触手のように大きな真っ黒の茎が、かすかに全身を奇妙にうねらせていた。その茎はカナの腕ほどの大きさがあった――これが顔を叩いてきたら痛いだろうな、とカナは考えた。節々に、ぬらぬらと光る腫れ物をこさえており、まるで中に水か膿が溜まっているようだった。
「ええ、これは腫れ草ブボチューバーです」
 唖然と鉢植えを眺めている生徒たちを見回しながら、スプラウト先生がきびきびと言った。四年生最初の授業は、ハッフルパフと合同の「薬草学」だ。
「絞ってやらないといけません。溜まりすぎると爆発してしまいますから。みんな、膿はこの瓶に――」
「うえっ、なにを?」
 シェーマスが、ふだんは血色のよい頬を青くして言った。
「膿ですよ、フィニガン。」スプラウト先生ははっきりと言った。「しかもとても貴重なものですから、無駄にしないように。今から瓶を配りますよ。きちんとドラゴン革の手袋をして。原液のままだと、この腫れ草ブボチューバーの膿は皮膚におかしな害を与えることがあります」
 カナはこの作業にはとても没頭できた。隣のネビルも、普段はなにかやらかさないかとヒヤヒヤするのだけれど、薬草学に関してだけはカナよりもずっと詳しいのだ。腫れ草ブボチューバーの腫れたところを突いてやると、黄緑色の膿がどろっと溢れ出して、それがものすごく強烈な、表現し難いニオイで、それだけが気分が悪くなる原因だったけれど、そんなに難しくも危険でもない。みんな、授業が終わる頃には瓶にたっぷりと膿を詰め、それが何十本もできあがったので、スプラウト先生は満足そうに頷いていた。
「マダム・ポンフリーがお喜びになるでしょう。頑固なニキビにすばらしい効き目があるのです。これのおかげで、ニキビを消そうと躍起になって、生徒がとんでもない手段を取ることもなくなるでしょう」
「かわいそうなエロイーズ・ミジェンみたいにね」ハンナがこそっと言った。「自分のニキビに呪いをかけて取ろうとしたのよ」
「痛そう」カナがうめいた。
「バカなことをしたものです」スプラウト先生も言った。「マダム・ポンフリーが鼻を元通りにくっつけてくれたからよかったものの」
 そのとき、鐘の音がホグワーツ城のてっぺんから聞こえてきた。終業とともに、ハッフルパフ生は石段をのぼり、「変身術」の教室へ。グリフィンドールは全員が授業をとっているので「魔法生物飼育学」の行われる「禁じられた森」の方角へと、芝生をくだっていく。
 ハグリッドの丸太小屋が見えてくると、その前に大柄な人影と犬の影が見えた。ハグリッドとファングだ。ファングはずっとそわそわして、足元に置いてある木箱に何が入っているのかとニオイを嗅いでいたけれど、ハグリッドが首輪を握って押さえている。カナ達が近づくと、ファングはぱっとこちらを向いて、飛びつこうとして、まるでカナに頬擦りしたくてたまらない様子だった。
「おはよう!」
 ハグリッドは四人に向かってにっこり笑った。
「わあ、ファング、久しぶり!」
 ファングはカナの手をべろべろと舐めた。犬のファングは臆病で優しくて、カナが大好きで――カナもファングが大好きだった。
「ああ、スリザリンを待った方がええわな。あの子たちもこいつを見逃したくはねえだろう――『尻尾爆発スクリュート』を!」
 パン! と足元の木箱の中から、なにか爆発音がした。
「もう一回言って?」ロンが顔をしかめた。
 ハグリッドが指差した木箱の中を、全員で覗き込んだ――「ギャーッ!」とラベンダーが真っ先に飛び退いて、すぐそばにいたシェーマスのローブぐいと引っ張ったので、首が絞められていた。
 まるで――まるで何かには例えられないような生き物だった。殻のないロブスターのような、しかし奇妙にいびつな造形で、青白くぬめった胴体からは、不規則に脚が突き出していた。節足動物に似ているけれど、頭らしい頭はない。それが、木箱の中で百匹ほど重なりあってうごめいていた。腐った魚のようなにおいが充満している。時々、尻尾らしい部位から火花がはじけ、それがパン! と音を立てて、その衝撃で十センチほど弾け飛ぶように前進している。
「いま孵ったばっかしだ」ハグリッドは、グロッキーになりかけているグリフィンドール生を尻目に、得意げに言った。「だから、おまえたちが自分で育てられるっちゅうわけだ! そいつをちいっと課題にしようと思っちょる!」
「それで、なぜ我々がそんなものを育てなければならないのでしょうね?」
 冷たい、気取った声だ。
 振り返ると、スリザリン生が到着していた。ドラコ・マルフォイを先頭に、両脇に図体の大きなクラッブとゴイルを従えて、みんなでクスクスと笑っている。
 ハグリッドは言葉を失っていた。
「つまり、こいつらは何の役に立つんだ? この課題に何の意味があるんでしょうねえ?」
 マルフォイの問い詰めに、ハグリッドは口をパクパクして、必死に答えを考えているようだ。数秒の沈黙があって、ハグリッドは素っ気なく言った。
「マルフォイ、そいつは次の授業だ。今日はみんな餌をやるだけだ。さあ、いろんな餌をやってみるんだ――俺はこいつらを飼ったことがねえんで、何を食うのかよくわからん。アリの卵、蛙の肝、それに、毒のねえヤマカガシなんかもちいと用意してある――全部をちーっとずつ試してみるんだ」
 カナはアリの卵を、ぱらぱらと木箱の中に放り込んでみた。スクリュートに口があるとは思えない。それに、こんなにたくさんうごめていたら、どうやって捕食しているのかなんてわかりっこない――
「痛っ!」
 木箱に手を突っ込んだディーンが叫んだ。
「こいつ、攻撃した!」
 ハグリッドが心配そうに駆け寄ってきて、ディーンが手の火傷を見せつけた。
「尻尾が爆発した!」
「ああ、そうだ。こいつらが飛ぶ時にそんなことが起きるな」
「ディーン。小屋の水場で火傷を冷やしてきなよ」
 カナはディーンをうながして、ハグリッドの小屋へ向かわせた。
「ギャーッ!」またラベンダーの叫び声だ。「ハグリッド、あの尖ったものは何?」
「ああ、針を持ったのもいるな」
 カナはラベンダーが刺された指を、ぎゅっと絞って押し出した。血がぷくりと玉になって出てくる。毒がないといいけど。
