夏休みになってからというもの、カナは毎朝、バルコニーや玄関ポーチに顔を出しては、空を眺めていた。天気を気にしているのではなく――我が家のフクロウが、手紙を持ち帰ってくるのを今か今かと待っていた。
 そして――ついにバサバサと空を切る羽音が聞こえた。
「スキャントリー!」
 頭が禿げ上がり、まだらな灰色があちこち毛羽だった、大柄なワシミミズクが玄関の手すりに降り立った。頼りない見た目とは裏腹、まるい褐色の瞳は使命感に輝き、その前脚にしっかりと手紙を握っていた。カナがピンク色の地肌が見え隠れする額を撫でると、肩に飛び移ってきた。カナは家に入り、餌箱からペレットをつかんで与えた。彼はまだ若く、カナによく似たあまえんぼうで、カナが直接餌付けすることをすっかり気に入って、そうしないといつまでも小屋に戻らないのだ。
「ねえ、フレッドったらびっくりしてたかな?」
 スキャントリーは首をかしげた――カナの言葉はわかっても、その意味までは推し測れないようだった。
 おかあさんがさいきん飼い始めたらしいワシミミズクのスキャントリーは、ここ最近はひっきりなしに仕事をこなしていた。なにしろ、カナはフレッドとしょっちゅう手紙でやりとりをしていた。とくに内容があるわけではないのだけれど――不思議と、いくらでも話は尽きないのだった。たとえば――
「――君は知らないと思うけど、クィディッチ・ワールドカップに招待してくれたのはルード・バグマンだ! むかしイングランドのナショナル・チームでビーターをやってた。今は魔法省で働いてるんだ。だからおやじと知り合いなのさ。まったく、我が父ながら誇らしいったらないよ」
「ワールドカップが楽しみだよ。そのバグマンっていう人にお礼を言わなくちゃ。もちろんフレッドもそうするよね? それから、リーマスに聞いたんだけど、きみのパパって偉い人なんでしょう? それに、普段からよっぽどいろんな同僚を助けていないと、ワールドカップのチケットなんて高価なものを一枚だって譲ってもらえないって。アーサーおじさんってほんとうに素敵な人だね」
「そりゃ、おやじはマグル好きの変人だなんだってあちこちで言われてる。魔法使いらしくないってさ。今の仕事が気に入りすぎて、昇進のチャンスを棒に振ってることも僕らだってわかってる。でも、おやじがそんな人でよかったってむしろ思うよ。目と鼻と靴のとんがったお役所マンだったら、僕たち全員パーシーみたいになってただろうさ」
「自分の家で過ごす夏休みって退屈だよ。時間を早められたらいいのに。はやくきみに会いたいな」
 さいごの手紙で、カナはたったそれだけを書いていた。だから、フレッドがびっくりしていたんじゃないかと思った。カナは木の椅子に座り、手紙の封をはがし、便箋を取り出した。
「カナ。もちろん、僕もだ。マグルが空を見上げる習慣さえなけりゃあ、今すぐ箒ですっ飛んでいきたいくらいだ。はやく『姿現し』の免許を取らないとだな。十七歳になったら試験が受けられるんだ。まあ、成人なんてまだまだずーっと先の話だな――」
 突然、カナの肩がトン、と叩かれた。カナは飛び上がって、顔を上げた――シリウスが目の前に立っていた。
「カナ。準備ができた。そいつに持たせてやってくれ」
 シリウスは、カナが両手で抱えないといけないほど大きな包みを手渡してきた。それを膝の上にのせ、「オッケー」と答えた。
