ぐるぐると目が回る――「付き添い姿現し」も、もう四度目だ。しっかりと地面に足がついている感覚を確かめて、しばらくしてから、カナは目を開けた。荒涼とした岩場と、鬱蒼としげる木々、激しく噴き上げる風が、同時にカナの目の前に現れた。振り返ると、切り立った地面のずっと下には森が広がり、巨大な川が横たわっているのが、夕闇の中でも見えた――見覚えのない景色だ。
 おかあさんは、カナに紙切れを見せた。「エリア・エリオットは、コーンウォールのアリアナの崖の、中腹の家に住んでいる」と、かすれた字で書かれていた。カナが読み終えると、紙切れはあっという間に燃えあがった。
「いまのは――?」顔を上げた時、カナは目を丸くした。
 目の前の岩場と茂みだけがあったはずの場所に、大きな白い壁の家が鎮座していた。窓に砂が溜まり、土台の石壁が苔むしている以外は、ガートの住んでいる別荘に負けないくらい立派な造りのお屋敷に見えた。
「さあ、これでいいわ」
 おかあさんが歩き出したけれど、カナは動かなかった。手を繋いだままの二人はそこで立ち止まり、おかあさんが振り返った。
「おかあさん、ここはぼくの家じゃないよ」
「でも、私の家なの」おかあさんは有無を許さず言い放った。「だからあなたの家でもある。好きに出入りしていいのよ」
 おかあさんはカナの手をほどき、よどみなく段差をのぼり、飾り窓のついた玄関扉を開けた。カラン、コロン――と白木の鐘の音が軽やかに鳴るのが聞こえた。
 しぶしぶカナはついていった――そして、玄関をくぐった時、また立ち尽くすはめになった。
 言い合いが聞こえる――男の声だ。聞き覚えがある。いや、聞き覚えがありすぎる――二階からドシンドシンと足音が響いて聞こえてくる。高い天井から吊り下げられた花の形のランプが、ゆらゆらと揺れていた。おかあさんはちっとも気にならない様子でまっすぐ廊下を進み、買い込んだ荷物を杖で呼び寄せて運んだ。
 足音が大きくなる。階段から荒っぽい男の声が響いた。
エリア! お前、俺のジーンズを勝手に洗いやがったな――」
 男が、玄関に立ち尽くすカナを見つけて、固まった。カナも汗をたらりと流して、呆然と見つめ返した――ひと目では誰だかわからなかったけれど、この擦れた低い声を忘れるはずもない――シリウス・ブラックだ。髪を切り、髭を剃り、新品のシャツを着て身綺麗にして、すこし頬がふっくらとしているように見えた。
「そうか――今日から夏休みだったな。怪我は良くなったか?」
 カナはぱちぱちと瞬きしながら、ぎこちなくうなずいた。シリウスは片頬を持ち上げてカナに笑いかけたのち、ポケットに手を突っ込んだまま、頭をガシガシと掻いて、黒い髪をかきあげた。その乱雑な動作がひどく様になっているものだから、カナはさらに呆然とした。「とうとう耳まで悪くなったか――エリア!」と呼びながら、シリウスは勝手知ったる様子で廊下を歩いて行った。カナがその後ろ姿を目で追っていると、もうひとつ足音が響いてきた。
「おや――カナ。おかえり」
 カナは今度こそ開いた口が塞がらなくなった。
「リーマス!」
 ようやくトランクと鞄をその場に置き、カナは白木の床を踏んだ。エプロンを着て頭に三角巾を巻き付けたリーマスは、にっこりと笑った。
「おっと! いまわたしは掃除の途中なんだ――埃っぽいから気をつけて」片手に持った毛叩きを持ち上げ、カナに見せた。「なぜわたしたちがこの家に集まっているのか、不思議に思っているね?」
 カナはこくりと頷いた。
「ン、端的に言えば、わたしたちは匿われているんだ。エリアは話をわかってくれてね」
「それじゃ、この家は――」
 真っ白な壁、真っ白な家具、真っ白な床を見回しながら、カナはつぶやいた。
「ここはエリアの生家だよ」
「『がれきの城』はどうしたの?」
「あそこは――」
 リーマスの言葉は続かなかった。廊下の向こうからシリウスの怒声が響いた。
「なんて騒がしいんだ」リーマスはため息をついて、毛叩きを手近なテーブルに置き、三角巾を脱ぎながら廊下を進んだ。カナもついていく。

 廊下の先はリビングになっていた。向かいの壁、アーチの向こうにキッチンとダイニングが見え、そこでおかあさんが食材を選り分けている。
「シリウス、少し静かにしないか。カナがびっくりしているだろう」リーマスが言った。
「こいつが俺の服を台無しにしやがったんだ!」
 シリウスはおかあさんを指差した。カナは不思議に思って声を出した。
「どうして向こうの部屋に入らないの?」
「入れないんだ――」シリウスが歯噛みした。「俺を追い出しやがった」
「シリウス」リーマスは言い聞かせるような口調だった。「大切な物ならきちんと片付けておかなかったきみにも非があるだろう。まったく、子どもたちにもこんなことを言ったことはないぞ――」
 シリウスは深くため息をつき、ソファーに勢いよく身を沈めた。長い足を振り上げて組み、頭を後ろに倒してうなだれた。
