いたぁっ!
 突然襲った激しい痛みに飛びあがろうとして、手足が動かず、がたがたとベッドが揺れ、がっちりと拘束されていることにカナは気がついた。
「静かに」
 厳しい声だった。マダム・ポンフリーだ――カナの脇腹の傷をまさぐっているらしい。
「いた――ひっ、イ――ぐ、ぅ――」
「ごめんなさい――いま麻酔を塗りますからね。もう少し耐えて――」
 冷たい液が傷口にかかり、一瞬燃えるように熱くなったのちに感覚が消え、そのあとは痛みをほとんど感じなくなった。カナはふうふうと短く息を吐き、涙の垂れた顔を持ち上げた。
 医務室だ。ホグワーツの。暗いけれど、カーテンで囲まれた部屋には見覚えがある。痛みは感じなくなったけれど、冷たい針が傷口に触れる感覚は変わらずあって、奇妙だった。
「マダム、やだ・・・・・・」
「『やだ』じゃありません」
 ランプの明かりだけで、マダム・ポンフリーはいくつものまるい形の針を操り、カナの傷をていねいに縫っていた。
「ひどい傷です。内臓に達していなかったのは幸運でしたね。しかし、怪我のあと安静にしていなかったんでしょう! こんなにずれて――肋骨もひびが入っているようですし――」
 ようやく、マダムが糸をぷちりと切った。四肢の拘束を外し、湯をしぼり、あたたかい布でカナの涙のすじと、体にこびりついた血を拭いてくれた。麻酔で感覚があまり無かったけれど。
「マダム、重傷の子はどうだね?」
 よく響くどっしりした声が聞こえてきた。さいきん聞いたような声だ。
「大臣、いましがた処置が終わったところです」
 マダムはカナのシュミーズを――ぼろぼろの血まみれではあったけれど――正して、カナのまぶたをめくって確かめた。そしてランプを消した。「失血による貧血がありますが、命に別状はありません」そう言ってカーテンを開けた。
 魔法省大臣のコーネリウス・ファッジと、スネイプ先生がそこに立っていた。大臣はほっと息をついた。
「いや、はや。君を見た時、ヒヤッとしたよ・・・・・・その傷は誰にやられたのかね? もしや――」
「ブラックのしわざでしょうな」
 スネイプ先生は冷たく言い放った。カナはたまらなくなって、起きあがろうとした。
「違う――」しかし、くらくらとよろめいて、ふたたびベッドに倒れた。
「お二人とも。その子が重傷患者であることには変わりありません――ですから――興奮させないで!」片付けを終えて戻ってきたマダム・ポンフリーが、二人を追いやった。
 マダムはカナの視線を塞ぐように立ち、なにかどす黒い大きなキャンディをカナの口に押し付けた。カナは口に含んだけれど、一瞬で体が拒否した。カナがえづいて吐き出すと、マダムはそれを予測していたかのように手で受け止め、もう一度押し付けた。
「あなたは貧血なのだから、これを舐めないといけません――噛んではなりませんよ。ゆっくり舐めて溶かすのです」
 血そのもののような味だ。不味くてたまらない――カナは再び涙を滲ませながら、ときどき「おえっ」とえづきつつも、黙ってキャンディを溶かした。
 その背後で、まだファッジとスネイプ先生が話していた。
「誰も死ななかったのは奇跡だ・・・・・・いや、はや、まったく。スネイプ、君が居合わせたのは幸運だった」
「恐れ入ります、大臣閣下」
「マーリン勲章、勲二等、いや、もし私が口やかましく言えば、勲一等ものだ」
 カナはすこし眠りたかった。しかし、口の中でどろどろと溶け出すキャンディを飲み込まなければならず、それはかなわなかった。いやでも二人の会話が聞こえてくる。
「驚いたのは吸魂鬼ディメンターの行動だよ・・・・・・なぜ退却したのか、君、ほんとうに思い当たる節はないのかね、スネイプ?」
「ありません、閣下。私の意識が戻った時には、吸魂鬼ディメンターは全員、それぞれの持ち場に向かって校門に戻るところでした――」
「不思議千万だ――ブラックもあの子たちも、みな倒れていたのだろう?」
「全員、私が担架で運びましたからな――」
 話しながら、ふたりは医務室を出たようだ。
 最後のキャンディを飲み込んで、カナはまどろみ始めた。ふと、視界の端で動くものがあって、なにげなく目で追った。マダム・ポンフリーがベッドを巡回している。隣のベッドにはハーマイオニーが寝かされているらしい――
 そこで、カナはハッと気がついて、目を見開いた――リーマスは、ブラックは、ペティグリューはどうなったの?
 カナがみじろぎしたとき、ハーマイオニーの顔がこちらを向いた――目を覚ましていたらしい。ハーマイオニーは唇に人差し指を当てて、医務室の入り口を指差した。半開きの扉の向こうでは、まだ二人が会話しているのがかすかに聞こえた。
「おや、気がつきましたか」
 マダムはハリーのベッドに近づいた。手にチョコレートの巨大な塊を手にしていた。
「ロンはまだ目覚めませんか?」ハリーが問いかけた。
「死ぬことはありません」マダムはチョコレートをテーブルの上で砕きながら、深刻そうな表情をした。「あなたがたは入院です。わたくしが許可を出すまで――ポッター、何をしているんですか?」
 ハリーは上半身を起こし、頭元のテーブルに置いてあった眼鏡をかけ、杖を取り上げていた。
「校長先生に会いに行きます」
「ポッター」マダムはなだめるように言った。「大丈夫ですよ。ブラックは捕らえられました。上の階に閉じ込められています。吸魂鬼ディメンターがまもなく『キス』を施します――」
ええっ!
