「どうだった、ムーディの授業は?」
 夕食の席で、久しぶりにフレッドがカナを手招きした。カナは素直に隣について、取り分けられたミートパイが目の前に運ばれるのをじっと見た。
「その、フレッドたちも『許されざる呪文』を見た?」
「ああ、もちろん――なんだ、怖かったか?」
「だって」
 カナはふるえる手でフォークを握った。
「アーサーおじさんも言ってたでしょ・・・・・・身近な人が標的になったとしたら、って考えたら・・・・・・」
「カナ」フレッドは言い聞かせるように言った。「おやじの年代の大人たちは闇の時代を経験してるから、敏感なんだよ。でも今は違うだろ? 闇の帝王は散り、僕らはのびのびとかぼちゃジュースを啜れる」
 フレッドは汗をかいたゴブレットをかたむけて、中身を飲み干した。カナもかぼちゃジュースに口をつける。
「だからって、あれをおもしろいとは思えないよ。怖がってる人を茶化したりもしたくない」
「なんだよ、ナーバスか?」
「思ったことを言ってるだけ・・・・・・ねえ、フレッドは、ぼくの言ってることわかってくれるよね?」
 温度のなくなってきたパイに手をつける。ややあって、フレッドが息を吐くように言った。
「わかってるさ。でも、カナ、僕がこういう性格だっていうのもわかってるだろ?」
「うん・・・・・・」
 すでに食事を終えているフレッドは、ジョージに肩を叩かれて席を立った。カナはちびちびとパイを削るのに、大広間の最後の一人になるまでかかっていた。

 グリフィンドールの談話室は、暖炉の炎が小さくなり、すでに生徒はまばらになっていた。パッと目についたのは壁際の床に座り込んで額を付き合わせているフレッドとジョージで、フレッドがふと顔を上げた。カナは手を振ろうとして――しかし、フレッドがすぐにジョージのほうへ顔を向けた。ふたりは何やら真面目くさった顔でコソコソと話して、手元に広げていた羊皮紙を丸めて、立ち上がった。
 カナが近寄ると、「おやすみ。おまえさんもはやく寝ろよ」とカナの肩をトンと叩き、フレッドはジョージとともに寝室へ引き上げていった。
 まるで――カナには聞かせられない話でもしているみたいだ。
 カナは暖炉の目の前のソファーに腰掛け、クッションを膝の上において、そこに顔を沈めた。深く息を吸って、静かに長く吐いた。
 うまくいってない。そう思った。フレッドにはやるべきことがあって、やりたいことがあって――カナを慰める時間なんてない。わかっているけど、寂しかった。
 顔を上げる。クッションに少しばかり染みが浮かんでいたけれど、カナは鼻をすすり、フーと息をついた。泣いてない。泣いてなんかない。
 目の前にクルックシャンクスが歩み寄ってきた。カナはその大柄なオレンジ色の体を抱き、ふわふわの毛を撫でた。
「きみのご主人は忙しそうだね」
 ゴロゴロと、クルックシャンクスの喉が鳴る――ハーマイオニーは今日も談話室にはいない様子だった。また図書館に籠っているんだろう。新学期が始まってから、毎日のことだ。みんな、やるべきことがある、やりたいことを持っている――でも、カナには、何もない。去年はアニメーガスの習得に忙しくしていたけれど、それがなくなれば、カナの日々には何も起きない。
 ふと、クルックシャンクスがカナの膝の上から飛び降りた。まもなく、談話室の肖像画の穴が開いて、ハーマイオニーがよじ登ってきた。
「あら、カナ。ちょうどよかった。あなたも来て――」
 カナはハーマイオニーに誘われるまま、その後ろをついていった。ハーマイオニーは片手に羊皮紙をひと束抱えて、その反対に箱を抱えていた。歩くたび、箱の中身がかたかたと音を立てている。
 ハリーとロンが宿題を広げているテーブルへと、ハーマイオニーは近づいた。
「ついにできたわ!」ハーマイオニーが言った。
「僕もだ!」ロンは勝ち誇ったように、羽根ペンを放り出した。
「これ、何?」一か月の予定表のようなものを覗き込みながら、カナは空いた椅子に腰掛けた。ハーマイオニーの膝の上は箱が占領しているので、クルックシャンクスはしかたなく、ふたたびカナの膝の上に乗った。
「星が予言する、僕らの運命さ」ロンは満足そうに腕を伸ばし、あくびを漏らした。
「すばらしい一か月とはいかないみたいですこと」ハーマイオニーが呆れた声を出した。「それに、二回も溺れることになっているみたいよ」
「え?」ロンは予言表を取り上げて、まじまじと見つめた。
「どっちか変えた方がいいな。ヒッポグリフが暴れて踏み潰されるってことに」
「『占い術』って、不幸な予言しかしないの?」
 ハリーの予言表に書いてある毎日のように起こる不幸な出来事を読んでは、カナはうめいた。
「まさか」ハーマイオニーが言った。「見え見えのでっち上げじゃない」
「何をおっしゃる!」ロンがわざとらしく憤慨した。「僕たちは、ハウスエルフのごとく働いていたのですぞ!」
 ハーマイオニーの眉がピクリと動いた。
「ほんの冗談だよ」ロンが慌てて言った。
「ハーマイオニー、ところで、何が『ついにできた』の?」
 カナが聞くと、ハーマイオニーが頷いた。
「ナイスタイミングよ、カナ」
 ハーマイオニーはロンを睨め付けながら、箱の蓋を開け、中身をみんなに見せた。箱の中には、カラフルなバッジが何十個と入っていた。カナがそれをひとつ取り上げると、真ん中に文字が書いてあった。「S.P.E.W」と。
スピュー嘔吐?」ハリーもひとつ取り上げ、訝しげにハーマイオニーを見た。「何に使うの?」