「三十ガリオンだぞ・・・・・・」
 カナとリーマスは顔を見合わせた。
「シリウスってお金持ちなんだね」カナがぽそっと言うと、後ろにおかあさんが歩み寄ってきていた。
「ハリーのためにお金を残すって言っていたじゃない」おかあさんは杖を振って、カウンターにティーセットを並べた。真珠色の装飾がされたターコイズグリーンの揃いのポットとカップは、新品に見える。
「残してるさ――あの子が困らないくらいには」シリウスがおかあさんを睨め付けながらうめいた。「そういうお前はどうなんだ?」
「ええ、残してあったわ。この子が困らないくらいには」
 今日、ダイアゴン横丁でおかあさんがグリンゴッツ銀行にも立ち寄っていたのをカナは思い出した。金庫の中にまでは、カナは立ち入らなかったけれど。

 全員がソファーに座った。シリウスの隣におかあさんが、その向かいにカナとリーマスが座った。しばらく、こわばった空気のまま静かに茶をすする時間が続いた――そして、ようやくリーマスが沈黙を破った。
「ン――カナ。何か聞きたいことがあるんじゃないか?」
 カナは顔を上げて、おかあさんとシリウスを見比べた。聞きたいことはもちろんある――でも、たくさんありすぎて、何から聞けばいいのかわからなかった。こういうとき、カナは自分がフレッドやジョージみたいに機転が効いたり、ハーマイオニーみたいに考えていることをすんなり言葉にしたり、といったことができないことを苦しく思う。おかあさんは目を伏せたままティーカップを置いた。シリウスはふてくされたように顔を逸らしている。
「リーマスは、むかしからぼくたちに良くしてくれるから、知ってるけど・・・・・・その、おかあさんとシリウスは、ふたりはどういう関係なの?」
 ふたたび沈黙が落ちた。おかあさんが肩に垂れた髪を耳にかけるのを、シリウスがちらりと横目で見た。カナは困って、リーマスに視線を送った。コホン、と咳払いが返ってきた。
「ホグワーツでは、わたしたちの一学年下にいたのがエリアだったね」
 リーマスが助け舟を出した。
「・・・・・・俺たちがグリフィンドール。エリアはスリザリンだった」シリウスが無愛想に言った。「こいつは昔からいけ好かないやつだった」
「初対面の上級生が意地悪だったからかしらね。どこかのグリフィンドール生のおふたりが」
おふたり・・・・?」
 カナが繰り返すと、おかあさんがフッと息を吐いた。
「カナ、ハリーの父親よ。ジェームズ・ポッターとシリウス・ブラック。この二人組の周りにはいろんな理由でいつも人が集まっていたけれど、私はそれを避けていたの」
 シリウスがおかあさんをにらみつけ、また沈黙となった。カナはだんだんと眉間にしわを寄せながら、二人を見比べた。
「ハリーのおとうさんが?」
「ジェームズはこの国でいちばん愉快な男だったんだ」
「ええ。もちろん不愉快さも持ち合わせていたわ」
「ふたりとも、そのくらいにしないか」
 シリウスとおかあさんが冷たく言い合うのを、リーマスがやんわりと止めた。
「・・・・・・そう、とにかく、わたしたちは折り合いが悪かったんだ。カナ、わかってくれるね?」
 グリフィンドールとスリザリンのあいだに大きな溝が横たわっているのは、いつの世代でも同じらしい。カナは頷いた。
「それが、どうやって友だちになったの?」
 カナが問いかけると、おかあさんはすこしだけ目を開き、シリウスはほとんど寝そべっていた体を起こした。
「あー・・・・・・エリアは」はっきりしない様子で、シリウスは髪を払った。「きっかけはなんだったか――」
「私はホグワーツを退学したわ」おかあさんはシリウスの言葉をさえぎるように言った。「七年生になる前にね。あの頃、そういう生徒は多かったわ。ホグワーツも安全とはいえなかった――私には両親もいなかったから、行き場がなかったのを、ダンブルドアが拾ってくださったの」
「卒業生のリストに、おかあさんの名前がなかったから、へんだと思ってたんだ」
 カナのつぶやきに、おかあさんは静かに頷いた。
「そういう経緯いきさつで、ダンブルドアの仕事を手伝うことになったから、私ひとりで住んでいるこの広い家を、みんなに使ってもらうことになったの。そうして、私はスリザリン寮の外の人たち――カナの知っている人で言えば、この人たちや、モリー、アーサー、それに、ハリーの両親ね――ジェームズやリリーと、深く関わるようになったわ」
「仕事って?」
「闇の陣営との対立だ」シリウスは声を低くした。「俺ははじめ、エリアを信用しちゃいなかった。なんて言ったって、こいつはスリザリンだったし――何より、俺の弟と関わりがあった――あいつは死喰い人デス・イーターになった」
死喰い人デス・イーター?」
「ヴォルデモートの忠実なる部下さ」シリウスは苛立たしそうに言った。「カナ。ピーターみたいなやつのことだ。覚えてるだろ?」
「うん・・・・・・」