 ハリーとハーマイオニーが同時に飛び起きた。それを聞きつけて、ファッジとスネイプが医務室に戻ってきた。
「ハリー、ハリー、何事だね?」ファッジが慌てふためいて言った。「寝ていないといけないよ――ハリーにチョコレートはやったのかね?」
「大臣、聞いてください!」ハリーは切実に訴えた。「シリウス・ブラックは無実です! ピーター・ペティグリューは自分が死んだと見せかけたんです! 僕たちはやつを見ました! 大臣、吸魂鬼ディメンターにあれをやらせてはだめです。シリウスは――」
 ファッジはかすかに笑みを浮かべて、まるで相手にしていないように頷いている。
「ハリー、ハリー、君は混乱している。あんな恐ろしい目にあったのだし。横になりなさい、さあ。すべて我々が掌握しているのだから・・・・・・」
「してません!」ハリーが叫んだ。「捕まえる人を間違えています!」
「大臣、聞いてください。お願い」ハーマイオニーも懇願した。「私もピーター・ペティグリューを見ました。ロンのネズミだったんです。アニメーガスだったんです」
「ペティグリューは森に逃げました・・・・・・」カナも身を起こした。「ブラックはやつを追って、あの場所まで・・・・・・」
「おわかりでしょう、閣下」スネイプが大仰に言った。「錯乱の呪文です。三人とも・・・・・・ブラックは見事に術をかけたものですな」
錯乱なんかしていません!」ハリーが大声を出した。
「大臣! 先生!」今度はマダム・ポンフリーが怒鳴った。「二人とも出て行ってください。患者を興奮させてはなりませんと、先程も申し上げましたでしょう!」
「僕は興奮していません。真実を伝えようとしているんです――」ハリーの言葉は続かなかった。マダムが大きなチョコレートの塊をハリーの口に押し込んだからだ。ハリーがむせ込んでいる間に、手慣れたようすでベッドに押し戻した。
「さあ、この子たちには静養が必要です。どうか、出て行ってください――」
 その時、再び扉が開いた――全員がそちらを見た。
 入ってきたのは、ダンブルドアだ。
 ハリーは間髪入れず立ち上がり、口の中のものを流し込んで口を開いた。「先生、シリウス・ブラックは――」
 しかし、「なんてことでしょう!」とマダムが大声を上げて、ハリーの声はかき消されてしまった。
「病室をいったいなんだと思っているのですか? 校長先生、失礼ですが、どうか――」
「すまないね、ポピー」ダンブルドアは、三人のベッドのそばまでよどみなく歩み寄った。「じゃが、わしはミスター・ポッター、ミス・グレンジャー、ミス・エリオットの三人に話があるんじゃ」ダンブルドアが穏やかに言った。「たったいま、シリウス・ブラックと話をしてきたばかりじゃよ――」
「さぞかし、ポッターに吹き込んだのと同じおとぎ話をお聞かせしたことでしょうな?」スネイプが吐き捨てるように言った。「ネズミがなんだとか、ペティグリューが生きているとか――」
「さよう。ブラックの話はまさにそれじゃ――」
 ダンブルドアは半月眼鏡の奥から、スネイプを観察するように見ていた。
「私の証言はなんの重みもないということですかな?」スネイプが唸った。「ピーター・ペティグリューは『叫びの屋敷』にはおりませんでした。校庭でも影も形も――」
「先生は気絶していたからです!」ハーマイオニーが言った。「話のすべてを聞いていません――」
「それに、ペティグリューはネズミになって森へ逃走したと、さっき言いました」付け加えてカナがはっきり言うと、スネイプはふたりを睨め付けた。
口出しするな!
「まあ、まあ、スネイプ」ファッジが大声に驚いてなだめた。「このお嬢さんたちは気が動転しているのだから――」
「わしは、ハリー、ハーマイオニー、カナと四人だけで話したいのじゃが」ダンブルドアが唐突に言った。「コーネリウス、セブルス、ポピー――席を外してくれんかの」
 みんなが唖然とした。「校長先生!」とマダム・ポンフリーが慌てた。
「この子達は休息が必要なんです――」
「事は急を要する」ダンブルドアが言った。「どうしてもじゃ」
 マダムは口をきゅっと引き結んで、怒り心頭といったふうに大股に歩き、自分の事務所の扉をバタンと閉めて、病室を出て行った。ファッジはベストのポケットから大きな金の懐中時計を取り出した。
「そろそろ吸魂鬼ディメンターが着いたころだ。迎えに出なければ。ダンブルドア、上の階でお目にかかろう」
 ファッジは医務室の扉を開けて、スネイプが付いてくるのを待っていた。しかし、スネイプは動かなかった。
「ブラックの話など、一言も信じてはおられないでしょうな?」
「わしはこの子たちと四人だけで話したいのじゃ」ダンブルドアは繰り返し言った。
 スネイプは一歩踏み出した。
「シリウス・ブラックは十六の時に、すでに人殺しの能力を顕した――」スネイプは息をひそめて言った。「お忘れになったわけではありますまい、校長。ブラックはかつて私を殺そうとしたことを――」
「セブルス、わしの記憶力は、まだ衰えてはおらんよ」ダンブルドアは静かに言った。
 スネイプは踵を返し、激しく肩を怒らせながら出て行った。
 バタンと扉が閉まると、ダンブルドアは子どもたちに向き合った――三人は堰を切ったように話し出した。
「先生、ブラックの言っていることは本当です、僕たち、本当にペティグリューを見たんです」
「ペティグリューはアニメーガスで――」
「リーマスが狼に変身したすきに逃げたんです」
「あいつは指を自分で切ったんです」
「ロンを襲ったんです。シリウスじゃありません――」
 ダンブルドアが手を上げて、洪水のような説明をピタリと止めた。
「今度はきみたちが聞く番じゃ。頼むから、わしの言うことを途中で遮らんでくれ。なにしろ時間がないのじゃ」
 ひどく静かな口調だった。三人ははやる気持ちを抑えて、黙った。