「多分、雄だな・・・・・・雌は腹ンとこに吸盤みてえのがある・・・・・・血を吸うためじゃねえかと思う」
「えーっ、吸血するの?」カナが眉をひそめた。「手袋をしてた方がいいかも・・・・・・薬草学用の」
「おやおや、なぜ僕たちがこいつらを生かしておこうとするのか、これでようやくわかったよ」
 マルフォイが皮肉たっぷりに言った。
「火傷させて、刺して、噛み付く。これが一度にできるペットだもの。誰だって欲しがるだろう?」
「かわいくないからって役に立たないとは限らないわ」
 ハーマイオニーがはっきりと言った。
「ドラゴンの血液なんか、すばらしい魔力があるけれど、ドラゴンをペットにしたいなんて誰も思わないでしょ?」
 カナはハグリッドに向かって微笑んだ。ハグリッドも、もじゃもじゃの髭奥で苦笑いした。ハグリッドはむかし、カナたちが一年生の時、ドラゴンを飼おうとして大変なことになったと聞いた――ハグリッドは、危険で魅力的な生き物が大好きなのだ。

「まあ、少なくとも、スクリュートは小さいからね」
 授業が終わって、ランチのために城に戻る道すがら、ロンが言った。
「そりゃ、今はそうよ」ハーマイオニーは声を高くした。「でも、ハグリッドがどんな餌を与えたら良いか見つけたら、たぶん六フィートぐらいには育つわよ」
「吸血性なのに、そんなに育つ?」
「カナったら、真面目な分析ね」カナの呟きにハーマイオニーがそう言った。ロンとハリーは目を丸くして、そんなハーマイオニーを見ていた。
「だけど、あいつらが船酔いかなんかに効くってことになれば、問題ないだろ?」
「わかってると思うけど、私はマルフォイを黙らせるためにあんなことを言ったのよ。本当のところを言えば、マルフォイが正しいと思う。スクリュートが私たちを襲うようになる前に、全部踏み潰しちゃうのが一番良いのよ」
「もしもし、カナ先生」ロンが眉をピクリと動かして、眼鏡をクイっと持ち上げる真似をしながら言った。「スクリュートが魔法薬の材料になるとして、どこをどうやって使えば良いんでしょうかね?」
「まあ、爆発する器官があるわけだから、花火かなんかの材料にはなるんじゃない?」
「じゃあ、あいつじゃなくても十分だな」ロンは眼鏡を空中に投げ捨てた。
 四人はグリフィンドールのテーブルについた――とたん、ハーマイオニーがポテトやラムチョップをものすごいスピードで食べるので、三人は目を丸くした。
「あ――それって、ハウスエルフの権利擁護の新しいやり方?」ロンが聞いた。「絶食じゃなくて、吐くまで食べることにしたの?」
「いいえ」キャベツを口いっぱいに頬張ったまま、それでもきりっと威厳を保って、ハーマイオニーが言った。「図書館に行きたいだけよ」
「エエッ?」ロンが信じられないといった声を出した。「ハーマイオニー、今日は一日目だぜ。まだ宿題は一文字だって出てない!」
 ハーマイオニーは肩をすくめ、心配になるほどの猛スピードで食事を掻き込んだ。それが終わるとサッと立ち上がり、「じゃあ、夕食の時にね!」と言うなり、走って大広間を出て行った。
「ハーマイオニーって、何を考えてるんだろう」カナがポテトをほぐしながら言った。
「さあな」ロンがラム肉にソースをかけながら答えた。「あいつの頭の中を覗き見できるんだったら、苦労しないよ」

 ランチのあとに、北棟二階にカナは向かう。「マグル学」への教室に向かうのに、ハーマイオニーが伴わないのが、すこし心細かった――去年だって、ハーマイオニーは「逆転時計タイムターナー」を使って、この時間はいくつもの授業を同時に受けていたのだから、一緒に教室に向かったことはまれ・・だったのだけれど。
「ハーイ、カナ! キャンプ場ぶりだね」
 後ろから声がかかった。駆け寄ってきたのは、スリザリンの友達のガートルードだ。
「ハーイ、ガート。元気だった?」
「あんたよりはもちろん元気だよ」チョコレート色のつやつやした髪がふわりと揺れると、華やかな香りがあたりに舞った。「昨日は入院してたんだって?」
「ぼくももう元気になったよ」
「ウーン、でも、なんか・・・・・・」ガートはカナの全身をじろじろと観察して、形のよい眉を寄せた。「なんか、楽しくなさそうだね?」
 ガートの観察力はずば抜けてるな、とカナは苦笑いした。
「そんなことないよ」カナは笑ってみせた。「考えごとが多いだけ」
「あたしたち、お年頃だしね」
 バーベッジ先生のコレクションは、去年よりも数を増やしていた。カラフルな子ども用の箪笥の上に、ドールハウスやテディ・ベア、それにいろんな種類の車の模型が飾られている。
「みんな! 今年度の学期末には、マグル式で手紙を出せるようになりましょう。先生の住所を教えてあげますから、キングス・クロス駅のポストに投函してね――」
 生徒が揃うや否や、先生は朗らかに話し出した。チャリティ・バーベッジ先生は明るい魔女で、魔法族生まれだけれど、マグルの生活様式にとても詳しかった。マグル製のおもちゃが好きで、それが教室にいくつも飾ってあった。カナは、それを眺めるのが好きだった。マグル学はカナにとっては難しいけれど、きっと将来役にたつし、興味深い科目だ。
「そうだわ。夏休みになにかマグルの文化に触れたひとはいるかしら? そうね、たとえば――うん、ミス・エリオット?」
 先生はさいしょ、ガートと目が合ったのだけれど、ガートはマグルについて詳しすぎたため、その隣のカナに質問が回ってきた。
「キャンプ場で、テントを設営しました。それに野外でマグルのやる料理を」
「まあ、すばらしい。それってクィディッチ・ワールドカップね?」
「ええと、はい――」カナはすこしヒヤリとした。「闇の印」の話題にならなければいいけど、と思っていると、バーベッジ先生はさらにカナにたずねた。
「それで、ミス・エリオット、料理はうまくいったかしら?」
「ハーマイオニーがマッチで火を起こしてくれたんです。でも、火がなかなか育たなくて、それが大変でした」
