「あと十分よ!」
 シリウスとバックビークが雲の向こうに消えてしまうと、ハーマイオニーが二人を急かした。
「ダンブルドアが鍵をかける前に、誰にも見つからずに医務室に戻るの!」
「オッケー」
 カナが返事すると、ハリーもようやく食い入るように見つめていた空の向こうから目を離した。
「行こう・・・・・・」
 背後の扉を開けると、石造りの狭く急勾配の螺旋階段が待っていた。三人は足音が響くのを抑えながら、急ぎつつそっと階段をくだった。しかし、階段を降りきったところで、話し声が聞こえてきて、先頭のハリーが手で制した。
 二人分の足音が響いて聞こえてくる。声はファッジとスネイプだ。三人は壁にぴったりと背を寄せた。
「――ダンブルドアがあれこれ言わぬよう願うのみですな」ねっとりとスネイプが言った。「『キス』はただちに執行されるのでしょうな?」
「マクネアが吸魂鬼ディメンターを連れてきたらすぐにだ。このブラック事件は、はじめから終わりまで、まったく面目まる潰れだった。魔法省が奴をついに捕まえた、と『日刊予言者新聞』に知らせてやるのがどんなに待ち遠しいか・・・・・・」
 息を殺して、ファッジとスネイプが通り過ぎるのを待った――二人の足音が遠ざかって、しばらくして廊下に顔を出す。誰もいないことを確認して、三人はいっせいに反対方向に走り出した。
 医務室を目指し、階段をひとつ、ふたつ降り、また別の廊下を走り――その時、前方から甲高い笑い声が響いてきた。
「ピーブズ!」ハリーが呟き、カナとハーマイオニーの手首をつかんで、真横に引っ張って、三人は空き教室へ転がり込んだ。
 ピーブズはひどく上機嫌で、廊下をふわふわと漂いながら、大笑いして西棟の方へ移動している。
「間一髪だわ」ハーマイオニーが顔にかかった髪をかきあげながらつぶやいた。「嫌な奴。吸魂鬼ディメンターがシリウスを処分するって聞いて、興奮してるのよ・・・・・・」
 扉に耳をつけ、ピーブズが通り過ぎるのを確認しながら、ハーマイオニーは腕時計を見た。
「あと三分よ!」
 三人はふたたび駆け出した。
「これ――間に合わなかったらどうなるの?」
 走りながらカナが聞いた。ハーマイオニーは時計を何度もチェックしながら、うめいた。
「考えたくもないわ!」
 ようやく、医務室前の廊下にたどり着いた。
「オッケーよ――ダンブルドアの声が聞こえるわ」
 そっと、足音を立てないようにして三人は進んだ。医務室の入り口に近づいた時、ドアがパッと開いて、ダンブルドアの後ろ姿が出てきた。
「きみたちを閉じ込めておこう」
 一度聞いたような台詞を、ダンブルドアが続けた。
「いまは――真夜中の五分前じゃ。ミス・グレンジャー、三回ひっくり返せばよいじゃろう。幸運を祈る」
 ダンブルドアが扉を閉めた。杖を取り出し、魔法で鍵を掛けようとした、その瞬間、三人はあわてて目の前に飛び出した。ダンブルドアは顔を上げて、三人が無事戻ってきたのを見てにっこりと微笑んだ。
「さて?」ダンブルドアは静かに聞いた。
「やりました!」ハリーが急き込んで言った。「シリウスは行ってしまいました。バックビークに乗って・・・・・・」
 ダンブルドアは深く頷いた。
「よくやった。さてと・・・・・・」部屋の中に耳を澄ませて、ダンブルドアは三人に向き直った。「よかろう。きみたちは出て行ったようじゃな。中にお入り。わしが鍵をかけよう――」
 病室には深く眠ったままのロン以外、誰もいない。三人がそれぞれのベッドに入り込んだとき、扉にカチャッと鍵がかかった。
 これで――これで元通り、というわけだ。
 その次の瞬間、マダム・ポンフリーが事務所から出てきた。
「校長先生がお帰りになったようですわね? これでわたくしの患者さんの面倒を見せていただけるんでしょうね?」
 マダムはひどくご機嫌斜めだったので、三人は黙って、差し出された巨大なチョコレートを食べるはめになった。ほとんど味がしなかった――なぜなら、三人とも医務室の外にじっと耳を澄ませて、これからどうなるのか神経を尖らせていたからだ――
 マダムが四個目のチョコレートを差し出したちょうどそのとき、遠くで怒り狂う唸り声が、上階からこだまして聞こえてきた。
「なんですの?」マダムが困惑していた。
 そして、怒声がどんどん大きく、近づいてくる――マダムはドアを見つめた。
「まったく――この子たちはちっとも休めやしませんわ! いったいどういうおつもりかしら」
 声が鮮明になってくる。カナはそれをじっと聞き取った――