嘔吐spewじゃないわ。S・P・E・W。つまり、『エルフの福祉推進協会』よ」
「聞いたことないなあ」ロンが言った。
「当然よ」ハーマイオニーが威勢よく言った。「私が始めたばかりです」
「へえ!」ロンとカナの驚いた声が重なった。
「それで、図書館に籠ってたんだ」カナが感心したように言った。
「メンバーは何人いるんだい?」ロンが面白がったように聞いた。
「そうね、あなたがたが入会してくだされば、四人よ」
「それじゃ、僕たちが『げろ吐きspew』なんて書いたバッジを着けて歩き回ると思ってるわけか?」ロンが言った。
「S・P・E・W!」ハーマイオニーが熱心に言った。「本当は『魔法生物仲間の目に余る虐待を阻止し、その法的立場を変えるためのキャンペーン』とするつもりだったの。でも長すぎるでしょ。だからそっちのほうは、我らが宣言文の見出しに持ってきたわ」
 ハーマイオニーは羊皮紙の束を広げて、目の前でヒラヒラさせた。
「私、図書館で徹底的に調べたわ。エルフの奴隷制度は、何世紀も前から続いているの。これまで誰もなんにもしなかっただなんて、信じられないわ」
「ハーマイオニー、よーく聞け」ロンがはっきりと大きな声を出した。「あいつらは、奴隷が、好き。奴隷でいるのが好きなんだ。カナも言ってたろ?」
「私たちの短期的目標は――」ハーマイオニーはロンよりも大きな声を出して、何も聞こえなかったかのように話し出した。「ハウスエルフの正当な報酬と労働条件を確保することである。私たちの長期的目標は、以下の事項を含む。杖の使用禁止に関する法律改正――」
「ハウスエルフは杖なんかなくっても、魔法が使えるよ?」カナの声も無視だ。
「ハウスエルフ代表を一人、『魔法生物規制管理部』に参加させること。なぜなら、彼らの代表権は愕然とするほど無視されているからである」
「魔法大臣にでもなる気か?」ロンが、カナにだけ聞こえるくらいの声でぼやいた。
「・・・・・・それで、そんなにいろいろ、どうやるつもりなんだ?」ハリーが聞いた。
「まず、メンバーから集めるの」ハーマイオニーはまるで心地よい音楽でも奏でるかのように言った。「入会費、二シックルと考えているわ。それでバッジを買う。その売り上げを資金に、ビラ撒きキャンペーンを展開するのよ。ロン、あなたは財務担当――上の階に募金用の空き缶を一個、置いてありますからね。ハリー、あなたは書記よ。だから、いま私がしゃべっていることを、全部記録しておくといいわ。第一回会合の記録として。そして、カナ、あなたはお茶出し係よ」
「ええっ?」
 閑散とした談話室に、カナの素っ頓狂な声が響いた。クルックシャンクスが驚いて、思わずカナの上から飛び降りた。
「そんな係があるの?」
「人数が増えれば、会合の機会も増えるじゃない? おもてなしは必要よ――ま、私たちだけの間だったら、そんなに気を張らなくてもいいわ」
 ハーマイオニーはにっこり笑って、三人を見回した。男の子たちは、呆れたような、度肝を抜かれたような、そんな奇妙な表情をしていた。
 沈黙を破ったのは、窓ガラスを叩くコツコツという音だった。みんなパッと顔を上げた。むこうの窓枠に、真っ白のフクロウ――ハリーのヘドウィグが止まっているのが見えた。
「ヘドウィグ!」
 ハリーは窓に駆け寄って、開けてやった。ヘドウィグはスイーッと談話室を横切り、テーブルの上へと降り立った。
「待ってたよ!」
 走ってテーブルへ戻ってくるハリーに、カナは聞いた。
「ハリー、誰に手紙を出したの?」
「僕が手紙を出すのは、『あの人』しかいないよ!」
 ハリーは急いでヘドウィグの脚にくくりつけられた、汚らしい羊皮紙をほどいた。
 ちょっと考えたらわかることだった。ハリーが手紙を出す人といえば、彼の後見人である、シリウス・ブラックしかいないだろう。
 急いたようにハリーが手紙を広げて、椅子に座り直して読み始めた。膝の上にヘドウィグが降り立って、「ホー」と鳴き声を出した。褒美が欲しいんだろう。
「なんて書いてあるの?」
 ハーマイオニーも息を弾ませて聞いた。ハリーは熱心に手紙に目を通している。しかし、だんだんと表情が険しくなってきた。
「ハリー?」
 カナが心配になって聞くと、ハリーは手紙をバン! と机の上に叩きつけた。ロンとハーマイオニーがそれを取り上げて、覗き込む。
「飛び立つって――隠れ家を出るってことかしら」
 ハーマイオニーが聞いても、ハリーは答えなかった。ハリーは自分の拳で、苛立たしげに額を何度も何度も叩いた。膝が揺れて、ヘドウィグが滑り落ちる。
「シリウスに言うべきじゃなかった!」ハリーは激しい口調で言った。「手紙のせいで、シリウスは行動しなくちゃならないって思ったんだ!」
 ハリーの拳はテーブルを叩いた。ヘドウィグがカナの椅子の背に止まり、怒ったように鳴いた。
「隠れるのをやめたんだ――僕が危ないと思って! 僕はなんでもないのに!」
「シリウスに何を伝えたの?」
 カナはどぎまぎしながら聞いた――夏休みのあいだ、シリウスはカナの家に居たのだ。だから、エリアさんの手紙によると今はどこにいるのかわからないけれど、イギリスにも隠れ家はあるのだ。それを、打ち明けるべきか迷った。
「あー、ハリーは」
「ロン」ハーマイオニーがたしなめた。「ハリー、カナに説明してもいいの?」
「勝手にしてくれよ!」
「ハリー!」
「なんなの?」カナも困惑して聞いた。「ぼく、この場にいない方がよかったんじゃない?」