「ブラックの主張を証明するものは何ひとつない。きみたちの証言だけじゃ――しかし、十三、十四歳の魔法使いが三人、何を言おうと、誰も納得はせんじゃろう。当時、あの現場にはブラックがペティグリューを殺したと証言する目撃者が多くいたのじゃ。わし自身、魔法省に、ブラックがポッターの『秘密の守人』だったと証言した」
「ルーピン先生が話してくださいます――」ハリーがたまらなくなって口を挟んだ。
「ルーピン先生は今は森の奥深くにいて、誰にも何も話すことができん。再び人間に戻るころには、もう遅すぎる――ブラックは死よりもむごい状態になっておろう。さらに言っておくが、人狼はわれわれの仲間内では信用されておらんからの。人狼が支持したところでほとんど役には立たんじゃろう――それに、ルーピンとブラックは旧知の仲でもある――」
「でも――」
「よくお聞き」ダンブルドアは頑なに言い聞かせた。「もう遅すぎる。わかるかの? スネイプ先生の語る真相のほうが、きみたちの話より説得力があるということを知らねばならん」
「スネイプはブラックを憎んでいます」ハーマイオニーも必死で訴えた。「個人的な恨みを持っています――」
「ブラックも無実の人間らしい振る舞いをしなかった。『太った婦人レディ』を襲った――グリフィンドールにナイフを持って押し入った――生きていても、死んでいても、とにかくペティグリューがいなければ、ブラックに対する判決を覆すのは無理というものじゃ」
「でも」カナがふるえる声を張り上げた。「校長先生はぼくたちの――ブラックの言うことを信じているんでしょう」
「その通りじゃ」ダンブルドアは落ち着いていた。「しかし、わしは他の者に真実を悟らせる力などない。魔法大臣の判決を覆すことも・・・・・・」
 全員が、悲痛な面持ちで黙り込んだ。
「・・・・・・それじゃあ、ぼくたちにできることは、なにもないんですか」静寂に、カナの小さな声が響いた。
「そうは言っておらんよ」ダンブルドアが、カナの淡色の瞳をじっと見つめながら、ゆっくりと言った。ダンブルドアは順番に、子どもたちの顔に視線を滑らせて――最後にハーマイオニーを見た。
「必要なのは、時間じゃ」
「でも――あっ!」ハーマイオニーが何か言いかけて、そして目を丸くした。
「さあ、よく聞くのじゃ」ダンブルドアはアイスブルーの目をきらりと光らせて、三人に向かってはっきりと言った。
「シリウスは八階のフリットウィック先生の事務所に閉じ込められておる。西棟の右から十三番目の窓じゃ。首尾よくことが運べば、きみたちは今夜、ひとつと言わずもっと、罪なきものの命を救うことができるじゃろう。ただし、三人とも、忘れるでないぞ。見られてはならん。ミス・グレンジャー、規則は知っておろうな――どんな危険を冒すのか、きみは知っておろう・・・・・・誰にも――見られては――ならんぞ」
 カナは、何がなんだかわからないといった顔で、同じような表情のハリーと目が合った。ダンブルドアは踵を返し、医務室の入り口まで行って振り返った。
「きみたちを閉じ込めておこう」ダンブルドアは腕時計を見た。「いまは――真夜中の五分前じゃ。ミス・グレンジャー、三回ひっくり返せばよいじゃろう。幸運を祈る」
「幸運を祈るだって?」
 ダンブルドアが出て行ったあとで、ハリーが繰り返した。
「三回ひっくり返す? いったい何のこと? 僕たちに何をしろって言うんだ?」
 カナもまったく同じ気持ちだった。しかし、ハーマイオニーはローブの襟をごそごそと探り――中から、長く細い鎖を引っ張り出した。
「カナ、あなた立てる? もう大丈夫?」
「う、うん」
 カナはわけがわからないままハーマイオニーに引っ張られた。
「ハリー、こっちへ来て、早く!」
 ふたりはハーマイオニーを挟んで、その手元を見た。小さな天球儀のような――真ん中に、キラキラした砂時計が収まっていた。
 ハーマイオニーはハリー、そしてカナの首に、その長い鎖をかけた。
「いいわね?」ハーマイオニーが切羽詰まって言った。
「いったい何?」
「僕たち、何してるんだ?」
 ハーマイオニーは答えず、砂時計を三回ひっくり返した。
 すると――暗い医務室がどろどろと急速に溶けていくようだった。後ろに引っ張られているような、何かが高速で追い抜いていくような、奇妙で圧迫感のある感覚だった。ぼやけた色や形が、世界が、カナを追い越していくような――

 ――やがて、硬い地面の上に足が着くのを感じた。いつのまにか、周りの景色がはっきりと見えた。
 誰もいない玄関ホールに、三人は立っていた。正面玄関の大きな樫の扉が開いていて、金色の陽光が斜めに差し込んで、ぬるい風が髪を撫でていた。
「ハーマイオニー、これは――?」
「こっちへ!」
 ハーマイオニーはふたりの腕を掴んで、玄関ホールを急ぎ足で横切った。倉庫の前まで来ると、その扉を勢いよく開けて、バケツやモップが並んだそこにカナとハリーを押し込んだ。そして自分も中に入って、扉をバタンと閉めた。
「ぼくたち何してるの?」
「時間を逆戻りしたのよ――」ハーマイオニーは順番にふたりの首から鎖を外しながら、囁いた。「――三時間前まで」
 カナは目を瞬いた。
「ど、どうやって?」
「シッ! 誰か来るわ――たぶん――たぶん、私たちよ!」
 ハーマイオニーは扉に耳を押し付けた。
「ホールを横切る足音がするわ・・・・・・そう、たぶん、ハグリッドの小屋に行くところよ」
「つまり、僕たちがこの中にいて、しかも外にも僕たちがいるってこと?」
「そうよ」ハーマイオニーは耳をくっつけたまま答えた。「絶対私たちだわ。足音は三人だし、『透明マント』を被っているから、ゆっくり歩いているし――いま、正面玄関を出て行ったわね」
「その砂時計はなんなの?」カナが聞いた。
