「みんな、ありがとう」
リーマスがしゃくりあげるカナを立ち上がらせながら言った。
「僕はまだあなたを信じるとは言っていません」
すかさず、ハリーは反発した。
「それじゃ、証拠を見せる時がきたようだな」ブラックが言った。「さあ、そこのお前――ピーターを渡してくれ」
ロンはスキャバーズをますますしっかり胸に閉じ込めた。
「冗談はやめてくれ」
ロンは弱々しく言った。「スキャバーズなんかに手を下すために、わざわざアズカバンを脱獄したって言うのか? つまり・・・・・・」ロンは助けを求めるようにあたりを見回した。「ペティグリューがネズミに変身できるとしても――ネズミなんて何百万といるじゃないか――アズカバンに閉じ込められているのに、どれが自分の探しているネズミかだなんて、この人、どうやったらわかるって言うんだ?」
「その通りだ、シリウス。わたしも疑問に思っていたんだ」リーマスは眉根を寄せた。「あいつの居場所を、どうやって見つけ出したんだい?」
ブラックは手をローブに突っ込み、くしゃくしゃになった紙の切れ端を取り出した。皺を伸ばし、それを突き出してみんなに見せた。
知っている――去年の七月、「日刊予言者新聞」に載ったウィーズリー家のエジプト旅行の写真だった。そして、そのロンの肩に、スキャバーズがいた。
「いったいどうしてこれを?」新聞を手に取りながら、リーマスが息をのんだ。
「ファッジだ」ブラックが答えた。「去年、アズカバンの視察に来たとき、ファッジが寄越した新聞だ。ピーターがそこにいた。一面に・・・・・・この子の肩に乗って・・・・・・俺にはすぐわかった。こいつが変身するのを何回見たと思う? しかも、この子がホグワーツに戻ると書いてあるじゃないか。ハリーのいるホグワーツへと」
「なんてことだ・・・・・・」リーマスはスキャバーズから新聞の写真へと目を移し、もう一度スキャバーズをじっと見つめ、静かに言った。「こいつの前足・・・・・・」
「それがなんだって言うんだ」ロンが食ってかかった。
「指が一本ない」ブラックが答えた。
「ああ・・・・・・」リーマスはため息をついた。「なんて単純明快な・・・・・・なんて小賢しい・・・・・・あいつは自分で切ったのか?」
「変身する直前にな」ブラックもあきれ半分に言った。「追い詰めたとき、あいつは通行人全員に聞こえるように叫んだ。俺がジェームズとリリーを裏切ったってな。それから、俺が攻撃する前に奴は道路を吹き飛ばし、自分の近くにいた人間を皆殺しにした――そして、ネズミまみれの下水道に逃げ込んだ・・・・・・」
「ロン、聞いたことがあるだろう」リーマスが言った。「ピーターの残骸で一番大きく残ったのが指だったって」
「その、たぶん、スキャバーズはほかのネズミと喧嘩したかなんかだよ。こいつは何年も家族の中で『お下がり』だった。たしか――」
「ン、十二年だね、たしか」リーマスは至極冷静だった。「どうしてそんなに長生きなのか、変だと思ったことはないのかい?」
「僕たち――僕たちがちゃんと世話してたんだ!」
「いまはあんまり元気じゃないようだね」リーマスがロンの碧い瞳をじっと見つめながら、立て続けに言った。「わたしの想像だが、シリウスが脱獄して自由の身になったと聞いて以来、痩せ衰えてきたんだろう・・・・・・」
「こいつは、その狂った猫を怖がってる!」
ロンは、ベッドでごろごろと喉を鳴らしているクルックシャンクスを顎で指した。
「この猫は狂っちゃいない」
ブラックのかすれた声がした。やせて荒れた節くれた手が、クルックシャンクスのふわふわの頭を撫でた。
「俺が出会った猫の中で、こんなに賢いやつは見たことがない。ピーターを見るなり、すぐに正体を見抜いた。俺と出会ったときも、俺が犬じゃないことを見破った」褒められているのがわかるのか、クルックシャンクスはブラックの手に自ら頭を擦り付けている。「お互い信用するのにしばらくかかったが・・・・・・ようやく俺の目的をこの猫に伝えることができて、それ以来助けてくれた」
「それ、どういうこと?」ハーマイオニーが息をひそめた。
「クルックシャンクスはブラックに合言葉をプレゼントしてた」カナが言った。「ネビルがなくしたメモだよ」
「何度もピーターを俺のところに連れてこようとしてくれたが――失敗したからな」
みんな、信じがたいといった表情でクルックシャンクスを横目に見ていた。
「ピーターはずる賢く、事のなりゆきを察知して逃げ出した。おまえ、クルックシャンクスといったか――ピーターがベッドのシーツに血の跡を残していったことも教えてくれた。おそらく自分で自分を噛んだんだ・・・・・・そう、死を偽造するのは、一度はうまくやってのけたからな・・・・・・」
「じゃあ、そもそもなぜピーターは自分が死んだと見せかける必要があったんだ?」ハリーが突然激しく問いかけた。「ブラック、おまえが、僕の両親を殺したのと同じように、自分を殺そうとしていることに気がついたからじゃないか!」
「違う、ハリー――」リーマスが口を挟んだけれど、ハリーは止まらない。