「違うのよ、カナ。ハリーの額の傷が痛んだの。夏休みに、みんなでワールドカップに行ったでしょ。その数日前のことよ」
「傷が痛んだ?」
「前に傷が痛んだのは、一年生のとき――ほら、クィレルが『例のあの人』に乗っ取られて、ハリーと対決しただろう? 覚えてるかい?」ロンが説明した。「だから、ハリーの傷が痛むときは、『例のあの人』がなにか関わるときなんじゃないかって、僕らはそうにらんでるんだ」
「知らなかった・・・・・・」カナは気づかわしげにハリーを見つめた。ハリーはまだいらいらと髪をかきむしっていた。
「あなたに『例のあの人』のことはあんまり聞かせたくないって、ハリーがそう言ったのよ。だから私たち、いままで話さなかったの」
 カナの胸がズキンと痛んだ。ハリーはカナを気遣ってくれたんだ――あえて内緒にして。巻き込まないようにしてくれていたんだろう――同時に、夏のあいだ、シリウスがコーンウォールにあるカナの家に隠れていたことをハリーが知ったら、どう思うだろう、と胸が張り裂けそうな思いになった。
「あ、でも、シリウスは――」
 カナはハッと思い出して、鞄を探った。新学期早々、エリアさんから届いた手紙だ。たしかに書いてあった――「『諸事情』で、シリウスとバックビークは隠れ家を変える」と。
「エリアさんが手紙に書いてたよ、シリウスのこと」
「エリアおばさまが?」
 ハーマイオニーが、カナの手元を覗き込んだ。黙ってエリアさんの手紙を読みあげると、カナのことを見た。
「カナ、あなたの家でシリウスを匿ってたの?」
 とたん、項垂れていたハリーが勢いよく顔を上げた。ロンも「はあ?」と口をぽかんと開いて、唖然としていた。
「なんで、そんな大事なこと黙ってたんだい?」
「喋ったらいけなかったんだよ」ロンに答えながら、カナはちらりとハリーを見た。「ハリーにはこのことを黙ってるって、シリウスと約束したんだ」
「だったら、なんでいま喋ったんだ?」ハリーが、緑色の目に怒りをにじませながら、カナを睨め付けていた。「シリウスとの約束してたなら、どうして破ったんだよ!」
 ドン、とふたたびハリーの拳がテーブルを叩いた。それっきり、みんな押し黙って、聞こえるのは緊張した息づかいだけになる。
「この手紙をよく見て・・・・・・カナはなにも悪くないわよ」
 ハーマイオニーが、エリアさんの手紙を差し出しながら、大きく息を吐くように言った。
「いつかわかることだわ。だから、遅かれ早かれ、カナはハリーに話す必要があったのよ。そうでしょ? それに、『諸事情』が、ハリーの傷のせいだけだとは限らないわよ」
 ハリーがエリアさんの手紙に目を通すあいだ、ハーマイオニーはカナに向かってたずねた。
「シリウスはいつまであなたの家にいたの?」
「ぼくが『隠れ穴』に行くまでいたよ。そのあとはわからないけど・・・・・・」
「それじゃ、僕が食べ物を送ってくれって頼んだ時も、きみはシリウスと一緒にいた――僕がダーズリーの家で、ひとりぼっちで惨めな思いをしてた間、ずっと、きみはシリウスと過ごしてた――」
 手紙をカナに戻しながら、うなだれるようにハリーはカナをじっと見つめた。乱れたくしゃくしゃの髪が影を落とす向こうで、エメラルド色の瞳がギラっと光った。
 カナは、その視線に耐えられず、わずかに目を逸らした。
「シリウスはぼくじゃなくて、ハリーと暮らしたがってた」
「そんなの僕だって同じだ!」
 ハリーが勢いよく立ち上がった。
「もうたくさんだ――僕、寝る」
 ヘドウィグが「ホー」と何か訴えるように鳴いたのも、ハリーは無視して、大股で男子寮の方へと歩いて行った。
「ごめん、ヘドウィグ。ハリーを怒らせちゃった」
 カナはかわいそうなヘドウィグの嘴を撫でようとしたけれど、プイとそっぽを向いて、開け放たれたままの窓から飛び去って行った。
「カナ、ハリーを安心させたかったのよね?」ハーマイオニーが心配そうに言った。
「うん、でも、余計なことを言っちゃった」カナは目をつむって、目頭に熱が集まるのを堪えた。「ハリーの家族はシリウスしかいないのに」
「ハリーの気持ちもわかるけど、でも、カナが気に病むことないわよ。だって、大人が決めたことでしょう? 不用意に居場所を手紙に書いたら危ないって、シリウス自身が書いたのだし」ハーマイオニーはカナの背を撫でた。「ほとぼりがさめたら、ハリーもわかってくれるわ。ね、ロン?」
「ああ、まあ、ウン。そうさ」
 のろのろと視線を巡らせる中で、テーブルに広がったままのハリーの予言表を、カナは見つけた。
「あ、ハリーの宿題・・・・・・」
 そのめちゃくちゃな内容の予言が書かれた羊皮紙を、カナは丸めた。
「ハリーがこれを取りに来るかもしれないから、ぼく、ここにいるよ」
「何言ってるのよ、カナ。風邪ひいちゃうわ」
「そうだよ。ハリーったら頑固だろ? 寝るって言ったら寝るんだ。もう戻ってこないよ」
「でも、置きっぱなしだし――ピーブズがいたずらで駄目にしちゃいけないから」
 カナも譲らなかった。ハーマイオニーとロンは説得をあきらめて、それぞれ寮へと戻った。カナは暖炉の消えかかった炎をもう一度つけて、「アクシオ」でブランケットを呼び寄せた。これも、夏休みにシリウスが「去年のお礼」として買ってくれたものだ――カナの罪悪感がまた膨れた。
 羊皮紙を抱えて、暖炉の前のソファーに座り込んだ。全身に新品の、ふわふわのブランケットを巻き付けているというのに、ちっとも温かい気持ちになれなかった。



