カナは翌日の朝に退院した。
手のやけどは、マダム・ポンフリーの迅速な治療のおかげですっかり良くなった。痛みもないし、手のひきつれもない。フォークを握るのもすっかり元通りだ。ネビルは顔を合わせるたびに申し訳なさそうにするので、お詫びのしるしに、ネビルのお婆ちゃんがおやつに送ってくれたという手作りのファッジを頂いた。
談話室に戻ると、ロンが「お見舞い」だと言ってハグリッドお手製らしいロックケーキをごちそうしてくれた。ケーキはなぜだかちょっとだけ欠けていたけれど。ハグリッドは、入学の日にカナを濡れる前に救ってくれた大男だ。
「そういえば、ハグリッドが君の話をしていたけど、知り合いかなんかかい?」
思い出してみたけれど、彼と会ったのは入学当日のその時だけだ。ハリーはハグリッドと親しい様子だけれど、カナはその他大勢とたいして変わらない。とくに知り合いでもなんでもない。
「ぼく、ハグリッドに会ってみたいな」
ロックケーキは歯が折れそうなほど硬かったけれど、じゃりじゃりした砂糖を噛みながら、カナは彼に会った時、なんて挨拶しようかと考えていた。
ハグリッドは普段、禁じられた森の番人をしているそうだ。校庭に出て、クィディッチ競技場を通り抜けて、城壁沿いに歩けばたどり着くはずだと教えてもらった。
ロンの言う通り、森の入り口には、こぢんまりした木の小屋が建っている。そばには立派な畑が広がっており、薪割り台や木工台などの器具が配置されている。斧も鋸も仕事はしておらず、ぴたりとも動いていない。小屋の中からは、犬の吠え声がしている。
「こんにちは、ハグリッド」
扉を開けるなり、カナは後ろへすっ転ぶはめになった。カナより大きな黒い犬だ。クンクンとカナのにおいを確かめた後、顔を大きな舌で舐めてくる。それがくすぐったくて、カナはきゃらきゃらと声をあげた。
「これ、これ! ファング! 下がらんか。どう、どう――」
奥からあわてて出てきたハグリッドが首輪を引き、ファングが引き下がる。
「すまねえ、怪我はないか? 痛いところは?」
「大丈夫」
のしかかられはしたが、ファングに悪意はないようだ。カナはくすくすと笑い、そっとファングの首元あたりに触れた。「良い子だね」しわしわのたるんだ頬から覗く、キラっと光る黒い目が、大男のハグリッドにそっくりだ。
――最近になって気づいたことだけれど、カナはあらゆる生き物が好きだ。彼らもカナのことを好いてくれているように思う。それに、なんとなく彼らの言いたいことが、カナにはわかるような気がしていた。ぼくが死んで寂しいからだと、カナは勝手に思っていた。だけど、言葉がなくとも不思議と通じ合っているような、そんな心地がするのだ。
ハグリッドは中へと案内してくれた。屋内は見た目の通り、巨大なハグリッドには手狭に感じるほどに小さい。大きな暖炉が室内を淡く照らしていた。天井から捌いたあとの動物の肉や羽がついたままの鳥がぶら下がる。家具は少ない。ハグリッドが眠るための巨大なベッドがひとつと、あまりに小さい円テーブルがひとつだ。
ファングはハグリッドの手を離れると、すぐにカナのもとへやってきて、また耳や顔をべろべろと舐めた。
「おまえさんは? せっかくお休みだっていうんに、何しに来た?」
「カナです。カナ・エリオット」
「エリオット!」ハグリッドの昆虫のような目が輝いた。「エリオットというと、おっかさんはエリアか?」
やっぱりハグリッドはおかあさんを知っていた。カナは頷く。彼は嬉しそうに微笑んで、声を漏らして髭を撫でた。
「ああ――なんだ――やっぱり――ああ、ああ――良かったよ。ああ、おまえさんが、ここを訪ねてくれて嬉しい」ハグリッドの声は自分を納得させるためのもののように聞こえた。
「おかあさんを知ってるの?」
「もちろんだ。エリアがまだホグワーツにおった頃、おれのところによおく来てくれた」
濃いお茶が出された。一緒にロックケーキも。
「おかあさんは・・・・・・どんな人だった?」
カナは、自分がどうしてこんなことを聞いているのかわかっていなかった。ただ、心臓がバラバラになりそうな心地で、ファングをぎゅっと抱いた。
「エリアか? あの子は賢くて、だが孤独な子だったよ。エリアにはあんまし友達がおらんでなあ。それがふびんでならなかった。おれの、生物以外の友達と、できれば仲良くして欲しかったんだが。それは無理だった」
ハグリッドはまだ湯気を噴き出す熱いお茶を啜った。
「もう死んでいるものだと思っておった」
そしてカナを見やる。その視線には慈愛が満ちていた。リーマスがカナを見る時の目と同じ、やさしい目つきだ。
カナは泣きそうな心地だった。ファングが手を舐めた。温かい。
「ハグリッドはおかあさんのことが好きだった?」
「ああ、もちろん」
「ぼく・・・・・・」カナはうつむいてしまう。
「おまえさんは? カナ、おっかさんのことは好きか?」ハグリッドの声色は優しい。それまでもがリーマスを彷彿とさせた――カナは思考がちぎれていくのを感じた。目の奥が熱くてたまらない。
「ぼくは・・・・・・」
涙が落ちないように必死に耐えた。何も言わないカナを見て、ハグリッドは静かに言った。
「なんだ・・・・・・その・・・・・・そんなに気にやむことじゃあねえさ。ハリーは知ってるだろ。あの子だって育ての親のことは大嫌いだ。でも一緒に住まなくちゃならねえ。血のつながりがイッチバン大切なものだからだ」