「きっと『姿くらまし』を使ったのだろう、セブルス。誰か一緒に部屋に残しておくべきだった。こんなことが漏れたら――」
「やつは断じて『姿晦まし』をしたのではない!」
 スネイプの吠え声は、いまやすぐそこまで来ていた。
「この城の中では、『姿晦まし』も『姿現し』もできんのだ! これは――断じて――何か――ポッターが絡んでいる!」
「セブルス、落ち着け――ハリーは閉じ込められている――」
 バン!と騒音とともに、医務室の扉が勢いよく開いた。
 ファッジ、スネイプが荒々しい足音とともに中に入ってきた。ファッジも腹立たしそうにし、スネイプなんかは石膏顔が真っ赤にのぼせていた。その後ろにはダンブルドアもいるけれど、涼しい顔をしていた。
「白状しろ、ポッター!」スネイプがハリーのベッドに近寄り、吠えた。「いったい何をした?
「スネイプ先生、場所をわきまえてください!」マダム・ポンフリーが金切り声をあげた。
「スネイプ、まあ、無茶を言うな」ファッジがいらいらと言った。「ドアには鍵がかかっていた。いま見た通り――」
「こいつらがやつの逃亡に手を貸したのはわかっている!」
 スネイプは唾を飛ばしながらハリー、ハーマイオニー、カナを激しく指差した。
「いい加減静まらんか!」とうとうファッジが大声を出した。「つじつまの合わんことを!」
「閣下はポッターをご存知ない」興奮しきったスネイプの声は上擦っていた。「こいつがやったんだ。わかっている。こいつがやった――!」
「もう諦めなさい、セブルス」ダンブルドアの静かな声が、水滴のように落ちた。「自分が何を言っているのか、考えてみるがよい。わしが十分前にこの部屋を出た時から、このドアはずっと鍵がかかっていたのじゃ。マダム・ポンフリー、この子たちはベッドを離れたかね?」
「もちろん、離れておりませんわ!」マダムは毅然と眉を吊り上げた。「校長先生が出ていかれてから、わたくしはずっとこの子たちと一緒におりました!」
「ほーれ、セブルス、聞いての通りじゃ。この子たちが同時に二か所に存在することができるというのなら話は別じゃが。これ以上この子達を煩わすのは、何の意味もないと思うがの」
 スネイプはその場に棒立ちになった。真っ赤な顔でファッジを、ダンブルドアを力強く睨め付けた。ファッジはその形相にショックを受けたようだったけれど、ダンブルドアは涼しい顔で淡色の瞳をキラキラさせた。そして、スネイプは苛立たしそうにマントを翻し、病室から嵐のように去って行った。
「あの男、どうも情緒不安定ではないかね」ファッジが呆然と言った。「私が君の立場なら、目を離さないようにするがね。ダンブルドア」
「いや、不安定なのではない」ダンブルドアが静かに言った。「ただ、現実に失望して、打ちのめされておるだけじゃ」
「それはあの男だけではないわ!」ファッジが声を荒げた。「『日刊予言者新聞』は大騒ぎだろうよ! わが魔法省はブラックを追い詰めたが、やつはまたしても、わが指の間からこぼれ落ちていきおった! あとはヒッポグリフの逃亡の話が漏れれば、ネタは充分だ。私はもの笑いの種になる! ああ、さてと・・・・・・もういかなければ。省のほうに知らせなければ・・・・・・」
「それで、吸魂鬼ディメンターは?」ダンブルドアが聞いた。「学校から引き上げてくださるのじゃろうな?」
「ああ、その通り。連中は出ていかねば」ファッジは髪をかきむしりながら言った。「罪もない子どもを襲うとは、夢にも思わなかった――まったく手に負えん。今夜にもさっさとアズカバンに送り返すよう指示しよう。ドラゴンに校門を守らせることを考えてはどうかね?」
「ハグリッドが喜ぶことじゃろう」
 ダンブルドアは子どもたちをチラッと見て笑いかけた。二人も出ていくと、マダム・ポンフリーが入り口に飛んでいき、ふたたび鍵をかけた。怒ったようにひとりでぶつぶつとつぶやきながら、マダムは事務所へと引き返して行った。
 カナが「くしゅん!」とくしゃみしたとき、いちばん奥のベッドから、呻き声が聞こえた。ロンが目を覚ましたようだ。上体を起こして、頭を掻きながら、周りを見回している。
「ど、どうなってるの?」ロンはまだ頭が回らないような状態で聞いた。「僕たちどうしてここにいるの? ブラックはどこだい? ルーピンは? 何があったの?」
「さて、誰が説明する?」
 カナが笑いながらそう言うと、ハリーもハーマイオニーも嬉しそうに、でも黙ってチョコレートをかじった。