「まあ、ミス・グレンジャーね! 優秀な魔女である彼女がこのクラスからいなくなってしまったのはとても残念だったわ。でも、ミス・エリオットはいい体験をしたわね。キャンプというのはマグルの趣味の中でもとっても難しいのよ。マグルたちでさえ、段取りに手間取ったり、そもそも準備不足だったりと、たいていは何かしらの失敗をするわ――つまり、マグルたちは普段の生活では、魔法の代わりに便利な道具に囲まれて暮らしているの。だから原始的な生活をいつまでもしているわけではないわ――これは去年やった総括だから、もちろんみんなわかっているわよね?」
 そのまま、バーベッジ先生の興味は他の生徒へと向けられた。カナは去年度の学期末の試験で、マグル学でそれはひどい成績を残していたから――おそらく、先生はカナのことを気にかけているんだろう。

「宿題が出なくてよかったね」
 教室を出ながら、ガートがカナに向かって言った。
「バーベッジ先生ったら、すっごく機嫌がよかったし」
「ぼく、今年の『マグル学』は欠点を取りたくないよ」カナは切実なまなざしでガートを見た。「ね、お願いだよ、ガート?」
「まったく。あんたにはマグル生まれの友達がいるでしょうが・・・・・・」
 中庭を周り、玄関ホールに向かう廊下に差し掛かったとき、目の前に人だかりができているのに気がついた。
「なにごと?」
「夕食の行列じゃないの?」
 ガートが背伸びして、前のほうを覗き込んだ。
「うーわ」
 そして、カナに視線を合わせた。
「またマルフォイとポッターたちが揉めてるよ」
「ええっ?」
 聞くや否や、教科書の入った鞄をつかみ、カナはなんとか生徒たちの間に入り込み、押しのけながら、騒ぎの中心へと向かった。
「ごめんね、通して――」
 突然、バーン!と大きな音が響いた。その場にいる生徒たちは悲鳴をあげ、数人が廊下に引き戻ってきたせいで、カナは挟まれて揉まれるはめになった。
 ふたたび、バーン!と二度目の炸裂音だ。呪いの撃ち合いにちがいない――カナはいそいで、むりやり前へと進み、そして、もみくちゃになりながら、やっと人垣の先頭に出ることができた。
 玄関ホールで起きていた騒ぎは、カナの想像とは違った。そこに立っていたのはたしかにハリー、ロン、ハーマイオニーの三人で、その向かいがわにクラッブとゴイルが立っていた。しかしマルフォイの姿はなく、代わりに見たことのない魔法使い――おそらく、この人が新任の「防衛術」の教師のムーディ先生なんだろう――その人が、今まさに杖を振り上げているところだった。
 カナは目を疑った。目の前で、純白のフェレットが持ち上がった。そして――そのまま勢いよく床に叩きつけられ、その反動で小さな体が再び跳ね上がっていた。
「二度と――こんな――ことは――するな――」
 フェレットが空中高く持ち上げられては、石畳に強く叩きつけられて――それが何度も、何度も、ムーディ先生が杖を振るうたびに、フェレットはかすかに悲鳴をあげながら、手足と尻尾をじたばたさせる程度の抵抗しかできずに、叩きつけられていた。
やめて!
 カナの声が玄関ホールに響いた。ムーディ先生の目の前まで飛び出すと、その場の視線を一身に浴びているのがわかったけれど、カナは怯まなかった。
「そこをどけ」
 ムーディ先生は、カナがこれまで出会ったことのない種類の威圧感を放っていた。凄腕の闇祓いだったというのは本当なんだろう。その顔じゅうには、リーマスなんて比にならないほどの傷が、深く刻まれていた。たてがみのような、長くまだらな灰色の髪がばらりと垂れて、隠れているけれど――多くの呪いを受けてきたんだろう。口は曲がっているし、鼻は大きく削がれていた。何よりその相貌が恐ろしいのは、異様な片目のせいだった。
 黒いほうの、おそらく本来の目がじっとカナを見据えた。飛び出した青いほうの目は、魔法仕掛けで動いているんだろう。真横や真後ろまでぎょろぎょろと忙しなく動き、玄関ホールにいる全員を観察しているようだった。
 カナはフェレットとムーディ先生のあいだに仁王立ちした。
「ぼくのこともお手玉しますか?」
卑怯者が!
 ムーディ先生の声が轟いて、カナのすぐ傍を光線が貫いた。咄嗟に振り返ると、フェレットが再び、見上げるほどの空中に跳ね上がっていた。
 カナは手を伸ばして、落ちてくる白い体をキャッチした。そしてそのまま腕の中に閉じ込めて、再びムーディ先生に向き直った。
「やめてくださいと言ってるんです。死んでしまったらどうするんですか? 誰のペットか知らないけど・・・・・・」
 その言葉に、ムーディ先生が顔じゅうの傷をうごめかせた。
「そいつはルシウスのせがれだぞ、エリオット」
「はあ?」
 カナはきつく抱きしめている純白のフェレットを見下ろした。胸から離し、両手に包んで、その小さな全身を観察した。フェレットはそれが嫌だったようで、ジタバタと全身を暴れさせたので、カナは再び自分の体に押さえつけなければならなかった。
「――だったら、生徒なら、なおさらでしょう!」
「敵が背後を見せた時に襲うやつは気に食わん」
 このフェレットがマルフォイだったとしても、カナのそばを離れたら、ムーディ先生はまた難癖をつけて体罰を与えるだろう。
「気に食わなければ、痛めつけていいって言うんですか」
「これは教育だ」
暴力です!」カナは辛抱強く叫んだ。「あなたのやってることは、あなたが捕らえてきた闇の魔法使いと、なにも変わらない――」
「エリオット」冷たい声だ。両方の目が、カナのことを刺すように見ていた。「お前も何かを失えば、その甘えた考えを捨てるだろうな」
「何ですか、何の騒ぎです!」
 マクゴナガル先生の声だ。騒ぎをききつけてなのか、誰かが知らせたのか――階段を急いで降りてくる。
「やあ、マクゴナガル先生」
 ムーディ先生は、場違いなほど落ち着いた声で挨拶をした。
「な――なぜ生徒に杖を向けているのですか!」
「勘違いなさらぬよう。エリオットにではない」
「は?」
 マクゴナガル先生はパッとカナを見やった。カナは腕の中のフェレットを突き出して、言った。
「マルフォイなんです」
「どういうことです?」
 その瞬間、フェレットがするりと抜け出して、カナの手の上から落ちた。
「まだわからんか!」
 ムーディ先生はそれを見逃さなかった。黒い目がぎらりと光り、すばやく杖を振り上げると、フェレットも空中高くに飛び上がった。
ムーディ!