 ――数日前、ハリーのシロフクロウ、ヘドウィグが「アリアナの崖」へとやってきた。持ってきた手紙の内容はこうだ――いとこのダドリーのダイエットに巻き込まれて、このままでは餓死してしまう。何か食べ物を送ってくれないか――と。助けを求める知らせだった。カナはすぐにおかあさんとリーマスに相談した。まっさきに行動したのはシリウスだった。当然、シリウスはハリーの名付け親で、後見人で、ハリーが飢えているのなんて見過ごせるはずがない。シリウスは数日のあいだ姿を消し――そして、たったいま戻ってきたんだろう。
「これって何?」
「ハムに、ベーコン、ソーセージだ」
 カナは眉を寄せた。
「それだけ?」
「カナ。よく考えろ」シリウスはまじめくさった顔で語った。「ハリーは育ち盛りだ――つまり、肉が食いたいはずだ。加工肉は日持ちもするし、悪くない。ナイフで削って少しずつ食べられる。それに、ハリーが助けを求めたのはお前だけじゃないはずだ。まだ友だちがいただろう。そいつらが、普通は差し入れるならパンや菓子だろうな――そう、バランスだよ」
「うん・・・・・・わかったよ。ぼくの名前でいいの?」
「お前が返信するのが筋だろう」シリウスはすこし寂しそうに見えた。「俺もハリーの誕生日には食べ物を贈るか・・・・・・」
「ねえ」カナはキャビネットの上に包みを置いた。「ハリーに、この家に隠れてるって教えなくていいの?」
 シリウスは腕を組んだ。数秒、深くうなだれ、そして顔を上げた。
「考えたさ――だが、やめた。万が一手紙をハリー以外の誰か、例えばあの伯母家族に見られたとき、この家が晒される。そしたら、お前たち家族を巻き込むだろう」
「まあ、そうだね」
 カナはキャビネットの引き出しを開け、羊皮紙と羽根ペン、インク壺を取り出した。そして「また困ったことがあったら、いつでもヘドウィグを飛ばして。カナより」とハリーへ簡単にしたためた。
「それじゃ、ぼくはシリウスのことをハリーに黙っていないといけないね」
「そうしてくれ・・・・・・それに、俺は言ってしまったんだよ。『一緒に暮らそう』なんて、都合の良いことをな。現実はこのざまだ」
「ええ、シリウス。大人なら、約束を守らないとね」
 涼やかな声が玄関に加わった。おかあさんだ。カナはどきりとした――あの日以来、面と向かっておかあさんと話すのは久しぶりだった。
「カナ。あなたに手伝ってほしいことがあるのよ。手が空いたら、地下室に来てちょうだい」
 それだけ言うと、おかあさんはさっさとリビングに引っ込んでしまった。カナは拍子抜けしながらも、水飲み場でうたた寝しかけているスキャントリーを起こし、その脚に手紙と包みをくくりつけた。
「きっとハリーに届けてね。そしたらうーんと水浴びしていいから」
 スキャントリーはすこし疲れ気味だった目を輝かせて、意気揚々と玄関を飛び出していった。
「お前、ほんとうに動物に懐かれてるんだな。バックビークも、俺が相手するときと全然違う」
 カナはすこし得意げになってはにかんだ。
「うん。ぼくも嬉しいんだ。体質なのかな? むかしはそんなことなかったんだけどね――」
 シオンが死んでから、と言いかけて、カナは口をつぐんだ。さいわい、シリウスは尻込みしたカナのようすには気がついていなかった。

 リビングの奥から続くこの家の地下室は、「がれきの城」のおかあさんの工房とはすこし雰囲気が違った。明るい色の煉瓦が組まれているのもあるし、もともとは書斎か何かとして使っていたかのように、床には唐草模様の絨毯が敷かれ、壁際の大きな本棚には琥珀や標本、それに――家族写真が飾ってある。カナはそれに目を引かれたけれど、おかあさんがカナの足音に気がついた。
「カナ。あなた、魔法薬はできるほうかしら?」
「うん、まあ、得意だよ」
「私とよく似たのね」おかあさんはすこしうれしそうに口角を上げた。「あなたに『脱狼薬』をマスターしてほしいのよ」
 カナはきょとんと呆けて、目を瞬いた。