「それで、今度はとどめをさすためにやって来たんだ!」
「その通りだ」変わらずスキャバーズを睨んでいる薄灰色の目は、殺気を隠していなかった。ブラックの返答に、ハリーはさらに髪をふくらませた。
「それなら、僕はスネイプにおまえを引き渡すべきだった!」
「ハリー」リーマスがあわてて言った。「わからないかい? わたしたちはずっと、シリウスがきみの両親を裏切ったと思っていた。ピーターがシリウスを追い詰めたと思っていた――しかし、それは逆だった。わかるかい? ピーターが、ジェームズとリリーを裏切ったんだ――シリウスがピーターを追い詰めたんだ――」
「うそだ!」ハリーが叫んだ。「ブラックが『秘密の守人』だった! こいつが自分で、僕の両親を殺したと、自分で言ったんだ!」
痛烈なハリーの叫びに、ブラックは目を潤ませたように見えた――さっきまでの狂気的なエネルギーが消え去り、おちぶれたように首を横に振った。
「ハリー――俺が殺したも同然だ」かすれた声だ。「最後の最後になって、ジェームズとリリーに、『秘密の守人』を変えるよう言ったのは俺だ・・・・・・俺が言ったんだ」
「『秘密の守人』って?」カナがそっとリーマスに聞いた。
「ン――『忠誠の術』といって、最上級の隠匿呪文だ。人間の頭の中に、秘密を閉じ込める。『秘密の守人』となったその人が口外しないかぎり、それはかんぺきな秘密となる――カナ、きみの家がどこにあるのか、きみ自身も知らないだろう?」
カナは目を瞬いた――ぼくたちは、そんな魔法で、守られていたのか。
「そうやって、ハリーたちを闇の勢力から守っていたんだ」
ブラックは額をおさえ、絶望したように髪をかきあげた。
「俺は『守人』にピーターを勧めた・・・・・・俺が悪いんだ。ふたりが死んだあの夜、俺がピーターに会いに行く日だった。やつが無事でいなければ意味がないから――だが、やつはいなかった。もぬけの殻だ。しかも、争った形跡もない。俺は、不吉な予感がして――すぐジェームズの家に向かったさ。そして、家が壊れ、二人が死んでいるのを見たとき――俺は、ピーターが何をしたのか悟った。そして俺がしでかしたことも――」
涙声でブラックは言葉に詰まり、顔を背けた。
「話はもう十分だ」
そう言って、リーマスは杖を握り直した。初めて見るような――すべてを断ち切るような、はっきりとした物言いだった。
「真実を証明する方法はただひとつ――ロン、そのネズミを渡しなさい」
「こいつを渡したら、何をしようって言うんだ?」
有無を言わさないような厳しい雰囲気をまとったリーマスに、ロンの顔がこわばった。
「カナが言っただろう。アニメーガスの反対呪文で、正体があらわになる。もしただのネズミなら、傷つくことはない」
ロンはちらりとカナを見た――ロンの後ろから、ブラックがカナのことを見上げた。カナは、そばに落ちていたスネイプの杖を拾いあげ、ブラックに向かって放り投げた――それをキャッチして、ブラックは湿った顔を引き締めた。
ロンは観念したようで、とうとうスキャバーズを差し出した。リーマスの手の中で、ネズミはこの世の終わりのようにキーキーとわめき、のたうちまわり、興奮のあまり黒い目が飛び出していた。
「いつでもいい」ブラックはリーマスに歩み寄り、ふたたびあのぎらぎらしたまなざしを取り戻した。「同時にやるか?」
「ン、そうしよう」
リーマスはスキャバーズをしっかり握りしめた。
「三つ数えたらだ。スリー、ツー、ワン!」
青白い光がスキャバーズを直撃した。一瞬、宙に浮き、小さな黒い影が激しく捩れた――そして床にぼとりと落ちた。もう一度、目が眩むような激しい閃光が迸り、そして――
肥らせ呪文で植物があっというまに成長するみたいに、頭が伸び、手足が生え、つぎの瞬間――スキャバーズが落ちたところに、一人の男が、後退りしながら現れた。ベッドの上のクルックシャンクスが、シャーッ、シャーッと激しく威嚇を放った。
カナよりも頭ひとつ大きなだけの、ひどくみすぼらしい小柄な男だった。まばらな色褪せた髪はくしゃくしゃで、禿げ上がっていて、このごろのスキャバーズを彷彿とさせた。尖った鼻や小さい目はネズミに似ている。もとは小太りの男が急激に痩せたように皮膚がたるみ、薄汚れていた。
男は激しく息を吐き、周りの全員を見回した――その視線が、チラリと、扉を確認したのがわかった。
「やあ、ピーター」
ネズミの小さな体が一瞬で膨らむのを、リーマスは見慣れているんだろう。朗らかに声をかけた。
「しばらくぶりだね」
「シ、シリウス・・・・・・リ、リーマス・・・・・・」うわずった甲高い声だった。何度も扉にすばやく視線を走らせている。「友よ・・・・・・なつかしの友よ」
ブラックが杖腕を振り上げた――けれど、リーマスがその手を押さえて、たしなめるような視線を送った。それからまたペティグリューに向かって、さりげない軽い口調を放った。
「いま、ジェームズとリリーが死んだ夜に何が起こったのか、おしゃべりしていたんだけれど。ピーター。きみはずっとキーキー喚いていたから、細かいところを聞き逃したかもしれないな――」