 すかさずマクゴナガル先生が杖を取り出し、床にぶつかる寸前でフェレットを静止した。そして、変身術が解かれ――マルフォイが姿を取り戻した。床に這いつくばった姿で、怒りと屈辱で顔を真っ赤に燃やし、いつもかっちりと撫で付けられているプラチナ・ブロンドの髪はバラバラと顔にかかっている。その顔は引き攣っていたけれど、自力で立ち上がった。そのとき、グレーの目が傍に立つカナをぎろりと睨んだ。カナは一歩下がり、距離をとる。
「ムーディ、どういうつもりですか!」
「教育だが」
「――わが校では、懲罰に変身術を使うことは絶対にあり得ません!」マクゴナガル先生が、困り果てたように言った。「ダンブルドア校長から、そうお話があったはずですが」
「そうかもしれんな。しかし、儂の考えでは、一発厳しいショックで――」
「ムーディ! わが校では居残りの罰を与えるだけです! あるいは、規則を破ったその生徒の寮監に託すのです」
「それでは、そうするとしよう」
 ムーディ先生は嫌悪のこもった目でマルフォイを睨め付けた。マルフォイは潤んだ目で、しかし激しい怒りをあらわにして見上げていた。小さな声でなにか呟いている。かろうじて「父上」とだけ聞こえたけれど。
「フン、そうかね?」
 コツ、コツ、と独特の足音がホールに響く。ムーディ先生は片足を引きずるようにして不自然に体を揺らして歩いている。おそらく、あの片足は義足なのだろう。
「いいか、儂はお前の父親のことを昔からよく知っているぞ・・・・・・おやじに言っておけ。ムーディが息子から目を離さんぞ、とな。儂が言ったと伝えろ・・・・・・さて、お前の寮監は確か、スネイプだったな?」
「はい」マルフォイがいまいましそうに言った。
「やつも古い知り合いだ」ムーディ先生が唸るように言った。「懐かしのスネイプ殿と話したかったところだ・・・・・・来い、さあ・・・・・・」
 そして、ムーディ先生がマルフォイの腕をつかんで、足早に地下牢のほうへと歩いて行ってしまった。
 マクゴナガル先生が二人を心配そうに見送り、ため息をついてその場を立ち去ると、ようやく生徒たちが、興奮ぎみに話しながら大広間へと動き出した。立ち尽くしていたカナがその流れに押し出されそうになっていると、ぐいっと腕が引っ張られた。
「ちょっと、カナ!」
 ガートだった。ふたりは大広間の隅っこに行って、こそこそと話し出した。
「あんた、何やってんの?」
「な、なにって」カナはふるえた声で、うろたえていた。
「マルフォイなんか助けちゃって!」
「知ってたら、あんなことしてない!」胸のあたりをぎゅっと掴みながら、カナはうめいた。
 ガートに伴われながら、カナは大広間に入る。いつもよりもさわがしく聞こえるし、スリザリンのテーブルからは視線を感じる。グリフィンドールのテーブルでも、愉快でしょうがないといったふうなクスクス笑いが、あちこちから聞こえてくる。
「ドラコ・マルフォイ。脅威の弾むフェレット――」
 ロンとハリーが、真面目な話でもしているかのような低いトーンで言った。
 カナがうなだれながら、グリフィンドールのテーブルの端っこに座ると、ハーマイオニーが顔を上げた。
「しかもさ、あいつ、むにゅっと埋もれてたぜ、カナのおっぱいにさ――」
「バカ、黙って」ハーマイオニーがロンの口にキャセロールの熱々のスプーンを突っ込んだ。
「さいあく。泣きそうだよ」カナは両手で顔面を覆った。そして、弱々しくくぐもった声を出した。「あれがマルフォイだってわかってたら、抱っこはしなかったのに・・・・・・」
「カナ、去年から学習してないみたいだな」キャセロールを飲み込んだロンが、両手を下品に動かしながら言った。「今度から生き物を可愛がるときは、人間じゃないか確かめたほうがいいな。そうじゃなきゃまた――」
「よしなさいったら!」
 ハーマイオニーはカナの目の前にもキャセロールを取り分けてくれた。でも、カナは手をつける気分にならなくて、魔女かぼちゃジュースをちびちびと飲んだ。そのあいだに、ハーマイオニーはさっさと食事を済ませて、立ち上がって図書館に向かってしまった。
 そして、そのあいた席にフレッドが座る。
「おい、カナ。ありゃどういうことだよ?」
 その言いぐさに、カナはすっかり心くたびれてしまった。キャセロールの皿をフレッドに押しやり、大きなため息をついた。
「どういうことも何も、見てたんだったらわかるでしょ。いま、話しかけないでよ」
「なんでだよ?」
 フレッドのしかめ面に、カナは言葉を口にするのをためらった。
「話したくないから!」
 立ち上がって、カナは大広間を出て行った。
「なんであいつが怒ってるんだ?」
 その後ろで、フレッドがあきれた声を出していた。

 いらいらしながら、カナはグリフィンドール塔に戻ろうと階段をあがっていた。しかし――思い直して、途中で引き返した。
 何も考えたくないな。
 こんなとき、猫のすがたになれたら複雑なことは考えなくていいのに。と、カナはそう思っていた。猫のすがたのときはいつも、快か不快か、それだけ好き好んで、思うままにしていたらいいのだから――
 暗く、湿った芝生を見つめながら、カナは一階の裏口から校庭に出た。つめたい石壁にからだを預けて、目を閉じた。
 フレッドの「どういうことだよ」って、どういう意味なんだろう――カナがあの場に飛び出したのは、フェレットがただかわいそうだっただけだ。マルフォイを助けたかったんじゃない。それを、いったいどれだけの人がわかってくれているんだろう。目を開けると、沈むように低く渦巻いた雲が、スルスルと風に流されていくのが見えた。月の明かりすら見えない暗い空を見上げながら、カナはふと思い出したことがあった。
「ひとりになることがないように気をつけて」と、カナは今朝エリアさんの手紙で忠告されたばかりだ。身を起こし、重い腰を上げた。向こうのほうで、「禁じられた森」の木々が風でこすれ、ざわざわと蠢いている音が聞こえてくる。
 ああ、何やってるんだろう。はやく城へ戻ろう。そして、さっさと寝てしまって、こんなモヤモヤとはおさらばするんだ――そう思いながら、扉に手をかけたときだ。