「・・・・・・ピーターは優しい人だった。残念だわ――当時のスリザリンは純血主義が過激化していて、闇の帝王の崇拝者ばかりになったわ。それに耐えられなかった。私とシリウスたちはもともと険悪だったのだけれど――ここで暮らすうちに、しだいに信頼して、心を許すようになった」
 おかあさんは音も立てずに紅茶を口にした。
「カナ。これでじゅうぶんかしら?」
「うん――」カナはもじもじと指先をいじりながら、おかあさんを見つめた。「ねえ、それじゃあ、ぼくたちはこれまで、どうしてこの家じゃなくて『がれきの城』で暮らしていたの?」
 視線がおかあさんに集まった。
「そう。そこから記憶がないのよ」
 ひどくあっけらかんとした口調だった。
記憶がない・・・・・って?」
 目を開いたカナが、繰り返し聞いた。途端、リビングが奇妙な静けさに包まれた。
「そうね、十五年――リリーの結婚式のことは覚えているわ。十五年後に突然放り出されたみたいな気分なの」
 こんどは重々しい沈黙となった。カナはのどがカラカラに乾いていたし、頭もすこし重い――こくりと唾を飲み込む音が、やけに大きく響いたような気がした。
「お前は俺たちに黙って消えた」シリウスが静かに言った。「ある日突然――裏切ったのか、襲われたのか、俺たちには判断がつかなかった。忘れもしない――冬だった――十二月だ――」
「ぼくが生まれる半年前に、おかあさんはいなくなったって」消え入りそうな声でカナが言った。「ぼくたちが関係しているの?」
「わからないわ。そもそも私自身、子どもを産もうと思ったこと自体が不思議だもの――」
「レギュラスなんだろう」シリウスが声を低くした。そして、リビングが凍ったように静まり返る。「お前はあいつを見捨てられなかったんだ」
 何か言おうと開いた口で、そのままおかあさんは息を深く吸った。そして一度息を吐いてから、垂れた髪を耳にかけた。
「私、あれから彼とは一度も会っていないし、そんな気にもならないわ。どこにいるのかも、生きているのかもわからない――それに、信じ続けるなんて苦しくてたまらないことを、私にできるはずがないって、知っているでしょう」
「あいつは死んだ」
 おかあさんは初めて心を乱したようだった。肩がわずかに震えている。
「・・・・・・誰なの?」カナはこわごわと聞いた。
「俺の弟だ」吐き捨てるようにシリウスが言った。「それか、例のバーティー・クラウチ――あいつもアズカバンで死んだが――」
「やめてったら・・・・・・」
「シリウス、カナの前だ」
 全員が口をつぐみ、カナを見た。カナはそろりと大人たちを上目で見回し、最後に俯いたままのおかあさんを見やった。
「彼らは関係ない」見かねたように、リーマスがきっぱりと言った。「たしかに、エリアはグリズリー・グリーンの『がれきの城』に身を隠し、そしてそこで出産した――わたしとダンブルドアだけの秘密だった――しかし、彼女の本当の目的は――」
「――ふぁっくちゅん!
 カナの盛大なくしゃみが注目をあつめた。話を中断したリーマスが立ち上がり、杖を振って暖炉に火をつけた。
「カナ。まだ風邪がくすぶっているみたいだね?」
「ううん。大丈夫だから、話の続きを――」
「リーマス。カナを寝室に案内してあげて」おかあさんは落ち着きはらって言った。「話すことならいつでもできるわ。お薬を持ってくるから、少し横になっていて――」
 言いながら、おかあさんは立ち上がってキッチンの奥に消えていった。
「きみの風邪についてはエリアがいちばん詳しい」リーマスが朗らかに言った。「さあ、カナ。きみのお母さんの言うことに従おう」
「でも、おかあさんはぼくのことは覚えていないんでしょう」カナは立ち上がりながら呻いた。「それなのにどうして、ぼくの風邪薬を準備できるの――」
「エリアが――記憶をなくす前の彼女が、用意周到だったとしか言えないな。まるで、数年前からこうなることを知っていたみたいに、この家にはなんでも準備されているんだ」
 リーマスもあまり腑に落ちていないように、困った表情で微笑んだ。シリウスはうろんげにカナとリーマスを見上げていた。そして、カナは抱えられるように歩いてリビングを出た。

 白木の階段をのぼる。おかあさんはもともとここに一人で住んでいたようだけれど、ずいぶんとたくさん部屋があるように思える――二階の一室にカナは通された。大人用のベッドに、机、空の本棚とクローゼットが揃っていた。ベッドサイドに、古びたテーブルランプと小ぶりな空っぽの花瓶が置かれている。
「ン、この部屋がいちばん日当たりがいいんだ。じつは、ほとんどの部屋はまだ片付いていなくてね」
「どうしてリーマスが掃除を?」
「エリアに頼まれたからだ」あいまいに笑って、リーマスは頬をかいた。「その、しばらくここに滞在する条件として、この家を隅々まで使えるようにして欲しいとね。交換条件だ」
「リーマスがそこまでしなくても――」
「いいや。カナ。まだ身の振り方が定まっていないわたしには、身に余るほどありがたい話なんだ」