「ぼくに?」
「ええ。トリカブト系の脱狼薬は繊細だし、大人の魔法使いでも用意できるのはひと握りしかいないわ。そのうえ鮮度が命なの。自分で作って飲む事ができたら、それに越したことはないのだけれど――」
「リーマスは自分じゃ作れないんだ?」
「彼、魔法薬はからっきしよ」
 リーマスは不器用なうえ、味音痴なんだろう。数日前の――具材がほぐれていなくて砂糖がたっぷり入った夕食のパイの舌触りを、カナは思い出していた。
「それに、材料を揃えるとなるとひと月分でもかなりの額になるわ。扱いにくい薬草も――」
「そうだよ。もしもぼくが、トリカブトの分量を間違ったら、リーマスはどうなるの?」
「最悪の場合、死ぬでしょうね」
 ――沈黙は、そう長くは続かなかった。おかあさんは杖を振って、手元にひと巻きの羊皮紙を呼び寄せた。
「ここにレシピがあるわ。まだ改良途上みたいだけれど――これが現状ではもっとも安全性と薬効のバランスが保てている。私は長いあいだ、脱狼薬を実践研究していたみたいね」
 おかあさんが杖先で紙面をスーッとなぞると、文字が空中に浮かび上がってくる。それを耳に流し込みながら、おかあさんはレシピを読んだ。
「マンドラゴラの舌だなんて、我ながらよく思いついたわね。これがあるとずいぶん血流が良くなるでしょうね。つまり、副作用が抑えられるはず」
 カナは、満月前の一週間、毎回のようにぐったりと寝込んでいたリーマスのことを思い出した。
「もっと副作用を抑えられないの?」
「トリカブトを弱毒化してしまうと鎮静作用が弱まって、脱狼薬の意味がなくなってしまうわ」
 ――カナは少し拍子抜けしていた。おかあさんと顔を合わせるまで、どんなふうに話したらいいんだろうとぐるぐる悩んでいたけれど、考えすぎだったみたいだ。おかあさんは自分の「症状」について触れないし、カナも聞き出すつもりはなかった。きっと、知らないほうがいいことなんだろう。カナはまだ、おかあさんのことを「わからない」ままでいる感覚から抜けきっていない。リーマスのことだったら、きっとぜんぶを知りたがるだろうに。
「次の満月は十日後。カナ、あなた月の満ち欠けはわかるわよね?」
「えーっと、なんとか」
「自信を持ってちょうだい。私よりもよく見えるでしょう」おかあさんはくすくすと微笑みをこぼした。「アドバイスをしてあげる。窓辺で満月草を飼うといいわ。土が乾く日がないかぎり、満月の夜に花を咲かせて、新月の夜に種を落とす――グリフィンドール塔なら、月明かりがよく届くでしょう」
 おかあさんはその羊皮紙を、カナの目の前の机に置いた。
「やるつもりがあるなら、その紙を取って、よく読んでちょうだい」
 カナは一瞬ためらって――でも、好奇心に抗えずに、そっと羊皮紙を手に取った。
 脱狼薬のレシピは、何度か見たことがあるかすれた字で書かれていた。罰則で手伝いをさせられたときに、覚えのある材料が記されている。
「さあ、まずは材料を揃えましょう」
「おかあさん。やっぱり、ぼく、トリカブトなんて扱えないよ。スネイプ先生だって、ぼくには触らせなかったんだ」
「あら。『スネイプ先生』って、セブルス・スネイプ?」
 カナはぎこちなく「うん」と返事した。
「彼が? 教職に? 不思議なものね――いいえ。大丈夫よ、カナ。私のレシピを信用してちょうだい。一度はこれで満月をやり過ごしたんだから」