 力を入れるまでもなく、樫の扉がするりと開いてしまったので、カナは足を出しそこねてバランスをくずした――そして、そんなカナを誰かが受け止めた。
「大丈夫かい?」
 やわらかな声だった――顔を上げると、松明のあかりがシルエットだけを浮かび上がらせていたけれど、カナはそのひとを知っていた。ハッフルパフのセドリックだ。
「セドリック、ありがとう」
「いや、僕が開けたからこうなったんだ。ごめんよ」セドリックはカナの肩からあたたかい手を離しながら、弱々しく口角を上げた。「そんなことより、探したよ」
「探したって、どうして?」
 カナがきょとんとしていると、セドリックは鼻をかいた。
「きみが心配だからだよ。夏休みにあんなことがあったばかりだし・・・・・・」
「それって、ぼくを監視するようディゴリーさんに言いつけられてるの?」
 その言葉に、セドリックは意外そうに目を丸くして、首を横に振った。
「そんなふうに父さんに言われもしたけど、違うよ。僕の本心だ」
 セドリックはカナに、中に入るよう促した。一階の廊下には人はおらず、話し声すらも聞こえない。もうほとんどの生徒が夕食を終えて、自分の寮の談話室に戻っていったんだろう。
「グリフィンドール塔まで送るよ」セドリックは、カナが頷くのを見てから歩き出した。そして、小さな声で話し始めた。「きみが襲われたことは公にはなっていないけれど、だからこそ魔法省は警戒しているみたいだ。犯人もわかっていないことだし」
「ぼく、まだ取り調べを受けてない」
「ウィーズリーさんが手を尽くしてるんだ」
 大階段をのぼる。とちゅう、一段だけ消えることがあるのも、カナはもうすっかり慣れていた。一年生の初日は、フレッドが助けてくれたけれど。
「元気がないね」
 すっかり黙っているカナを見て、セドリックが言った。
「あー・・・・・・」カナはなんと言ったものか、ためらいながら言葉を選んだ。「セドリックも、見てたでしょ。フェレットのくだり――」
「ああ」セドリックは眉を下げた。「あれは災難だったね。きみが優しくて勇敢だったばっかりに、損をした」
 カナはこわばった顔の筋肉を、わずかにゆるめた。こんなに心地のいい言葉をくれたのは、セドリックが初めてだったから。
「僕も、あれはあんまりだと思ったんだ。でも、先生を止めるなんて勇気があるわけないだろう? マルフォイを嫌ってる奴らは面白がっていたぐらいだし――だから、カナが飛び出してきたとき、心底ホッとしたんだ」
「でも、やらなきゃよかったって思うよ」
「いや、そんなことはないはずだよ」セドリックの意外な言葉に、カナは顔を上げた。セドリックは血色のよい頬を持ち上げて、ゆるく微笑んだ。「きみのやったことは正しかった。ダンブルドア先生だって、あの場にいたならムーディ先生を止めただろうね。だから、きみは自分のことを誇っていいんだ」
 セドリックはすこし心配そうな表情をした。
「僕が言っていること、伝わるかな?」
 その自信なさげな表情がおかしくて、カナはすこし笑ったけれど――たしかに頷いた。
「セドリック、ぼくを勇気づけてくれてありがとう」
「勇気づけられたのは僕のほうだ」またも、セドリックの言葉は意外だった。「ほら、着いたよ。カナ」
 もう階段が終わり、「太った婦人レディ」の絵画がある廊下の踊り場まで来ていた。
「ここまでありがとう」
「いいや。他寮とはいえ、僕は監督生だし」セドリックは照れくさそうに鼻をかいた。「カナ。僕も勇気を出すよ――迷っていたんだけどね、決めた。勇気を出すことにした」
 はっきりしない物言いに、カナがパチパチと目を瞬いていると、セドリックはすっきりした顔で微笑んだ。
「うん――また今度教えるよ。それじゃ、おやすみ」
「うん、おやすみ。セドリック」
 カナがひらりと手を振り返すと、セドリックは微笑んだまま、きびすを返して階下へ降りていった。カナはすこしだけ、波立った気持ちがやわらいでいた。



 木曜日は、カナの胃がずしんと沈むようだった。午前中は「魔法薬学」でスリザリンとの合同授業――午後は、とうとう「闇の魔術に対する防衛術」の授業が待っていた。あのムーディ先生の授業だ。
 カナはこの数日、いい心地になったためしがなかった。何人かの生徒にからかわれることもあったし、廊下に響くくすくす笑いが、まるでカナのことを間抜けだとせせら笑っているように感じることもあった。セドリックが先に励ましてくれていなかったら、きっと落ち込んでいただろう。
 フレッドともうまく話せていない。それがいちばんカナの心に、ささくれみたいにちくちくした痛みをもたらした。むかし、落ち込んでいるカナのためにフレッドが箒に乗せてくれたときのように、大きな手が城から引っ張り出してくれないかなと、カナはあわく期待していた。しかし、フレッドは忙しそうだ。いつもジョージやリーと額を突き合わせて、真面目な顔で話し合い、こそこそとなにか試したりして。カナが近くを通ると小さく合図をくれるけれど――それだけだ。
 それに、スリザリンの生徒と一緒になるのもとても嫌だった。カナに対する冷たい嘲りの視線は、他の寮と比べるまでもなく多く感じたし、何よりマルフォイはまだカナに対して怒りを抱いているみたいだった。
「やっほ、カナ」
 相変わらず、「魔法薬学」の地下牢教室のいちばん後ろの席で、ガートがカナに手を振った。カナはその隣へと腰を下ろす。机のあいだを通り抜けるとき、スリザリンの女子の一団から痛いほどの視線を浴びながら。
「ねえ、ディゴリーとは会えた?」
 唐突な話題に、カナは意図がつかめず「ん?」と聞き返した。
「もう。月曜の夜の話だよ。あの人、あんたのことずいぶん探してたから」
「ああ。うん、会ったよ。わざわざ、ぼくを励ましに来てくれた」
 カナがはにかんでそう言うと、ガートは探るような目でカナを見た。
「もうウィーズリーとは終わった感じ?」
「・・・・・・え?」
 そのときちょうど、間が悪くスネイプ先生が教室へと入ってきて、話を中断せざるを得なかった。