 カナたちは翌日の昼には退院になった。けれど、城の中はほとんど空っぽだった。みんな、試験が終わって、今年度最後のホグズミード行きを楽しんでいると言うわけだ。
 退院したその足で、カナは三人と別れ、リーマスの部屋を訪ねた。扉をノックすると、しばらく間があって、やっと扉が開いた。リーマスが――カナがずっと知っているリーマスの顔が、じわっと汗をかいて、そこに立って、ドアを開けてくれた。
「ああ――カナ」
 リーマスはすこし落ち込んだように言った。
「入ってもいい?」カナが聞くと、無言で頷いてくれた。
 そして、驚いた。もともと殺風景だった部屋が、すっかり片付けられていた。ふるぼけたティーセットが仕舞われていた戸棚も空っぽだったし、中身の入っていない洋服箪笥は開け放たれていた。授業で使ったグリンデローの水槽も、今や空っぽになっていた。床にはくたびれたトランクが開いてあって、そっちのほうは中身がいっぱいになっていた。
「何してるの?」
 カナが振り返って聞くと、リーマスは頬を掻いた。
「辞めるんだ」
 ぽかんと口を開いたまま、カナは言葉を返すことができなかった。それをどう捉えたのか――リーマスは目を逸らした。
「今朝の朝食の席で、その、セブルスがついうっかり・・・・・・生徒に話してしまったんだ。わたしが人狼ウェアウルフで、そのうえ昨晩は野放し状態だったと」
「なんで、それだけのことで――」
「それだけでじゅうぶんな理由だ。カナ、思い出して――わたしは昨夜、きみを傷つけようとしただろう?」
 覚えている。もちろん。
「怖かっただろう」
 怖かった。リーマスに言葉が届かなかったのが怖かった。カナは言い返せなかったけれど、リーマスは続けた。
「わたしは薬を飲むのも忘れ、ここで働くうえでのダンブルドアとの約束を守れなかった。そのうえ、彼の大切な生徒を襲った――言っただろう。人狼が教職を許されるはずがないんだ。生徒はわたしを怖がるだろうし、明日には、親たちから講義のふくろう便が大量に届くだろう」
「い、いやだよ」
 カナは涙を堪えながら言った。
「リーマスがいい・・・・・・ぼくだけじゃない。ハリーもハーマイオニーもロンも、『防衛術』の先生はリーマスが一番いいって、そう思ってる。他にも・・・・・・」
「カナ」リーマスは諭すように穏やかに言った。「いつか言っただろう。嫌でも、現実を受け入れなければいけない」
「そんなの――」カナは頬に伝う涙を、ぐっと拭った。「今までうまくやってたじゃない。たった一回、薬を飲み忘れただけなのに。これからもそうしたらいい――」
 リーマスは首を左右に振った。
「カナ。きみがわたしをかばってくれて、わたしは救われている」リーマスはしゃがんで、カナの顔を覗き込んだ。「わたしはきみに何度も救われている」
「でたらめを言わないで」
「いいや。本当のことだ」ためらいながら、リーマスはカナの手をとった。「血のつながりはなくとも、きみの――きみたちの家族になれてしあわせだった」
 カナは鼻をすすった。
「もうこれで最後だ。だから――」
「最後って、なに。どういうこと」
 あきらめたような表情で、リーマスはカナを見上げた。
「もうきみたち親子と関わるのはやめにする。ウン、これっきりだ――わたしはきみを襲った。シリウスがいなければ、われを忘れて、きみを噛むところだった。わたしはもうきみの親代わりではいられないだろう。エリアも許してはくれないだろう――」
「だ、だめだよ」カナはふるえる手でリーマスにすがった。「そんなの、ぼくは認めない」
「カナ――」
「おかあさんが許さなくたって、ぼくはリーマスのことが好きだし、まだ家族だと思ってる――勝手にぼくのそばからいなくならないで。ねえ。お願い――」
「満月の夜になれば、きみの考えも変わるだろう」
 カナは思いっきり、リーマスを押し倒した。不意を突かれたリーマスは受け身を取る間もなくあっさりと床に倒れ、そして、その胸の上には黒猫が乗っていた。前脚を折りたたんで座り込み、尻尾がバシバシと何度もリーマスのローブを叩いた。
「――まったく」
 リーマスは身を起こしながら、脇腹に手を差し込んで猫を持ち上げた。猫は傷跡だらけの手をがぶりと噛んで、ウーと唸った。
「懲りないね、ほんとうに――きみも、エリアもだ」
 リーマスは、目尻をきらりと輝かせていた。
 その時、部屋の扉がノックされた。
「ルーピン先生!」
 ハリーが飛び込んできた。リーマスは猫を下ろした。カナはなんとなく、猫の姿のまま床をうろうろと歩き、机の上に飛び乗った。
 ハリーはちらりと黒猫を見て、そしてリーマスをまっすぐ見た。
「先生はいままでで最高の『闇の魔術に対する防衛術』の先生です。行かないでください」
 カナは「ほらね」と言わんばかりに目を細くしてリーマスを見た。尻尾がぱたぱたと机を叩いていると、リーマスが歩み寄ってきて、大きなぼこぼこした手がカナの頭を撫でた。
「ハリー。校長先生が今朝話してくれたのだけれど・・・・・・きみは昨夜、ずいぶん多くの命を救ったそうだね」リーマスは立ち尽くしているハリーを見た。「わたしに誇れることがあるとすれば、それは、きみがそれほど多くを学んでくれたということだ。きみの守護霊パトローナスのことを話してくれないか」
「どうしてそれをご存知なんですか?」
「それ以外、吸魂鬼ディメンターを追い払うものがあるかい?」
 ハリーは話した。銀色の大きな角の牡鹿が現れたこと、そして、それを父親だと直感で感じたこと――それを聞いて、リーマスは微笑んだ。
「ン、察しがいいな。きみのお父さんはいつも牡鹿に変身した――だからわたしたちは彼をプロングス枝角と呼んでいたんだよ」
 リーマスは引き出しから何かを取り出し、ハリーに向き直った。
「『叫びの屋敷』に忘れていたものだ」差し出した手には「透明マント」が握られていた。そして、すこしためらってから、紙切れ――「忍びの地図」も差し出した。
「わたしはもうきみの先生ではないから、これをきみに返しても後ろめたい気持ちはない。わたしには必要ないものだし、きみたちならうまい使い道を見つけるだろう」
「ムーニー、ワームテール、パッドフット、プロングスが僕を学校から誘い出したいと思うだろうって、先生はおっしゃいました・・・・・・おもしろがってそうするだろうって」
「ああ。ジェームズだったら、自分の息子がホグワーツの秘密の通路をひとつも知らずに過ごしたなんてことになったら、大いに失望しただろう」
 微笑んでから、リーマスはじっとハリーを見つめた。
「ハリー。あらためて言うけれど、きみには感謝をしてもしきれない。きみは――ジェームズがわたしを救ってくれたように、きみはわたしの家族を救ってくれた」
 リーマスの鳶色の目が、机の上で体を横たえている黒猫に向かった。ハリーもちらりと視線を寄越した。
「シリウスがきみの後見人だってことは聞いたかい? きみにとって彼がそうであるように――わたしはカナたちの後見人なんだ。つまり――法的に、もう一人の父親、ということなんだ」
「・・・・・・知らなかった」
 カナの声が突然したので、ふたりとももう一度顔を上げた。カナは人の身に戻って、リーマスに詰め寄った。
「リーマスは、ぼくたちの後見人だなんて一度も教えてくれなかった!」
「ありゃ――そうだったかな?」
 リーマスは申し訳なさそうに頬を掻いた。ほんとうに、うっかり言いそびれていただけなのかもしれない。
 カナが喚いてやろうと息を深く吸った時、ふたたびドアがノックされた。
 ダンブルドアだった。カナやハリーがいるのにも驚いた様子はなかった。
「リーマス。門のところに馬車が来ておる」
「校長先生、ありがとうございます」
 リーマスはトランクを閉じて、持ち上げた。
「それじゃ――さよなら。ハリー、カナ」リーマスは微笑んだ。「きみたちの先生になれてうれしかったよ。またいつかきっと会える。校長先生、お見送りは結構です。一人で大丈夫です・・・・・・」
 リーマスは早口で捲し立てた――カナはリーマスが取ろうとしたグリンデローの水槽をパッと持ち上げた。
「校長先生。ぼく、ルーピン先生を門のところまでお見送りしてもいいですか?」
「ああ――ルーピン先生さえよければの」
 リーマスは苦笑して頷いた。
「それではのう。さらばじゃ、リーマス」
 ダンブルドアは残念がっているように見えた。ふたりはかたい握手を交わし――部屋を出た。