 カタ、と何かが揺れる音がして、カナは目を覚ました。いつの間にか暖炉の火は消えていて、肌寒い。まだ暗く、夜明け前だ――カナは身を起こした。
 向こうのテーブルのほうに、ハリーが立っていた。寝癖が跳ね放題のカナの頭をソファー越しに見つけると、ピクリと肩を揺らしたけれど、すぐに手元に視線を戻した。
 カナは手の中にまだ収まっている羊皮紙の束を確かめた。寝ているあいだに握ってしまったんだろう。しわになっていた。
「ハリー、おはよう」
 カナが寝起きで嗄れた声を出すと、「うん、おはよう」と控えめな返事が聞こえた。
「っくしゅん!」
 立ち上がったとたん、カナは寒気に襲われた。
 ブランケットをきつく巻き付けながらテーブルに歩み寄り、カナはハリーに羊皮紙を差し出した。
「宿題、置きっぱなしだったから・・・・・・でも、握りしめちゃって、しわになっちゃった。ごめん」
 返事はなかったけれど、ハリーはようやく顔を上げた。手元のあらたな羊皮紙を書き上げて、それを畳んでポケットに仕舞っているところだった。
「・・・・・・ひどい顔色だよ。医務室に行きなよ」
 宿題を受け取りながら、ハリーは眉をひそめた。カナは「そうする」とだけ言った。
 ふらふらとソファーに戻り、座り込んで、うなされるようにカナは言った。
「大丈夫だよ、ハリー。シリウスは一人じゃないんだ・・・・・・吸魂鬼ディメンターに見つかったりしないよ。それに、ハリーのせいでもない・・・・・・」
「カナ、医務室まで連れてくよ。ヘドウィグにシリウスへの手紙を預けるから、ついでに」
 心配になったのか、ハリーはカナを抱えながら談話室を出て、二階の医務室まで同行してくれた。
「ごめんね、ハリー」
 背中に手を回して、カナに合わせてゆっくりと歩いてくれるハリーに向かって、カナはうめくように謝った。「ぼく、きみに迷惑かけてばっかりだね――昨日の話も、そうでしょ――?」
「・・・・・・ハーマイオニーが言ったけど。きみに、ヴォルデモートの話は、あまり聞かせたくなかった」
 ハリーも、とつとつと返事をくれた。
「ハリー、ぼくはもうじゅうぶん、やつに知られてる。ダンブルドアがそう言ってた」
 ハリーは黙った。カナからは見えないけれど、ハリーはカナのことを見下ろしているだろう。視線を感じた。
「どこかで血のつながりがあるのかもしれないけれど――ぼくの父親は『あいつ』じゃないって、リーマスがそう教えてくれたよ。だから、ハリーは気に病まないで」
「僕――違う。カナ、きみが――」一度、ハリーは息を吐いた。「僕が、きみに余計な心配をかけたくないだけなんだ」
 カナはパッと顔を上げた。ハリーは廊下の向こうに目を凝らしていたけれど、思ったより顔が近いところにあって――カナは気まずくなって、あわてて正面に戻した。
「・・・・・・へへ。ハリー、めずらしいね。弱音吐いてる」
 あわいため息が、カナの頭上に落ちてきた。
「きみになら話してもいいかって、なんか、そんな気になるんだよ。だって、僕たち、似た立場だろう?」
「うん――そう。そうだよ」
 カナはもう一度振り向いた。今度こそ、ハリーの鮮やかな緑色とかちあった。
「だから、がんばろうね」

 マダム・ポンフリーはまだ寝巻き姿だったけれど、カナの様子を見るなりベッドに寝かせてくれた。
 それから、ハリーが医務室を出て行って、じきにスネイプ先生が姿を見せた。手には大きなゴブレットを持っている。カナは前回ほど重症ではないようで、きちんと意識があった。
「スネイプ先生。ありがとうございます」
「・・・・・・貴様の母親に頼まれているからだ。それ以上でも、以下でもない」
 その返答に、カナはなんともいえない気持ちになりながら、ゴブレットをかたむけた。何回かに分けて飲み干しながら、カナはちらりとスネイプ先生の様子を見た。相変わらず、石膏像のように土気色で、こけた顔の窪みに影が落ちて、深い皺を眉間に刻んでいた。その表情からは感情は読み取れない。
「先生」
 ふと、カナは思い出したことがあった。スネイプ先生は返事を寄越さなかったけれど、黒い目がじろりとカナのことを観察していた。
「ぼくのこと、『裏切り者の娘』だと呼んだことがありましたよね。それって――」
「そんなことは言っとらん」
 空になったゴブレットを奪い取るように、スネイプ先生が手を伸ばした。
「忘れなさい――そして、今はただ、寝るのだ」
 淡々とした言い方に、しぶしぶ、カナはシーツの中に潜り込んだ。

 その日、カナは午前中は入院して、午後は授業に出ることができた。金曜日の最後の「魔法薬学」の授業が終わると、ガートが「明日のランチの後、いつもの部屋に集合」と言い、今年度最初の約束をした。
「エリオット? いくらなんでも、そこのあばずれ・・・・とお付き合いするなんて、ナンセンスね」
 いやみな甲高い声が聞こえて、カナは顔を上げた。巻き毛のブロンドを指に絡めながら、パンジー・パーキンソンが廊下の角で待ち伏せていて、カナを見下ろしていた。
「――ああ、類は友を呼ぶってことね。色ぼけEasyエリオットさん」取り巻きのトレイシー・デイヴィスが、くすくすと笑っている。
「あばずれって――」
「わかんないの? いろんな男をとっかえひっかえして――『あばずれのエイブリー』じゃない」
「カナ、行くよ」
 ガートは相手にしないことを選んだようだ。しかし、カナの知る範囲で、スリザリンの中で、ガートはここまで目に見えていじめられたりしていなかったはずだ――それとも、いままでも女子の中では、こういった冷やかしがあったんだろうか?