「リーマス」ペティグリューがあえいだ。よどみ、たるんだ頬や額から、汗がドッと吹き出していた。「きみはシリウスの言うことを信じたりしないだろうね・・・・・・あいつは私を殺そうとしたんだ、リーマス・・・・・・」
「そう聞いていた」リーマスの声は冷え切っていた。「ピーター。ふたつ、みっつ、すっきりさせておきたいことがあるんだが、きみがもし――」
「こいつは、また私を殺しにやってきた!」
ペティグリューは突然金切り声をあげた。ブラックを――抜け落ちた人差し指の代わりに中指で――指差していた。「こいつはジェームズとリリーを殺した。今度は私も殺そうとしているんだ・・・・・・リーマス、助けておくれ・・・・・・」
暗く底知れない目でペティグリューを睨め付けていたブラックの顔が、激しい憎しみを浮かべた。
「すこし話の整理がつくまでは、誰もきみを殺しはしない」リーマスが吐き捨てた。
「整理だって?」ペティグリューは再三、きょろきょろと部屋の状況に視線を走らせた――板張りの窓に抜けがなく、ドアがひとつしかないことをもう一度確かめた。「こいつが私を追ってくるとわかっていた! こいつが私を狙って戻ってくるとわかっていた! 十二年も、私はこの時を恐れていた!」
「シリウスがアズカバンを脱獄するとわかっていたと言うのか?」リーマスが眉根を寄せた。「いまだかつて脱獄した者はいないのに?」
「こいつは私たちの誰もが想像も追いつかないような闇の力を持っている!」ペティグリューが甲高い声できいきいわめいた。「それがなければ、どうやってあそこから出られる? おそらく『名前を言ってはいけないあの人』がこいつに何か術を教え込んだんだ!」
ブラックが笑い出した――背筋が震えるような、うつろな笑いが、静かな部屋に響いた。
「ヴォルデモートが俺に術を?」
ペティグリューは縮み上がった。
「どうした? 懐かしいご主人様の名前を聞いて怖気づいたか」あざけるように、ブラックが口角を持ち上げた。「無理もないな、ピーター。昔の仲間はお前のことをあまり快く思っていないようだ。違うか?」
「なんのことやら――シリウス、きみが何を言っているのやら――」
ペティグリューの呼吸がますます荒くなり、もごもごと口ごもった。汗がだらだらと止まらず、顎の皮に雫が溜まっていた。
「お前は十二年間、俺から逃げていたんじゃない。ヴォルデモートの昔の仲間から隠れてたんだ。アズカバンでいろいろ聞いた――みんなお前が死んだと思っている。そうでなければ、お前は連中から落とし前をつけさせられたはずだ。あいつらが寝言で叫ぶのをずっと聞いていた。やつらは、裏切り者がまた寝返って自分たちを裏切ったと思っていたぞ。ヴォルデモートはお前の情報でポッター家に行った・・・・・・そこでヴォルデモートは破滅した。ところがその配下の仲間は全員がアズカバンに入ったわけではなかった。そうだな? まだその辺にうじゃうじゃいる。時を待っている。悔い改めたふりをして――ピーター、その連中が、もしお前が生きていると知ったら――」
「な、なんのことやら・・・・・・何を話しているやら・・・・・・」
いまや甲高い声がほとんど裏返り、拭ったそばから汗が垂れ、ネズミのような小さな目がリーマスをすがるように見た。
「リーマス、きみは信じないだろう――こんなばかげた――」
「はっきり言って、ピーター、なぜ無実の者が、十二年もネズミに身をやつして過ごしたいと思ったのかは、理解に苦しむ」冷たく、平坦な声だった。リーマスがどれほど深く失望し、怒りを抱えているのか、カナには計り知れなかった。
「無実だ。でも怖かった!」ペティグリューがわめいた。「ヴォルデモート支持者が私を追っているなら、それは、大物の一人を私がアズカバン送りにしたからだ――スパイのシリウス・ブラックを!」
ブラックの顔が歪んだ。
「よくもそんなことを――」伸びきった髪が逆立って、大きく膨らんだ。「俺がヴォルデモートのスパイだと? 俺がいつ、自分より強大で権力に溺れた馬鹿どもに媚びへつらった? しかし、ピーター、お前は――お前がスパイだということを、なぜ初めから見抜けなかったんだ。迂闊だった。お前はいつも、自分の面倒を見てくれる親分にくっついてるのが好きだったよな? むかしはそれが俺たちだった。俺とリーマス・・・・・・そしてジェームズだった」
ペティグリューはまた顔を拭った。弾け飛んだ雫が床に点々と染みをつくった。いまや息も絶え絶えだ。
「私が、スパイだなんて・・・・・・正気の沙汰じゃない・・・・・・決して・・・・・・どうしてそんなことが言えるのか、私にはさっぱり――」
「ジェームズとリリーは俺が勧めたからお前を『秘密の守人』にしたんだ」激しい怒りを押さえきれないように、ブラックは歯を食いしばった。それが恐ろしかったのか――ペティグリューはたじたじと一歩さがった。「それこそ完璧な計画だと思ったんだ。目眩しになると・・・・・・ヴォルデモートは俺を狙うと思った。お前のような弱虫の、能無しを利用しようとは夢にも思わないだろうと・・・・・・」ブラックが一歩詰め寄った。「ヴォルデモートにポッター一家を売ったときは、お前の惨めな生涯の最高の瞬間だっただろうな」