 カナはリーマスの後ろに続いて階段を降りた。静かな城の中を、焦ったように歩くリーマスに追いつくのは大変だった。
 無言のまま玄関を出て外に出ると、陽光が水槽を照りつけてぎらぎらとまぶしかったし、生ぬるい風がふたりのローブをあおった。校庭を横切るさなか、カナはリーマスの背中を見ながら言った。
「ほんとにばかみたい」
 リーマスが振り返った。立ち止まって、カナのことを怪訝に見ていた。
「リーマス、どうして後見人だって教えてくれなかったの?」
「いや――知っていると思っていたんだ。まさかエリアが、そんなにも話していないとは思わなくてね」
「おかあさんは、なーんにも教えてくれないよ」
 カナは頬を膨らませた。
「まったく赤の他人だと思ってたから――どうしてリーマスはこんなに親切なんだろうって、いつか失望されて嫌われたら、もう会いに来てくれなくなるって、もう、ずっと、今日までそればっかり考えてた――ね? ばかみたいでしょ!」
「カナ。わたしだって同じだよ」リーマスは、こんどはゆっくり歩き出しながら、横に並んだカナに向かって言った。「いつ人狼だと気づかれて、怖がられるだろうって、そればかり考えたさ――わたしにはもう、きみと、エリアしかいないんだ。友人たちはみな旅立ってしまい、シリウスも今や身を隠してる」
「それじゃ、味方が増えたね」リーマスはカナを見た。「少なくとも、ハリー、ハーマイオニー、ロンは、リーマスが人狼だったとしても信じてくれてる。それに、ダンブルドアも」
「ああ・・・・・・慈悲深いお方だよ」
「リーマスは学校で一番人気の先生だったし」
「そんなはずがない。恥ずかしいからやめておくれ」
 校門が、馬車が近づいてきた。カナが一度大きくくしゃみをすると、リーマスが心配そうに振り返った。
「体を冷やしたんだろう。もう充分だよ。早く城に戻って、ゆっくり休むんだ」
「うん――」
 リーマスが御者に荷物を預け終えると、カナは両手を広げてハグを求めた。ふたりはしばらくきつく抱き合い、カナがもう一度くしゃみを飛ばしたことでようやく離れた。
「ごめん」
「いや、構わないよ」リーマスは苦笑した。
「ね、リーマス」
「ン、何だい?」
「ぼく、来年のホグズミードは禁止?」
 リーマスは一瞬ポカンとしたけれど、すぐに思い出したのか、「ああ」と頷きながら苦笑した。
「ハハ――さて、わたしがいつそんなことを言ったかな?」
 その返答に、カナはニッコリと笑った。
「また手紙を送ってもいい?」
「もちろんだ」リーマスはカナの頭を優しく撫でた。そして、愛おしげにカナの淡い空色の目を見つめた。「また会えるよ」
 馬車に乗り込み、走り出す窓に映る後ろ姿を、カナはじっと見送った――行ってしまった。リーマスは、ホグワーツを出て行った。寂しかったし、悔しかったけれど。それ以上に、カナの胸はたっぷりとあたたかいもので満たされていた。