「センスないけど、まあ友情があったって不思議じゃないわよね」
 カナはガートについて行こうとした。けれど――パーキンソンが声を張り上げて、その場でピタリと足を止めてしまった。
「だって、エリオット、あんたがロンドンの裏路地で男遊びしてたのなんて、みーんな知ってるんだからね。去年はマグルの悪ガキ、今年はマグルのおじさま――でしょ?」
「はあ?」
「ドラコに聞いたわ」
 パーキンソンが、カナの顔を見下ろしながら、にやりと意地悪く口をゆがめた。ガートが「チッ」と舌打ちして、カナの腕を引っ張った。
「ホント、下品な言葉がお似合いだね、ミス・パーキンソン? カナがびっくりしちゃってる。かわいそうに!」
 ガートはパーキンソンに負けないくらい、声を張り上げた。廊下を行き交う生徒はまばらだけれど、パーキンソンは屈辱にカッと顔を燃やした。
「どっちが下品なんだか――クソ女!」
「はいはい、あたしはクソ以下の女でーす」
 ガートはいつまでもカナの腕を引っ張って、どこまでも廊下を進んだ――生徒のみんなが夕食のために大広間に向かうのに、カナたちは逆戻りした。しかし、カナはガートを止めなかった。
 階段を登り、図書館に続く廊下の角まで来たとき、ようやくガートは足を止めて、振り向いた。
「あは――ツイてないね、カナ。あんなやつにひっかかっちゃうなんてさ」
「ガート、いつもあんなことを言われてるの?」
 わずかに、ガートの笑みが沈んだ。カナの手を離し、壁にもたれかかった。
「いつもじゃないよ。あいつ、男がいるときは猫かぶってて大人しいし。だから、たまにね。たまーに」
 つとめてほがらかに、ガートは指を小さく動かした。
「言ったでしょ、スリザリンに友だちいないんだって」
「でも、ガート、クラスではスリザリンの男の子とは喋ってたじゃない」
「それが気に入らないんだよ、たぶんね」
 ガートは髪を払い、不満そうに腕を組んだ。
「しかも、あんたが一緒にいたから・・・・・・攻撃したくてたまらなかったんじゃない?」
「ぼくが理由だったんなら、ガートに悪いよ」
「カナ」ガートがため息混じりに言った。「あんたがひとりぼっちでパーキンソンの前に出るほうが、よっぽど心配だよ。あたしはなんとも思ってないからさ――だから、大丈夫」
 ニコリ、とガートは笑みを浮かべた。
「あたし、あんたがいてくれてよかったって、本気で思ってるよ。あんたが友だちでよかった。だから、あんたのことは守ってあげたいの。わかった?」
 カナが頷くと、ガートは壁から背中を剥がした。
「でも、ガート」
「うん?」
「ぼく、ガートだけがつらい思いをしているのも、嫌だよ。だから――」
 カナは、そっと拳を突き出した。
「やるときは、ふたりでやろう」
 ポカン、とガートは薄く唇を開いて、そのまま固まった。ややあって、ガートはお腹を揺らしながら笑った。
「あは、あはは。なんだ、何を言い出すかと思ったら――ウン、オッケー。カナ、あたしたち、一緒だ」
 ガートの拳が、カナの拳にコツンと当たった。そのまま、ふたりはきつく抱き合って――お互い見えなかったけれど、満足そうに、ゆるく頬を持ち上げていた。



 パーキンソンが言っていた、カナが男遊びをしているという噂が出回っているのは本当のことだった。おもに、スリザリンの一部で盛り上がっているみたいだけれど。
「あんなの、ほっとけばそのうちみんな飽きて、なくなるよ。事実無根なんでしょ?」
 久しぶりの「訓練部屋」の掃除を終えて、ガートがティーセットを広げていた。
「んー・・・・・・実は、マルフォイとロンドンで会ったのは本当なんだ」
 お茶に砂糖を落としながら、カナは言った。
「そのとき、その、シリウスと一緒にいたんだよ。シリウスは変装してた・・・・・・だから、『マグルのおじさん』っていうのは、シリウスのことなんだ」
「あんたってほんと、ツイてない」
 ガートはお茶を啜った。
「そんな言い訳、誰にも言えるわけないしね。あんたに父親はいないし・・・・・・父親代わりのルーピン先生の顔だって、みんな知ってるしね」
「ガート。ぼくが去年、家出したときのこと、誰にも話してないよね?」
「話してないよ。でも、パパは知ってる」
 カナがカップをスプーンで混ぜながら、ため息をついた。
「ガートのお父さんって、マルフォイの友だちでしょ?」
「違うよ。後輩」
「変わんないよ、どっちも・・・・・・父親伝いで、マルフォイは知ったのかなあ?」
「なーんであんたが遊び呆けてるって話になっちゃうんだろうね。あたしはともかくさ――」
 ちらりと、目が合った。ガートはコホン、と咳払いした。
「ホラ、あたしは彼氏がころころ変わるよ? それは認める。でもあんたは一人としか付き合ってない」
「ウォーレンをカウントしないならね・・・・・・あっ」
 カナはふと気がついて、カップからお茶があふれそうになった。
「ぼく、ボガートがウォーレンだったんだ。去年の――しかもリーマスの目の前だったから、取り乱しちゃって――」
「それじゃ、はっきりしたよ」ガートはお茶を飲み干した。「グリフィンドールのさ、口が軽い子、いるでしょ。なんでもペラペラおしゃべりする――」
「――考えたくないよ」
 ラベンダーか、シェーマスか。いや、ロンかもしれない――カナは頭が痛くなりそうだった。
「ま、気にしないことだね」
 ガートは立ち上がった。うんと背伸びをして、腕を大きく回した。
「今年はクィディッチの試合もないし、退屈だね――あっ! そうだった」
 ガートはちいさなポシェットを探り、中から皮袋をふたつ、取り出した。ジャラ、と音を立てて、テーブルの上に乗る。
「なに、これ?」
「覚えてる? アイルランドとブルガリア、どっちがスニッチを捕るか、賭けたでしょ?」
「あ・・・・・・あー」