 ――それから十日間、カナは地下室で、腕が焦げそうなほど毎日いくつもの大鍋と向き合っていた。おかあさんの指導は気易いものではなかった。スネイプ先生の手伝いをした時よりも、カナはずいぶんと神経を尖らせていた。なにしろ、スネイプ先生は間違ってはいけない行程ではカナと交代していたけれど、おかあさんは指示を出すばかりでほとんど手を貸さなかった。そして、まるで目に見えているかのように大鍋の中の状況を言い当てた。おかあさんがこれまで――十五年の空白があったとしても、何百回、何千回とこの魔法薬と向き合ってきた証拠だ。
 この一週間、脱狼薬が成功しているのかどうか、カナには判別がつかなかった。服薬期間にリーマスがホグワーツにいた頃ほどぐったりしている様子はなかったけれど、確実に顔色は悪くなっていっていた。それで、カナはみるみる不安になった――おかあさんは、「副作用があるということは、本来の薬効が期待できるわ」と、あっけらかんとして言った。カナは、まだおかあさんの言うことを心の底からは信じきれていなかった。リーマスがだんだん元気をなくしていくとともに、カナも眠りが浅くなり、食欲が落ちていったので、何度もおかあさんの特効薬の世話になった。
「今夜、リーマスは地下室で過ごすわ」
 とうとう、七日目の夕方――おかあさんは大鍋の並んだ大きな書斎机にゆらりと腰掛けながら言った。
「暴れたとして、いちばん音が響かないから。彼はいつも鍵をかけて、その部屋で満月をやり過ごしていた・・・・・・だから私、いつからかベッドを置いてあげたのよ」
 たしかに、カナとおかあさんが作業していた地下室には、倉庫と、その反対側にもうひと部屋が繋がっていた。一人用のベッドが置いてあり、寝室というよりは仮眠室のようだとカナは思っていた。
「もしも、ぼくの薬が失敗だったら――?」
「一人前の魔女は、そんなことを考えないものよ」おかあさんは髪を耳に掛けながら言った。「なんだったら、カナ、あなたもこの部屋で一晩過ごしてみたらいいわ。きっと、狼の寝息が聞こえるだけだから」
 冗談の口ぶりには聞こえなかった。おかあさんは自分の指導の腕に相当自信があるんだろう。カナがアニメーガスということは知らないはずだけれど――
 腕まくりをして、髪を束ね――カナはさっそく机の上に瓶をひっくり返して、生きた火とかげサラマンダーを針で射止め、血抜きに取り掛かった。
 ――数時間の工程を経て、大鍋の火を弱め、カナが片手で大鍋をかき回しながら、その反対の手でトリカブトの容器にルーンスプールの卵球を割り入れているのを、おかあさんは感心したように聞いていた。
「杖もなしでここまでスムーズにこなすなんて、カナはずいぶん器用なのね」
「――え? 何か言った?」カナは大鍋から視線を逸らさずに聞いた。
「いいえ。何も」
 顎につたう汗が垂れてしまわないよう注意を払いながら、カナはトリカブトの混ぜものをそっと鍋に流し込んだ。魔法薬は粘り気を増し、重くなり、混ぜる速さが変わらないよう、カナは腕に力を込めた。
 やがて、鍋は青色の煙を噴き出すようになった。
「火を消したよ」
 混ぜる腕を止めずに、カナはおかあさんに言った。
「良い出来なんじゃないかしら」おかあさんは青い煙を手であおぎ、深く吸い込んだ。「十時にはリーマスが地下室へやってくるわ」
「・・・・・・リーマスは、変身した姿を誰にも見られたくはないと思うよ」
「ええ、もちろん。でも、私は何度も人狼の彼と過ごしたことがあるわ。そうじゃないと、検証にならないもの」
 カナはため息をつきながら、鍋の中身をおおきなゴブレットに移し替える。
「それは、むかしのおかあさんが研究をしていたからでしょう。ぼくはちがうよ・・・・・・」
「目を逸らすのは構わないけれど、自分が作り出したものには、責任を持たないといけないわ」
 カナは顔を上げたけれど、おかあさんの顔は髪で隠れてよく見えなかった。おかあさんは杖を振り、カナが散らかした作業台の上をきれいさっぱり片付けてしまった。