ペティグリューはもはや何をつぶやいているのかわからないほどもごもごと口ごもっていた。しかし、青ざめた顔ではあったけれど、何度も扉に視線を走らせているところに、奇妙な執念を感じた。そしてそれを隠そうともしない――
「ルーピン先生」ハーマイオニーがおずおずと口を開いた。「あの――聞いてもいいですか?」
「どうぞ、ハーマイオニー」リーマスはまるで授業みたいな口調だ。
「あの――スキャバーズ――いえ、この、この人――ハリーの寮で三年間同じ寝室にいたんです。『例のあの人』の手先なら、いままでハリーを傷つけなかったのは、なぜでしょうか?」
「そうだ!」ペティグリューが人差し指の欠けた手でハーマイオニーを差し、甲高い声を上げた。「ありがとう! リーマス、聞いたかい? 私はハリーの髪の毛一本傷つけてはいない! そんなことをする理由があるかい?」
「あるさ。理由を教えてやろう」ブラックが言った。「お前は、自分のために得になることがなければ、誰のためにも何もしないやつだ。ヴォルデモートは十二年も隠れたままで、半死半生だと言われている。アルバス・ダンブルドアの目と鼻の先で、全く力を失った残骸のような魔法使いのために、殺人などするお前か?『あの人』のところに馳せ参ずるなら、『あの人』がお山の大将で一番強いことを確かめてからにするつもりだったろう? そもそも魔法使いの家族に入り込んで飼ってもらったのは何のためだ? 情報が聞ける状態にしておきたかったんだろう、え? お前の昔のご主人様が力を取り戻し、またその下に戻っても安全だという時を見計らっていた・・・・・・」
言い返す言葉も出せず、ペティグリューは口をパクパクさせた。
「あの――ブラックさん――シリウス?」もう一度、ハーマイオニーがおずおずと声をかけた。ブラックは驚いてハーマイオニーを見つめた。
「お聞きしてもいいでしょうか――ど、どうやってアズカバンから脱獄したんですか? もし、闇の魔術を使っていないのなら」
「ありがとう!」ペティグリューは息をのみ、ハーマイオニーに向かって激しく頷いた。「その通り! それこそ、私が言いた――」言い終える前にペティグリューは口をつぐんだ。リーマスが睨んで黙らせたからだ。
ブラックは、ハーマイオニーの問いかけに顔をしかめた。答えに悩んでいるようなそぶりだ――
「どうやったのか、自分でもわからない」考えながら、ブラックがゆっくりと言った。「俺が正気を失わなかった理由はたったひとつだ。自分が無実だと知っていたからだ。これは幸福な気持ちではなかったから、吸魂鬼はその思いを吸い取ることができなかった――だが、それが俺の正気を保ち、自分が何者であるか意識し続けていられた――力を保てていたおかげで、いよいよ耐え難くなったときには、俺は独房の中で犬に変身した――吸魂鬼は目が見えない」
アズカバン時代を思い出したのだろう――ブラックはごくりと唾を飲み、息を入れた。
「連中は人の感情を感じ取って近づく・・・・・・犬になると、連中は俺の感情が人間的でなくなり、複雑でなくなるのを感じ取り、ほかの囚人と同じく俺も正気を失ったと判断したんだろう。やつらは気にも留めなかった。とはいえ、俺は弱っていた。衰弱して杖もなしには、あの連中を追い払うなんてことはできないと諦めていた・・・・・・
そんなときに、あの写真にピーターを見つけた。ホグワーツでハリーと一緒だということがわかった――闇の陣営が再び力を得たとの知らせがあれば、行動が起こせる完璧な態勢だよな」
ペティグリューは口をパクパクしながら首を横に振ったけれど、ブラックは構わず続けた。
「――闇の陣営にハリーを差し出せば、こいつがヴォルデモートを裏切ったなんて言う奴はいなくなるだろう。こいつは栄誉とともに再び迎え入れられる。だからこそ、俺は行動しなければいけなかった。ピーターが生きていることに気がついたのは俺だけだ」
「看守がブラックのうわ言を聞いていた」ハリーが思い出したように言った。「いつも同じ・・・・・・『あいつはホグワーツにいる』って」
「運命に焚き付けられたようだった」ブラックはいまや爛々と目を輝かせて、燃え上がる炎のように、この部屋の誰よりも生命力をみなぎらせているように見えた。「しかも吸魂鬼はこの思いを砕くことはできない・・・・・・幸福ではない・・・・・・妄執だった。ある晩、連中が食べ物を運んできて独房の戸を開けた時、俺は犬になって連中のわきをすり抜けた。連中にとって獣の感情を感じるのは難しい。混乱した隙をついて、俺は鉄格子の隙間をすり抜けられるほど、痩せ細っていた。犬の姿で海を泳ぎ、島から戻り、北へと旅し・・・・・・ついにホグワーツの校庭に入り込んだ」
ブラックがふとカナを見つめた。
「それ以降は『禁じられた森』に身を潜めていた。しかし、縄張り争いに巻き込まれて深手を負い、ただでさえ衰弱していた俺は一度終わりかけた・・・・・・そんなとき、カナが俺を見つけた」