 そういえば、カナはスネイプ先生に風邪薬を煎じてもらったのだった。お礼をまだ言っていなかった――しかし、話しかけるどころではなかった。スネイプ先生は去年の夏休み前、シリウスを吸魂鬼ディメンターへ差し出そうとして、しかしカナたちのおかげで失敗したせいで、よけいにグリフィンドールへ――おもにハリーへの復讐心を膨らませた様子だった。ネチネチと繰り出される嫌味には妙な威圧感があり、時々声を張り上げるのがまるで脅しているみたいで、見るからに機嫌が悪そうだ。そのせいで、萎縮してブルブルふるえるネビルはまたもや大鍋を溶かしてしまい、居残りの罰を言い渡されていた。
「さっきの続きだけど」
 ガートが果敢にも、こそこそとカナに話しかけてきた。スリザリン生は、グリフィンドール生ほど厳しく注意されたりしないからだ――しかし、ガートがよくても、カナの場合はどうだろう。
「どうなの? ウィーズリーからディゴリーに乗り換える?」
「乗り換えるなんて」
 カナはできるだけ静かに、角ヒキガエルの腹に切れ込みを入れて、はらわたを取り出す作業を続けた。
「・・・・・・セドリックは友達だし、それに、フレッドに不義理なことはできないよ」
「ほんとに甘っちょろいんだから」
 ガートはカナが処理したはらわた抜きの角ヒキガエルから、目玉を引っ張り出す作業を引き受けた。
「ホグワーツに戻ってきてから、一緒にいるところ、見たことないけど?」
「それは――」選り分けたキモだけを大鍋に放り込みながら、カナは浮かない声を出した。
「つまんない気持ちにさせる男なんてさっさと振っちゃいなよ。それでウジウジ悩むなんて、おでこにシワが増えちゃうだけだよ。あんた可愛いんだから、ちょっと笑いかけるだけで彼氏なんてすぐできるよ――」
「ミス・エイブリー?」
 後ろからねっとりした低音が聞こえて、二人は肩を跳ねさせた。スネイプ先生が真後ろに立っていて、カナたちの大鍋を覗き込んでいた。
「ずいぶん楽しげだが、作業は順調かね?」
「ええ、順調です。カナがとても上手なので」ガートは愛想よく言った。
「そうかね?」
 しかし、スネイプ先生はカナの手元をじとっと見た。
「私は角ヒキガエルの毒袋も取っておくようにと言ったはずだが。ミス・エリオット?」
「教授、それは私がやってます」
 ガートが自分の手元の皿を見せると、スネイプ先生は満足そうに頷いた。
「素晴らしい。授業をよく聞いているようだな。スリザリンに一点差し上げよう」
「ありがとうございます、スネイプ教授」
 スネイプ先生はカナの手元をじっと見つめ、いかに難癖をつけようかと探しながら――それが見つからなかったのか、カナたちの机のそばから離れた。
「さっきの続きだけど」今度はカナが言った。「フレッドの嫌がることは、ぼくも嫌。だから、もうすこし待ってみようと思う」
「お人よしがすぎるんだから」
 ガートはあきれて言った。でも、心なしか微笑んでいるようにも見える。
「泣いたって、知らないからね」
「おかまいなく」
 カナが杖で叩くと、大鍋の中身が瞬時に沸騰した。その泡ができては破裂するのを見つめ、あわくため息をついた。
「泣くぐらいで済むなら、慣れっこだから、平気だよ」

 薬学の授業が終わると、ガートはカナを引っ張るようにして教室を出た。なぜそんなことをしているのか不思議で、カナが「ねえ」と声をかけると、一階の大階段の下に出たところでガートは足を止めた。
「カナ、あんたさ」ひどく真剣な顔つきで、ガートが言った。「一人にならないほうがいいよ。しばらくは」
「・・・・・・」カナは深くため息を吐いた。「みんな、そればっかり言うね」
「今まで、あんたのそばには上級生のナイトがいたでしょ。それも、実力者のウィーズリー」
 ガートが歩き出したので、カナもついていく。
「はっきり言うと、パーキンソンが、めちゃくちゃあんたをにらんでるよ。あんたがマルフォイを助けたのが気に入らないみたい――だったら、自分が飛び出してりゃよかったのにね?」
「ガート、その話はもう聞きたくない」
「あっそ」
 大広間に入る扉のあたりで、すこし先にいる背の高い男子生徒が、ふと振り向いた。カナを見つけると、血色のよい頬を持ち上げて、ニコリと微笑んで、手を振ってくれる――セドリックだ。
 カナも小さく手をふり返すと、隣のガートがにやっと笑っていた。
「言っておくけど」カナはガートからなにかからかいが飛んでくる前に言った。「セドリックもぼくのこと心配してくれてるだけだから――その、キャンプ場でいろいろあったから」
「ふーん?」
 ガートと分かれて、それぞれのテーブルにつく。ガートはスリザリンの真ん中あたり、男子の上級生の隣へと座った。きっと、今現在のボーイフレンドなんだろう――ガートはカナの友人や恋人に首を突っ込んでくるけれど、対してカナはガートの交友関係をさっぱり知らなかった。キャンプ場で見た、ガートと一緒にいた男子だろうか――あまりよく思い出せないけれど。

 グリフィンドールの四年生は、ムーディ先生の最初の授業を待ち遠しく思っていた。あの威張り屋マルフォイを成敗した、過激なリアリスト――そんなふうに、多くの生徒が持ち上げているみたいだ。ひと足先に授業を受けた六年生たちは、興奮して「あいつは、実際にやる・・ってことがなんなのか、わかってるぜ」と焚き付けたりもしていた。カナはムーディ先生には苦手意識があったので、その話題に乗り遅れたのだけれど。
 ランチが終わり、カナはグリフィンドールの四年生の一団のいちばん後ろにつけた。みんな、今回ばかりは良い席を取ろうと、前のほうへと詰め寄ったので、カナは人気のない端っこの席を選んだ。
 まもなく、コツ、コツ、と、特徴的な足音が廊下に響いてきた。開け放たれた扉から顔を出したのは、もちろんムーディ先生だ。
「そんなものは仕舞え」
 教員机に向かうなり、ムーディ先生は言った。
「教科書だ。そんなものは必要ない」
 みんな、教科書を鞄に戻した。これは去年のリーマスの授業のはじまりとよく似ていたけれど――カナの心中はあの時とは真逆だった。
