなれなかった。

 最後の試験だ。ハリーとロンは「占い術」、カナとハーマイオニーは「マグル学」だった。
「綴りを今のうちに覚えて――『自動車』に、『自転車』よ」
 ハーマイオニーはカナを励ましてくれたけれど、カナの頭には全然残っていなかった。いつもはマグル製のおもちゃがずらりと並ぶかわいい教室はすっかり片付けられていて、まるで知らない場所に閉じ込められているような感覚だった。ああ、そのせいなのか――どのせいなのか――カナの「マグル学」の出来は全部の教科の中でいちばんひどいだろう。マグルの貨幣の計算だって単位が間違っていたような気しかしないし、人力移動手段の「自旋者・・・」の綴りもめちゃくちゃだと思う。それに、最後にバーベッジ先生が設けた面接では、マグルの友だちに自己紹介する場面で、カナはうっかりふくろう便の話をしてしまい、大きく減点された。

 教室を出るまぎわ、唯一壁に掛かったままの鳩時計で時刻を確認した。午後二時過ぎだ。ちょうど控訴裁判が始まった頃だろうか。ハグリッドたちはどこで話し合っているんだろう――
「カナ」
 ガートルードだ。
 ふたりは数か月ぶりに「訓練部屋」に入った。すっかり萎びたマンドラゴラと、薄く埃をかぶったテーブルが出迎えた。
「いろいろ調べてみたよ。どうやら、変身を身につけるにはいろんな手段があるみたいなんだ・・・・・・そして、あの魔法薬を使ってもすぐにアニメーガスになれるわけじゃないみたい・・・・・・」
「じゃあ、ぼくらはどうなるんだろう」
「わかんない」ガートもすっかりお手上げのようだ。「でも、体は準備できてるはずだから、いつか変身できるようになると思う――コントロールがつくまでは突然変身しちゃうこともあるっぽいから、気をつけないとね」
 成熟した魔法使いだけが訓練を許されている、というのは、魔法の熟練度だけでなく、子どもの体では変身にまで至らない、なんて理由もあったりするんだろうか。
「魔法省に登録しないといけないかな?」
「変身してないなら、アニメーガスって言えないけどね」ガートはクスリと笑った。「ま、バレなきゃ大丈夫だよ。そもそも成功してるかどうかわかんないし――」
 カナは壁に背中をつけて寄りかかった。深刻そうにため息をついたので、ガートが首をかしげた。
「ガート・・・・・・」カナは悲痛な面持ちでヘーゼル色の瞳を見た。「『自旋車・・・』の綴りって、『s』が入ってるよね?」
 ガートはポカンと口を開けて――かしげた首を元に戻した。
「そんな設問あった?」



 うなだれながらカナがグリフィンドール塔に戻ったとき、ブワリと風が吹いた。思わず目を瞑って――髪を払った時、頭の上に何かがズシンと乗っかった。ハグリッドのふくろうだ。
 裁判が終わったんだ――カナはあわてて、折り畳まれた羊皮紙を広げた。
「控訴に敗れた。日没に処刑だ。もうできるこたぁなんにもねえんだから、来るなよ。おまえさんたちに見せたくねえ」

 談話室にはほとんど誰もいなかった。すみっこのテーブルに、ロンとハリー、ハーマイオニーが顔を付き合わせて座っていた。カナが息を切らして近づいて、そしてその顔が真っ青だったので、三人はぎょっとした。
「カナ、どうしたの――」
 ハーマイオニーがカナを受け止めて、そして手に持った手紙を取り上げた。
「バックビークが負けた――」ロンが絶句した。
「い、行かないと」カナがふるえた声で言った。
「ああ」ハリーがうなずいた。「ハグリッドが一人で死刑執行人を待つなんて、そんなことさせられない」
「でも、日没だ」絶望した声でロンが言った。「絶対許可してもらえないよ・・・・・・」
「ぼく、今から行ってくる」
 カナは静止の声も聞かず、談話室を飛び出した。トロールの行き交うあいだで「目眩まし術」を使った。
「カナ!――もう行っちゃったのか?」ロンが追いかけてきたけれど、透明になったカナを見失ったみたいだった。