 リーマスはカナの荷物を、ベッドの足元に置いた。
「それに、いまのエリアは――なんだか目が離せないとは思わないか? これまで以上に、なにをしでかすかわからないというか」
「うん――その、正直、知らない人みたいに思うよ」つきつきと痛むこめかみをおさえながら、カナは皺ひとつないベッドに腰掛けた。「ねえ、おかあさんは昔はあんなふうによくしゃべる人だったの?」
 リーマスがすこし微笑んだ。
「ン、そうだね。きみとシオンが生まれる前のエリアは、あんな感じだった。弁が立ち、でも言葉足らずで・・・・・・強がりで、すこし神経質だった」
「それじゃ、ぼくらのせいで、おかあさんは――っくしゅん」
「さあ、カナ」リーマスはカナの話をさえぎった。「横になって。じきにエリアが薬を届けてくれる」
 カナは靴を脱ぎ、真新しいシーツに潜り込みながら、リーマスをじっと見つめた。
「時間ならたっぷりある。ひと夏――そしてこれからも。焦らなくても、いくらでもわかりあえる機会はある」
「これだけ聞かせて――」カナはシーツをたぐりながら、消え入りそうな声で言った。「おかあさんを、信じていいんだよね?」
 握りしめたこぶしに、そっと大きな手が重なる。
「カナ。それは、自分で決めるんだ」



 まぶたが赤くちらついて、カナは浅い眠りから引き上げられた。ベッドサイドのランプが灯ったんだろう。カナがうっすらとまぶたを開くと、おかあさんが机のそばに立っている、その後ろ姿が見えた。
 カーテンのない窓の向こうはもうすっかり夜が更けていて、星が浮かんでいる。カナはゆっくり起き上がった。
「カナ」布擦れの音で、おかあさんが気がついた。「喉が渇いていない?」
 差し出したカナの手をすり抜けて、おかあさんはゴブレットをベッドサイドへ置いた。頭の片隅で気が付いたように、カナは宙ぶらりんの手で、黙ってゴブレットを取った。
 おかあさんがカナの体調を気づかうなんて、へんてこだなあと思いながら、ぬるい水を喉に流し込んだ。
「あなたの特効薬・・・だけれど、ほんとうにこんなものを飲んで、あなたの症状はおさまるの?」
「うん――」カナはまだすこしぼうっとしたまま答えた。「ぼくが熱を出したとき、おかあさんがつくってくれた――」
 カナは大きなゴブレットを受け取った。中身はたっぷりと、どろどろの「風邪薬」で満たされている。カナはそれをためらいなく口にした。何度となく飲まされた、とても苦いあの薬の味そのままだ――何度かゴブレットを傾けて、中身が空になると、おかあさんがゴブレットを引き取った。
「慣れているみたいね」
「・・・・・・ぼく、ちっちゃい時から一年生の途中までは、よく風邪をひいてたよ。おかあさんがホグワーツまで来てくれて、治療してくれてからは、調子がよかった。それで、今年の六月ぐらいから、また風邪っぽくなったんだ」
「そう――ぶり返したとき、何かきっかけはあった? たとえば、そうね、月のものはきちんと来ている?」
 おかあさんはまるで学校医の先生みたいに事情聴取をはじめた。机の上で羽根ペンがひとりでに動き、メモを取っている。
「えーと、ぼく、まだ来てないんだ」カナはモジモジしながら言った。「それに、きっかけって言っても――わかんない」
「カナ、死にかけたことは?」
 一瞬、カナは呆気にとられた。それですっかり目が覚めた。おかあさんは平然と目を伏せている。そう――そうだ。いまのおかあさんはカナのことを何ひとつ知らないのだ。
「えっと・・・・・・一年生のとき、『死の呪文』を浴びた」
 おかあさんはすこしだけ息をのんだ。
「その、でも、呪文は不完全だった。昏睡しただけだったよ。数か月で目を覚ました――それから、二年生のとき・・・・・・」
 カナはすこしだけ、ためらってから言った。
「おかあさん、ヴォルデモートの幽霊みたいなやつに拐われそうになったって言ったら、信じる?」
「ずいぶん、平穏と程遠い学校生活を送っているみたいね」おかあさんは表情を変えずに言った。「モリーから、去年起こった『リドルの日記』騒動は聞いたわ――」
「うん。それで、そのときもおかあさんが看病してくれたみたい――でも、ぼくは眠ってたから、わからない。なにも教えてもらっていないし――おかあさんはこれまで、一度も、ぼくとまともに話そうともしなかった」
 カナはちらりとおかあさんを見た。あいかわらず、目を伏せたまま、何を考えているのかさっぱりわからないほど、微動だにしなかった。
「気難しい母親ね――それに、過去とはいえ、考えも思惑も、少しも理解できないなんて」
 ずいぶん他人ごとみたいに、おかあさんは言った。そして歩み寄り、ベッドのそばで膝をついた。
「カナ。あなたの特効薬なら、いつでも作ってあげられる。ただ、ひとつわかっていてほしいのだけれど・・・・・・これは風邪薬なんかじゃないの」
「・・・・・・じゃあ、なんなの?」
「闇市で非魔法使いスクイブに出回っている、魔力の増幅剤に似ているわ」
