一週間ほど経つけれど、カナの作戦は、結果から言うとあまり功を奏していないようだった。一年生の頃からカナがドラゴンに興味を持っているのは友人たちは知っていることだったからだ。ハーマイオニーは一度、「トーナメントの救護係なら、何かハリーに有利になる情報はないの?」と直接的に尋ねてきたけれど、カナがうらめしげに黙り込むと、「言えるわけないわよね」と早々に諦めた。そう、カナの口からは、言えないのだ。
しかし、なによりハリーがいたたまれななかった。みんな――とくにスリザリン生が、あの記事のことでハリーをからかった。想定内ではあるけれど、味方が減り、迫り来る第一の課題へのプレッシャーに神経をすり減らしているさなかのハリーにとっては、やっぱり耐え難いものだろう。廊下や教室ですれ違うたび、「毎晩、死んだ両親を思って涙を流す」ことを揶揄されるのだ。
そして、からかわれているのはなにも、ハリーだけじゃなかった。ハーマイオニー、そしてカナもだ。
「ホラ、とびきりかわいいグレンジャーが来たわ」
飼育学の授業前、パーキンソンが甲高い声で、ハーマイオニーをあごでしゃくって、これ見よがしに言った。
「いったい、何と見比べたらそう思うのかしら――ビーバー?」
カナが杖を掴みそうになったのを、ハーマイオニーがぴしゃりと止めた。
「ほっときなさい」
しかし、デイヴィスが続けた言葉に、今度はハーマイオニーが足を止めた。
「『色ぼけ』さんの男を見る目には感心するわ。ポッターが選手に選ばれたからって、前のボーイフレンドはポイ捨てなんだから」
カナはハーマイオニーの腕を引っ張り、スリザリン生から離れた。
「ハーマイオニー、落ち着いて」
「ええ、落ち着いてるわ――あの人たちにどんな呪いが相応しいか、考えてただけよ」
「放っておこう」
「ええ、放っておくのよ。ハリー聞いてた? 放っておくの」
しかし、ハリーは放っておけないようだった。スキーターの記事から生まれた根も葉もない噂話は、ロンだけをことさら置いてけぼりにした。カナやハーマイオニーがどう取り持とうとしても、ロンとハリーの仲はいまだに修復できていない。記事が出たあの日に、ふたりでスネイプ先生の罰則を受けたらしいのだけれど、仲直りするきっかけにはならなかったそうだ。そのうえ、ロンはあの記事が半分ほんとうだとでも言いたげな口ぶりだったので、さすがにカナもあきれてしまった。
「ほんとうは仲直りしたいんでしょ?」
ふたりとも、それを否定する。
「意地張っちゃって――寂しいくせに」
それが、カナとハーマイオニーの見解だ。ハリーとロンが、女の子どうしの友情に取って代わることができないように。カナたちも、男の子どうしの友情に取って代わることはできないのだから。
三人は図書館を利用することが多くなった。ハーマイオニーはもとより、ハリーは居場所がないうえに、精神的な不調もあってか呪文がうまくいかないので、勉強が必要だった。カナもドラゴンの本を二人の前でアピールしなければいけなかったので、自然とそうなった。
そして、カナたちが図書館を利用するとき、必ずと言っていいほど、ヴィクトール・クラムもそこにいた。いつも、入って正面にある窓際の小さな机で、一人で本を読んでいるのだ。
「クラムって、いっつも図書館にいるね」
そう言うと、ハーマイオニーが「そうなのよ。ほんとうに迷惑してるの」と憤慨した。
なにも、クラムがハーマイオニーの邪魔をしてるわけではない。ただ、クラムが一人でいるところに、そのうち女子のグループがやってきて、物陰からこそこそと覗いていたり、クスクス笑いをしたり、勇気あるグループは机の周りに集まってみたりと、カナがいつか目撃した場面のようになってしまう。その物音や囁き声のせいで、ハーマイオニーは勉強に集中できないのだという。
「あの人、どうして自分の船で読書をしないのかしら――」
もうひとつ、ハリーの悩みの種がある。シリウスから、ハリー宛の返事が届いた。手紙に何もかもを書くわけにはいかないから、真夜中の一時に、グリフィンドール寮の暖炉で、直接会って話したいと書いてあったそうだ。そのために、当日の夜中にどうやってグリフィンドールの談話室を空っぽにするか、この二週間、カナたちはずっと考えていた。
「最悪の場合――『糞爆弾』を一袋投下するしかないかしらね」
「そうなったら、ぼくらフィルチさんに殺されちゃうよ」
そして、その時がとうとう迫っていた。今日、ホグズミード休暇が終わり、日付が変わると、シリウスが顔を出す時間になる。
カナとハーマイオニーは、ハリーに外出をすすめた。城に籠るよりもよっぽど気分転換になるからだ。シリウスのおかげでせっかく正式にホグズミードを楽しめるのだから、ハリーもこれに賛成した。しかし、なにか引っかかるところがあるようだった。
「ロンは誰と行くんだ? きみたち、あいつと一緒に行かないの?」
ハリーが聞いて、ハーマイオニーが恥じらうようにうつむいた。
「あ、それなんだけど・・・・・・私がこれからロンを誘って、ハリーとカナが一緒に行って、『三本の箒』でみんな会うようにしたらどうかと思って・・・・・・」
「やだね」ハリーが口を曲げた。