 廊下のベンチでゴブストーンで遊ぶ生徒――お菓子を投げ合っている生徒――窓辺でリラックスしている生徒――そんな生徒を見回りしている教師――カナはみんなにぶつからないように小走りで、ハグリッドの小屋を目指した。三階にさしかかったとき、リーマスとの約束を思いした――でも――でも、行かないわけにはいかない。カナはそのまま階段を降りた――
「ぅわっぷ!」
 カナはしたたかに顔を打ちつけた。考え事に気を取られて、前をよく見ていなかった――
「――カナ?」
 リーマスだった。鼻を抑えながら顔を上げると、含みのある微笑みを浮かべていた。
「うわー、ルーピン先生」カナはもごもご言った。いつのまにか「目眩まし術」も解けていた。
「ずいぶんご挨拶だね」ポケットに紙切れを仕舞いながら、リーマスはカナに目線を合わせた。「どこへ行こうとしてたのかな?」
「べつに、城の中を歩いてただけです」
「わざわざ『目眩まし術』を使ってかい?」
「と、友だちに会いたかっただけ――」カナはだんだん泣きそうになってきた。はやくハグリッドに会わないと、と焦る気持ちがじりじりカナの胸を焼いた。
「まだあの犬を探しているんじゃないだろうね?」
「違う――」カナがわきをすり抜けようとすると、リーマスがカナの前に出て、やんわりと肩に触れた。
「行かせてよ」
「ルールは守らないと」
「そんなもの――!」
 カナの叫びは声にならなかった。バックビークは、バックビークは、ルールの外にあるもののせいで、いまから命を奪われるのだ。
 きびすを返して、反対側の廊下へと走った。行き交う生徒たちのあいだを縫って、カナは遠回りして階下を目指した。

 ふと、大時計の前を通った時に、オレンジ色の塊がトコトコ歩いているのが見えた。
「クルックシャンクス」
 猫はカナの声にパッと顔を上げたけれど、すぐに大時計の中に入って行った――カナが一年生の時に入り込んだ、一階のタペストリーの裏の道だ。カナもオレンジ色を追いかけて、振り子のあいだをくぐる。ここならリーマスは追いかけてはこないだろう。ついてきている気配はなかったけれど――念のためだ。だんだんと低く狭くなる天井に、ああ、クルックシャンクスみたいに小さくなれたら、誰にも見つからないで歩き回れるのに――とカナは思っていた。
 最後は這うようにしてタペストリーをくぐった――そして、カナは違和感に気がついた。視点が低いままだ――周りを見ると、夕食に向かう生徒たちが階下の玄関ホールを行き交っているのが見えた。少し大きなクルックシャンクスは訝しげにカナのことをじっと見つめて、確かめるように鼻を近づけてきた――パッと地面を見下ろして、カナは卒倒しそうになった。
 クルックシャンクスほどではないけれど、胸元にふわふわとした黒い毛が見えた。手――いや、前脚を持ち上げると、ふっくらした肉球が見えた。ざらり、と額を何かが滑った。クルックシャンクスの舌だ。ひげや鼻先をオレンジ色の体毛がくすぐるたび、頬がぴくぴくとくすぐったかった。
 カナは猫になってしまったみたいだ。クルックシャンクスについていき、行き交う生徒の股下をくぐり、フィルチさんが塞ぎ損ねた秘密の通路を通って、二匹の猫は城の外へと出た。窓に映るカナの姿は――おそらく、カナだと思う――黒いペンキで顔を塗りたくったような、半分が灰色、半分が真っ黒の猫だった。その奇妙な柄は、まるで二つの顔があるように見える。淡い色の瞳はカナのものにそっくりだった。カナはアニメーガスを成功させたんだ――
 自分の姿を見ているうちに、クルックシャンクスはどこかへ行ってしまったようだ。ずいぶん陽が落ちてきている――日没までもう少しだ。カナは駆け出した。はやくハグリッドに会わなければ。

 カナはどうやって小屋の扉を叩こうかと悩んだ――ためしに「にゃあ」と鳴いてみた。自分の声じゃないみたいだ。もちろん、カナ自身の声ではないのだけれど。