「でもそれは、間違ってるよね? ぼくは、間違ってるよね? おかあさんが『愛してる』と言っても、ぼくは、ぼく、気味が悪いと思ってる。それっておかしいよね、ぼく、おかしいよ」
「カナ」
ハグリッドはそばへ来てくれた。大きな手に小さく収まるハンカチで頬を拭ってくれた。ちょっと焦げくさいけど、あたたかい。見た目からは想像もできないほど、やさしい手つきだった。
カナの頬はいつのまにか大粒の涙で濡れていた。ファングは心配そうにカナを見下ろしている。
「心配するようなことはなーんもねえ。家族ってのは、単純なもんから、複雑なもんまである。お前さんたちは、とびっきり複雑なんだ。知ってるか? おまえさん、保護魔法がかかっちょる。きっとエリアの手製だ。あの子は呪文が大得意だったんだ」
保護魔法というのは、初耳だ。カナはおかあさんに魔法をかけられた覚えもないし、そういう話を聞いたこともない。
「ほんとうに?」
「ああ。本当だとも。おれにも魔法の痕くらいはわかるさ」
ハグリッドの巨大な手がカナの頭を撫でた。カナの小さな頭はすっぽり隠れてしまう。その手の熱さが、心地よかった。
「ぼく、でも、おかあさんになんて言えばいいのかわからない。頭がぐちゃぐちゃになるんだ。シオンが死んでから・・・・・・」そこまで言って、カナは手で口をふさいだ。
「シオンちゅうのは?」ハグリッドがたずねるので、カナは白状した。
「ぼくの兄弟で、七月に死んだんだ。突然」
ハグリッドはカナの背を撫でた。その熱さにまた涙が出そうになる。うつむいたとき、おかあさんのお下がりの古ぼけたワンピースに水滴が落ちた。
「兄さんか? 弟か?」
「双子なんだ。たぶん、兄さん」
「そうか。寂しかったな」
そう。カナはとびきり寂しかった。ぼくの話を家族以外の人にしたのは初めてだ。思い出して涙が落ちてしまうのはないかと気にしていた。それに、死んだ人の話なんて誰が聞きたいだろう。だけど、今だけはカナは自然と口を開いていた。
「シオンにもホグワーツの案内が届いてた。だから一緒に行こうねって約束してた。いっぱいホグワーツの話をしたよ。牢屋みたいなところだったら嫌だなあとか」
ハグリッドは笑った。「それで? 本当のホグワーツはどうだ? 牢屋みたいか?」
「とんでもないよ」カナは顔を上げた。「すごく楽しい」
「そうか、そうか。そりゃあ、よかった」ハグリッドはカナの背をとん、と叩いて、窓のほうへ歩み寄った。ハグリッドにはずいぶん背の低い窓だ。
「おれは本物の牢屋を知っちょるが・・・・・・それに比べたら、ここは楽園みたいなもんだ」
カナは湯気を出さなくなった紅茶を啜った。ぬるいけれど、今のカナにはちょうどいい。
「カナ。おっかさんに手紙のひとつでも出してみろ。え?」
ハグリッドの提案は、あまり良いものには思えなかった。
「もっとエリアと話すと良い。仲良くしろとは言わねえ。生きてりゃ、わかりあえないこともたっくさんあるからな。だが、無視するのは良くねえ。誇り高きグリフィンドールだったら、何事にも挑戦してみねえと」
「わかりあえなかったら?」
カナの質問に、ハグリッドは困るどころか、笑ってくれた。
「そんときゃ、またここに来てぶちまけたらええ。ロックケーキでよけりゃご馳走してやる」
手付かずだったロックケーキをかじった。カナはこれが意外と好きだった。ちょっとカナには硬すぎるけれど、甘くておいしい。そう言うと、ハグリッドは嬉しそうに腹を叩いた。
「それに、手紙をもらうってのは、ほんっとに嬉しいモンなんだ」
カナは夕方近くまでハグリッドの小屋にいた。仕事があるだろうに、ハグリッドは快くカナの相手をしてくれた。ファングは人懐っこいのか、カナにずいぶんとべったりだった。「またいつでも来ていい」と言ってくれて、カナは友人が一人と一匹、増えたことが嬉しかった。
シャワーを済ませて部屋に戻る。いまは夕食の時間で、寝室には誰もいない。大勢と話す気にはなれなくて、カナはベッドわきの小机に向かった。お腹が空いたら今朝ネビルから貰ったファッジを食べればいい。おかあさんのおやつも、そういえば手付かずだ。
カナはトランクを漁った。瓶詰めの、ハーブの砂糖漬け。一つ取り出して口に入れた。これを食べると、気持ちが安らぐのだ。おかあさんの魔法がかかっているに違いなかった。カナはおかあさんの魔法で守られているなんて、未だに信じられないけれど。でも、カナが向き合おうと思う理由としては十分だった。
羊皮紙と羽根ペンを手に取る。一週間ともに過ごしたこの羽根ペンもインク壺も、おかあさんが学生時代に使っていたものだと思うとなんとも言えないむず痒さに見舞われる。
カナは、家を出る前におかあさんに言われたことを思い出していた。
おかあさんは何かあったらスネイプ先生を頼るようにと言っていたけれど、カナはあまりお近づきになりたいと思えていなかった。スネイプ先生はどう考えても意地悪な先生で、グリフィンドールに――特にハリーに対して悪意があるとしか思えなかった。そもそも、おかあさんの言うことを信用していいのだろうか。怒られたことも、ましてや褒められたこともないカナは、おかあさんがどういう人なのか、ずっと一緒に暮らしてきたはずなのに、何も知らない――それを改めて思い知った。