 先生は名簿を取り出して、出席をとっていく。黒いほうの目は生徒の名前をなぞっていたけれど、魔法じかけの青い目は返事が聞こえてくるたびに、グルグルと視線をめぐらせて、その生徒をじっと見つめていた。
「よし、それでは」
 ロンの返事を最後に、ムーディ先生は切り出した。
「このクラスについては、ルーピン先生から知らせを受けている。お前たちは、闇の怪物と戦うための基本を満遍なく学んだようだ――ボガート、レッドキャップ、ヒンキーパンク、グリンデロー、河童、人狼ウェアウルフなど。そうだな?」
 みんなが、口々にささやいて同意した。
「しかし、お前たちは、遅れている――非常に遅れている――呪いの扱い方についてだ」
 カナの胸がぎくりと音を立てたようだった。きっと、ムーディ先生の授業は、これまでのように生やさしいものではないだろう。
「儂がここにいるのは、お前たちに理解させるためだ。魔法使いどうしが、どこまで・・・・呪い合えるのかをな・・・・・・儂の持ち時間は一年だ。その間に、お前たちに闇の――」
「え? ずっといるんじゃないの?」
 ロンがぽろりと口走った。とたん、ムーディ先生の青い目がぐるりと方向を変えて、ロンを見据えた。教室じゅうに緊張が走る――しかし、ムーディ先生は、笑った。笑ったところで、歪んだ顔がぐにゃりとつぶれたようにうごめいただけだったけれど、たしかにそれは親しみのこもった表情だった。
「お前は、アーサーのせがれか。え?」ムーディがそう言って、ロンに笑みを見せた理由がわかった。「数日前、お前の父親に助けられたばかりだ・・・・・・そう、儂は一年だけだ。ダンブルドアのために、特別にな・・・・・・一年だ。その後は、静かな隠遁生活に戻る」
 ムーディ先生はしわがれた笑い声をあげ、節くれたいびつな手を一度、叩いた。
「さあ、単刀直入にいこう。呪いだ。呪いの特徴やその形式はさまざまだ。魔法省によれば、儂が教えるべきは『反対呪文』であり、そこまでで終わりだ。違法とされる闇の呪文がどんなものか、六年生になるまでは生徒には見せてはいかんということになっている。お前たちは幼すぎ、呪文を見ることにさえ耐えられぬ、というわけだ。しかし、ダンブルドアはお前たちの根性をもっと高く評価しておられる。校長はお前たちが耐えられるとお考えだし、儂に言わせれば、戦うべき相手を知るのは早ければ早いほど良い。見たこともないものから、どうやって身を守ると言うのだ? 今にも違法な呪いをかけようとする魔法使いが、それがどんな呪いかなどと教えてはくれまい。面と向かって、礼儀正しく闇の呪文をかけてくれたりはせん。お前たちは自分で備えなければならん。緊張し、警戒しておかねばならんのだ。いいか、ミス・ブラウン。儂が話している時は、そんな物は仕舞っておかねばならん」
 突然、名前を呼ばれて、ラベンダーが飛び上がった。顔を真っ赤にして、すぐさま、さっきまでパーバティに見せていたホロスコープの図面を隠しているのが見えた――ムーディ先生の「魔法の目」は、自分の背後だけじゃなく、机の下に隠しているものも見えるらしい。
「さて・・・・・・魔法法律により、最も厳しく罰せられる呪文が何か、知っている者はいるか?」
 何人かが、まばらに手を挙げていた。その中ではっきりと真っ直ぐ手を突き上げているハーマイオニーの隣、中途半端にひらりと手のひらを揺らしたロンを、ムーディ先生は指名した。
「えーと」ロンは自信なさげに言った。「パパが一つ話してくれたんですけど・・・・・・たしか、『服従の呪文』とかなんとか?」
「ああ、その通りだ」ムーディ先生は讃えるように言った。「お前の父親なら、たしかにそれを知っているはずだ。一時期、魔法省を手こずらせたからな」
 ムーディ先生は不揃いの足で立ち上がり、机の引き出しから硝子瓶を取り出した。中には、黒い大蜘蛛が三匹、窮屈そうに蠢いていた。
 瓶の中から、ムーディ先生は蜘蛛を一匹掴み出した。そして、みんなによく見えるように手のひらの上に乗せた。
インペリオ服従せよ
 ――カナの背筋に、冷たいものが走った。
 先生が杖を向けて呪文を放った直後、蜘蛛は糸を垂らしながらムーディ先生の手から飛び降りた。まるで遊んでいるかのように、でも、自然の蜘蛛にはとうていしないような動きで、ゆらゆらと前後に揺れた。八つの足を真っ直ぐ伸ばしたり、回転したりしながら、机の上に着地した。すると、机の上で車輪のように円を描き、曲芸を始める。ムーディ先生が杖先をぐいっと持ち上げると、蜘蛛はとうとう二本の脚で立ち上がり、ダンスを披露した。
 みんなの笑い声が、どこか遠くに聞こえる。カナは蜘蛛なんて見てはいなかった。「インペリオ」――その呪文が聞こえたとたん、カナは凍りついたような衝撃を受けた。けれど、それが何なのかわからない。「服従の呪文」自体は聞いたことがある言葉だ。しかし、呪文は聞いたことがなかったはずだ――考えるたび、ツキン、ツキンと、刺すようにこめかみが痛む。
「おもしろいか――儂がお前たちに同じことをしたら、嬉しいか?」
 ムーディの低い声が教室に響いて、笑い声がぴたりとやんだ。カナもはっと気がついて、授業へと意識を戻す。
「完全な支配だ」
 こんど、蜘蛛は丸くなって机の上を転がっていた。
「儂はこいつを思いのままにできる。踊れと命じれば踊り続けるし、誰かを襲えと命じれば、それが身の丈に合わぬ命令でも、身を滅ぼすまで襲うだろう――何年も前、多くの魔法使いたちが、この『服従の呪文』に支配された。誰が操られているのか、誰が自らの意思なのか、それを見分けるのが、魔法省にとってひと仕事だった」
 ああ、ビルが話していた「『例のあの人』が力を失ったとき、アズカバン行きを逃れるために工作した」というのは、このことなんだろう。
「『服従の呪文』に抗うことはできる。これからはそのやり方を教えていこう。しかし、これには個人の底力が必要で、誰にでもできるわけではない。できれば呪文をかけられぬようにするほうがよい。警戒を怠るな!