「これ、『逆転時計タイムターナー』っていうの」ハーマイオニーが小声で言った。「今年度のはじめ、マクゴナガル先生にいただいたの。授業を全部受けるために、ずっとこれを使っていたわ。誰にも言わないって、マクゴナガル先生と固く約束したの。先生は魔法省にありとあらゆる手紙を書いて――私が模範生だから、勉強以外には絶対これを使いませんって、先生は魔法省に嘆願して――私のために一個手に入れてくださったの。これを回すと、時間を遡ることができるの。だから同時にいくつも授業を受けられたわ。わかった?」ハーマイオニーは首にかかった細い鎖をきゅっと握った。「でも・・・・・・ダンブルドアが私たちに何をさせたいのか、私、わからないわ。どうして三時間戻せっておっしゃったのかしら? それがどうしてシリウスを救うことになるのかしら?」
「ダンブルドアが変えたいと思っている何かが、この時間帯に起こったに違いない」
 ハリーもハーマイオニーも、顎や口元に手を当てて考えていた。カナはこの時間に自分が何をしていたか思い出した――たしか――猫に変身して、ハグリッドの小屋へ向かったんだ。
「・・・・・・バックビークだ」ふるえた声で、カナが言った。「思い出して。ダンブルドアは、『罪なきものの命を救うことができる』って言ってた――バックビークの処刑の瞬間、あの人はあの場所にいた――そして、今はまだバックビークは生きてる」
「でも、それがどうしてシリウスを救うことになるの?」
「そうか――救えるんだ」ハリーが気がついたように言った。「ダンブルドアが――さっき、シリウスが閉じ込められてる部屋がどこにあるのか教えてくれた。覚えているかい? 西棟の右から十三番目――フリットウィック先生の部屋まで空を飛んで、シリウスを救い出すんだ! シリウスはバックビークに乗って、ホグワーツから一緒に逃げられる!」
「そんなこと、誰にも見られずにやり遂げたら、奇跡だわ!」
 ハーマイオニーは不安そうにしていた。
「でも、やってみなきゃ。そうだろう?」ハリーが扉にピッタリと耳をつけた。「外には誰もいないみたいだ・・・・・・さあ、行こう」
 ハリーは戸を開けた。カナも顔を出した。玄関ホールには誰もいないようだ。三人は急いで走り、玄関の石段を降りた。もう日が沈みかかっている――影が長く伸び、禁じられた森の梢が金色に輝いていた。
「誰かが窓から覗いていたら――」
「まっすぐ森まで走ろう。全速力で――」
「オッケー・・・・・・二人とも、すこし止まって」
 カナは杖を振った。「ディシルーシオ目眩まし術」を他人に使うのは初めてだったけれど――間近で出会わなければ見つかることはないだろう。
 カナは猫に変身した――これで、カナが先導すれば透明の二人がはぐれることもないだろう。ふたりとも、カナの意図を汲んでくれたようだ。ハーマイオニーが息をひそめた。
「カナ、温室を回り込んで行きましょう――ハグリッドの小屋から見えないようにしないと――じゃないと、私たち、自分に見られてしまうかもしれないわ!」
 カナの先導で、三人は静かに動き出した。野菜畑を突っ切り、温室の影に隠れながら、カナが周りを見回して――「暴れ柳」をチラリと横目に見て避けながら、「禁じられた森」を目指した。

 森のなかほどに入り、木々が深く影を落とすようになると、カナは茂みに隠れながら人の身に戻った。そして、ハーマイオニーの「フィニート呪文終了」の呪文で、二人が姿を現した。
「いい調子よ」
 ハーマイオニーが息を弾ませながら二人に言った。
「ハグリッドの小屋まで近づきましょう。見つからないようにね・・・・・・」
 茂みや木々の間に隠れながら、三人はこっそりと進んでいった。やがて、ハグリッドの小屋が垣間見えた。戸を叩く音が聞こえてきた――三人は急いで太い樫の木に隠れて、その両脇から顔を出した。戸を開けたハグリッドがきょろきょろと顔を出し、来訪者を探している――向こうからハリーの声が聞こえる。
「僕たちだよ。『透明マント』を着てるんだ。中に入れて。そしたらマントを脱ぐから」
「来ちゃなんねえだろうが!」
 ハグリッドはそう囁きながらも一歩下がり、それから急いで戸を閉めた。
「こんな変てこなこと、僕たちいままでやったことがないよ!」ハリーが興奮しながら言った。
「バックビークの様子を見ましょう」ハーマイオニーが樫の木を離れた。
「ぼくがまだいるかも。慎重にね――」
 ふたたび、木々の間をこっそり進んだ。かぼちゃ畑が見え、柵に繋がれたバックビークが見えた。落ち着かない様子で、ハグリッドの小屋に入っていく向こうのカナの尻尾を見つめているようだった。
「やる?」ハリーが囁いた。
「だめ」ハーマイオニーがするどく言った。「今バックビークを連れ出したら、委員会の人たちはハグリッドが逃したと思うわ。外に繋がれているところをあの人たちが見るまで、待たないと」
「あの人たちが小屋に入って、それから出てくるまでに、ことを済ませないといけないってこと?」カナの言葉に、ハーマイオニーは神妙に頷いた。
「それじゃ、制限時間は六十秒ってところだ」ハリーも自信なさげに言った。
 そのとき、陶器の割れる音が聞こえてきた。
「ハグリッドがミルクポットを壊したわね」ハーマイオニーが囁いた。「もうすぐ、私がスキャバーズを見つけるわ――」
 バックビークは、小屋の騒動を聞きつけてそわそわと地面を掻いている。
 じっと数分待つと、ハーマイオニーの悲鳴がかすかに聞こえてきた。
「ハーマイオニー」ハリーが思いついたように言った。「もし、僕たちが中に飛び込んで、ペティグリューをとっ捕まえたらどうだろう――」
「絶対だめ!」ハーマイオニーは震えながら答えた。「わからないの? 私たち、もっとも大切な魔法界の規則を一つ破っているところなのよ! 時間を変えるなんて、誰もやってはいけないことなの。誰であってもよ! ダンブルドアの言葉を聞いたわね。もし誰かに見られたら――」
「僕たち自身とハグリッドに見られるだけじゃないか!」ハリーが反論したけれど、ハーマイオニーはよけいに声を低くした。
「カナ。もしもハグリッドの小屋に自分が飛び込んできたら、どうすると思う?」
「ええと――」カナは考えながら答えた。「みんながパニックになるよね。なんかの呪いか魔法生物かと思うだろうし・・・・・・」