夜遅くまでかけて、カナはランプの明かりを出来る限り小さくして、花弁を絞るような手探りを続けた。手紙らしいものができあがるまで。
目覚めたのは朝というよりはすっかり昼前となってしまった。ラベンダーとパーバティが寝起きのカナに「おはよう、お寝坊さん」と声をかけて、連れ立って寝室を出て行くのを見送ってから、カナはもそもそとローブに着替え始めた。すでにハーマイオニーの姿はない。彼女はいつもなかなか起きないカナを一度は起こそうと試みてから寝室を出るけれど、今日はさすがにそこまではしないだろう。日曜日は休日だ。彼女はもう図書館にでも行って、まだ読んだことのない本を探しているのだろうか。
談話室でフレッドとジョージら三人組と遭遇した。帽子を被っていないので、双子には挨拶がわりに髪を交互にかき混ぜられる。一緒にいたまとめ髪の男の子に「君がうわさのおチビさんかい?」と尋ねられた。
「『うわさの』って?」
「ああ、さっそく大時計の抜け道を見つけた期待のルーキーだよ。リーだってまだ見つけてなかったのに。僕らが知らない道なんてないけどさ、もしかしたらあるかもしれない、そうだろ?」フレッドが嬉しそうに言った。
「えーと・・・・・・」
カナにはまったく話が見えなかったし、そんなふうにキラキラした目で見られても、どうすればいいのかわからない。
「ウィーズリーズ! また後輩をからかってる」
カナの背後から女の子の声がした。すらりと背が高く、黒髪を高い位置でポニーテールに結った女子生徒と、その後ろにはアリシアがいて手を振っていた。「こいつらに絡まれちゃったのね」と同情してくれた。
「ほら見たことか。リーが『ウィーズリーズ』なんて呼ぶから、アンジーが真似しちゃっただろ」
「これでどっちがフレッドだかジョージだか考える必要なくなっただろ?」
「ところがどっこいだ」双子がカナの両脇に並んだ。ニコニコと笑みを貼り付けて、カナを見下ろした。「おチビさん、僕らを見分けられるんだろ?」
「おおげさだよ」
カナは瞼を半分落としたけれど、双子は動こうとしない。
どっちがフレッドでジョージだか当てろということなのだろう。カナは右を見て「ジョージ」、左を見て「フレッド」と言った。
「素晴らしい!」双子は大げさに声を張り上げて拍手をした。つられてリーやアリシアたちも「ヒュウ」と口笛を吹いて手を叩いた。カナは目立ってしまって恥ずかしくなった。いくらなんでもおおげさすぎる。
「俺は今でも騙されるってのに、お前さん、やるなあ。リー・ジョーダンだ。リーでいい。よろしく」
カナはリーと握手を交わした。黒髪の女生徒も手を差し出す。
「アンジェリーナ・ジョンソン。グリフィンドールのチェイサーよ。アンジーって呼んで」
「クィディッチの選手なの? すごい!」
「選手はアンジーだけじゃないのよ。わたしと、そっちの双子もね」
双子をなんとなく見分けられるというだけでこんなにも手厚く歓迎されるのはなんだか奇妙な感覚だった。アリシアはニコリと笑った。
「ねえ、カナってとっても可愛いと思わない? 仔犬みたいだわ」
全身に視線を感じる。カナは子ども扱いを受けているのかと思って、あまり釈然としなかった。
「そうだな、アリシアは好きだよな。太ったタヌキのぬいぐるみとかさ」
アンジーがフレッドの踵を蹴った。
アリシアは昼食に誘ってくれて、その後に校内を案内すると提案してくれた。カナはちょうど、昨晩書き上げた手紙をどうするべきが考えていたのだ。
「ランチのあとにフクロウ小屋に行くの、ちょっと嫌かも」
「あら、アンジーってそういうこと気にするのね? じゃあわたしたちだけで行こうか?」
「そんなにひどい場所なの?」
「まあ、フクロウ小屋だしね。びっくりしちゃうかもね」アリシアはくすくすと笑う。
「匂いは本当にひどいけど、あそこはなかなか良い景色が見れるよ」とアンジーも付け加える。
西塔のてっぺんまで行くと、アリシアは扉を指差して「あそこがフクロウ小屋だよ」と教えてくれた。お礼を言うと、「いいのよ、後輩の面倒を見るのは当然でしょ?」と笑って手を振った。
小屋の中には数百匹のフクロウがひしめいていて、中に入るとぎょろっといっせいに、数多の光る目玉がこちらを見るので、カナはたじろいだ。踏み出した足が何か、枝のような硬く軽いものを踏んで、パキリと軽い音を立てた。ネズミの骨だ。他にも藁やらフクロウのふんやらで床は埋め尽くされて、絨毯のようだった。
フクロウたちはカナの様子を観察し続ける。中でも好奇心旺盛な子は、カナの足元までやってきて靴を突いたりした。フクロウの中にもいろんな性格があるものだなあとカナは思う。
高く続く螺旋階段の向こうにも、見上げれば天井を埋め尽くすほどのフクロウがいる。階段をのぼりながら、フクロウを見つめ返しながら、誰に頼もうか迷った。
ぼくらの家はおそらく辺鄙な場所にあるはずだ。ホグワーツがどこにあるかはわからなかったけれど、できるだけ体力のあるフクロウに頼もうと思った。そして、ちょうど目が合った、若そうな二羽に、それぞれ手紙を持たせた。
「ぼくのおかあさんまで。こっちはリーマスに。よろしくね」
開け放たれた大きな窓から小屋の外に放つと、ワシミミズクは威勢良く飛び立っていった。