信じられないほどやさしい目つきで、見慣れた薄灰色がカナの視線と絡んだ。ブラックはローブの内側から、血と泥で黒く汚れた布切れを取り出して見せた。しかし、カナにはそれが何かわかった。カナがパッドの手当てに使った、ハンカチだ。
「こいつは俺がなんなのかまったく疑わなかったが・・・・・・俺は救われた。他人を思いやることや優しさというものがなんなのか、この子のおかげで思い出すことができた。犬の姿ではあったが、俺は人間でいられた・・・・・・」
カナは傷だらけの腕で涙をぬぐった。カナが見つめ返すと、ブラックはかすかに口角を上げた。
「カナ――お前のおかげで俺はここにいる」
カナが小さく頷くと、今度はハリーに視線が向かった。
「この子の話を聞いて、一度だけクィディッチの試合を見に行った・・・・・・ハリー、まるでジェームズを見ているようだった。でも、あいつよりも飛ぶのがうまい」
ハリーは目を逸さなかった。ブラックもじっとハリーを見つめ続けた。
「信じてくれ」切実な、かすれた声だ。「信じてくれ、ハリー。俺は決してジェームズやリリーを裏切ったことはない。裏切るくらいなら、死んだほうがましだ」
真摯な輝きが、ハリーの緑色の目を貫いた――ハリーは喉をつまらせて、言葉もなく頷いた。
「だめだ!」ペティグリューが黙っていなかった。絶望の表情で膝をついて、そのままにじり出た。祈るように手を握り合わせ、這いつくばった。
「シリウス――私だ、ピーターだ・・・・・・きみの友達の・・・・・・」
ブラックは蹴飛ばそうと足を動かした。ペティグリューはとっさに後退りした。
「俺は十分汚れてる――その上、お前の手で汚されたくはない」
「リーマス!」ペティグリューは身を捩った。「きみはあいつを信じないよね・・・・・・計画を変更したなら、シリウスはきみに話したはずだろう?」
「ピーター、スパイの疑いがある者にそんなことは話さない。人狼はその多くが闇の勢力に属している」リーマスはさりげなく言った。「シリウス、おそらくそういうわけで、わたしには話してくれなかったんだろう?」
「すまない、リーマス」ブラックが言った。
「気にするな。わが友、パッドフット」リーマスは袖を捲り上げながら言った。「そのかわり、わたしがきみをスパイだと思い違いしたことを許してくれるか?」
「もちろんだとも」
ブラックはふたたびかすかに笑みを浮かべ、袖を捲り上げた。
「一緒にこいつを殺るか?」
「ああ、そうしよう」
リーマスの言葉に、カナはびくりと肩を跳ねさせた。
二人は、すくみあがるほどの殺意を目に宿し、床に這いつくばるペティグリューを睨め付けた。
「や、やめてくれ・・・・・・」
元友人の殺意を浴びて、ペティグリューは喘いで足をもつれさせながら床を這い、一番近くに立っていたカナの、血のついたシュミーズにすがりついた。
「カナ! 私はきみのお母さんとも友達だよ、エリアを悲しませたくないだろう・・・・・・助けてくれ・・・・・・」
「その子に触れるな!」
怯えたカナが何か言う前に、リーマスが声を張り上げると、ペティグリューはすばやく離れ、そのままロンのそばに転がり込んだ。
「ロン、私は良い友達・・・・・・良いペットだったろう? 私を守ってくれ、ロン。お願いだ・・・・・・きみは私の味方だろう?」
しかし、ロンは思いっきり不快そうにペティグリューを睨んだ。
「自分のベッドにお前を寝かせてたなんて!」
「やさしい子・・・・・・情け深いご主人様・・・・・・」それでもペティグリューはロンに這い寄った。
「人間の時よりネズミのほうがさまになるなんていうのは、ピーター、あまり自慢にならないな」
ブラックが厳しく言った。ロンは折れた足を抱えて動かして、ペティグリューを避けた。男は今度はくるりと向きを変え、ハーマイオニーのローブをつかんだ。
「やさしいお嬢さん、賢いお嬢さん・・・・・・きみは、きみならそんなことをさせないでしょう・・・・・・助けて・・・・・・」
ハーマイオニーはローブを引っ張り、ペティグリューを引き剥がし、怯えきった表情で壁際まで下がった。
ペティグリューは震えながら、跪き、ハリーに向かってゆっくりと顔を上げた。
「ハリー・・・・・・ハリー、きみはお父さんに生き写しだ・・・・・・そっくりだ・・・・・・」
「ハリーに話しかけるとは、どういう神経だ?」ブラックが叫んだ。「ハリーに顔向けができるのか? この子の前でジェームズのことを話すなんて、どの面下げてできるんだ?」
「ハリー」短い両手がハリーに向かって伸びた。「ハリー、ジェームズなら私が殺されることを望まなかっただろう・・・・・・ジェームズならわかってくれたよ、ハリー・・・・・・ジェームズなら情けをかけてくれただろう――」
ブラックとリーマスが大股に近づき、肩を掴んで床の上に仰向けに叩きつけた。ペティグリューは腰を抜かして、ヒクヒク痙攣しながら二人を交互に見つめた。
「お前はジェームズとリリーをヴォルデモートに売った。幼いハリーまでも」ブラックは体を震わせていた。「また否定するのか?」