「その通りよ。事情が理解できないでしょうし――マクゴナガル先生が教えてくださったの。これまで何人もの魔法使いが時間にちょっかいを出して、ミスを犯して、過去や未来の自分を殺してしまったのよ!」
「わかったよ! ちょっと思いついただけだ――」
「見て」
 カナは正面玄関を指差した。石段を降りてくる人影が見える――ダンブルドア、ファッジ、危険生物処理委員会の老魔法使い、そして死刑執行人のマクネア。
「私たちが出てくるわ」
 まもなく、ハグリッドの小屋の裏口が開いた。ハリー、ロン、ハーマイオニー、カナの四人が、ハグリッドと一緒に出てくるのが見えた――自分自身を遠巻きに見つめるのは、奇妙な感覚だった。
「大丈夫だ。ビーキー、大丈夫だぞ・・・・・・」
 ハグリッドがバックビークに話しかけている。それから、子どもたちを振り返って、何度も促した。
「もう行け、行くんだ」
「ハグリッド、そんなことできないよ――」
「ぼくたち、ここにいたい――」
「ほんとうは何があったか、あの連中に話すよ――」
「バックビークを殺すなんて、ダメよ――」
「行け! おまえさんたちが面倒なことになったら、ますます困る!」
 向こうのハーマイオニーが、みんなに「透明マント」をかぶせた。
「急ぐんだ。聞くんじゃねえぞ・・・・・・」
 小屋の戸口が叩かれた。処刑人の一行が到着したのだ。ハグリッドは裏戸を半開きにしたまま小屋の中に戻って行った。よーく目をこらすと、小屋のまわりの草むらが踏みつけられて、その足跡が少しずつ遠のいていくのが見えた。じょじょに四人が小屋から離れていったのを確認して、小屋の中から漏れ聞こえる会話に耳をすませた。
「獣はどこだ?」冷たい声だ。マクネアだろう。
「外――外にいる」ハグリッドのかすれた声がした。
 マクネアの顔が小屋の窓から覗き、バックビークを見た。三人はあわてて頭を引っ込めた。それから、ファッジの声だ。
「ハグリッド、我々は――その――死刑執行の正式な通知を読み上げねばならん。短く済ますつもりだ。それから君とマクネアが書類にサインする。マクネア、君も聞くことになっている。それが手続きだ――」
 マクネアの顔が窓から消えた――やるなら今しかない。
「カナ――」ハーマイオニーが声を絞り出した。
「うん、ぼくが行くよ」
 カナは猫の姿で疾走し、かぼちゃ畑の柵をすり抜け、バックビークのそばで変身を解いた。
「『危険生物処理委員会』は、ヒッポグリフのバックビーク――以後被告と呼ぶ――が、六月六日の日没に処刑されるべしと決定した――」
 ファッジの宣告が聞こえてくる。それがわかるのか――不安そうに揺れるオレンジ色の瞳をじっと見つめながら、カナは膝を折った。しかし、心臓はバクバクと鳴り止まない――バックビークは以前もそうしてくれたように、たくましい前脚を折り曲げ、お辞儀を返してくれた。カナはバックビークを繋いでいる綱をほどいて、引っ張った。
「――死刑は斬首とし、委員会の任命する執行人、ワルデン・マクネアによって執行され――」
「バックビーク」カナはそっと嘴を撫でた。「おいで。きみを助けにきたよ」
 綱を引っ張っても、バックビークは前脚で踏ん張って、動かなかった。ハグリッドのそばを離れがたいのだろう――
「以下を証人とす。ハグリッド、ここに署名を――」
「ビーキー」カナはもう一度ささやいた。「ハグリッドにはまた会える。会わせてあげる。必ず。いまはぼくについてきて、お願い――」
「さあ、さっさと片付けましょうぞ」
 老人のひょろひょろとした声が聞こえてきた。カナは焦って綱を強く引っ張った。
「ハグリッド、おぬしは中にいた方がよくはないかのう――」
「いんや、おれは――おれはあいつと一緒にいたい・・・・・・あいつをひとりぼっちにはしたくねえ・・・・・・」
 小屋の中から足音が響いてきた。
「ビーキー、お願い」
 カナが前に立ち、もう一度綱を引っ張ると、バックビークはようやく歩き出した。翼を擦り合わせて――ストレスを感じているようだ。
「マクネア、ちょっと待ちなさい」ダンブルドアの声がした。「そなたも署名せねば」
 小屋の足音が止まった。カナはバックビークの背を撫でて落ち着かせながら、足早に森に向かった。開きっぱなしの裏戸から姿が見えてはいないだろうか――ダンブルドアがまだ話している声がした。先生が時間を稼いでくれた、と思った。
「こっちよ!」
 カナが木立のあいだにたどり着くと、ハリーとハーマイオニーも綱を引っ張って、森のさらに奥へと導いた。ここなら小屋からは絶対に見えないだろう――扉がバタンと開いた音がした。三人は息を殺して、耳をそばだてた。バックビークもじっとして、音を立てないで耳を澄ませているようだった。
 静寂が続いた――そして、老人のひょろひょろした声が聞こえた。
「どこじゃ?」
「ここに繋がれていたんだ! 俺は見たんだ! ここだった!」マクネアが怒鳴る声だ。
「これは奇っ怪じゃのう」ダンブルドアが、どこかおもしろがっているような声で言った。
「ビーキー!」ハグリッドは喉を詰まらせている。
 そして――空を切る音ののち、ドサッと鈍い音が続いた。マクネアが怒りたまらず、柵に斧を振り下ろしたようだ。それから、ハグリッドが吠えて――すすり泣く声が続いた。
「いない! いない! よかった。かわいい嘴のビーキー、いなくなっちまった! きっと自分で自由になったんだ。ビーキー、賢いビーキー!」
 名前を呼ばれたバックビークはハグリッドのもとへ行こうと、綱を引っ張った。三人は綱を握り直し、踏ん張って押さえた。カナはバックビークの背を撫で続けた。
「誰かが綱をほどいて逃した!」マクネアが歯軋りした。「探さなければ。校庭か森か――」
「マクネア。ヒッポグリフを、盗人は歩いて連れていくと思うかね?」ダンブルドアの朗らかな声がした。「どうせなら、空を探すがよい・・・・・・ハグリッド。お茶を一杯いただこうかの。ブランデーをたっぷりでもよいの」
「は、はい。先生さま」ハグリッドは力が抜けたように答えた。「お入りくだせえ。さあ・・・・・・」