 ムーディ先生の大声に、みんなが飛び上がった。先生はまだ踊り続けている蜘蛛を瓶の中に戻した。
「禁じられた呪文のうち、ほかのを知っている者はいるか? 」
 ハーマイオニーの手が再び高く挙がる。ふと隣を見ると、なんとネビルの手も上がっていた。珍しいこともあるものだと、カナはすこし驚いた。
「何だね?」
 ムーディ先生の魔法の目がグルリと回り、ネビルを見据えた。
「ひとつだけ――『はりつけの呪文』」
 ネビルは、小さな声で、しかしはっきりと言った。
「お前はロングボトムと言ったな」
 魔法の目が名簿に視線を走らせながら、ムーディが聞いた。ネビルがぎこちなく頷いたのち、ムーディ先生はそれ以上は何も言わなかった。
 先生は硝子瓶から二匹目の蜘蛛を取り出し、机の上に置いた。蜘蛛は警戒しているのか、従順なのか――じっとして動かなかった。
「磔の呪文――それがどんなものかわかるように、全員よく見ておけ」
 みんな、机の上に乗り上げるようにして、教卓を見ていた。
クルーシオ苦しめ
 先生が杖を振り下ろすと、たちまち、蜘蛛は脚をたたんでひっくり返った。そして、もがきはじめた――蜘蛛が暴れたところで何の音も聞こえないけれど、もしも蜘蛛に声があったならば、悲鳴をあげているにちがいない――
 ふと、カナの視界の端でふるえるものがもうひとつ見えた。それは、ネビルのこぶしだった。関節や爪が白くなるほど、ぎゅっと強く握りしめている。振り向いて見えたその顔は白く、まるで恐怖に染まっているかのように、目を見開き、もがき苦しむ蜘蛛から目が離せないようだった。
 ――ムーディ先生の杖先は、いまだに蜘蛛をとらえたままだ。蜘蛛はますます激しく身をよじる。
 カナはとっさに、ネビルのこぶしに手を重ねた。
「先生、もう充分です!」
 カナが声を張り上げると、ムーディ先生は杖先を離した。蜘蛛の脚は力なくほどけたけれど、まだピクピクと痙攣していた。蜘蛛が瓶に戻されたとき、ネビルのこわばりもとけたようで、カナも手を離した。その顔は青白いままだったけれど。
「苦痛だ」ムーディ先生が静かに言った。「『磔の呪文』があれば、拷問にかけるのに鞭も縄もナイフも必要ない・・・・・・これも、かつて盛んに使われた」
 カナは、まだ顔色を悪くしているネビルをチラリと見遣った。ネビルはもしかしたら、拷問にかけられた人を知っているのかもしれない、と思った。
「よろしい・・・・・・ほかの呪文を知っている者はいるか?」
 みんなが神妙に、お互いの顔色を確認するさなか、ハーマイオニーの手だけが挙がっていた。その手はすこし震えていた。
「何だね?」ムーディ先生が聞いた。
「『アバダ・ケダブラ』」
 ハーマイオニーが、らしからぬ小さな声で言った。何人かが、不安そうにハーマイオニーを見ていた。
「ああ」ムーディ先生がいびつに微笑んだ。「そうだ。最後にして最悪の呪文。アバダ・ケダブラ・・・・・・死に至る呪いだ」
 ムーディ先生が硝子瓶に手を突っ込むと、蜘蛛は必死になってその手から逃れようと瓶の底を這い回った。まるで、これから何が起こるか察知しているかのようだ。ついに捕らえられ、机の上に置かれた直後、蜘蛛は机の端に向かって走り出した。
アバダ・ケダブラ!
 緑色の閃光が炸裂した――カナは知っている。この光を知っていた。机の上でころりとひっくり返ったあわれな蜘蛛と同じように、カナも、不十分とはいえ「死の呪文」をその身に受けたことがある――
 蜘蛛の体には傷ひとつない。しかし、確実に死んでいる。
 ムーディ先生は、蜘蛛の死骸を払い落とした。
「よくない」いたって静かな声だ。「不愉快極まりない。しかも、反対呪文は存在しない。防ぎようがない。これをまともに受けて生き残った者は、ただ一人」
 カナが、ちらりとハリーの背中を見た。カナだけじゃない。教室じゅうのみんなが、「生き残った男の子」のハリーを横目で見ていた。ハリーは両親を「死の呪文」で失い、自身もその標的になった――
「『アバダ・ケダブラ』――死の呪文の行使には、強大な魔力と、確固たる殺意が必要だ。お前たちがこぞって杖を取り出し、儂に向けてこの呪文を唱えたところで、鼻血を出すことさえできんだろうな。しかし、そんなことはどうでもよい――儂はお前たちにそのやり方を教えにきているのではない――」
 そう。だからカナは無事だったんだ。不十分な「死の呪文」を受けて、死ぬまでは至らなかった。
「さて、反対呪文が存在しないなら、なぜお前たちに見せたのか? それは、お前たちが知っておかなければならないからだ。最悪の事態がどういうものか、お前たちは味わっておかなければならない。せいぜいそんなものと向き合うような目に遭わぬようにするんだな。警戒を怠るな!
 大声が教室を揺らし、みんながふたたび飛び上がった。
「死の呪文、服従の呪文、磔の呪文――これらの三つは『許されざる呪文』と呼ばれる。同類であるヒトに対して、このうちどれかひとつでも呪いをかけるだけで、アズカバンで終身刑を受けるに値する。お前たちが立ち向かうのは、そういうものなのだ。そういうものに対する戦い方を、儂はお前たちに教えなければならない。備えが必要だ。武装が必要だ。しかし、何よりもまず、常に、絶えず、警戒することの訓練が必要だ。羽根ペンを出せ・・・・・・これを書き取れ・・・・・・」
 みんな、静かに「許されざる呪文」についてのノートを取った。誰もひとことも喋らなかった。しかし、ムーディ先生が授業の終わりを告げ、終業のベルが鳴ると、教室を出るとともにみんなワッと話し出した。ムーディ先生があっというまに蜘蛛を殺してしまったことを、まるで見せ物か何かのように囃し立てていた。
 カナはのろのろと筆記用具を鞄に仕舞う。隣を見ると、ネビルがまだこわばったまま、目を大きく開いて呆然と座っていた。羽根ペンを握ったままの手は力を入れすぎて、羊皮紙にはとても読み取れないいびつな字が連なっている。
「ネビル?」
 カナが声をかけると、たった今カナのことに気がついたみたいに、ネビルはパッと顔をあげた。
「あ、やあ、カナ。おもしろい授業だったね」
 うわずった声を出しながら、ネビルはきょろきょろとあたりを見て、教室に誰も残っていないのを知ると、インク壺に乱雑に蓋をして、鞄に投げ入れようとしていた。カナは手を伸ばして、それを止めた。
「ネビル、きちんと蓋をしないと。大変なことになるよ」
「ウン、それもそうだね、あはは・・・・・・」
 インク壺がネビルの手に渡る――かすかにふるえた、冷たい手だった。
「ありがとう。ボク、ぺこぺこだよ、お腹が、ハハ・・・・・・きみは?」
「ネビル」カナはもう一度、名前を呼んだ。「その、ぼくはあまりおもしろいと思えなかったよ。食欲もない」
 ネビルの淡い色のひとみが、ゆらゆらと揺れていた。こわばった表情に、むりやり笑顔を浮かべていた。
「ハハ・・・・・・カナ、怖がりなんだね」
「うん、怖いよ」
 カナは真面目くさった顔で言った。ネビルは鞄を抱え、カナを追い越して教室を出て行った。



20241126


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