ペティグリューはワッと泣き出した――おぞましい光景だった。育ちすぎた赤ん坊が、床の上でかんしゃくを起こしているようだった。
「シリウス、シリウス、私に何ができたというんだ? 闇の帝王は・・・・・・きみにはわかるまい、あの方にはきみの想像もつかないような力がある・・・・・・私は怖かった。シリウス、私はきみやリーマスやジェームズのように勇敢ではなかった。私の意思じゃない・・・・・・あの『名前を言ってはいけないあの人』が無理やり――」
「嘘をつくな!」ブラックの大声が部屋をビリビリと揺らした。「お前は、ジェームズとリリーが死ぬ一年も前から、『あの人』に密通していた! お前がスパイだった! 」
「あの方は――あの方はあらゆるものを征服していた!」ペティグリューの呼吸がさらに荒くなった。「あの方を拒んで、な、何が得られただろう?」
「史上もっとも邪悪な魔法使いに抗って、何が得られたかだと?」ブラックは凄まじい怒りをぶつけた。「それは罪もない人々の命だ、ピーター!」
「きみはわかっていないんだ!」ペティグリューが哀れっぽく訴えた。「私が殺されかねなかった!」
「それなら、死ねばよかったんだ」ブラックが吠えた。「友を裏切るくらいなら死ぬべきだった。俺たちもお前のためにそうしただろう」
ついに、ブラックとリーマスが肩を並べて立ち、杖を突き出した。
「きみは気づくべきだったな」リーマスが静かに言った。「ヴォルデモートがきみを殺さなければ、われわれが殺すと。ピーター、さよならだ」
カナは、カナはリーマスを止めなければと思った――でも、足がすくんだ。その時――
「やめて!」
ハリーが叫んだ。駆け出して、ペティグリューの前に立ち塞がり、ふたつの杖を正面にとらえた。カナは腰が抜けて――その場に座り込んだ。
「殺してはだめだ――」ハリーは息を切らしながら言った。「殺してはいけない」
二人はショックを受けたようだった。
「ハリー、このクズのせいで、お前の両親は死んだんだ――」ブラックが唸った。「このろくでなしは――あの時、ハリーも死んでいたら、それを平然として眺めていたはずだ。聞いていただろう。小汚い自分の命のほうが、お前の家族全員の命より大事なんだ」
「わかってる」ハリーは声を枯らした。「こいつを城まで連れていこう。僕たちの手で吸魂鬼に引き渡すんだ。こいつはアズカバンに行けばいい・・・・・・殺すことだけはしないで」
「ハリー!」ペティグリューが息を呑んだ。そして両腕でハリーの膝を抱き込んだ。「きみは――ありがとう――こんな私に――ありがとう――」
「放せ」ハリーはペティグリューの手を跳ねのけた。「おまえのために止めたんじゃない。僕の父さんは、親友が――おまえみたいなもののために――殺人者になるのを望まないと思っただけだ」
カナは動けなかった。ハリーが動いてくれて――ハリーが勇敢で――カナはようやく息を吐いた。カナも同じ気持ちだった。リーマスがペティグリューを手にかけたとしたら、この場で止められなかったことを悔やんだだろう。
しばらく、沈黙が続いた――ペティグリューの荒い呼吸だけが聞こえていた。ブラックとリーマスは互いに顔を見合わせ、二人は杖を下ろした。
「ハリー、お前だけに、決める権利がある」ブラックが言った。「しかし、考えてくれ・・・・・・こいつのやったことを」
「こいつはアズカバンに行けばいいんだ」ハリーは繰り返し言った。「あそこがふさわしい者がいるとしたら、こいつしかいない・・・・・・」
「いいだろう。ハリー、退いてくれ」それは、ハリーが躊躇した。リーマスは念押しした。「縛り上げるだけだ。誓ってそれだけだ」
ハリーがわきに退いた。「インカーセラス」と、リーマスはスネイプと同じように杖先から縄を放って、ペティグリューがぐるぐるに縛り上げられた。口元にも縄が巻き付いて、床の上でもがいていた。
「だが、ピーター。もし変身したら――」ブラックが杖をペティグリューに向けて、凄んだ。「今度こそ殺す。いいな、ハリー」
無様にもがき続ける男を見下ろしながら、ハリーは頷いた。
「ン、よし」
リーマスは手を叩いて埃を払った。くるりと振り返り、座り込んだカナに手を差し出し――ためらったように途中でその手を握り込んだ。カナはその手首をグッとつかんで、リーマスを引っ張るようにして立ち上がった――リーマスはびくともしなかったけれど。
カナがにこりと微笑むと、リーマスもこわばった表情をほぐした。
「カナ。その血は――」カナの全身をあらためて見つめて、リーマスが眉をひそめた。
「大丈夫だから」動くとまだずきずきと痛んだけれど、カナはそう言った。
リーマスがロンに近づき、カナが応急処置を施した足に杖を向けた。
「もう少し固定が要るね。ロン、わたしはマダム・ポンフリーほどうまく骨折を治すことができないから、医務室に行くまで我慢しておくれ」
リーマスが杖をふるうと、くすんだカーテンの上から、しっかりと包帯が巻き付いた。手を借りて、ロンは立ち上がった。恐る恐る体重をかけたけれど、痛みに顔をしかめることもなかった。