 足音が聞こえ、マクネアがぶつぶつと悪態をつくのが聞こえ、扉がバタンと閉じた。
 それから、ふたたび静寂が訪れた。
「さあ、どうする?」ハリーが周りを見回しながら囁いた。
「みんなが城に戻るまで待たないといけないわ。シリウスはあと二時間くらいしないとあの部屋にはいないし・・・・・・ああ、とても難しいことだわ・・・・・・」
 あたりはもう暗くなってきていた。太陽が沈みかかっている。いまごろ、カナたちは暴れるスキャバーズと格闘しながら校庭を渡っている頃だろう。
「それなら、『暴れ柳』が見えるところに行こう」カナが言うと、ハリーも頷いた。
「ああ。何が起こっているのか、よく観察しないと」
「ええ。でも、忘れないで・・・・・・」ハーマイオニーが息をひそめた。「私たち、誰にも見られないようにしないといけないのよ」

 暗闇がだんだん色を濃くしていく中、一行は森のすそに沿って進み、「暴れ柳」が垣間見える木立の影に隠れた。校庭はほとんど真っ暗で、あまりよく見えない。
「ロンが来た!」突然ハリーが言った。目をこらすと、黒い影が芝生を横切っているのが見えた。静寂によく響くその声は確かにロンのものだ。
「スキャバーズから離れろ――離れるんだ――スキャバーズこっちにおいで――」
 ロンが芝生の上に飛び込んだとき、走り寄ってきたもうひとつの影はカナだろう。
「捕まえた! とっとと消えろ、いやな猫め――」
 その後からハーマイオニーとハリーの二人もやってくる。
「今度はシリウスだ」
 「暴れ柳」の根本から、大きな犬の影が飛び出してきた。
「パッド!」
 犬はカナを押し倒し、ハリーを転がし、ロンをくわえて走り去っていく。その後ろから、小柄な猫がすばやく追った。
「こうやって見ると、よけいにひどく見えるね」ハリーが、ロンが引き摺り込まれるのを見ながら言った。
 「暴れ柳」がギシギシと軋み、ロンの足、猫のカナの腹を打つのがよく見えた――脇腹の傷がつきんと痛むようだった。残されたハリーとハーマイオニーも鞭のように打たれながら、あちこち走り回っている――そして、ふいに柳が静かになった。
「クルックシャンクスがあそこで木のこぶ・・を押したんだわ」
 ハリーとハーマイオニーが木の根元に入っていく――その姿が消えたとたん、「暴れ柳」はふたたび動き出した。そしてまもなく、近くで足音がした。
 振り返ると、ダンブルドア、ファッジ、マクネアたちが城へと戻っていく影が見えた。
「私たちが地下通路に降りたすぐあとだわ。あのときダンブルドアが一緒に来てくれさえしたら・・・・・・」
「そしたら、マクネアもファッジも一緒についてきてたよ」ハリーが苦々しげに言った。「賭けてもいいけど、ファッジは、シリウスをその場で殺せってマクネアに指示したと思うよ」
「そしたら、ぼくたちは真実を知る機会を一生失ってた」
 全員、四つの影が城の中に入って見えなくなるまで見つめていた。しばらくのあいだ、誰も静寂を破らなかった。カナはバックビークを撫でた――
「ルーピンが来た!」
 ハリーが言った。玄関の石段を誰かが降って、校庭を横切り、「暴れ柳」に走った――カナは空を見上げた。ぶあつい雲が、月を完全に覆っていた。
 リーマスが地下通路に入ったのを見届けて、ハリーがため息をついた。
「ルーピンが『マント』を拾ってくれていたらなあ。あそこに置きっぱなしになっているのに・・・・・・」ハリーはうずうずしてハーマイオニーを見た。「もし、いま僕が急いで走って行ってマントを取ってくれば、スネイプはマントを手に入れることができなくなるし、そうすれば――」
「ハリー、私たちは姿を見られてはいけないのよ!」
「どうして我慢できるんだ?」ハリーは激しい口調で言った。「ここで何もしないで、なるがままに任せて、見てるだけでいいのか?」
「ハリー、感情的にならないで」今にも飛び出していきそうなハリーのローブを握り、カナが制した。「スネイプが『透明マント』で身を隠していなかったら、ぼくらはリーマスの話を聞くことができなかったでしょ――ぜんぶ必要なことなんだ。余計なことをしたらだめ――」
「でも――」
「シッ!」
 ハーマイオニーがふたりを黙らせた。突然、大きな歌声が聞こえてきた。ハグリッドだ。大きな瓶をぶらつかせながら、酔っ払っているのか――ふらふらとよろめきながら、大きく声を張り上げて、気持ちよさそうに歌っていた。
「いま飛び出していたら、どうなっていたかわかるでしょ。絶対に人に見られてはダメなの――」
「バックビーク!」
 突然、カナがぐいっと引っ張りあげられた。バックビークが急に立ち上がり、ハグリッドのそばへ向かおうとした。ハリーとハーマイオニーが綱を必死に引っ張って、ハグリッドの後ろ姿が城の中へ消えるのを見届けた。バックビークはようやく暴れるのをやめ、悲しそうに首をうなだれた。
「もう少しだよ。ビーキー、こらえて・・・・・・」カナは嘴を撫でた。
 しばらくしないうちに、城の扉がふたたび開いた。次はスネイプだ。校庭をすばやく駆け抜け、「暴れ柳」の根元で立ち止まった――「透明マント」を持ち上げているのが見える。
「汚らわしい手で触るな」ハリーがいまいましげに歯噛みした。
「シッ!」
 スネイプは枝で柳のコブを押し、マントを被りながらうろ・・の中に入って行った。
「これで全員ね」ハーマイオニーが大きく息を吐いた。「私たち全員が、あそこにいるんだわ・・・・・・さあ、あとは私たちが出てくるのを待つだけ・・・・・・」
 ハーマイオニーは土の上に腰を下ろし、膝を抱えた。
「ねえ、私、わからないことがあるの・・・・・・どうして、吸魂鬼ディメンターはシリウスを捕まえなかったのかしら」ハーマイオニーは考え込んだ。「シリウスとカナがあそこで倒れていたわ。私たちも駆けつけて・・・・・・吸魂鬼ディメンターが集まってくるところまでは覚えているんだけど、それからは何があったのか、気を失って覚えていないの・・・・・・」