 カナはすっかり忘れていたので、あいまいな反応になった。それにカナは賭けに負けたから。
「これ、ポッターとウィーズリーに渡しておいてくれない?」
「え? やだよ、こんな大金持ち歩きたくない!」
「あたしが直接呼びつけるわけにもいかないでしょ」
 ガートは、嫌がるカナに無理やり金貨の袋を押し付けた。
「それで、あんた一ガリオンだったよね?」
「ん? うん」
 ガートは無言で手のひらを差し出した。
「負けたんだから、賭け親にちゃんと払わないとね?」
「えーっ、ガートは?」
「あたしが勝ったらみんなに払ってもらうつもりだったけど。負けちゃったしね。支払うのはあんただけ」
「ちぇっ」
 しかし、カナは今お金を持ち合わせていない。
「・・・・・・来週の集まりの時に渡すよ」
「はいはい。忘れないでよ」
 それからは、他愛もない雑談が続き、じきに夕食の時間になった。今日はなんの訓練もせず、おしゃべりしただけになってしまった。よくあることだ。ティーセットや広げたお菓子を片付け、ペンダントライトに杖を伸ばしながら、ガートが言った。
「そういえば、今年は何に取り組むんだっけ?」
「ぼく、なーんにも目標がないよ。なんか、空っぽになっちゃったみたいなんだ。何かない?」
「ま、難しい呪文の練習とかなら、いくらでもできるけど――明確な目標と理由がないとね、やりがいもないし」
「そういえば、ハーマイオニーが新しいことを始めたんだ」
「へえ?」
 カナは鞄の裏側につけた「S.P.E.W」のバッジを見せた。
「『反吐が出るspew』?」
「ちがうよ、なんだっけ・・・・・・『エルフ福祉推進協会』」
「聞いたことないね」
「そうだ――ガート、グリフィンドールのテーブルに来てよ。そしたらお金も渡せるよ?」
「あー・・・・・・わかったよ。行く」

 大広間は生徒でごった返していたけれど、カナとガートはなんとか抜け出して、グリフィンドールのテーブルに近づいた。やっぱり、その端の席に、ハリー、ロン、ハーマイオニーの三人が座っていた。
「ハーイ。ポッター、ウィーズリーに、グレンジャー」
 意外な客人に、三人は目をパチパチ瞬かせていた。カナはガートの背を押して、ハリーとロンの間に立たせた。
「これ、あんたたちの勝ち金だよ。先生に見つからないようにしてよね・・・・・・」
「ウワーッ、マーリンの髭!」
 ロンがひっそりと高い声を出して喜んだ。ハリーも、驚きながらも袋を受け取った。
「約束はナシかと思ったぜ。エイブリーってスリザリンだし」
「スリザリンだとなんだっていうの? まったく。風評被害もいいところ」
 ガートは肩を落とした。カナはそのやりとりを、一歩後ろでニコニコと眺めていた。
「あー、それで」ガートはハーマイオニーに向き直った。「グレンジャー、なんかおもしろいこと始めたんだって?」
 ハーマイオニーは勢いよく立ち上がった。ハリーとロンをチラリと見ると、目を半分にして呆れたように、カナのことを責めるような目で見ていた。カナはいたずらっ子みたいに笑った。
「興味を持ってくれたのね! うれしいわ――身内じゃない、初めてのメンバーよ!」
「身内の紹介だけどね」
 ロンのぼやきを無視して、ハーマイオニーはガートを隣の席に座らせた。カナもその隣について、夕食にありついた。ハーマイオニーが熱心に説明しているハウスエルフの権利擁護活動について、ガートは賛同しているとも言い難かったけれど、それでも最後まできちんと説明を聞いた。
「――どうかしら。お家でハウスエルフを雇っている方の意見も聞いてみたいわ」
「そうだね。うちにもハウスエルフがいるけど、賃金の話はしたことがないよ――まあ、実際そんなことを言ったらあの子、泣きそうだけど」
「ほんとうに!」
 きっとガートは「恐ろしくて泣きそう」だと言ったのだけれど、ハーマイオニーは「嬉し泣き」だと解釈したに違いない。
「ま、二シックルならそんな額でもないし――いいよ。出してあげる。でも、あたしが協賛してるだなんて大々的には言わないでくれる? あんま目立ちたくないから」
「ええ、感謝するわ!」
 ハーマイオニーはものすごく満足そうに微笑んだ。
「ガート、ありがとう」
 カナも笑いかけると、ガートは顔を赤くして、カナのことを肘で突いた。
「あんた――まったく!」
 きっと、ガートに友だちの範囲を広げてやろうとカナが考えたことは、バレているに違いない。
「それじゃ、あたし、スリザリンに戻るよ。みなさん、ごきげんよう」
 ガートは早足でスリザリンのテーブルに戻り、背の高い上級生のそばへと座った。前の彼と、たぶん同じだ。
「カナったら、さっそくメンバーを集めてくれるなんて、優秀だわ」
「カナ、あんまりこいつを熱心にさせないでくれよ」
「ううん。ぼく、へへ・・・・・・」カナは笑った。「みんなにもガートの良いところを知ってもらおうと思って」
 三人はキョトンとした。すこし間が空いて、ハーマイオニーが話し始めた。
「まあ、スリザリンの中では話が通じるし、まともな子よね。そうよね?」
「うん、まあ――」ハリーも頷いた。シリウスの件があってから、元気がない。
「でもさ、カナ。気をつけなよ」ロンが、めずらしく神妙な顔つきで、こっそりと言った。「エイブリーって、死喰い人デス・イーターの家系だって聞くぜ」
 これには、カナも返答に詰まった。三人の視線がカナに注がれる。
「でも、ぼくの大事な友だちだよ。今は・・・・・・」



 数週間が過ぎた。四年生になって、授業がますます難しくなってきている、とカナは痛烈に感じていた。マグル学や天文学はガートにレポートを教えてもらいながら、ときどきハーマイオニーにもアドバイスをもらいながら、なんとか課題をこなしていた。
 そして、とくに苛酷な授業が、「闇の魔術に対する防衛術」だった。