おかあさんは目が見えないにもかかわらず、どうにかして魔法を使って文字を読むことができるようだった。だから、手紙は普通の出し方で構わないはずだ――でも、いざ手紙を書くとなると何を書けばいいのかわからなくて、ずいぶん短いものになった。
「おかあさんへ。
無事ホグワーツに入学できました。魔法の授業は面白いです。初めて呪文を試すために杖を振ってみたけれど、まったく何も起きませんでした。
スネイプ先生は嫌な感じの人です。話しかけることがないといいけど。
まだ困ったことはありません。心配しないで。
寮はグリフィンドールです。カナより」
「リーマスへ。
無事にホグワーツで過ごしています。グリフィンドールに入りました。リーマスはどの寮でしたか。おかあさんはどこでしたか。
授業は面白いけれど、呪文は苦手です。まだひとつも成功していません。それに、友達がすぐできるってリーマスは言っていたけれど、それでも寂しい気持ちは変わりません。早く夏休みにならないかな。
どうかお元気で。カナより」
階段を登ってくる足音がした。カナは飛び立ったフクロウを見届けたあと、しばらくそのゆくえをじっと見つめていたけれど――足音で、今いる場所に引き戻される。
「カナじゃないか」登ってきたのはハリーだ。「手紙を出していたの?」
「うん、そうだよ。ハリーも?」
「僕は、ヘドウィグに会いにきたんだ」
ハリーが腕を伸ばすと、真っ白いフクロウ――ヘドウィグが降りてくる。いつ見てもきれいな子だ。
「手紙を出すような人なんていないよ。僕に送ってくれる人もね」
伝い聞いた話だけれど、ハリーは孤児で、実の親の顔を知らないらしい。朝のふくろう便で、手紙や小包みを受け取る生徒は多くいる。けれど中には、ひとつも便りがない生徒もいる。カナだってそうだった。
「でも、一昨日にヘドウィグが来てたじゃない」
「あれはハグリッドからだよ」
しばらくハリーの髪を噛んでいたヘドウィグの興味は、カナに移ったようだ。ハリーの見よう見まねで肘を伸ばすと、ヘドウィグが乗り移る。雪のような見た目だけれど、案外ずっしり重みがあって、脚は力強い。
「ハグリッドから届くならいいじゃない。ぼくにはひとつだって届いたことがないよ」
「でも、きみには出す人がいる。そうでしょ?」
「一応ね」
カナは腕が疲れてきたので、ヘドウィグを止まり木に下ろそうとした。でもヘドウィグは離れようとはしなかった。肩へと移って、「クルル」と声を漏らす。
「ほんとはおかあさんに手紙なんて書きたくなかったよ。でも、ハグリッドが言うから・・・・・・」
とたんにカナは、おかあさんのことを隠したくてしかたがなくなってきた。ホグワーツで一週間を過ごすうちに、おかあさんは――カナがおかあさんを好きじゃないという以上に――「普通じゃない」ということを、なんとなく理解してきていた。もしもハリーにおかあさんの話をしてとせがまれても、彼を困らせるだけような気がしていた。
「えと、なんでもない。そうだ。ハリー、休暇になったらぼくが手紙を書いてあげる。その、ロンやシェーマスも勿論書くだろうけど・・・・・・もう一通くらい増えても問題ないよね?」
「ほんとう?」ハリーの顔がパッと輝く。そしてすぐに曇ってしまう。「あ、でも・・・・・・ふくろう便はバーノンおじさんたちが嫌うんだ。マグルの郵便で送ってくれないかな?」
「マグルの郵便ってどんなの?」
「住所を正確に書いて、切手を貼って、ポストに出せばいいよ」
「ポスト?」
「それか郵便局で出したら大丈夫。もちろんマグルのね。待って、カナはマグルのお金を持ってないだろう? グリンゴッツ銀行で換金してもらうといいよ」
「うーんと・・・・・・」
ヘドウィグはカナの肩の上ですっかりリラックスしている。
「ヘドウィグって、きみのことがほんとうに気に入っているんだね。餌でも与えてるの?」
「ううん。特に何も」ヘドウィグは可愛いけれど、カナはさすがに肩が重くなってきた。「ハリー、ごめん。ヘドウィグをおろしてくれる?」
ハリーが起こすと、ヘドウィグは離れていった。そのまま薄暗く光る空へと飛び立つ。
「いつもの散歩だよ。夜になると僕の部屋に帰ってくるんだ」
「かしこいね」
「うん。僕にはもったいないよ。ハグリッドが誕生日プレゼントに贈ってくれたんだ――」
ハリーの話を聞きながら、フクロウ小屋の螺旋階段をともにくだっていく。カナは知らないだろうけれど、友人のハグリッドのことを嬉しそうに話すハリーの姿は、リーマスと一緒にいる時のカナによく似ていた。
次の一週間が始まった。カナにはホグワーツ城は広すぎて、まだ慣れない。何度迷子になって、絵画や銅像に笑い者にされたことか。カナはフレッドとジョージの期待には応えられそうにない。秘密の抜け道に迷い込むなんて、奇跡に近い。
「薬草学」はハッフルパフと、水曜日の真夜中の「天文学」はレイヴンクローと、スリザリンとは金曜日の「魔法薬学」で合同授業だ。グリフィンドール生はすっかりスネイプ先生とスリザリン生が嫌いになっていた。
歓迎会の日に「ほとんど首無しニック」が、スリザリンに対抗していたけれど、どうやら先輩たちの様子を見るに、グリフィンドールとスリザリンのあいだの溝には、相当長い歴史があるようで、ある種の伝統のようなものらしかった。でも、週に一度同じ授業を受けるだけなら、そんなに気にすることでもないとみんな思っていた。談話室に張り出された「お知らせ」を見るまでは。