 これにはファングが反応したみたいだ。カリカリと木の扉を引っ掻く音がする――ややあって、わずかに扉が開いたので、カナはそのすきまに身を滑らせた。ハグリッドは外に誰もいないので、キョロキョロと見回していた。
「ハグリッド」
 いつのまにか小屋の中にあらわれたカナに、ハグリッドは飛び上がるほど驚いていた。
「カナ! どうやって――いや、なんで来たんだ! 来ちゃなんねえだろうが!」
「ハグリッドを一人にできないよ」
 カナがそう言うと、ハグリッドは椅子にぐったりと座り込んだ。もう泣いたりはしていなかったし、カナに慰めを求めることもしなかった。ただ、ぶるぶる震えながら、青い顔をして、その時を静かに待っているだけのようだ――
「バックビークはどこなの?」小屋の中にはいないようだった。
「ついさっき、外に出してやったんだ――木やなんか見た方がいいだろうし――久っしぶりに新鮮な空気も吸わせて――」
「ぼく、あの子にひと目会いたいよ」
「外に出ちゃなんねえ」ハグリッドはカナを引き留めた。「おまえさんがここにいたらいけねえんだ。まったく、どうやってここまで来たんだ――」
 ハグリッドがぼやくあいだに、カナはふたたび猫の姿になって外へと出た。かぼちゃ畑の真ん中に、バックビークは鎖で繋がれていた。カナがそっと、足音もなく近寄ると、バックビークは小さな猫に気づいて見下ろした。
 ――猫のお辞儀って、どうするのが正解なんだろう――カナは腰を下ろし、オレンジ色のまるい瞳をじっと見つめ、目を細めてから、頭をぺこりと垂れた。
 ややあって、大きな影がカナを覆った。見上げると、大きな銀色の嘴が頭上にあった。カナは鼻の先を擦り付け、友情を示した。自分がこれから処刑されるだなんて――すこしも思っていないに違いない。カナは泣きそうになりながら、ハグリッドの小屋に戻った。
「いたっ」
 人の姿に戻るとき、誤ってテーブルに頭をぶつけてしまった。カナが顔を上げると、そこにはハリー、ロン、ハーマイオニーの姿もあった。
「カナ! いつからそこにいたの?」
 カナは心臓がバクバクした。変身するところを見られてはいないだろうか――さいわい、みんなうちひしがれたハグリッドのことでいっぱいみたいだった。
「ああ――そうだ、茶、飲むか?」
 ハグリッドが薬缶を手に取った。その手はまだぶるぶると震えていた。ポットにミルクを注ごうとして、テーブルにこぼしていた。
「ハグリッド。座っていて」
 カナが言うと同時に、ミルクポットがハグリッドの手から滑り落ちて、大きな音をたてて粉々に割れた。カナはミルク瓶をハグリッドの手から取った。瓶の中身はもうほとんど入っていない。ハーマイオニーが杖を振ってテーブルと床を綺麗に掃除した。
「戸棚にもういっちょあるはずだ」
 カナがお茶をカップに注ぎ、ハーマイオニーが戸棚を探した。
 すこしだけ沈黙が落ちた。ハグリッドの浅い息遣いと、ハーマイオニーが戸棚をがちゃがちゃと探る音、カナがお茶を注ぐ音――
「――ハグリッド。誰でもいい、なんでもいいから、できることはないの?」ハリーがハグリッドの隣に腰掛け、強く語りかけた。「ダンブルドアは――」
「ダンブルドアは努力なさった。だけんど、委員会の決定を覆す力はお持ちじゃねえ。ダンブルドアは連中に、バックビークは大丈夫だって言いなさった――だけんど、連中は怖気づいて・・・・・・ルシウス・マルフォイがどんなやつか知っちょるだろう・・・・・・連中を脅したんだ。そうなんだ・・・・・・そんで、処刑人のマクネアはマルフォイの昔っからのダチだし・・・・・・だけんど、あっという間にスッパリいく・・・・・・おれがそばについててやるし・・・・・・」
 ハグリッドはごくりと唾を飲み込んだ。その目はすっかり希望を失って、なにかあてはないかと茫然自失と小屋を見回していた。
 カナが薬缶を持つ手も、ハグリッドみたいにぶるぶるとふるえだした。あの大きな斧――「ルールを守らないと」と言うリーマスの声が、同時に頭に浮かんだ。こんなに悔しいことはない――