 リーマスのいないホグワーツでの日々は足早に過ぎ去っていった。彼の縁者であるカナはしばらくは他の生徒の冷たい視線を受けることになったけれど、そんなのはすこしも気にならなかった。それに、あの夜――シリウス・ブラックとバックビークが逃亡した夜に本当のところはなにが起こっていたのか、さまざまな憶測が飛び交ったけれど、真相に迫る説はひとつも出なかった。なぜならスリザリン生はスネイプ先生の主張を信じたし――そもそも、ハーマイオニーの「逆転時計」の存在なんて誰も知らないのだから、当然なのだけれど。
「それじゃ、あんたの変身の腕を見せてもらおうじゃないの」
 カナは口の堅いガートにだけは、ペティグリューがアニメーガスでロンのペットとして過ごしていたこと、シリウス・ブラックは殺人犯ではなく、ペティグリューがヴォルデモートの部下だったこと、リーマスが人狼としておかあさんの援助を受けていたことなどを話した。その流れで、猫に変身したことを明かすと、ガートは目を輝かせた。
 カナはベンチから立ち上がりながら、猫に姿を変えた。ガートは息をのみ、カナの周りをぐるぐると回りながら観察した。
「すごい――どこからどう見ても猫!」
 ガートはカナを抱き上げた。ぱっくりと色が分かれている額の柄を、細い指先がなぞった。
「へんな柄!――うーん、あんたをペットにしたなら、なんて名前をつけようかなあ。パッチェリーつぎはぎちゃんなんてどう?」
 ガートはくすくす笑った。カナは文句を言いながら、身をよじって飛び降りた。
「ごめんってば――それにしても、こんなに早くやり遂げるなんてね。ちゃんとあの手順は正しかったんだ、安心した。あたしもはやく変身したいよ」
 ベンチに座り、うずうずとガートが足を揺らした。
「来年はどうする? カナ、なにかやりたいこととかある?」
「うーん・・・・・・」
 カナも変身をといて、ガートの隣に座って考えた。なにか習得したい魔法があるわけでもないけれど、困っていることといえば――
「普通に、勉強を教えてもらえないかな?『マグル学』とか――」
 ガートが吹き出した。
「いいよ――明日の成績発表が楽しみだね」