「飛行訓練は木曜日に始まります。グリフィンドールとスリザリンとの合同授業です。-ロランダ・フーチ」
合同授業にはうんざりしたけれど、それ以上に生徒たちは飛行訓練が待ち遠しいようだった。
男の子はクィディッチやマグルのスポーツ・チームの話でもちきりだ。ハーマイオニーなんか、すべての授業をかんぺきにこなしているのに、マグル生まれだから、箒に乗ることが心配みたいだ。図書館で借りた「クィディッチ今昔」をいつでも持ち歩き、そこで得た知識をネビルに披露していた。ネビルは魔法族のはずだけど――おばあちゃんはネビルを箒に近づけたことがないらしい。
木曜日の朝は特に興奮が高まっている。
みんなが箒の経験やクィディッチの話で盛り上がる中、カナはあまり話に入ろうとはしなかった。クィディッチのことはよく知らないし、箒で遊んだことはたくさんあるけれど――ぼくのことも思い出すからだ。それに、カナには箒にまつわるとびっきりの嫌な思い出があって、考えると口の中が苦くなるのだ。モヤモヤをかぼちゃジュースと共に飲み込む。
元気な一年生をよそに、天井からフクロウの群れが飛び込んでくる。ふくろう便の時間だ。カナは返信なんて期待していなかったけれど――カナの頭上目掛けて舞い降りてくる一羽が見えた。このあいだ手紙を託した子だ。カナはゴブレットを傍によけ、フクロウが着地できるようにした。
「おかえり。おりこうだね」
手紙を受け取る。テーブルの上のビスケットを砕いて与えると、飛び立っていくものばかりと思っていたけれど、カナのそばに寄り添うようにその場に留まった。カナは手元の便箋をよく見た。
カナが出した手紙だ。
何度も便箋をひっくり返して眺めても、それはやはりカナがおかあさんに宛てた手紙の便箋だった。封を切って中も確認したけれど、確かにカナが書いた簡素な手紙だ。カナは頭の中が大鍋でかき混ぜられているような気持ちになった。手持ち無沙汰なフクロウを見る。なんだか困っているようにも見えた。届けられなかったからだろうか。カナはかわいそうな子のくちばしを撫でた。
その時、頭がずし、と重みで沈む。手を伸ばすと、三角帽子を踏みつけてカナの頭を小突くフクロウがいた。カナの手に便箋が渡る。
カナはまた手紙が届かなかったのだと悲しい気持ちになって、ひっくり返した。
見覚えのない空色の封筒だった。リーマスの字で、「グリフィンドールのカナ・エリオット様」と宛てられている。一気に身が軽くなるのを感じる。カナは褒美をねだるフクロウに髪を齧られていることにも気づかず、封を開けて手紙を取り出した。
「カナへ。
入学おめでとう。それに、手紙をありがとう。姿現しの後、きみが気を失ってしまったから、別れの言葉も言えなかったね。
わたしもグリフィンドールだった。だからカナは、わたしの後輩ということになるね。嬉しく思うよ。あのダンブルドア校長もグリフィンドールだったんだ。きみに素晴らしく勇気あふれる日々が訪れますように。
エリアはスリザリンだった。スネイプ先生にはもう会ったかな? 彼はエリアにとって同じ寮の先輩で、親しくしていたんだよ。詳しい話は、休暇中にでもエリアに聞いてごらん。きっと話してくれる。
勉強は難しいかもしれないが、いずれきみは素晴らしい魔女になる。焦らなくてもいい。困ったことがあれば、誰でもいいから信頼できる人を頼りなさい。ほら、スネイプ先生はグリフィンドール生が相談するには、あまり適任じゃないだろう?
とにかく、きみがホグワーツで楽しく過ごせるように祈っている。またいつでも手紙を送ってくれて構わないよ。
愛を込めて。リーマス・ルーピンより」
カナは、胸が温かく満たされるのを感じた。頬をばら色にして、読み終えたばかりの手紙を胸に寄せた。手紙が届くというのは、こんなにも嬉しいものなのかと、感激した。ハグリッドに言われたことはほんとうだった。
何度もリーマスの手書きの文字に目を通す。チョコレートの甘い匂いさえ漂ってくる気がした。カナは手紙をていねいに折り畳み、鞄の内側に仕舞った。リーマスの手鏡を入れているポケットだ。カナはいつも彼からの贈り物を持ち歩いていた。お守りのように。
リーマスはいつもカナが欲しい言葉をくれる。それに、リーマスと同じ寮に入ることができたことも嬉しかった。少しでも彼とのつながりを得られたことが。
だってリーマスにとってのカナは家族でもなんでもなくて、カナがリーマスを大切に思っている気持ちと釣り合っていないような気がするから。
テーブルの向こう側で、ハリーとロンが立ち上がる音がした。カナは顔を上げた。二人は、取り巻きを連れたマルフォイと睨み合っていて、今にも言葉か拳が飛び出しそうに見えた。
すかさず、後ろからマクゴナガル先生が「何事ですか?」と割って入った。
「マルフォイがボクの『思い出し玉』を取ったんです」
ネビルが、マルフォイの手元を弱々しく指差した。
マルフォイは苦い顔をして、「初めて見るものだったので、見ていただけですよ」と手にしていたもの――思い出し玉だ。白い煙の詰まったガラス玉のように見える――をテーブルの上に置いた。そのままさっといなくなってしまった。
ロンとハリーは肩透かしを食らったように座り込んだ。始まったのはマルフォイの愚痴だ。
「あいつの箒の腕がどんなものか、見せてもらおうじゃないか」