「ダンブルドアがおいでなさる。ことが――ことが行われるときに。今朝、手紙をくだすった。おれの――おれのそばにいたいとおっしゃる。偉大なお方だ、ダンブルドアは・・・・・・」
 カナはあふれた涙を黙ってぬぐった。同時に、こらえるようにすすり泣く音が聞こえた。別のミルクポットを手に持ったハーマイオニーがもどってきた。ぐっと涙をこらえ、背筋を伸ばした。
「ハグリッド、私たちもあなたと一緒にいるわ」
 しかし、ハグリッドは頭を振った。
「おまえさんたちは城へ戻るんだ。言っただろうが、おまえさんたちにゃ見せたくねえ。それに・・・・・・ファッジやダンブルドアが、おまえさんたちが許可ももらわずに外にいるのを見つけたら、厄介なことになるぞ」
 カナは薬缶を置いた。涙を拭うのに片手では足りなくなってしまった。ハーマイオニーがミルクをポットへ注ごうと、戸棚に戻ったときだ。
「ロン! し――信じられないわ――スキャバーズよ!
 ロン――いや、みんな、ポカンと口を開けてハーマイオニーを見た。
「何を言ってるんだい?」
 ハーマイオニーがミルクポットをテーブルに持ってきてひっくり返した――キーキーと大騒ぎしながら、ミルクポットから落とされまいとしているネズミ、たしかに、あのスキャバーズが、テーブルの上に滑り落ちてきた。
「スキャバーズ!」ロンは唖然としてスキャバーズを掴んだ。「マーリンの髭――こんなところで、いったい何してるんだ?」
 じたばたもがくスキャバーズを、ロンは小屋の薄明かりにかざした。以前よりももっと痩せこけ、毛もほとんど抜け落ちて、ひどくぼろぼろになっていた。主人のロンの手の中だというのに、ひどく暴れ続けていた。
「大丈夫だってば、スキャバーズ! 猫はいないよ! ここにはおまえを傷つけるものはなんにもないんだから!」
 ハグリッドが急に立ち上がった。窓のほうをじっと見つめ、赤ら顔からどんどん血の気が失せていく。
「連中が来おった・・・・・・」
 みんな窓のほうへ振り向いた。城の階段から、何人かが降りてくるのが遠目に見える。先頭は銀色の髭のダンブルドア、隣を急くように歩くのはコーネリウス・ファッジ。その後ろに、委員会の老人と死刑執行人のマクネアがつけている。
「おまえさんら、行かねばなんねえ」ハグリッドはこれまで以上にがたがたと震えを大きくした。「ここにいるとこを連中に見つかっちゃなんねえ・・・・・・行け、はやく・・・・・・」
 ロンはスキャバーズをポケットに押し込み、ハーマイオニーは何かをサッと取り上げた。ハリーの「透明マント」だろう。
「裏口から出るんだ」
 みんな不安そうにハグリッドに押し出された。裏庭から、かぼちゃ畑にいるバックビークの銀色の体が見える。バックビークも、不穏な空気を感じとっているんだろう――頭を左右に振り、不安げに地面を掻いている。
「大丈夫だ。ビーキー」ハグリッドがやさしく言った。「大丈夫だぞ・・・・・・」みんなを振り返って、「もう行け、行くんだ」と何度も言った。
 四人は動かなかった。
「ハグリッド、そんなことできないよ――」
「ぼくたち、ここにいたい――」
「ほんとうは何があったか、あの連中に話すよ――」
「バックビークを殺すなんて、ダメよ――」
「行け!」ハグリッドがきっぱりと言った。「おまえさんたちが面倒なことになったら、ますます困る。そんでなくても最悪なんだ!」
 仕方なかった。ハーマイオニーがみんなに「透明マント」をかぶせたとき、小屋の前で話し声が聞こえてきた。ハグリッドはみんなが消えたあたりに声をかけた。
「急ぐんだ」かすれた声だ。「聞くんじゃねえぞ・・・・・・」
 戸を叩く音がした。ハグリッドが大股で小屋に戻っていった。
 四人は、じりじりと、恐怖に凍りついたかのように押し黙って、丸太小屋からそっと離れた。小屋の反対側に出たとき、表の戸がバタンと閉まるのが聞こえた。