「先生、ありがとう。歩けると思います」ロンが感謝を述べた。
「スネイプ先生はどうするんですか?」ハーマイオニーが、壁に首をつけたまま床に伸びているスネイプを見下ろして、小声で言った。
「こっちは大丈夫だろう」脈をとりながら、リーマスが言った。「きみたち三人はちょっと――過激にやりすぎただけだ。スネイプ先生は気絶しているだけだ。ウン――われわれが安全に城に戻るまで、このままにしておくのが一番良いだろう。こうしよう――モビリコーパス!」
スネイプの体が持ち上がり、まるで操り人形のように立ち上がった。床からすこしばかり浮き上がり、頭と手足がぐったりと垂れて揺れていた。
リーマスは「透明マント」を床から拾い上げ、ポケットに仕舞い込んだ。
「誰か二人、こいつと繋がっておかないとな」ブラックがはだしのつま先でペティグリューを小突いた。「万一のためだ」
「わたしが繋がろう」リーマスが言った。
「僕も」ロンが片足を引き摺りながら進み出て、不貞腐れたように言った。
ブラックは重い手錠を出現させた。ペティグリューを立たせ、その左腕はリーマスに、そして右腕はロンの左腕に繋がれた。ロンは口をきゅっと引き結んでいた。スキャバーズの正体を、屈辱に感じているようだった。
クルックシャンクスがひらりとベッドから飛び降りて、立ち上がって自ら寝室のドアを開け、部屋を出た。みんな、そのあとに続いた――
クルックシャンクスがさっそうと降りた階段を、リーマス、ペティグリュー、ロンが繋がりながら降りた。ブラックが、スネイプの杖で持ち主を宙吊りにして、宙ぶらりんの爪先が一段くだるたびに階段にぶつかるのも構わず、降りていった。ハリー、そしてハーマイオニーにカナは続いた。
「あっ――」
階段の途中で、カナはしゃがみ込んだ。ハリーとハーマイオニーがさっと振り返り、カナのもとに戻った。
「カナ、どうしたの――」
ハーマイオニーはカナの腹に巻き付いた古いカーテンに、血の染みが大きく広がっていることに気がついた。歩いて、傷口が開いたんだ――カナはふだん、傷の治りが早いほうだけれど、今回はそうもいかないようだった――カナが立ちあがろうとしたのを、ハーマイオニーが制した。
「僕がおぶろうか?」ハリーがすこし申し訳なさそうに申し出た。
「背負ったらトンネルを通れないわ――カナ、猫に変身できるかしら? 私が抱えるわ」
「待って――」カナは目を閉じた。何度か繰り返したけれど、まだ慣れないあの感覚を手探りで引き寄せた――そして、カナの身がヒョイと持ち上げられる感覚があった。目を開けると、目の前にハーマイオニーのふわふわの栗毛が垂れていた。抱き上げられたのだ。
「不思議。あなた、ほんとうにアニメーガスになったのね」
「いったいどうやったのか、詳しく聞いてみたいもんだ」ブラックが前方から口をはさんだ。「俺たちですら三年間かかったことを、こいつは三年生の身でやってのけたんだ。驚きだ・・・・・・驚かされてばっかりだ、エリオットには――」
そういえば、ブラックもおかあさんを知っているようだった。そのことも――いつか、いつか語らうことができる日がきたら、こっちのほうこそ詳しく聞いてみたいものだ、と思った。
トンネルを通るのは簡単ではなかった。リーマスが杖を突きつけたまま、手錠で繋がれた三人は一列になって、横ばいに屈んで、歩きにくそうにした。ロンが足を引き摺るので、それも大変そうだった。カナはハーマイオニーの腕の中でじっとしていたけれど、しだいにうとうとしてきた。「叫びの屋敷」での騒動があったからこそ、カナは気を張っていたけれど、本来はかなりの失血をしているはずだ――
――やがて、湿った閉塞感が薄くなり、生ぬるい風がカナのひげを撫でた。クルックシャンクスが一番に穴から飛び出し、「暴れ柳」のコブを押したんだろう――獰猛な枝の音はまったく聞こえてこない。
リーマスたちが穴を這い出て、ブラックがスネイプ先生の体を――あちこちぶつけながら――穴の外に送り出した。そして、猫を抱いたハーマイオニーが、カナを芝生の上にそっと置いてから穴から這い出た。そしてあとからハリー、最後にブラックが出てきて、全員が脱出した。
カナはいつの間にか人の身に戻っていた。
「カナ、歩けるの?」
ハーマイオニーが聞いた。カナはゆっくり立ち上がり、傷口を押さえながら、ハリーに肩を借りた。
「慣れないうちは、変身も長くは持たないし――あまり人に見られるとよくない」ブラックが言った。
一行は無言で真っ暗な校庭を歩いた――ペティグリューがゼーゼーと息をして、時々泣いたような甲高い声を漏らすだけだ。リーマスがしっかり、ペティグリューの胸に杖を突きつけて牽制している。
唯一、はっきり見えるものといえば、ホグワーツ城の窓から洩れる明かりだけだ。それがだんだん近づいてくると、ほっとしたような気持ちが湧いてくる。ハリーがしっかりカナを支えてくれて、だいぶもたつくことなく歩くことができていた。
ふと――雲が切れ、突然、校庭にぼんやりした影が浮かび上がった。一行は月明かりを浴びていた。