「僕が一番真っ先に、やつらに捕まった」ハリーも腰を下ろした。カナはバックビークにもたれながら、話を聞いた。「僕は守護霊パトローナムの呪文に失敗して、追い払うことができなかった――」
「ブラックも、守護霊の呪文を試してた」カナがぽつりと言った。「でも、うまくできなかったみたい」
「彼はアズカバンにいたから、幸せな記憶が思い出せなかったのかも」ハーマイオニーが言った。
「ああ。それに、あまりに大勢だった――吸魂鬼ディメンターの一匹が僕に口を近づけたんだ。でも、その直前――大きな銀色の何かが、湖の向こうから走ってきた。そしたら、やつらは散り散りになっていった――」
 カナもハーマイオニーも、口をぽかんと開けてハリーを見ていた。
「それっていったい、なんだったの?」
吸魂鬼ディメンターを追い払うものは、たったひとつしかない」ハリーが二人を見た。「本物の守護霊パトローナスだ。強力な」
「誰だったのかしら」ハーマイオニーが興味深々で聞いた。
「ダンブルドアが近くにいたのかな?」カナが言った。
「いや、先生じゃなかった――」ハリーは言い淀んでいるようだった。
「でも、ほんとうに力のある魔法使いに違いないわ。あんなに大勢の吸魂鬼ディメンターを追い払うんですもの――ねえ、その人の姿が見えたんじゃないの? それとも見えなかったの?」
「ううん。僕、見たんだ」ハリーが息を吸い込み、動揺したようにゆっくりと吐きながら言った。「でも・・・・・・僕、きっと、思い込んだだけなんだ、混乱してたんだ・・・・・・そのすぐあとに気を失ってしまったし・・・・・・」
「誰だと思ったの?」ハーマイオニーが聞いた。
「僕――」
 ハリーは言葉を飲み込んだ。カナとハーマイオニーの視線から逃げるように目を逸らし、地面をじっと見た。
「僕、父さんだと思った」
 ハーマイオニーは、ハリーを驚きと哀れみを含んだ目で見つめていた。
「ハリー。あなたのお父さまは、もう――」ハーマイオニーが言いにくそうにした。
「わかってるよ」ハリーが急いて言った。
「幽霊を見たとでも言うの?」
「ううん、たしかにそこにいた・・・・・・でも、写真で見た父さんにしか見えなかった・・・・・・」
 ハーマイオニーが黙りこんだ。ふたりは思わしげにハリーを見つめ、何と声をかけていいのかわからなかった。
「ばかげてるって、わかってるよ」
「今夜は、ばかげたこと・・・・・・ばっかり起きるみたいだね」カナが声を出した。「うそみたいな、信じたくないことばっかり」
 地面を掻くバックビークの羽毛を撫でながら、カナは雲の切れ目から覗く薄い月明かりを見上げた。カナの言葉に、ハリーはすこし肩の力を抜いたように見えた。

 それから、一時間ほど経っただろうか。
「出てきたわ」
 ハーマイオニーが囁いて、立ち上がった。カナが振り向くと、バックビークも首を持ち上げた。
 木の根元から、リーマス、ペティグリュー、ロンが這い出てきた。ぐったりしたスネイプ先生がふわりと浮かび上がり、黒猫が芝生の上に置かれ、ハーマイオニーが出てくる。そしてハリー、シリウスだ。全員が城に向かって歩き出した。
 心臓がドクドクと軋みはじめた――血が固まってごわごわしたシュミーズの胸もとを、ぎゅっと握りしめた。
「じっとしてるのよ」ハーマイオニーは、ハリーとカナの両方に言っているようだった。
「それじゃ、またペティグリューを逃すだけなんだ・・・・・・」
「私たちにはどうにもできないことよ。私たちはシリウスを救うために時間を戻したの――」
「わかってるよ!」
 ハリーは不満そうに答えた。
「カナ。目を逸らしてもいいのよ――」
「ううん。ぼく、ちゃんと見るよ」
 月が顔を出した――リーマスが立ち止まる。人影が隆起して、大きく形を変えて、変身している――
「カナ! ハーマイオニー!」ハリーが突然呼びかけた。「行かないと!」
「ダメよ。何度も言ってるでしょ――」
「違う! 割り込むんじゃない。ルーピンがもうすぐ森に駆け込んでくる。僕たちのいるところに!」
 カナは大慌てでバックビークを引っ張った。
「ど、どこへ行こう?」
吸魂鬼ディメンターがもうすぐやってくるわ――」
「ハグリッドの小屋に戻ろう! いまは空っぽだ――行こう!」
 三人は転がるように走り、バックビークは悠々と並走した。背後から、狼の遠吠えが聞こえてきた――カナは振り返りたい気持ちを、ぐっとこらえた。
 ハリーが小屋の扉に飛びついて開け、ハーマイオニー、バックビーク、カナが小屋に飛び込んだ。ハリーが最後に滑り込み、戸の錠前を下ろした。
 小屋の中にはファングがいて、突然の訪問者に驚いて吠え立てた。
「ファング、ぼくたちだよ」
 カナが声をかけて耳の裏を撫でると、ファングはおとなしくなった。
 バックビークはハグリッドの小屋に戻ることができて、うれしそうに暖炉の前に寝そべった。翼を折りたたみ、オレンジ色の瞳を細くして、完全にリラックスしている。
「ここじゃ、どうなってるのかよく見えないな」ハリーが窓を覗き込みながら言った。「また外に出たほうがいいんじゃないかな?」
 ハーマイオニーとカナは顔を見合わせた。
「僕、割り込むつもりはないよ」疑われていると思って、ハリーが弁明した。「なにが起こっているのかわからないと、シリウスをいつ救い出したらいいのかわからないだろ?」
「・・・・・・ええ。それなら、いいわ」ハーマイオニーはしぶしぶといった感じだ。
 ハリーはすぐさま飛び出していった。カナとハーマイオニーは小屋の中で待っていたが――ハーマイオニーはそわそわと落ち着かない様子で、何度も窓をちらちらと見ていた。
「ハーマイオニー」カナが言った。「ぼく、バックビークとここで待ってる――ハリーを追いかけて」
「カナ。あなたも気をつけてね。吸魂鬼ディメンターがいるだろうから――」
 ハーマイオニーが小屋を出ていった。ハリーが無茶するのを止めてくれるだろう――カナは天井からぶらさがっている鶏肉をひとつ取り、バックビークに向かって放り投げた。すぐに気がついて、大きな嘴がバクリと骨付きの生肉を食らった。