「私が言えたことじゃないかもしれないけれど・・・・・・カナに、それだけはわかっていてほしいの」
 カナは答えず、おかあさんのそばから離れた。肩を揉みながら、書斎机の椅子に座った。
「・・・・・・ねえ、この写真は、おかあさんでしょ?」
 カナは家族写真を手に取った。
「それから、おかあさんのお父さんとお母さん」
 薄く埃を被った硝子板を、カナはそっと撫でた。指の下から、埋もれていた三人が顔を出した。すこしびっくりして、でもほがらかに笑う黒髪の女性と、その肩を抱く神経質そうな金髪の男性、それから、母親の手をしっかり握っている、おとなしそうなダークブロンドの女の子。
「ぼく、名前も知ってるよ。ダンブルドアが教えてくれた――その、ねえ、ぼくたちは――」
 カナが顔を上げたとき、おかあさんはいなかった。いたのは、地下室の扉を開けたばかりのリーマスだ。
「おや、カナ――すまないね。エリアじゃなくて」
 すこし驚いたように、リーマスは青白い頬をぎこちなく持ち上げた。迷いなく脱狼薬が置いてある作業台に向かい、カナが用意したゴブレットを手に取った。
「エリアと重要な話をするにはコツ・・が要るんだ。彼女は臆病だから・・・・・・きみたちとは違ってね」
 リーマスがゴブレットを傾けて――カナはお腹の中に大石がズシンと落ちてきたような心地になった。何度かに分けてゴブレットが空になっていくのを、カナは黙って見守った。
「・・・・・・今回の脱狼薬だけれど、作ったのはカナだね?」
「――よくわかったね」
「ン、すこし・・・・・・飲みづらいからね」
「初めて作ったんだ。おかあさんはスネイプ先生よりも教え方が不親切だよ」
「ハハ――そりゃあ、エリアの分が悪いだろう。セブルスは本職の教師だからね」
 空のゴブレットを置き、リーマスは気だるげに壁に寄りかかった。
「カナ。わたしがこの部屋に入ったら、外側から鍵を掛けてくれないか?」
 作業台の上に、錆色の鍵がふたつ、そしてリーマスの杖が置かれた。カナは鍵とリーマスの顔を見比べた。
「わたしを閉じ込めて欲しいんだ」
「ふたつも鍵をかけるの?」
「きみが作った脱狼薬に自信があるのなら、そうしなくてもいい。そうでなくても、わたしは自分が信用できないから、この家にいる間はずっとそうしてきた」
 リーマスの鳶色の瞳はゆらゆらと揺れて、じっとカナを見つめていた。
「カナ。頼むよ」
 まだ手に持ったままだった写真を、カナは机の上に伏せて、立ち上がった。そしてリーマスの置いた鍵を、ふたつとも手に取った。
「わかった――ぼくもここにいるよ。猫の姿なら、大丈夫だから」
 リーマスはすこし不安そうにカナを見つめ返していたけれど、カナはできるだけぎこちなく見えないように、安心させるためにほほえんだ。リーマスは、小さな頷きを返してくれた。

 まもなく、カナはリーマスを閉じ込めるために、鍵をかけた。一歩下がり、あらためてその扉を見ると、ただの木の扉に見える――狼に変身したリーマスの、あの巨大な腕だったら、簡単に破ってしまうだろうな、と思った。おそらく、おかあさんがなにか頑丈になるように魔法をかけているとは思うのだけれど。
 カナは黙って扉から離れ、書斎の椅子に座った。そうしてようやく、どっと疲れがあふれてきた。カナはくったりと机に腕を預けて、そこに頬をつけた。
 そのとき、腕がなにかにぶつかって、カタリと音をたてた。写真立てだ――カナは机に半分寝そべったまま、それをふたたび手に取った。