「その前に、変身術の訓練で気を抜くことは許されませんからね」マクゴナガル先生の冷厳な声がして、みんなの背筋がピンと伸びたのだった。
変身術の授業はみんなこってり絞られた。銀ボタンはクルミになったりしないし、杖はカナの手には大きすぎるせいで馴染まなくて振るのが疲れる。機嫌が良かったのはハーマイオニーくらいだ。そんな彼女も昼食を挟んで午後の飛行訓練の時間が近づくと、徐々に口数が少なくなってきた。
それに、出発前にフレッドやジョージたちが一年生に言っていた。「学校の箒は癖のある奴らばっかりだ、高いところを怖がる箒や、旋回癖がある奴とか――とにかく、振り落とされなきゃそれでいい」と。
今日は天気も良くて、風がやわらかに吹いている。箒を飛ばすには絶好の日和だ。
校庭へ向かうと、すでにスリザリン生は揃っていた。地面には箒が並べられている。睨み合いが始まらなきゃいいけど、と思っていると、ちょうどマダム・フーチが足早にやってきた。白髪を短く切った、きびきびした感じのひとだ。鷹のような鋭い目で生徒を見渡した。
「ぼやぼやしないで、みんな箒の傍に立って。さあ、早く」
並べられた箒の間にみんなが並ぶ。見る限り、学校の箒はあまり状態が良くないようだ。毛先の枝の量に差があったり、あちこちに飛び出していたり、見るからに古そうなものもある。
「右手を箒の上に突き出して。そして、『上がれ!』と言う」
マダム・フーチの掛け声と共に、みんなが叫んだ。
カナの手には箒がすっぽり収まった。見渡すと一度目で飛び上がった箒はさほど多くないようだった。マルフォイはクィディッチがうまいと自慢していたとおり、箒の扱いには慣れているようだった。ハリーやロンも箒を掴んでいる。ネビルは最後まで箒と格闘していた。あまりにも時間がかかったので、マダム・フーチが直々に指導した。それをばかにしたようなスリザリン生のクスクスと笑う声が、カナを嫌な気持ちにさせた。
次にマダム・フーチは箒にまたがるように指示した。マルフォイが間違った握り方を指導されたのを見て、グリフィンドール生たちは目を合わせてクスリと笑った。ちょっぴり胸が空いた。
「さあ、私が笛を吹いたら、地面を強く蹴ってください。箒はぐらつかないように押さえ、七、八フィートほど浮上して、それから少し前かがみになってすぐ降りてきてください。笛を吹いたらですよ。ワン、ツー――」
びゅん! と――マダムの合図を待たずに、誰かが思いっきり空中に飛び出していった。ネビルだ。
「こら、戻ってきなさい!」
マダムの叫びもむなしく、ネビルはクルクルと円を描き、まるでビリーウィグみたいにぴゅんぴゅんと飛んでいった――その間、誰も動けなかった。
そして空中でピタ、と止まり、そのまま真っ逆さまに落ちてきた。
大きな衝撃と同時に、ポキリとなにか折れる音がした――ネビルはうつ伏せに落下していた。箒はどこか遠くへ飛んでいってしまったようで、近くには落ちていない。
ネビルは――生きているよね?
「ネビル?」数人が駆け寄ると、くぐもった泣き声と弱々しい呼吸が聞こえてきた。ほ、と息を吐くのも束の間、マダム・フーチが青い顔でやってきて、ネビルを抱き起こした。
「手首が折れてるわ」
駆け寄ってきたグリフィンドール生が息を呑んだ。
「さあさあ、ネビル、大丈夫。立って」先生は他の生徒へ向き直って、こう告げた。「私がこの子を医務室へ連れて行きますから、その間誰も動いてはいけません。決して! 箒もそのまま置いておくように。さもないと、クィディッチの『ク』を言う前にホグワーツから出て行ってもらいますよ」
マダムはネビルを抱えるようにして、校舎の方へと向かった。
「かわいそうに」ラベンダーがつぶやいた。
その後ろ姿をしばらく静かに見守っていたけれど、二人が遠くに見えるようになると、笑い声が聞こえてきた。マルフォイだ。
「あいつの顔を見たか? あの大まぬけの!」
ほかのスリザリン生も囃し立てて笑った。カナは頭に血が昇るのがわかった。
「その口を閉じて」
カナがマルフォイを睨め付けた。スリザリンの女の子が二人、飛び出してきて、小さなカナをせせら笑った。
「へえ? エリオットはロングボトムの肩を持つんだ?」
茶髪のトレイシー・デイヴィスが、意地悪そうに不揃いの歯を見せた。
「エリオットはあの泣き虫のチビに気があるのよ。ほら、お似合いでしょ? ちっちゃくて、どっちも落第生だから」
ささやくように蔑んだのはブロンドの巻き毛をかきあげたパンジー・パーキンソンだ。二人を順番に睨め付けて、カナは腰に手を当ててふんぞり返った。
「だったら、きみたちはマルフォイが大好きってこと?」
二人の顔がかっと染まる。
そのとき、マルフォイが「ごらんよ!」と叫んだ。「ロングボトムの婆さんが送ってきたバカ玉だ」
手にはネビルの「思い出し玉」を握っている。陽を受けてきらきらっと輝いた。
ハリーが進み出た。「マルフォイ、こっちに渡してもらおう」みんなが二人に注目した。緊張が走る。
「マルフォイ、あんた、いい加減にしなさいよ――」
ガートの険しい声だ。マルフォイはただ一瞥くれただけで、ニヤリと笑った。
「それじゃあ、ロングボトムが後で取りに来られるところに置いておくよ。そうだな――木の上なんてどうだい?」