宙に浮いたスネイプ先生が、不意に立ち止まったリーマスの背にぶつかった。顔を上げると、ブラックが立ちすくんでいた――片手をさっと上げて、後ろのカナたちを制止した。
「どうしましょう――先生、あの薬を飲んでいないわ!」
ハーマイオニーの悲鳴が響いた。リーマスは硬直していた――その黒い人影の手足が、震えだした。
「逃げろ――」ブラックが低い声で言った。「逃げろ! 早く!」
しかし、ロンが逃げられない。ハリーはカナをパッと放し、前に飛び出した。しかし、その動きをわかっていたのか、ブラックがハリーの胸に腕を回して引き戻した。
「俺がやる――逃げるんだ!」
カナは見た――恐ろしい唸り声とともに、バキバキと骨を砕くような音がして、リーマスの影の、首が、体躯そのものが伸び、盛り上がり――みるみるうちに、頭からつま先まで、鎧のような硬い毛が生えた。その指先からはナイフのような鋭い爪が伸びていく。クルックシャンクスが全身の毛を逆立て、唸ることもできず後退りした。
完全な狼男だ――カナは腰を抜かして座り込んだ。牙をガチン、と打ち鳴らしたとき、ブラックの姿が消えた。目の前に、熊のように大きな体躯の黒犬が躍り出た。狼男が自分を縛る手錠を捩じ切って破壊したとき、犬がその首裏に喰らい付いて後ろに引き倒した。ロンやペティグリューからは遠ざけたけれど、犬は大きな腕で弾かれた――そして、狼男が、逃げ遅れたカナを目の前に見つけた。
「――リーマス」
カナの小さな声はもう、目の前の人狼には届いていない。地響きのような唸り声とともに巨大な顎が裂けて上下に開くのが、ひどくゆっくり見えた。巨大な影が黄色い牙を並べ、カナを喰らうべく覆った――
しかし、狼男はふたたび地面に伏した。黒犬が狼男に飛びつき、カナから遠ざけた。二匹の獣は噛み合い、引き裂き合いながら、もつれて校庭を暴れ回った。
「しまったわ!」
ハーマイオニーが悲鳴をあげた。それで、弾かれたように顔を上げた。ペティグリューがリーマスの落とした杖に飛びついて、引っ張られたロンが転倒した。バン!と光が炸裂し――ロンは倒れたまま動かなくなった。立て続けにバン!と音がして、クルックシャンクスが宙を飛び、地面に落ちて動かなくなった。
「エクスペリアームス!」
ハリーの声が響き、ペティグリューが手にしていた杖が宙を舞った。
「グレイシアス!」
カナが地面に氷柱を走らせたけれど、遅かった。ペティグリューはすでに変身し、ロンの腕にかかったままの手錠の中をかいくぐって、草むらを走り去っていった。
カナは思いっきり息を吸って、意を決して駆け出した。猫の姿で疾走した――この目は夜闇でも動くものがよく見える。この耳は芝生を揺らすネズミの足音も聞き分けられる――痛みなど感じなかった。開いた腹から熱い血が噴き出すのも、かまわなかった。カナは追いかけた――しかし、「禁じられた森」の中に入り込むと、数多の生き物が息づいて、カナの鼻も耳も目も役に立たなくなってしまった――湖のほとりで、カナはペティグリューを見失ってしまった。
すぐ後ろの茂みから、巨大な影が飛び出した――カナは身構えたけれど、それはパッド――否、ブラックだった。
ついに力が抜けたカナはよろめいて、人の身に戻った。
「ペティグリューを見失った・・・・・・」
熱い脇腹を抑え、カナは座り込んだ。しかし、ブラックはカナを見ていなかった。カナの背後――湖の向こうを見て、ぶるぶると震えていた。ぞくりと、冷たいものが全身を支配して、カナも振り返った。
吸魂鬼だ。それも、何百という巨大な群れになって――森の中にわらわらと集まっていた。闇があたりを埋め尽くしているようだ――湖の向こうだけじゃない――四方を囲まれた。
カナと黒犬は無意識に身を寄せた――怖い、怖い、怖い!――カナは杖を持っていたけれど、吸魂鬼を追い払う訓練は受けていない――ただ震えていると、大きな骨張った手に肩を抱き込まれた。そして、横から手が伸びて杖を奪った。ブラックだ。
「エクスペクト・パトローナム!」
ふるえる杖先から白銀の光が飛び出した――しかし、それは形のない煙のようで、吸魂鬼の一部にぶつかって、霧のように消えてしまった。
「やめろ――」
吸魂鬼が音もなく近寄ってくるのが止まらない――ブラックは震えながらも、カナをひときわ強く腕の中に閉じ込めた。全身が冷たくこわばり、失血のせいかぼーっとして、頭がガンガンと鳴るように痛んだ――
「やめろ! この子は、エリアの・・・・・・やめろ・・・・・・」
ブラックのうわ言がかすかに聞こえてきたが、カナは意識を手放す寸前だった。もうひとつ、カナの頭に声が響く――
――こわかったね――
幼い子どもの声だ。あえぎながら、こらえながら、ひたすらなぐさめるように同じ言葉を繰り返している。
――こわかったね。シオン、こわかったね――
――カナ。怖かったね。でも、生きてる――
これを最後に、全身の感覚がなくなり、意識が闇に溶けて混ざっていった。
――ぼくといっしょに死んでくれるんじゃなかったの?――
20240808