 開いた口が塞がらない――意味がわからなかった。
「どういうこと? ぼく、ほんとはスクイブで――魔女じゃないってこと?」
「でも、カナ。あなたはホグワーツの入学案内を受け取ったんでしょう。まちがいはないと思うけれど――それよりも、なぜこんなものを、それも風邪をひいた子どもに飲ませる必要があるのかが理解できない。これは魔力の通路を無理やり押し流すようなものよ。もちろん体に負担がかかるけれど――」
 おかあさんはつらつらと独り言のように説明を続けた。でもカナはちっとも理解できなくて、「おかあさん」と声をあげた。
「あの――どうして死にかけたことがあるかって、聞いたの?」
 まるでたった今思い出したかのように、おかあさんはパッと顔を上げた。
「この薬が特別なのは、もうひとつの作用が期待されるからなの――命をながらえさせるのよ」
 カナは何度もまばたきをするはめになった。おかあさんが言うことの、ひとつも理解できやしない。頭のずきずきが大きくなってきたような気さえする。
「普通、若くて健康な人間には必要ないはず。東洋では養命薬として扱われるみたいだけれど、でも、それにしてもなぜ? それに、この材料も――だめね。推測の域を出ないわ。十五年のうちに、私はいったい何を企んでいたのかしら――」
 カナはベッドから足を下ろした。なんだか頭がパンクしそうだし、付き合いきれないと思った――窮屈になったブーツの靴紐を結んでいると、おかあさんが顔を上げた。
「ただ、あなたが『死の呪文』から守られたのは、この薬のおかげかもしれないわね」
「そういえば――」カナは丈の合わなくなってきたローブの裾を引っ張りながら言った。「ぼく、保護呪文がかけられてるって、先生に教えてもらったことがあるよ。それがなんなのか、おかあさんは話してくれなかったけど――」
 おかあさんも立ち上がった。机の上のものがすべてふわりと浮いて、おかあさんの手の上に重なっていく。
「私はいったい、何をそんなに恐れていて――そして、カナ。あなたにはいったいどんな秘密が隠されているのかしら?」
 やせた相貌が宙に向かって、くすくすと微笑んだ――それはたしかにおかあさんだったのだけれど、朗らかな少女のようでもあった。おかあさんの笑う顔があまりにも見慣れないものだから、カナはつい見入ってしまった。
「・・・・・・もしかして、おもしろがってる?」
「そんなことはないわ。私は親として――あなたを守りたいと思ってる。信じてもらえないかもしれないけれど」
 カナは答えなかった。まだ、この人を信じて良いのかどうか、判断しあぐねていた。
 廊下に出たとき、おかあさんが立ち止まった。
「そう、ヒッポグリフが散歩から帰ってきてるわよ。あなたの友だちなんでしょう?」
 カナは目を輝かせた。そうだ。シリウスがいるのなら、彼もいるはずだ――処刑から命からがら逃れた、無邪気なヒッポグリフ――
「バックビークが!」

 カナは玄関から表へ駆け出た。すぐそばに備えられた、羽まみれのフクロウ小屋は空っぽだった。家の裏まで歩き回り、奥の木々のすきまや、茂みの中をそっと覗き込んだ。ランプを持ってくるべきだったかな、と思った。夏休みで魔法が使えないことがもどかしい。カナが引き返そうときびすを返したとき、がさがさと茂みの奥から物音――そして、蹄の足音がした。
 銀色の羽毛と鱗が、星あかりにも輝いて見えた――まちがいない。バックビークだ。
 カナは駆け寄りたくなる気持ちをぎゅっとおさえつけ、オレンジ色の目を見つめて頭を下げた。バックビークもすぐにお辞儀を返してくれた――カナはその大きな首すじに抱きついた。
「元気だった? ビーキー! ああ、ハグリッドにいつか教えてあげたい――きみがちゃんと生きているって」
 バックビークはカナのあたまに何度も嘴のまるい角を擦り付けて、親愛を示してくれた。


「カナ。まだ休んでいていいのに」
 リビングではリーマスが食器を磨いていた。カナが眠っているあいだに、もう夕食を済ませてしまったんだろう。
「ううん。昔よりもつらくはないよ。それより、お腹がすいたから」
「シリウスがスープを作ったんだ。温めてもらいなさい。彼ならまだキッチンにいるから」
 カナはアーチをくぐり、キッチンに顔を出す――とたん、カナは鼻がツンと痛み、思いっきり顔をしかめた。
「げっ」頬をひくつかせたのはシリウスだ。キッチンの窓際で、カウンターに寄りかかりながら煙を吐いていた。指で煙草をつまんでいる。「お前の夕飯なら、たったいま無くなったぞ」
「・・・・・・食べちゃったんだ」
「腹が減るんだよ。お前の母さんにこき使われてるからな」
「きみは大食いだもんね」
「お前な――」
「ちょっと」カナは両手を前に出して、シリウスから遠ざかった。「ぼく、煙草はきらい」
 シリウスはすこし考え、唇のすきまから白い煙を吹き出した。そして、煙草を空のゴブレットに放り込んだ。
「そりゃ、知らなかったよ。悪く思わないでくれ」