 試験の結果が発表された。カナは、いちおう、今年度も合格となっていた。「マグル学」や「天文学」はそれはひどい成績だったけれど、他の得意科目のおかげでなんとかカバーできていた。
 同級生のみんなも無事試験を合格していた。パーシーはN.E.W.Tいもりでトップクラスの成績を残したし、フレッドとジョージはO.W.Lふくろうをすれすれの点数で突破していた。カナは、双子はわざとギリギリ合格点を狙ったのではないかと思った――だって、結果を見てとても満足そうにしていたから。
 寮対抗杯はグリフィンドールのものとなった。おもにクィディッチ・トーナメントの目覚ましい成績のおかげだ。これで三年連続で寮杯を獲得したことになる。学期末の宴会は真紅と金色のグリフィンドールカラーで飾られ、大いに盛り上がった――



「私、『マグル学』をやめることにしたわ」
 そんなこんなで、ホグワーツ特急の中だ。ハーマイオニーのビッグニュースに「えーっ!」と叫んでカナが身を乗り出した。
「そんなぁ」カナはがっくりと肩を落とした。成績のよいハーマイオニーが同じ授業を受けないとなると、頼れる人物が減ってしまう――それが心許なかった。
「また来年も、今年みたいになるのは耐えられないの。あの『逆転時計タイムターナー』、あれ、私、気が狂いそうだったわ。だからマクゴナガル先生に返したの。『マグル学』と『占い術』を落とせば、普通の時間割になるから」
「『数秘術』って楽しい?」
「ええ、とっても!」カナの問いかけに、ハーマイオニーがにこりと微笑んだ。
「君が僕たちにもそのことを秘密にしてたなんて、いまだに信じられないよ」ロンが膨れた。「僕たち、君の友達じゃないか」
「そういう約束だったのよ」
 カナは双子の試作品の「びりびりヌガー」を口に放り、やっぱりピリッともしないな、と思いながらしれっとそれを全員に回した。
 カナが差し出した手に気づくまで、ハリーは憂鬱そうに窓の外を見ていた。ホグワーツ城はもうすっかり見えなくなっていた。
「ねえ、ハリー、元気を出して!」ハーマイオニーが寂しそうに言った。
「僕は大丈夫だよ。休暇のことを考えてただけさ――イタッ!
 ハリーは口に放り込んだばかりのヌガーをすぐさま吐き出した。カナがクスクス笑っていると、ロンもカナをにらんだ。
「おい、これ――いたずらヌガーじゃないか! なんでカナが配ってるんだよ!」
「びっくりしたでしょ?」
「まったく、双子みたいなことするなよ・・・・・・」
 そう言いながらも、ロンはヌガーを口に入れた。「ひふぁあ、ふぁふあっはうは舌が無くなっちゃった!」と、もごもご叫び、口を大きく開けてみんなに見せた。ロンの口はぽーんと空洞になったように見えたけれど、若葉の新芽くらいの小さな小さな舌が残っている。
 カナがくすくす笑うそばで、ハーマイオニーが杖を持ち、「フィニート呪文終了」でロンの舌を元に戻した。
「おかしなヌガーだってわかったうえで、どうして食べちゃうのかしら?」
 ハーマイオニーはあきれたように、舌をさわってたしかめるロンの姿を見ていた。
「ちょっとピリッとするだけだと思うだろ――」
 ロンは喉を鳴らし、ハリーに向き直った。
「そう、ハリー、休暇といえば――今度こそ僕の家に泊まりにきておくれよ。パパとママに話しておく。そして話電fellytoneする。使い方はもうわかったから――」
「ロン、電話telephoneよ」
 ハーマイオニーがたしなめた。
「まったく、あなたこそ来年『マグル学』を受けるべきだわ・・・・・・」
 ロンは知らんぷりで話を続けた。
「今年の夏はクィディッチ・ワールドカップだぜ! どうだい、ハリー? 泊まりにおいでよ。一緒に観に行こう! パパのおかげで、たいてい役所からチケットが手に入るんだ」
 ロンの誘いで、ハリーは初めて顔を輝かせた。
「そりゃ、ダーズリーたちは喜んで僕を追い出すだろうね」
 おしゃべりや「爆発ゲーム」に興じていると、車内販売の魔女がワゴンを引いてやってきた。カナたちはランチを買い、デザートも選んだ――ただし、全員チョコレートは遠慮した。マダム・ポンフリーにいやと言うほど食べさせられたからだ。