 ムーディ先生はとうとう、生徒のひとりひとりに「服従の呪文」をかけると言い出した。呪いの強制力を示し、生徒がそれに対抗しうる力を持っているかどうかを試すと。
 杖のひと振りで机が隅に寄せられ、教室がすっかり片付いてしまうと、ハーマイオニーが迷ったように発言した。
「でも、先生。この呪文は違法だと、先生がおっしゃいました。たしか、同類であるヒトにこれを使用することは――」
「ダンブルドアが、これがどういうものかを、体験的にお前たちに教えて欲しいというのだ」
 ムーディ先生の魔法の目が、グルリと回ってハーマイオニーをとらえた。
「もっと厳しいやり方で学びたいというのであれば――誰かがお前にこの呪いをかけ、完全に支配する。そのときに学びたいのであれば――儂は一向に構わん。授業を免除する。出ていくがいい」
 そう返されると、ハーマイオニーは顔を真っ赤にした。「出ていきたいと思っているわけじゃありません」と小さな声で言った。ハーマイオニーも、これが重要な授業だということはわかっているんだろう――ただ、カナの心臓はいやに大きく、きしんでいた。
 先生は生徒を一人ずつ呼び出して、「服従の呪文」をかける。呪いの影響で、みんなつぎつぎとおかしな行動を始めた――ディーンは国歌を歌いながら、片足で飛び跳ねて教室を三周し始めたし、ラベンダーは自分をリスだと思い込み、その真似をはじめた。ネビルは普段だったら到底ありえないような俊敏さで、体操を始めた。誰一人として、呪いに抵抗できた者はいなかった。ムーディ先生が呪いを解除したときに、初めて我に返るのだ。
 しかし、ハリーは違った。初めて、ムーディ先生の呪いに抵抗して見せた。机に飛び乗ろうとして、途中でその勢いをなくし――思いっきり体当たりしていた。机がひっくり返るほどの勢いだったので、ハリーは体をしたたかに打ちつけていた。
「それだ! それでいい!」
 ハリーが膝を打っているのに、ムーディ先生は大喜びだった。
「ポッターが戦った! もう少しで打ち破るところだった! もう一度やるぞ、ポッター。あとの者はよく見ておけ――ポッターの目をよく見ろ。その目が大切だ――いいぞ――やつらは、お前を支配するのに手こずるだろう!」
 ムーディ先生は、ハリーの力量を発揮させると熱中して、その後、何度も立て続けに呪いをかけていた。ハリーはそのたびに指示に背いていたけれど、何度目かの挑戦でようやく完全に呪いを破るようになると、ハリーは消耗してふらふらになっていた。
「素晴らしい!」
 ムーディ先生は大声で唸った。ぱらぱらとまばらな拍手が起こる中、先生の杖がピッと生徒たちへと向いた。
「さあ、さあ。最後だ、エリオット」
 とうとう、カナの番が来た。ハリーがさっきまで机にぶつかり続けた教室のど真ん中に、カナは立った。すると、カナが息を吐く間もなく、先生は杖を振り上げた。
インペリオ服従せよ!」
 とたん、カナの全身の緊張が消え、頭の中が空っぽになった。それは悪いものでなく、ただ、カナは幸せな気分で満たされていた。とろりと溶けるような表情で、全身の力を抜いて立ち尽くす姿を、教室の隅からみんなが見ているのだろうけれど――そんなものはすこしも気にならなかった。あらゆる悩みや感情から解放されて――今まで、こんなに素晴らしい心地になったことはない。
 はたと、カナはかすかに揺蕩うような思考をつかんだ。こんな心地になったのは、本当に初めて・・・・・・だっただろうか。
 全身に冷水を浴びせられたかのようだった。カナは霞のような意識の中で、顔を上げ、ムーディ先生を見つめた。先生はぴくりとも表情を動かさず、命令を下すためにわずかに口元がうごめくのが、ひどくゆっくりと見えた。
 みなさんにご挨拶をするのだ。
 ムーディ先生の声が、意識のはるかかなたから、しかしはっきりと聞こえてきた。
「はい――」
 とたん、悪寒を忘れ、カナはゆっくりとクラスメイトの方を振り返った。そして、ローブをつまんで、膝を折った。頭を下げたまま、カナは話し始めた。
「――ぼくの名前はカナ・エリオットです。一九八〇年の四月十四日生まれ。コーンウォールの――」
 ズキン、とこめかみが痛んだ。カナが言葉に詰まると、もう一度、ムーディ先生の声が脳に響く。
 自己紹介を続けろ――話し続けろ――続けろ!
「りょ、両親はいません。後見人に育てられました。家にはフクロウが一羽います。住んでいるのは――」
 ズキン、ズキン、と、頭痛は大きくなっていく。呼吸が速くなり、鼻筋には汗をかいていた。うつむいたまま、カナはパニックになっていた。
 命令に従わなければ――でも、言葉を続けようとすると、頭が真っ白になる。それに、声も出ない。
「住んでる、場所は――」
 カナはとうとう、バランスをくずしてよろめいた。痛む頭を両手で抱えて、目を見開いたまま、汗がぽたぽたと床の木目を濡らすのを凝視した。
 フワフワと鈍った意識を振り絞るように呼び起こして顔を上げると、ムーディ先生がカナをじっと見つめているのが、ぼやけた視界に映っていた。
 三度回って、頭を下げるのだ。
 迷うまでもなく、カナは歩き出して、三度円を描くように回ったあと、クラスメイトに向かってお辞儀をした。
 すると、とたんに意識がクリアになった。先生が呪いを終わらせたんだろう。今まで自分が何をやっていたのかははっきり覚えている。そして、頭の奥がズキズキと痛むその拍動が、より大きくなったような気がした。
「惜しいな、エリオット」
 ムーディ先生が、唸り声をあげた。
「わずかに抵抗を見せたが、呪文から抜け出すまでには至らなかった――だが、それでいい! その調子だ!――インペリオ服従せよ!」
 頭の中が再びふわふわと軽くなる。ズキズキと続いていた頭痛も、とたんに気にならなくなった。
 お前はどこに住んでいると言った?