「ビーキー」
 小さな骨を床にペッと吐き出しながら、オレンジ色のまるい瞳が、カナをとらえた。
「うまくいく。きっとうまくいくよ・・・・・・」
 カナは自分に言い聞かせるみたいに、銀色の羽毛に埋もれた。

 しばらくして、ふいに、パッと森の方で何かが光った。バックビークが顔を上げ、つられてカナも窓を見た。
「何が・・・・・・」
 小屋を出ると、ハリーとハーマイオニーがこそこそとこちらに戻ってきていた。
「何が起きたの?」
「信じられない――湖で守護霊パトローナスを出したのはハリーだったわ!」
「僕は父さんだと思ったんだ・・・・・・」
 カナが目を瞬かせていると、ハリーが満足そうにほほえんだ。
プロングス枝角の牡鹿だ」
 いつか、グラウンドで見た銀色の美しい牡鹿の姿を思い出した――そうか。ハリーはずっと、彼が思っているよりもずっと深いところで――父親に守られていたんだ。
「さっき、私たちが担架で運ばれたわ。そろそろ動き出さないと」
 腕時計を見ながらハーマイオニーが緊張したように声を出した。
 カナは小屋の中からバックビークを連れ出した。
「ダンブルドアが医務室に鍵をかけるまで四十五分よ――シリウスを救い出して、それから、誰かに気づかれる前にベッドの上に戻らないと・・・・・・」
 一行は森の茂みにふたたび隠れながら、時が満ちるのを待った。ぬるい夜風が肌を滑り、葉擦れの音がさやさやと鳴っていた。ハーマイオニーは何度も時計を確認し、バックビークは退屈して土をほじり、虫を探していた。
「シリウスはもう上に行ったかな?」
 ハリーが窓を数え、部屋の位置を確かめていたとき、ハーマイオニーが立ち上がった。
「見て! マクネアが校門に向かってる――」
吸魂鬼ディメンターを迎えに行くんだ。今だ、行こう――!」
 ハリーはバックビークを立たせた。ハーマイオニーを押し上げて先に背に乗せ、ハリーは低木に足をかけて飛び乗った。
「カナ、はやく――」
 ハリーが手を差し出した。カナはその手を取るのをためらった――だって――
「何してるんだ、急がないと!」
「だ、だって、怖いよ」
「怖くなんかない。きみは一度飛んだだろう。バックビークはきみを落っことしたりないよ!」
 カナはオレンジ色の瞳をじっと見て――心を決めて、ハリーの手を取った。ハリーとハーマイオニーの間に挟まれて、カナは心臓がバクバクと暴れるのを感じていた。
「ハリー、ヒッポグリフを操ったことがあるの?」カナが聞いた。
「いや――でも、やるしかない」
 ハリーは綱を結んで手綱のように繰りながら、唇を舐めた。
「ふたりとも、僕につかまってて――」
 三人がぎゅっとくっついたのを確認すると、ハリーはバックビークの脇腹を踵で小突いた。
 地面を蹴り、大きく揺れながら――バックビークは夜闇に舞い上がった。銀色の翼が真横で大きく揺れるのを感じながら、カナはハリーにがっちりとしがみついていた。後ろのハーマイオニーも同じようにカナにぴったりと身を寄せていた。
「だめ、だめよ――これ、嫌だわ――」
 カナの背中にハーマイオニーのつぶやきが落ちた。カナも叫び出しそうになるのをこらえた――

 バックビークは空中を駆け、音もなく城の上階に近づいた。ゆっくりと旋回しながら、ハリーは目的の部屋を探し――そして、突然急停止した。
「あそこだ!」
 窓にそっと近づき、薄暗いその奥にシリウス・ブラックを見つけた。拘束されてはいないようだったけれど、杖がなければ密室で身動きが取れないだろう。
 ハリーが窓を力強く叩くと、シリウスは弾けるように立ち上がった。窓際に近づいたけれど、鍵がかかっているようだ。
「アロホモラ!」
 ハーマイオニーが杖を突き出して解錠すると、窓がぱっと開いた。
「どうやって――」シリウスはバックビークとハリーたちとを見比べて、唖然として聞いた。
「乗って――時間がないんです」
 ゆらゆらと上下に揺れるバックビークを押さえつけながら、ハリーが急いて言った。
「ここから出ないと――吸魂鬼ディメンターがやってきます。マクネアが呼びに行ってる――」
 シリウスは窓から頭と肩を乗り出した。痩身でなければここから脱出できなかっただろう。
 カナが猫に変身して、スペースを開けた。ハーマイオニーが前に詰め、カナはその腕にしっかり抱かれた。シリウスは一番後ろに乗りつけた。
「よーし、バックビーク、塔の上まで行こう!」
 ハリーの合図で、銀色の翼が力強く羽ばたいた。銀色の体は軽々と舞い上がり――軽い爪音を立てながら、西棟のてっぺんの胸壁の内側に、ふわりと降り立った。
 カナが真っ先に飛び降りて、人の身に戻るあいだにハリーとハーマイオニーもバックビークから降りた。
「シリウス、もう行って。早く」息を切らしながら、ハリーが言った。「みんながもうすぐあの部屋にやってくる。あなたがいないことがわかってしまう」
 バックビークが首を激しく振ったので、カナが嘴を撫でて落ち着かせた。
「もう一人は――ロンはどうした?」シリウスが聞いた。
「大丈夫。マダム・ポンフリーが診てくれてる」カナが答えた。「だから早く行って・・・・・・バックビーク、言うことをよく聞くんだよ」
 シリウスは動かず、三人をじっと見下ろしていた。
「なんて礼を言ったらいいか――」
行って!
 ハリーとハーマイオニーが同時に叫んだ。シリウスはようやくバックビークをひと回りさせ、ちらりと振り返った。
「また会おう」そして、きらめく薄灰色の瞳が、じっとハリーを見つめた。「お前は、ほんとうにあいつの子だ――ハリー」
 銀色の翼が大きく広がった。三人が数歩下がるとシリウスが合図して、バックビークは上空に飛び上がった――月の輝く夜空を駆ける白銀のシルエットを、だんだんとその姿が小さくなっていくのを、じっと見送った――



20240812


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