「カナは今年の夏休みもロンの家なの?」
「うん、そうだと思う。連絡はないけど――」
 ふと、ハーマイオニーがカナではなく、カナの向こう、つまり窓を見つめていることに気がついた。カナも振り返って窓を見た。
 小さい灰色のシルエットが、窓の向こうでぴょんぴょんと見え隠れしていた。
「ちっちゃいフクロウだ」
 その体には大きすぎる手紙を咥え、汽車に追いつこうと風でフラフラ煽られながら、懸命に飛んでいた。カナが窓を開けると、ハリーが手を伸ばし、スニッチを掴むようにそっと握った。
 小さな小さなフクロウは、ハリーの膝の上に郵便を落とすと、役目を終えてコンパートメントのなかを飛び回った。ヘドウィグがその隣で、気に入らない様子で嘴をカチカチ鳴らした。席に寝そべっていたクルックシャンクスも姿勢を正し、黄色い目でフクロウを追っていた。その視線に気づいたロンがサッとフクロウを掴んで、手の中に閉じ込めた。
 くちゅん、とカナがくしゃみすると、ハーマイオニーが「座って。カナ、さいきん風邪ぎみなんだから」と、窓を閉めた。
「ハリー宛の手紙?」
「ああ――」ハリーは乱暴に封を破り、手紙を広げ――叫んだ。「シリウスからだ!」
えーっ!」みんな興奮して叫んだ。「読んで!」

「ハリー、元気にしているか?
 君がおじ、おばの元に着く前にこの手紙が届くといいんだが。マグルのおじさんたちがふくろう便に慣れているとは思えないからな。
 バックビークも俺も無事隠れている。この手紙が別の人物の手に渡ることも考え、どこにいるかは伏せておく。このフクロウが信頼できるかどうか、少し心配なところがあるが、しかし、これ以上のは見つからなかったし、こいつは熱心にこの仕事をやりたがったんだ。
 吸魂鬼ディメンターがまだ俺を探していると思うが、ここにいればやつらは俺を見つけることはできないだろう。もうすぐ何人かのマグルに俺の姿を目撃させるつもりだ。ホグワーツから遠く離れたところでな。そうすれば城の警戒は解かれるだろう。
 短い間しか君と話すことができなかったから、ついぞ話す機会がなかったが、ファイアボルトを贈ったのは俺だ――」

「ほら!」ハーマイオニーがふんぞり返った。「ね? 私の言った通りでしょ!」
「ああ、だけど、呪いなんかかかってなかったじゃないか!」ロンが噛み付いたけれど、「アイタッ!」と手が飛び上がった。ちびフクロウがうれしそうにホーホー鳴いて、ロンの指をかじったようだ。悪意は無いようだけれど。

「――クルックシャンクスが俺の代わりに、注文を郵便局に届けてくれた。注文にはハリーの名前を使ったが、金貨はグリンゴッツの711番金庫――俺のものだが――そこから引き出すよう業者に指示した。きみの名付け親から、十三回分まとめての誕生日プレゼントだと思ってくれ。
 いつか俺の手助けが必要になったら、手紙を送ってくれ。君のフクロウが俺を見つけるだろう。また近いうちに手紙を書くよ。シリウス」

 ハリーは封筒の中からもう一枚の羊皮紙を取り出した。上気したハリーの顔が、さらにパッと輝いた。
「シリウスがホグズミード行きの許可をくれた!」
 これにはみんな、顔を合わせてにっこり笑った。これでハリーはこそこそと規則違反をしなくても良い。堂々と休暇を楽しむことができる。
「待って、追伸がある――」

「よかったら、君の友人のロンがこのフクロウを飼ってくれ。ネズミがいなくなったのは俺のせいだし」

 ロンが目を丸くした。ちびフクロウはまだ興奮してホーホー鳴いている。
「こいつを飼うって?」
 ロンはしばらく迷って、じっとフクロウを観察した。それから、ロンはクルックシャンクスにフクロウを突き出した――みんなが驚いていると、ロンが言った。
「どう思う?――まちがいなくフクロウかい?」
 クルックシャンクスはごろごろと喉を鳴らした。
「僕にはそれでじゅうぶんな答えさ」ロンはうれしそうに言った。「こいつは僕のものだ」