 薄灰色の瞳は、真摯にカナを見つめていた。しかし、すぐにニヤリと口角が持ち上がる。
「言っとくが、お前の母さんも好きだったぞ、マグルの煙草が。むかし俺たちのあいだで流行ったんだ――」
「なんの話だい?」
 リーマスが顔を出した。両手で抱えた食器たちを、スペースの大きく空いている戸棚に、仕舞い込んでいく。
「ぼくの飼ってた犬が大食いだった話は、リーマスにしたっけ?」
「なんだって?」
「おい、そりゃ、あの頃は飢えてたからで――」
「シリウス、鍋が空っぽじゃないか! カナの分はどこに行ったんだ?」
「――今から埋め合わせしようと思ってたところだ」
 シリウスは苦しくうめいた。
 お詫びに夕飯を準備してくれると言うので、カナが「簡単なものでいいよ」と言うと、シリウスはぶあついハムの贅沢なサンドイッチを拵えてくれた。そして、二人分のプレートをダイニングの丸テーブルに運び、自身も席についていた。
「まだ食べるんだ」
「言っただろ、腹が減るんだよ。自分で作ってるんだから文句は言わせないからな」
「文句なんてないけど――」
 カナは反対側に座る、リーマスのニコニコ顔を眺めた。
「なんか、まだ慣れないなあ」つぶやきながら、サンドイッチに噛みついた。たっぷり入ったソースがはみ出して、カナの手を汚す。おいしいけど。
 カナが四苦八苦しながら口の中のものを飲み下すあいだに、シリウスはふたつ目に手をつけていた。
「カナ、あわてて食べなくていいんだよ。シリウスのペースにつられていたら、喉を詰まらせてしまう」
 朗らかな声に、カナは食事の手を止めた。
「リーマス、どうしてそんなに嬉しそうなの?」
「ああ、いや――」リーマスは歯切れ悪くはにかんだ。「なんだか楽しいな、と思っただけだ」
 カナとシリウスは目を合わせた。シリウスは器用に片眉をつーんと吊り上げて、黙って食事を再開した。カナもそれにならう。リーマスは相変わらず、二人を見ながらニコニコと微笑んでいた。
「――そうだ、カナ」皿を空っぽにしたシリウスが言った。「去年お前に助けられた礼をしたいと思ってるんだが、何がいい?」
 カナはきょとんと薄灰色の目を見返した。
「何でもいい。手伝いでも、ああ、魔法でもいいぞ。教えてやる。欲しいものがあるなら遠慮なく言ってくれ。ハンカチもひとつ台無しにしちまったから、それも買わないとな。ブランケットもだったか――」
「えーと、待ってね」カナは口の中のものを飲み込んだ。「きみにあげたブランケットはグリフィンドール寮から持ってきたものだし、気にしないで。ハンカチは買い直してくれるって言うなら、ありがたくもらうよ――でも、それだけでいい」
「いや、それじゃ足りないだろう」シリウスは真面目くさった顔で顎に手を当てた。「お前は命の恩人だ――もちろん、ハリーたちもだが、カナには一年間も世話になったんだ。それに見合うものを返さないと――」
「カナ」リーマスが身を乗り出した。「シリウスの気の済むまでさせたらいいさ。こう見えて彼はけっこう律儀なたち・・なんだ――シリウスも」こんどはシリウスにも顔を向けた。「カナはあまり贅沢に慣れていないんだ。困ってしまうだろう、お金を使うことにも慣れていないし――ン、そうだ!」
 リーマスは突然立ち上がった。
「カナの体調がよくなったら、ショッピングに行くのはどうだい?」
「そんなこと、できるわけがないだろう。お前、俺がまたアズカバンにぶちこまれても良いって言うのか?」
「もちろん、ノーだ。きみは変装も得意だっただろう。それに、魔法使いの街じゃなく、マグルの街に繰り出せば、リスクは低いだろう。子連れなら悪目立ちすることもないだろうし」
 ぽかんと口を開けたまま、カナはシリウスをチラリと見た。
「――ああ。カナがいいなら。俺はいつでも付き合うさ」
 シリウスの作り笑顔を見て、カナは初めてこの人を「頼りない」と思った。



  それから数日後。カナはロンドン市街に立っていた――「変な顔」のシリウスとともに。
 指名手配犯「シリウス・ブラック」への警戒は、まだ解かれたわけではない。シリウスは魔法省にも、マグルにも見つかるわけにはいかなかった。そのため、すっかり別人に変身するという計画だったのだけれど――「変装ってのはちょっといじるだけでじゅうぶんなんだ」と、出発前に得意げになって鼻を大きくしたり小さくしたりしていたシリウスは、リーマスの手によってずいぶんと面影をなくしていた。
 カナの隣に立つ男は、いつもの自信に満ちた風貌はなりを潜めていた。顔立ちが違うのももちろんだけれど――大きめのよれたシャツに、古びたジーンズ、それにマグルの「スニーカー」を履いたシリウスは、なんだか冴えない雰囲気が漂っている。
「待たせたわね」
 黒眼鏡姿のおかあさんが、「漏れ鍋」のドアから出てきた。おかあさんはグリンゴッツ魔法銀行で、シリウスの金庫からお金を引き出し、マグルのお金に換金して戻ってきたのだ。