 写真が傾いているので、写真の中のおばあちゃんとおじいちゃん、そして幼いおかあさんはよろめいていた。カナはそれがおかしくて、頬をゆるりと持ち上げた。身を起こし、写真を机の上に置いた。ようやく正しい位置に戻ったおばあちゃんは、おかあさんの乱れた髪と襟を正していた。
 ジョゼット・エリオットは、おかあさんに似たやわらかな色の黒い髪を持っていた。その瞳はおかあさんとは違い真っ黒だったけれど、垂れた目じりがおかあさんにそっくりだと思った。ほがらかに微笑んで、愛おしくて仕方がないといったように、何度もおかあさんの顔を覗き込んでいる。
 おじいちゃんのほうが、おかあさんによく似ていた。固く引き結んだ薄い唇や、髪をさわるしぐさが、そのものだと思った。厳格というよりは、不安そうに見えた。ただ、何度もおばあちゃんやおかあさんを見つめてはあわく微笑んでいる姿は、やっぱり家族を愛しているんだろうと思えた。細く瞬く淡いブルーの瞳を、カナはじっと観察した。おかあさんやぼくらの青い瞳も、おじいちゃん――ドナルベイン・レストレンジのものに違いない。
 幼いおかあさんは、可愛らしかった。目の下のくま・・もなく、今よりも目が見えているんだろう。母親や父親の顔を覗き込んでは、無邪気に嬉しそうに笑っていた。
「ねえ、シオン」
 なあに、カナ――
「ぼくらのおとうさんって、いったいどんなひとだろうね」
 カナは誰にでもなく言った。しいて言えば、いまはもうここにいないはずのぼくに話しかけているんだろうけれど。
「リーマスはああ言ったけど・・・・・・」
 ちらりと厳重に鍵のかかった扉を見る。もう狼に変身してしまっただろうか。物音ひとつ立たない地下室に、カナの小さな声だけが消え入るように響いた。
「『知らないほうがいい』だなんて、ひどい言い方だと思わない?」
 カナは写真立ての額縁を、そっと指でなぞった。
「まるで、悪い人みたいだね」
 すこし肌寒く感じて、カナはブランケットを持ってこなかったことを後悔した。机の上のランプを消し、暗がりにとけるように、カナは小さな猫へと姿を変えた。椅子の上に体を丸めると、ちっとも寒くなかった――動物の毛皮ってよくできてるな、なんて思いながら、カナはそのまままどろんでいった。







「カナはおかあさんがきらいなんだね」
 つたないミルク粥を混ぜながら、唐突にシオンが言った。おとといリーマスがくれたチョコレートの銀紙が、手の中でくしゃりと音をたてた。塊を口のなかでとかしながら、シオンの空色のひとみをじっと追いかけた。シオンはこっちを見なかった。
「シオンはちがうの?」
「ぼくは――」もてあそぶばかりで、粥はいつまでたっても口の中には入っていかなかった。その器をパッととりあげて、スプーンを口の中に入れた。それでも、シオンはもんくを言わなかった。「ぼくは、家族がすきだよ」
「ねえ、シオン。おかあさんはぼくらのことなんて、どうだっていいんだよ」
「そんなのわからない。カナはおかあさんじゃないでしょう」
「もうつかれちゃった」そう言うと、シオンが顔を上げた。スプーンを放り投げて、温度がなくてぼそぼそした粥をシオンに押しやった。「ぼく、シオンみたいにがまんづよくなれないよ。どんなに待っても、おかあさんは笑いかけてはくれないし、手も握ってくれない」
「カナはそんなことを期待してるんだ?」シオンはすこしあわれむように言った。「ぼくはただ――」
「『家族はいっしょにいるべき』でしょ。聞きあきたよ」
 テーブルに突っ伏すと、シオンがため息を吐くのが聞こえた。
「シオンって、そればっかり――おかあさんのことばっかり――」
「ちがう・・・・・・カナ・・・・・・ぼくは・・・・・・」
「シオンはぼくよりおかあさんが好きなんだもんね」