「お願い、急いで」ハーマイオニーが囁いた。「耐えられないわ。私、とっても・・・・・・」
 四人は芝生を登り始めた。太陽はどんどん沈み、空は赤い夕焼けをにじませた紫色の夜になろうとしていた。
 とちゅう、ロンがぴたっと足を止めた。
「ロン、はやく」ハーマイオニーが急かした。
「スキャバーズが――こいつ、どうしても――じっとしてないんだ――」
 ロンはスキャバーズをポケットに押し込もうと前屈みになって格闘した。スキャバーズは狂ったようにキーキー鳴きながらじたばたと身を捩り、ロンの手に噛みつこうとするありさまだ。
「スキャバーズ、僕だよ。このばか、ロンだってば」ロンが声を殺して言った。
 後ろで再び戸の開く音と、話し声がした。
「はやく離れよう――」カナが怯えた声で言い、ロンの背を押した。「今から始まるんだ――」
「ああ――スキャバーズ、じっとしてろったら!――」
 四人はやっと前進した。聞くまい、聞くまいと思うほど、背後の喧騒が響いて聞こえてくるようだった。
 ロンがまた立ち止まった。
「こいつを抑えてられないんだ――スキャバーズ、黙れ、みんなに聞こえちゃうよ――」
 スキャバーズは甲高い声で喚き散らしていたけれど、その声でさえ、ハグリッドの庭から聞こえてくる音をかき消すことはできなかった。誰とも区別のつかない男たちの話し声が混じり合い、ふと静かになった――そして――空気を切り、ドサッと地面に深く刺さる、紛れもない斧の音が、はっきりと聞こえてきた。
 カナは息をのんで、ロンのローブをぎゅうと握りしめた。
「うそ――」ハーマイオニーがよろめいた。「あの人たち、ついにやってしまったんだわ――」
 みんな頭が真っ白になった。恐怖でその場に立ちすくんだ――沈みゆく太陽の最後の光が、血のように赤く芝生を染め、地上に長い影を落としていた。やがて背後から、悲痛な、荒々しく吠える声が聞こえてきた。
「ハグリッドだ」ハリーがつぶやいた。我を忘れて引き返そうとしたその体を、擦り切れそうな理性でカナが引き留めた。
「戻ってはだめ――」カナは引きつったのどから、声を絞り出した。「い、行ってはだめ――」
「ハグリッドが困るだけだ――行こう」ロンは歯をがちがち鳴らしながら、みんなを歩かせた。
「どうして――あの人たち――こんなことができるの?」ハーマイオニーは短く息を吐いていた。
 倒れそうになりながら、カナは言葉を吐くこともできず、なかばハリーにすがるようにして歩いた――

 四人は魂が抜かれたようにのろのろと歩いた。ようやく校庭に出るころには、夜が急速にあたりを覆い、闇がとっぷりと呪いのように四人にまとわりついた。
「スキャバーズ、じっとしてろ」
 ロンが手で胸をぐっとおさえながら、低い声で言った。スキャバーズはまだもがいていた。ロンは立ち止まった。
「いったいどうしたんだ? このバカネズミめ、じっとしてろ――アイタッ! こいつ噛みやがった!」
「ロン! 静かにして!」ハーマイオニーが緊迫して囁いた。「ファッジが今にもここにやってくるわ――」
「こいつめ――なんで、じっと――してないんだ――」
 スキャバーズの暴れ方は異常だった。ありったけの力で身を捩り、この世の終わりのように鳴き喚きながら、握りしめているロンの手からなんとか逃れようとしている。
「まったく、こいつ、いったいどうしたんだろう?」
「待って――」
 カナの声に、みんな足を止めた。地面に身を伏せながらこちらに向かって忍び寄る影がある――暗闇に浮かぶ大きな黄色い目――クルックシャンクスだ。「透明マント」に隠れた四人が見えるのか、それともスキャバーズのキーキー声を追ってきているのか――
「ダメ。クルックシャンクス! あっちに行きなさい! 行きなさいったら!」
 ハーマイオニーは呻いたけれど、おかまいなしにオレンジ色の影は近づいてきた――
「スキャバーズ――ダメだ!