 おかあさんは夏用のロングワンピースをまとい、薄手のスカーフを肩に巻いていた。手には地面を叩く杖を持っていた――盲目のマグルはこれで屋外を歩くらしい。カナもシリウスからマグルの「Tシャツ」を拝借し、しかし大きすぎるためほとんどワンピースのようになっていた。シリウスはマグルの格好に詳しかった。これならマグルの街でも怪しまれることはないというのだ。
「けっこう日差しがきついな」
 シリウスはそう言うと、さっそく手近な雑貨屋で帽子を三つ手に入れてきた。シリウスが履いているジーンズと同じようなデニム生地のバケットハットが、カナの頭に乗った。
 カナを挟んで三人が横並びになり、よく晴れたマグルの街を歩くのは奇妙な感覚だった。なにしろ、カナは一年前に真夜中のロンドンを彷徨ったっきりで、それもあまりいい思い出とは言えないからだ。
「服だけでいいのか?」
「うん――ぼく、マグルの服がほしいんだ」
 カナの服といえば、おかあさんの子ども時代のお下がりしかないので、古めかしいワンピースばかりだった。ガートのお下がりは普段着には向かないし――カナはガートがホグワーツで気に入って着ていたような、動きやすいパンツスタイルのマグルの服装をひとつくらい持っていたかった。
「それに、『マグル学』の先生が――」
「カナ。あんまり大きな声で言っちゃだめよ」
 おかあさんが小さな声でたしなめると、カナははっと口をつぐんだ。うっかりしていた。マグルは自分たちが「マグル」と呼ばれていることを知らないのだった。

 いくつかの店を歩き回り、シリウスはカナにマグルの服を一式買い与えた。帽子と同じ薄い水色のデニムのジャケットに、短いズボンを二着、Tシャツを数枚、白いスニーカーを合わせ、カナはすっかりマグルの子どもとして違和感のない出立いでたちとなっていた。それに、シリウスは新しいハンカチを三枚ほど選んでもくれた。
 靴屋の店員が「お父様もいかがですか?」と声をかけたとき、シリウスがすっかりとぼけた顔をしているのがおかしかった。カナにとっては出会ったばかりみたいな二人だけれど、こうしていると、まるでほんとうの親子みたいに見えるだろうな、と思った。
「シリウス、いつかハリーにも服を買ってあげてね」買ったばかりの靴ですこし歩きにくそうにしながら、カナは言った。「彼、デッカイいとこのお下がりばっかりだから、ぶかぶかのシャツや靴下ばっかりなんだ」
「ああ、そうしてやりたいのは山々だ」
 シリウスはマグルのお金を確かめながら返事した。残りをポケットに仕舞い込む。
「いつか、あの子ともこうやって、堂々と街中を歩きたいものだ」
 いまやどんぐりのように小さなシリウスの目は、どこか遠くを見つめていた。きっと、いまはもうここにはいない友人に思いを馳せているに違いない。
「ええ。いつかそうなりますように」おかあさんが朗らかに言った。「そろそろ帰りましょう・・・・・・なにかトラブルになる前に」
 おかあさんは帽子を目深に被り直し、カナの手を取った。シリウスの後ろをついて歩き、三人は暗い裏路地に入った。
 角を曲がったとき、突然シリウスが立ち止まった――カナはシリウスの背中に思いっきり顔をうちつけた。
「どうしたの?」
 シリウスの肘の辺りから顔を出して、カナは驚いた。魔法使いだ――マグルの街で、魔法使いのローブを隠そうともしない。後ろから、カナと同じように覗き込んでいる子どもがいて、その男が誰なのかはっきりした。顔を出したのは、同じようなローブを身につけ、プラチナ・ブロンドをピッタリと撫でつけた、ドラコ・マルフォイだ。
 父親のルシウス・マルフォイは汚らしいものを避けるように、カナたちの傍を通り抜けた。きっとマグルの家族だと思ったんだろう。一瞥もくれず、関わりたくないとばかりに足早だった。一方、その後ろをついて歩くドラコは、カナに気がついた。
「おや――誰かと思えば。今度はこのごみ溜めに泊まるのか?」
 たったそれだけ言い捨てると、ドラコはにやにやとカナを蔑んだ目で見下ろしながら、言い返すまもなく通り過ぎていった。
「お友達?」おかあさんが言った。
「そんなわけあるか」カナではなく、シリウスが答えた。「やつら――」
 突然、背後でおかあさんが激しく咳き込んだ。カナが振り向こうとしたその瞬間、シリウスがすばやく手を伸ばし、カナはあいだに挟まれて視界が塞がれた。三人はぎゅっと塊になった状態になった。
 それもつかの間――カナが状況を飲み込むよりも先に、ポン!と空気の弾ける音が響き、その裏路地には誰もいなくなった。



 気がつくと、「アリアナの崖」のリビングに戻ってきていた。シリウスの「付き添い姿くらまし」で帰ってきたんだろう。シリウスはくぐもった咳を続けるおかあさんを抱えるようにして、リビングを出て行った。カナはそれを呆然と見送る――その場に置き去りにされた紙袋が、いまのカナとまったく同じように見えた。