「こっちに渡せったら!」ハリーが語気を強くした。マルフォイはひらりと箒に跨って、まっすぐ飛び上がった。
「あいつ――ほんと――最悪!」ガートがつぶやくのが聞こえた。マルフォイは樫の木のてっぺんに浮かんでいて「ここまで取りに来いよ、ポッター」とハリーを煽った。
ハリーが箒を掴んだ。「ダメよ!」ハーマイオニーが叫んだ。「先生が仰っていたでしょう、動いちゃいけないって。私たちみんな迷惑するのよ」
ハーマイオニーの訴えを、ハリーは無視して舞い上がった。それは――ハリーはマグルに育てられたと言っていたけれど――初めて箒に乗ったとは思えないくらい、自然なことに思えた。そのくらい、彼の浮遊は安定していた。マルフォイにも劣らない、いや、それ以上かもしれなかった。グリフィンドール生の歓声や口笛が遠くに聞こえる。カナはドクドクと脈打つ心臓を握りしめたくなった。
ハリーとマルフォイが空中で言い合っているのが聞こえる。ハリーが鋭く突っ込むと、マルフォイはあやうくかわした。ハリーはしっぽのように一回転して、バランスをとりなおす。
カナは確信した。ハリーは箒に乗るのが抜群に上手い。
「取れるものなら取るがいい、ほら!」
マルフォイは空中にガラス玉を高く放り投げ、すぐさま地上に戻ってきた。しかしハリーは一瞬ののちに急降下し、みるみるうちにスピードが上がる。女の子たちは悲鳴をあげる。誰もがハリーに釘付けになっていた。ハリーは手を伸ばす――あの玉を掴む気だ。カナは目をつぶりたくなった。だけど、視線を反らせなかった。ハリーが地面にぶつかる!――そのスレスレで箒を引き上げ、ふわりと草の上に転がった。カナはハリーが箒を引き上げたとたん、肩の力が抜けてしまった。心臓が波打つのがさっきからうるさい。ハリーは芝生の草まみれだ。その手の中にはキラリと光る『思い出し玉』が握られていた。
グリフィンドール生は歓声を上げ、ハリーに駆け寄る――ことができなかった。背後から、鋭い声が飛んできた。
「ハリー・ポッター・・・・・・!」
マクゴナガル先生だった。グリフィンドール生の顔から、引き潮のように血の気が引いていく。
「まさか、こんなことはホグワーツでは一度も・・・・・・」
マクゴナガル先生もショックで言葉を失っていた。眼鏡が陽の光を受けてぎらっと光った。カナは近くにいたラベンダーと、自然に身を寄せ合った。
「よくもまあ、そんな大それたことを――首の骨を折ったかもしれないのに――」
「先生、ハリーが悪いんじゃないんです」
「おだまりなさいミス・パチル」
「本当です、先生」
「マルフォイが・・・・・・」
「くどいですよ。ミス・エリオット、ミスター・ウィーズリー。ポッター、さあ、一緒にいらっしゃい」
マクゴナガル先生は大股で城に向かって歩き出し、ハリーもグリーンの目に悲しみをたたえて、とぼとぼとその後を追って、そしてやがていなくなった。
スリザリンのほうはもうおかしくてたまらないといった様子で、爆発のように笑いが起きた。カナはそれが耳に入らなかった。ハリーはネビルのために勇気を出したのに。自分のリスクを賭けてまで――こんな報われないことで、ハリーが退学になってしまう、と、そればかりが頭を巡る。
その後マダム・フーチが戻り、ネビルは骨をくっつけるために医務室に入院した旨を説明された。飛行訓練の授業が再開されたが、カナは心ここに在らずといった感じだった。カナだけでなく、グリフィンドールには不死鳥の羽根にも拭えないほどの悲しい雰囲気が漂っていた。
「だから言ったのに、ハリーも悪いわ。先生の言いつけを守らないと、ここから追い出すって仰ってたのに・・・・・・」
ハーマイオニーが玄関に向かう一団の中で批判的にそう言った。けれどその声はいつものようにはきはきとしたものではなく、どんより気味で、気持ちをごまかすために言っているような気がした。カナも、あのロンでさえ、なにも言い返す気になれず、黙って歩いていた。
夕食の席はどんよりと曇っていた。みんな土だらけの草だらけだったけど、それをきれいにする気にもなれず、ただ黙々と食事を始めた。
気が進まなくて、カナはかぼちゃジュースをちびちびと啜るだけだ。ハリーがあの大広間の扉をこっそりと開けて、「まだ居ていいって」とはにかんでくれないかと幻想した。大嫌いなおじさんのもとへ戻されるなんて、あまりにかわいそうだ。
「あれ、ハリー?」
いつのまにかカナの隣に、幻想していた本人が座っていた。
「うん、そうだよ」ハリーはニコニコと微笑んでいた。
「退学は? どうなったんだ?」ロンが身を乗り出して聞いてきた。
「僕、シーカーに選ばれたんだ」ハリーはこっそりと話し出した。あれからマクゴナガル先生に連れられて、グリフィンドール・クィディッチ・チームのキャプテンであるオリバー・ウッドという五年生に会ってきたらしい。マクゴナガル先生は相当クィディッチに惚れ込んでいるようだ。
「まさか」ロンはステーキ・キドニー・パイを食べようと開いた口を、あんぐりと開けっぱなしにするはめになった。「シーカーだって? だけど一年生は絶対ダメだって・・・・・・なら、君は最年少の寮代表選手だよ。ここ何年来かな・・・・・・」
「百年ぶりだって。キャプテンのウッドがそう言ってた」ハリーはすっごくお腹が空いていたみたいだ。停止してしまったロンをよそ目に、かきこむようにしてチキンをたいらげた。ロンは夢でも見ているかのようにぼーっとハリーを見つめていた。