 間に合わなかった。スキャバーズはロンの指の間をすり抜け、地面にボトッと落ちて、砲弾のように逃げ出した。クルックシャンクスがすばやく跳び出してそのあとを追いかけた。止める間もなく、ロンは「透明マント」をかなぐり捨て、二匹を追いかけて暗闇の中に飛び込んだ。
ロン!」ハーマイオニーが呻いた。
 カナもマントから飛び出した。後ろから二人も追いかけてくる足音がする。方向はよくわからないけれど――前方からロンの駆ける足音と、怒鳴り声が聞こえてきた。
「スキャバーズから離れろ――離れるんだ――」
 ドサッと大きな音がした。
「捕まえた! とっとと消えろ、いやな猫め――」
 ロンは地面にべったり腹ばいになっていたけれど、ふるえるスキャバーズをしっかり胸ポケットに仕舞い込んで、両手でしっかり押さえていた。
「ロン、カナ――はやくマントに入って――」みんなを呼び寄せながら、ハーマイオニーはぜいぜいと息を吐いた。「ダンブルドア――大臣――みんなもうすぐ戻ってくるわ――」
 しかしみんなマントの中に隠れることができなかった。何かが、走り寄ってくる足音がした。暗闇の中をすばやく跳躍して――そして、何か、熊のように巨大な影が、カナの真横に迫っていた。
 見覚えのある薄灰色の瞳が、ぎらりと光っていた。
「パッド!」
 ドン! と大きな体がぶつかって来て、カナは地面に押し倒された。カナが立ち上がるまもなく、パッドは再びジャンプして、今度はロンとハリーに襲いかかった。杖を持ったハリーを前脚で弾き飛ばし、ハリーをかばおうとしたロンの腕に噛みついて――そのままロンを引きずって行った。速い――黒犬の影はどんどん走り去っていく。
 追いかけなければ、とカナは思った。いつのまにか猫に姿を変え、カナはその後ろ姿を見失わないうちに全速力で追いかけた。後ろから、ハリーやハーマイオニーがうめく声が聞こえた――振り返ろうとしたとき、ハリーの「ルーモス」が辺りを照らした。
 目の前には太い太い木の幹が鎮座していた――カナは見覚えがあった。校庭の一角に植っている、「暴れ柳」だ。スキャバーズを追っているうちに、「暴れ柳」の樹の近くに入り込んでいたんだ。
 怒り狂った「暴れ柳」は誰も近づけまいと、その長くしなる鞭のような枝を前に後ろに叩きつけている。
 前を見ると、根元に大きく開いたうろ・・に、パッドはロンを引き摺り込もうとしていた。ロンは激しく抵抗していたけれど――やがて吸い込まれるように、腕が、胴が沈んでいくのが見えた。
 カナは枝に鞭打たれる前にと、再び疾走した。ロンは足を曲げて木の根元に引っ掛けて抵抗していた――カナは追いついて、ロンの足に飛びつこうとした。そのとき、バシッ!と恐ろしい音が響いて、ロンの足が打たれた――目の前で無抵抗に引き摺り込まれていった。ロンの足は折れてしまったに違いない――もう一度バシッ!と鋭い音、そして激しい衝撃がカナの胴を打った。小さな猫の姿のカナは弾き飛ばされた。しかし、負けじと後ろ脚を蹴って、うろ・・の中に飛び込んだ。



20240801


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