 キングス・クロス駅についた。コンパートメントを出た時、フレッドがカナを迎えにきて、荷物を持ってくれた。
「今年の夏は楽しめるぞ。なんてったって――」
「クィディッチ・ワールドカップでしょ!」
 カナが言うと、フレッドは意外そうに眉を跳ね上げた。
「さてはロンのやつに聞いたな? わが家全員で行くぞ。もちろん、ハリーやハーマイオニーも誘おう――」
 カナは車外に足を踏み出した。生徒がごった返しながら九と四分の三番線の柵を通り抜け、おのおのが家族を見つけて駆け出していく。フレッドはカナの手を引っ張りながら、モリーおばさんを見つけた――そして、カナは思わず足を止めた。
 フレッドが不思議そうに振り返った。
「どうした?」
「あの人――」
 カナは、モリーおばさんを――おばさんの隣に立っている人物を指さした。
 フレッドは、握ったカナの手がわずかに震えていることに気がついた。しっかり握り返して、「行こう」と引っ張った。
 おかあさんが――線の細い小柄な女性が、伏目でモリーおばさんの隣に立っていた。おかあさん、だと思う。カナの記憶と比べて、驚くほど顔色が良い。頬には血の色が差しているし、唇は乾いていないし、地面に垂れそうだった髪も肩の上で切り揃えられている。目の下には、色濃いくま・・がまだ残ってはいたけれど――
「フレッドちゃん、カナちゃん、おかえりなさい」
 モリーおばさんのやわらかな声がした。フレッドがカナの手を離して、おばさんのハグを受けた。順番に、カナも抱きしめられた。
「エリア。カナが目の前にいるわ」
 おばさんはカナの肩を抱きながら、おかあさんに話しかけた。
「ええ――この子がカナなのね」
 耳を疑うような、おかあさんのほがらかな声に、カナは肩をぴくりとはねさせた。そして、そろりと差し出された手に、そっと触れた。相変わらず、冷たい、古枝のような指だ。おかあさんはカナの温かい指先をきゅっと握り返した。
 焦点の合わない目を伏せて、おかあさんはやわらかな声で言った。
「こんにちは。あなたを出迎えに来たのよ。その・・・・・・私の娘なんですってね」
 愕然とした――カナだけじゃない。真横に立っていたフレッドも、後ろのロンでさえ、目を瞬かせ、口をあんぐり開いていた。モリーおばさん、アーサーおじさんも神妙な顔つきだった。おかあさんがカナに向かって放った言葉を、みんなが訝しんだ。
「この人、ほんとにお前の母さんか?」
「そうだよ・・・・・・」
 カナの肩に触れて、フレッドがそっとささやいた。
 モリーおばさんが一歩進み出て、おかあさんに向かって語りかけた。
「エリア。さっきも何度も話したことだけれど、カナはとっても良い子だったわ。何か困ったことがあれば、なんでも相談してちょうだい。それに、うちにだって遊びに来てほしいわ・・・・・・」
「ありがとう、モリー。私・・・・・・そうね、何もわからないから」
 おかあさんは、こんなふうに微笑むことができたのか。と、カナは呆然とふたりを眺めた。
「カナ、私を信用していないわね?」
 カナはピクリと肩を跳ねた。図星だった。なんと返答したものかと考えていると、おかあさんがしゃがみこんだ。
「あなたの目は何色なの?」
「青だよ。薄い青・・・・・・」
「髪は?」枝のような手がカナの頭に触れた。
「真っ黒・・・・・・」
 おかあさんの冷たい手がカナの頬に降りてきて、触れた。
「あたたかいわ」
 はっきり言って、カナは困惑しっぱなしだった。人の行き交う駅のど真ん中で、立ち止まって、いったい何をしているんだろうと思ってしまった。その時、子どもたちを全員集めたモリーおばさんが言った。
「それじゃあ、今年の夏は、カナは家に帰るのね。寂しいけれど、また会いましょうね」
「ええ。モリー、アーサー、ほんとうにありがとう・・・・・・」
「気にしないでちょうだい。あなたの頼みなら、いつでも協力するわ」
「カナ。手紙を送ってくれ」フレッドが肩を叩いた。カナは頷いた。
 赤毛の家族が、ぞろぞろと駅を出て行った。見えなくなるまで、カナはその後ろ姿を目で追った――
「私たちも行きましょう」
 おかあさんが立ち上がった。カナの手をやんわりと握る。
「この手を握っているのは、カナ、まちがいなくあなたよね?」
「うん」カナはまだ信じられないような声色だ。
「もうすこし目が見えていたと思っていたのだけれど、もう光も感じないの。よければ助けてくれる?」
「うん・・・・・・」
 カナはおかあさんの手をひいて、ぎこちなく歩き出した。駅を出て、ロンドンの街中に出た。
「『漏れ鍋』に行くわ」
 カナは言われた通りの目印をおかあさんに伝え、なんとか、パブ「漏れ鍋」にたどり着くことができた。すると、おかあさんはよどみなく歩き、テーブルを通り抜け、壁に囲まれた小さな中庭に出た。
 おかあさんが手で触れ、壁のレンガのひとつを杖で三度叩くと、壁が動き出し――巨大なアーチとなった。その向こうに、一度だけ行ったことがあるダイアゴン横丁が広がっている。
 
 カナとおかあさんは、手を握ったまま街中を歩いた。そこそこ多くの魔法使いや魔女が行き交うのに、おかあさんは不思議とぶつかることなく滑らかに歩いていく。
「食材と魔法薬の材料を買い足しておかないといけないの。それに銀行を覗いて行くわ。少しだけ寄り道させてちょうだい」
「うん――」
 こうしていると、ふたりはただの、普通の親子のように見えるだろう。ふたりは荷物を増やしながら、夕暮れになりつつあるダイアゴン横丁を歩いた――奇妙だった。奇妙すぎて、おかあさんがなんだかまったくの別人のようにしか思えなくて――カナはぎこちなく、しっかり手を握る目の前の魔女の言うことに、ただ従っていた。



20240816


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