「ハリー、怪我しないでね」
「うん。来週から練習が始まるんだ。でも誰にも言うなよ。オリバーは秘密にしておきたいんだって」
その時フレッドとジョージがハリーたちの方に足早にやって来た。それで興奮気味に、低い声で言った。
「すごいな。オリバーから聞いたよ。僕たちも選手だ――ビーターだ」
「今年のクィディッチ・カップはいただきだぜ」
双子はとても機嫌がよさそうだ。
「チャーリーがいなくなってから、一度も取ってないんだよ。だけど今年は抜群のチームになりそうだ。ハリー、君はよっぽどすごいんだな。オリバーのやつ小躍りしてたぜ」
「じゃあな。僕たち行くよ。リーが学校を出る秘密の抜け道を見つけたって言うんだ」
「それって僕たちが最初の週に見つけちまったやつだと思うけどね。きっと『おべんちゃらのグレゴリー』の銅像の裏にあるやつさ。じゃ、またな」
いたずらっ子らしい双子は大広間から去っていった。
そしてすぐにマルフォイ一行が現れて、にやにやと笑みを浮かべて近寄って来た。
「ポッター、最後の晩餐かい? マグルのところに帰る汽車にいつ乗るんだい?」
「地上ではやけに元気だね。小さなお友達もいるしね」
ハリーは冷ややかに言った。カナは焼きトマトを吹き出しそうになりながら、なんとか飲み込んだ。クラッブもゴイルもどう見たって小さなお友達ではなかったからだ。しかし大広間では上座のテーブルに先生がたがずらりと座っているので、ふたりとも握りこぶしをぼきぼきと鳴らし、にらみつけることしかできなかった。
「僕一人でいつだって相手になろうじゃないか。ご所望なら今夜だっていい。魔法使いの決闘だ。杖だけだ――相手には触れない。どうした? 魔法使いの決闘なんて聞いたこともないかい?」
マルフォイの言葉に、ハリーではなく隣のロンがかみついた。
「もちろんあるさ。僕が介添人をする。お前のは誰だい?」
「クラッブだ。真夜中の、十二時でいいね? トロフィールームにしよう。いつも鍵が開いてるんでね」
マルフォイはカナを見つけると睨みつけた。
「ああ、それから、そちらの『小さなお友達』は連れてこないでくれるかい? 神聖な決闘にも首を突っ込みかねないからね」
喉に詰まりかけたトマトを噛んでいたカナは、口を開くこともできず唖然とした。飛行訓練でカナが噛み付いたことを根に持っているのだ。マルフォイはそれだけ言うと去っていった。口の中のものを咀嚼して、かぼちゃジュースで流し込んだ。
「魔法使いの決闘って何? きみが僕の介添人ってどういうこと?」
ハリーが急いたように言い、ロンはようやくパイを口に放り、気軽に言った。「介添人っていうのは、君が死んだらかわりに僕が戦うという意味さ」
ハリーとカナの顔色がさっと変わった。ロンはふたりを見渡して、慌てたように付け加えた。
「死ぬのは、本当の魔法使い同士の本格的な決闘の場合だけだよ。君とマルフォイだったらせいぜい火花をぶつけ合う程度だよ。一年生に本当のダメージを与えるような魔法は使えないだろ? マルフォイはきっと君が断ると思っていたんだよ」
勝手に引き受けたのはロンだったけれど。カナは眉をきゅっと寄せて、ロンに言う。
「本当に行くの?」
「行かなきゃ僕らの矜持に関わる!」
「けど・・・・・・」
「カナ、君は関係ないだろ? それに、決闘の宣誓がどんな意味を持つかも知らないくせに」
カナは急速に頭が冷えていくのを感じた。
「ロン、もう一度言ってごらんよ。ぼくがなんだって?」
カナはもともと、気が弱い性質とは程遠い。今日の午後の騒動で、釜の蓋が開きやすくなっているらしい。
「なんだよ、君、あいつに来るなって言われただろ、目をつけられたんだよ。マルフォイはハリーが倒す、それでいいだろ?」
「待ってよ」ハリーだ。「もし僕が杖を振っても何も起こらなかったら?」
「杖なんか捨てて、あいつの鼻をへし折ってやれ」ロンが拳を握って顔の前に構えた。
「ちょっと、失礼」
振り返ると、立っていたのはハーマイオニーだ。「まったく、ここじゃ落ち着いて食べることもできないんですかね」とロンがごちる。
「聞くつもりはなかったんだけど、あなたとマルフォイの話が聞こえちゃったの」
「聞くつもりがあったんじゃないの」
ロンはいちいちハーマイオニーに噛み付くけれど、ハーマイオニーはそれをことごとく無視する。
「夜、校内をうろうろするのは絶対ダメ。もし捕まったらグリフィンドールが何点減点されるか考えてよ。それに捕まるに決まってるわ。まったく、なんて自分勝手なの」
カナはまったくハーマイオニーの言う通りだと思った。しかしハリーもロンもそっぽを向いていた。
「まったく大きなお世話だよ」
「バイバイ」
「あら、そう!」
ロンとハリーは行ってしまった。今日は入学以来、とくにひどい日だと思った。カナがやけどして入院した日とは比べものにならない。生徒が二人も死にかけたのだ。そしてさらに危険なことをしようとしている。
「あんなのは勇気じゃないわ。ただ見栄を張っているだけよ。マルフォイの言うことなんか、聞く必要なんてないのに」
ハーマイオニーのため息が、カナにも重くのしかかった。ハリーとロンの新たな試練は、彼らだけの問題ではないような気がしたからだ。
20170926-20230304