 カナもリビングを出て追いかけようとしたけれど、できなかった。なぜなら、おかあさんの歩いた廊下に、白木の床に、真っ赤な血のあとが点々と続いていたからだ。足がすくんで、その場から動けなかった。
「おかえり――カナ、その血はどうしたんだ!」
 はっと我に返り、カナは振り向いた。リーマスだった。キッチンから出てきたんだろう。カナはリーマスが指し示す頬に触れた。赤い血がてのひらにはりついた。
「お、おかあさんが――」うまく説明できなかった。カナが狼狽えているのを察知したリーマスが、黙ってカナの言葉を待った。カナはそっと廊下を指差し、ドアのそばから離れた。
 リーマスは唇を引き結び、カナを気遣わしげに見た。
「カナ。とにかく一度座ろう・・・・・・きみに話しておかないといけないこともある」

 わずかではあったけれど、血の飛沫で濡れたカナの頬や髪は、リーマスが温かいタオルで拭ってくれた。それに買ったばかりのジャケットも、染みにならないようすぐに手を施してくれた。
 そのあいだ、カナはおでかけのおわりに何があったのかをリーマスに話した。ルシウス・マルフォイと出会ったけれど、こちらには目もくれなかったこと。ドラコがカナをからかったけれど、親子はすぐにいなくなった――
「ねえ、おかあさんはマルフォイに呪いをかけられたのかな?」
 カナが不安そうに聞くと、リーマスは首を横に振った。
「違うな。ただ、間が悪かっただけだ・・・・・・カナ、よく聞いてほしいんだけれどね。エリアは、その・・・・・・あまり、体調がよくないみたいなんだ」
 ゆっくりと言葉を選び、リーマスは言った。カナはソファーの背もたれに体を預けた。ぼーっと天井を見つめ、おかあさんが血を吐き出す姿を想像した。
「病気なの?」
「わからない」もう冷たくなったタオルをぎゅっと握りながら、リーマスもひどく苦しそうに言った。「そうだとしたら、わたしも知らなかったんだ・・・・・・十何年も付き合いがあるというのに」
「ダンブルドアは知ってたかな?」
「それは、本人に聞いてみないとわからないな」
 リーマスもカナと同じように、背もたれに倒れ込んだ。
「しかし、エリアの症状が出始めた、あるいはエリアが症状を隠さなくなったのは、わたしがこの家に身を寄せてからの話だ」
「おかあさん、死んじゃうのかな」
 ふたりとも、何も言えなかった。この家にはあと二人いるはずなのに、まるで誰もいないかのように、家じゅうが静まり返っていた。
「ぼくの家族は、みんなぼくを置いていくのかな」
「カナ・・・・・・」あわれむような視線が向けられた。カナはいまだに天井を見つめ続け、ゆっくり息を吐いていた。
「運命は拒めない」いつかリーマスに言われた言葉を、ふとカナは口にした。
「わたしは、そういうつもりで言ったんじゃないんだ・・・・・・」
「ううん、リーマス。リーマスは正しいよ・・・・・・なんだか、ぼく、その意味が今やっとつかめそうな気がする」
 カナの呼吸がすこし詰まった。深く息を吸い、吐きだし、こくりと唾を飲みこんだ。
「いまさら、いまさら後悔したって、遅いけど・・・・・・ぼく、おかあさんに聞きたかった話がたくさんあった。ぼくやシオンのこと、どう思ってるの、とか、ぼくらが生まれてくる前の話とか、ぼくらの父親の話も・・・・・・いつか、『がれきの城』に帰ったらって・・・・・・」
 つっかえながらカナが言うことを、リーマスは黙って聞いていた。カナはすこし目尻に涙をにじませていた。
「でも、ぼくが話を聞きたかったおかあさんは、もういないね。おかあさんはまだたしかに生きてる人だけど・・・・・・でも・・・・・・ぼくの知ってるおかあさんは、もういなくなっちゃった」
「・・・・・・記憶を取り戻す手段は、ないわけじゃないさ。ただ、エリアがそれを望むかどうかは、また別の話だ・・・・・・時間も金も必要だし・・・・・・」リーマスが、声をひそめて言った。「彼女の脳みそを推し量れたら、どれだけ良かったかって――どれだけ彼女のことを理解してやれているんだろうと、私も、考えなかったことはない」
 リーマスが身を起こした。
「お腹がすいただろう。シェパーズ・パイを作ったんだ。あとはオーブンで焼くだけ・・・・・・手伝ってくれるかい?」
 カナもソファーから体をはがし、頷いた。涙がこぼれそうで、袖で目もとを拭った。

 その日は、おかあさんはとうとう寝室から出てはこなかった。じゃがいももひき肉もほぐれていない甘ったるいパイは、カナを困らせたけれど、きちんと完食した――リーマスが食事を用意するとき、カナはすこし慎重になったほうがいいみたいだ。
 シリウスはうなだれ、遅くまで酒をあおっていた。「不用意に外出するのはやめだ」と、力無く言っているのが、リビングまで聞こえてきた。
 つぎにおかあさんと顔を合わせたとき、平静でいられるのかどうか、カナには自信がなかった。



20240913


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