「カナ!」
 甲高い音が響いた。粥の器が床に落ちて、割れて飛び散った――遅れて、ぱたぱたと赤い血が、落ちた。



「――っ!」
 冷たい、冷たい床だ。垂れたのは――カナの汗だ。
 カナはいつの間にか椅子から落ちて、床に寝そべっていた。それに、人の身にも戻っていた。
「はあ、はあ――っはあ、はあ」
 ひどい夢を見たみたいだ――でも、よく思い出せない。ただ、内側からハンマーが頭を叩いているみたいだったし、心臓も胸を叩いてズキズキと痛んだ。浅い呼吸をなんども繰り返し――ゆっくり呼吸できるようになっても、頭にかかった霧はとれなかった。
「おい、生きてるか?」
 顔を上げると、天井を背にシリウスが立っていた。
「そんなんじゃ、また風邪をひくぞ――お前の母さんの努力が水の泡だ」
 シリウスはいつの間にか毛布を手に持っていた。それをカナに巻き付けようとした手が、唐突に額に触れた。
「ひどい汗だ」
「っけほ、そ、その――」喉がからからに乾いていた。カナはあわてて身を起こした。「うなされてただけ。なんか、へんな夢みちゃって」
「ベッドに入った方がいい。リーマスももう終わるだろ」
 カナが毛布をぎゅっと抱き寄せたとき、扉がトントン、と叩かれた。
「ほうら、お出ましだ」
 シリウスが鍵を開け、リーマスが奥から出てきた。すこしくたびれた様子だったけれど、カナを見てにこりと微笑んだ。
「ど、どうだった――?」
「カナ、成功だよ。きみの脱狼薬はちゃんと役割を果たしてくれた」
 カナはよろよろと立ち上がり、リーマスに飛びついた。大きな冷え切った手が、カナの髪をかき混ぜた。
「ン、体が冷えているよ。お風呂にでも浸かって、ベッドで休むといい」
「うん!」
「俺もさっきそう言ったはずなんだがな」
 ぼやいた声を、カナはしっかりと聞いていた。
「シリウス――ありがとう」
 カナがほほえむと、シリウスはすこし照れくさそうに肩をすくめた。



 それから、カナは何度か風邪をぶり返しながら、そのたびにおかあさんの特効薬の世話になった。
 フレッドの手紙には、一時は魔法省の「国際魔法協力部」に今年から就職したパーシーの愚痴が多く綴られたけれど、しだいにクィディッチ・ワールドカップの話題が盛り返してきた。
 八月の中旬にさしかかる頃、いよいよその楽しみが目の前にやってきた。

「おやじがとうとうチケットを持って帰ってきたぞ。決勝戦だ。アイルランド対ブルガリア! 月曜の夜だ。カナ、もちろん行くよな? お前さんのママに許可をもらっといてくれ。もしかしたらおふくろが連絡してるかもしれないけど、とにかく次の返信で答えをくれ。それに、お小遣いをもらうのを忘れるなよ」

 カナは夕食の席で、おかあさんとリーマスに向かって言った。
「アーサーおじさんが、クィディッチ・ワールドカップのチケットをもらったんだって。それで、ぼくも来ていいって――ねえ、行ってもいいよね?」
 カナはほんの少し不安な気持ちで聞いた――以前、おかあさんはダイアゴン横丁への外出を許可してくれなかったから。以前とは違うとわかっていても、それはいつまでも付きまとっていた。
「へえ、ずいぶん羽振りがいいな」
「アーサーおじさんは魔法省に勤めてるから、伝手があるんだって」
「ン、いいんじゃないかな? エリア、どうだい?」
 みんなの視線が、おかあさんに注がれた。
「ええ。もちろん。アーサーがいるなら心配ないし、モリーからも連絡が来ていたわ。週末にあなたを預かって、学校が始まるまで泊まっていくように書いてあった」
「おかあさん、いいの?」
「断る理由がないわ」おかあさんは朗らかに言った。「日曜日にそちらに伺うよう、手紙を書いておいてちょうだい」