 それを口に出そうとすると、カナの思考は何かに引っかかったようになる。よく目をこらしたいのに、すぐに真っ白になって、見えそうで見えなくなる。もう少しでわかりそうなのに――
「ぼくは――」
 カナが話し出したとたん、意識がクリアに戻る。そして、一気に教室のざわめきが耳に入ってきた。
「先生!」ハーマイオニーの悲鳴が聞こえた。「これ以上は危険です――」
 カナの鼻先に、何かが押し当てられた。いつのまにか、目の前にハーマイオニーが立っていた。
「カナ、大丈夫?」
 顔に押し当てられたものを、カナは手に取った。ハンカチだ。薄ピンク色の折り畳まれたハンカチが、多量の血で汚れている。
「まだ、鼻血が出てるわ」
 ハーマイオニーはカナの手の上から、ふたたびハンカチを押し付けた。
 ムーディ先生は興醒めしたのか、静かな声で授業の終わりを告げた。教室を出ながら、まだふわふわと幸福感に浸っている生徒や、興奮した生徒たちの話し声をあとに、カナはようやく顔からハンカチを離した。
「やっと止まった?」
「ええ」ハーマイオニーがうなずいてくれて、カナは息を吐いた。
 以前であれば、カナは止血が早いほうだったと思う。傷だって一晩眠ればたいていは綺麗にふさがっていたし――成長とともに体も変化するものだろうか。
「ムーディ先生ったら――出血するほど危ない呪いを、生徒に使うなんて!」
「でも、ハリーは鼻血を出してなかったよ」
 血まみれになったハーマイオニーのハンカチをポケットに仕舞いながら、カナは考えた。
「何か――ぼく、『服従の呪文』にかけられてるあいだ、なにか思い出しそうだったんだ」
「それって、エリアおばさまのこと?」ハーマイオニーが心配するようにカナの顔を覗き込んだ。
「わかんないよ。もうその感覚はなくなっちゃった」
 階段を降りる手前になって、カナは目を閉じた。
「はあ――あたま痛い」
「医務室へ行ったら? カナ、しっかり体調を整えないといけないわ。私たち、『O.W.L普通魔法レベル試験』を控えてるんだから!」
「うん――五年生になったらね」
「あら、今から備えないといけないわ!」
 変身術の授業の時に、マクゴナガル先生が口を酸っぱくして何度も言っていたことを、ハーマイオニーも口癖のように言っていた。五年生になると、魔法教育の成績の指標になる「O.W.L普通魔法レベル試験」――通称、ふくろう試験を受けることになる。
 そんなわけで、まだ四年生が始まったばかりだというのに、カナたちに大量の宿題を出す科目も多かった。実際、ムーディ先生も「服従の呪文」について何か文献を読むようにと言っていたし、マグル学では、マグルの法律と魔法法律の違いについて調べるようにと課されていた。魔法史では十八世紀の「小鬼ゴブリンの反乱」についてのレポートを毎週求められた。魔法薬学では、解毒剤についての研究課題が出ている。スネイプ先生は、クリスマスが来るまでに誰か一人に毒を飲ませて、みんなが研究した解毒剤が効くかどうか試すと仄めかしていた。呪文学ではこれから「呼び寄せ呪文アクシオ」に取り組むらしく、参考書で予習するように指示された――ただ、カナはすでに一昨年から続けているガートとの特訓で習得していたので、余裕が生まれた。
 ハグリッドまでもが、仕事を増やしてくれた――「尻尾爆発スクリュート」の好物をまだだれも発見していないというのに、ものすごいスピードで、いまやカナの片腕ほどの大きさに成長した。これにはハグリッドだけは大喜びで、課題の一環として、生徒が一晩おきにハグリッドの小屋に来て、スクリュートを観察し、その特殊な生態について観察日記をつけようと提案した。
「僕はやらないぞ」マルフォイが、はっきりと言った。「こんな汚らしいもの、授業だけでたくさんだ。お断りだね」
 それまでニコニコと話していたハグリッドから、笑顔が消えた。
「言われた通りにするんだ」ハグリッドは厳しく言った。「じゃねえと、ムーディ先生にならって、おれもやるぞ・・・・・・おまえさん、なかなかいいフェレットになるってえ話だな、マルフォイ」
 グリフィンドールからは大爆笑があがった。マルフォイは怒りで顔が真っ赤に染まり、何故かカナをキッと睨みつけ、それっきり黙り込んだ。
 授業を終えて、カナ、ハーマイオニー、ハリー、ロンは、すこしいい気分になりながら城へと戻った。去年、ハグリッドはマルフォイのせいで散々酷い目にあったのだ――このくらいの応酬はあってしかるべきだろう。
 玄関ホールに入ると、それから先は生徒がぎゅうぎゅう詰めになっていた。大理石の階段の下の掲示板に、大勢が集まっていたからだ。いちばん背の高いロンが背伸びして、前の生徒越しに掲示を読み上げた。

三大魔法学校対抗試合トライウィザード・トーナメントについて。
 ボーバトン代表団とダームストラング代表団が、十月三十日、金曜日、午後六時に到着する。授業は三十分早く終了し――」
「やった!」ハリーが声をあげた。「金曜の最後の授業は『魔法薬学』だ。スネイプは僕たち全員に毒を飲ませる時間がないよ!」
「――全校生徒は鞄と教科書を寮に置き、歓迎会の前に城の前に集合し、お客様を出迎えること」
「たった一週間後だ!」
 ハッフルパフのアーニー・マクミランが、目を輝かせて生徒の群れから飛び出してきた。
「セドリックのやつさ、知ってるかな? 僕、知らせてやろうっと・・・・・・」
「セドリック?」走り去るアーニーを見送りながら、ロンがぽかんとしながら言った。
「ディゴリー」ハリーが言った。「きっと、対抗試合に名乗りをあげるんだ」
「あっ、なるほどね!」カナが声を上げた。「『決めた』って、そのことを言ってたんだ――」
 四人は、ぺちゃくちゃとさわぐ生徒の群れをかき分けて階段に向かう。その最中に、ロンがいぶかしげに眉を顰めた。
「あのうすのろ・・・・が、ホグワーツの代表選手?」
「うすのろって」カナがロンを非難するように言った。「セドリックはおっとりしてるだけだよ」
「カナに『おっとり』なんて言われるやつ、リクガメくらいなもんだと思ってたよ」ロンは肩をすくめた。
「ロン、あの人が去年クィディッチでグリフィンドールを負かしたものだから、毛嫌いしてるだけでしょう」ハーマイオニーがぴしゃりと言った。「あの人、とっても優秀だそうよ。それに、監督生です!」
 カナも、ハーマイオニーに同意してウンウンと頷いた。
「君たち、あいつがハンサムだから好きなだけだろ」
 ロンが、女の子たちに皮肉たっぷりに言った。
「お言葉ですが、私、ハンサムってだけで誰かを好きになったりしないわ」
 ハーマイオニー以外の三人は、ロンの咳払いを合図にそっと顔を見合わせた。二年生の頃、ハーマイオニーがロックハートに熱を上げていたのを、みんなしっかり覚えている。



20241201


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