 カナは花が咲くようにパッと顔を輝かせた。

 すぐにスキャントリーに手紙を託し、カナは荷造りを始めた。おかあさんのお下がりのトランクに、羊皮紙や羽根ペン、インク壷を詰め込んだ。買ってもらったばかりのパジャマに、洋服、そして、学校用のローブを手に取ったとき、あることに気がついた。
「おかあさん、ローブが合わなくて・・・・・・あたらしいのを買ってくれる?」
 リビングに降りてきて、体の前で合わせると、すっかり膝よりも上に裾が来ていた。それに、すこしきゅうくつだ。カナは学年でも小柄なほうだけれど、ちゃんと背は伸びているみたいだ。リーマスやシリウスが長身なせいで、よけいにそう見えるのだけれど、おかあさんも小柄なほうだ。カナはおかあさんによく似たんだろう。
「わかったわ。夏休みのあいだに準備する・・・・・・まあ、なつかしい。これ、私のお下がりよね」
「うん。ぼくの学用品はぜーんぶおかあさんのお下がりだよ」
 おかあさんはなつかしむように、ローブの襟や袖にふれていた。
「杖も、さいしょはおじいちゃんのだった・・・・・・」
 うっかりそう言ってしまったあとで、カナはちらりとおかあさんを見た。おかあさんは目を伏せたまま、穏やかに微笑んでいた。
「私も、まだ母の杖を使っているわ」
「ねえ、地下室に写真があったでしょう。ぼく、見たよ。おじいちゃんと、おばあちゃんと、おかあさん」
「ええ・・・・・・」
 カナは、ローブを握ったままのおかあさんの手にそっと触れた。
「ぼく、うれしかった。家族のこと、なんにも知らなかったから」
「カナが欲しいなら、あげるわ、あの写真」
「ほんとう?」
 おかあさんが、ローブを手放してカナの手を握り返した。
「あのね。ぼくは双子だったよ。おかあさんの子どもはふたり。シオンって言うんだ。でも、十一歳の時に亡くなった」
「そう・・・・・・つらい思いをしたのね」
「おかあさんもだよ」カナは深く息を吐き、吸った。「でも、よく覚えてない・・・・・・シオンが死んだ時のことは」
「忘れたほうがいいこともあるわ」
「ハグリッドもそう言ってた」
 カナはおかあさんの隣に座った。腕を絡ませて、細い肩にもたれかかった。
「カナ、あなた、甘えんぼうだって言われない?」おかあさんのくすくす笑いが降ってきて、カナの髪が撫でられた。
「うん、ぼく――ずっとこうしたかったのかも」
 まどろむような、ほんの数秒の抱擁の時間を、カナは永遠のように感じた。だんだん、すこし気恥ずかしくなって、手を離した。
「ねえ、ひとつだけ聞いてもいい?」
「いいわ」
 カナは深く息を吸い込んだ。
「あのね、ぼくはおとうさんが誰か知らないんだ。リーマスが、『まだ知らないほうがいい』って言うんだ。だから、誰なのかは聞かないよ。おかあさんを困らせたくはないから」
 おかあさんは目を伏せたまま、黙ってカナの言葉を待っていた。
「・・・・・・その、ねえ、でも、これだけ教えて欲しい・・・・・・おかあさんは、ぼくのおとうさんのこと、好きだった?」
 カナは、すがるような目でおかあさんを見た。それをおかあさんは知らないだろうけれど――カナは、ぼくたちが望まれて生まれてきたのだと、そう言ってほしかったんだと思う。
「愛してた?」
 一秒だって待てないくらい、カナはそわそわと聞いた。おかあさんはにごった目をわずかに開き、あわく微笑んだ。
「ええ、愛していたわ」
 カナは、それだけ聞けたら、もうじゅうぶんだった。



20240930


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