「まったく、まだそんなこと言ってるの?」カナもあきれた。
「ホグズミードには行くよ。でもロンと会うのはごめんだ。僕、『透明マント』を着て行く」
「そう、それならいいけど・・・・・・」
ハーマイオニーは残念そうにしながらも、しつこく食いさがりはしなかった。
村へ向かう道すがら、カナはハーマイオニーに聞いた。
「ところで、ぼくがなにを隠してるかわかった?」
「まあっ。カナ、それ、ハリーの前で話しちゃっていいの?」
目には見えないけれど、二人の後ろをついて歩いているハリーが、ぴくりと聞き耳を立てている気配がする。
「ぼくがたーっくさんヒントを出してあげてるのに、きみたちふたりとも、全然気づいてくれないんだもん。いいかげん、口が滑りそうで、気が気じゃないったら」
「いったい何の話?」
とうとう、ハリーが後ろから口を挟んだ。二人に近づけば、どこからともなく三人目の声が聞こえたはずなので、事情を知らない者は不気味に思うだろう。
「カナったら、セドリック・ディゴリーと図書館で親しげに話してたのよ。そのあとから様子が変だから、何か隠し事をしてるんでしょうって。今日は私の推理を披露する日なの」
「なんだよ、それ。きみもあれをつけるつもりか?」
ハリーが言っている「あれ」がなんなのか、カナには見当がついた。カナたちの周りを歩いている生徒があちこちで胸に飾っている、「セドリック・ディゴリーを応援しよう」のロゼットだ。
「ばかなこと言わないでよ」
「じゃ、セドリックには話せて、僕には話せないことって?」
「違うよ。セドリックにも話せないし、ハリーにも話せない。なんなら、誰にも話せないこと」
「私、ひとつ勘づいてるの――カナが話していいって言うんなら、もうちょっと落ち着いた場所で話すわ」
ホグズミード村にたどり着いてから、カナとハーマイオニーは、ときどきハリーに話しかけながらも、それぞれが行きたい店を覗いて回った。化粧品店や雑貨屋を巡り、カナは新しい髪留めを買った。花模様の刺繍のカラフルなリボンと、天然石で飾られたバレッタだ。ハーマイオニーにも、色違いの同じものをすすめた。カナはブルーで、ハーマイオニーはピンクだ。「使うことないわ」と言いながらも、カナが買って渡すと、気恥ずかしそうに受け取ってくれた。
あと、カナは布と糸、それに裁縫セットを揃えた。何に使うのかハリーに聞かれ、「作りたいものがあるんだ」とカナは答えた。「うまくできるかわからないけど、作ったら見せるよ」とも。
買いたいものを(一袋の糞爆弾も忘れずに)揃え、二人――いや三人はハニーデュークスへと向かった。甘い香りにつられて、かたっぱしから試食に手を伸ばした。ときどき、真後ろの空中へとつまんだお菓子を流すのも忘れない。
「二人で歩いてると、それがなんだか奇妙なことみたいだね。ぼくたちずっと友達なのに」
クリーム入りの大きなチョコレートを頬張りながら、三人は店を出た。カナは自分の分の買い物袋に加え、ハリーが買った分の紙袋も手に持っていた。
「私たち、恋のライバルだからでしょうね。誰かさんの記事によれば」
真横から、ハリーがむせこける音が聞こえた。二人してクスクスと笑うと、不満そうな声が聞こえてきた。
「だったら、僕は見えてなくて正解だ。また新しい記事が出るだろうよ」
「ハリー、そんなに気にしなくっても大丈夫よ。マントを脱いだら? 別に誰もかまいやしないんだから」
「そうかな――ほら、あそこ」
ハリーがふたりの肩を叩いて、「三本の箒」の方角を向かせた。パブの入り口から、リータ・スキーターとそのカメラマンが、ひそひそと話し合いながら、ちょうど出てくるところだった。
「まずい!」
カナはあわてて、ハリーがいるところあたりを手探りし、マントの中に入れてもらった。ハーマイオニーは肩をすくめながらも、とくにスキーターに注目することなく、チョコレートの残りを平らげた。
カナとハリーは息を殺しながら、スキーターたちが通りすぎるのを待った。二人はぽつんと立っているハーマイオニーに目もくれず、何事もなくそばを通り過ぎていった。あやうく、スキーターのハンドバッグにぶつかりそうになったけれど、すんでのところでかわした。
二人の姿が見えなくなると、ぷるっと身震いして、カナはようやく息を吐いた。
「ほーら」
ハリーがうらめしそうに言った。
「あの人、この村に泊まってるんだ。第一の課題を見に来たに違いないよ」
こくん、と頭上から唾を飲み込む音がした。ハリーはトーナメントのことを思い出して――いっきに緊張感が戻ってきたに違いない。
「でも、私の顔も知らないみたいね。あんな記事を書いておいて――ほら、行っちゃったわよ」
ハーマイオニーの声に、カナははっと気がついて、マントから出た。
「あの人たちがいないのがわかってるなら、『三本の箒』で休みましょうよ。ちょっと寒いし・・・・・・」
カナが口を開きかけてハーマイオニーを見ていると、ムッとした口調が返ってきた。
「ロンには話しかけたりしないったら」
昼時のパブの中は混雑していた。ホグワーツの生徒たちはもちろん、ホグズミードに来訪している魔法族や、魔法族以外の種族――たとえば小鬼や鬼婆なんか――で、店の中はごった返している。その中をハリーが歩くのは至難の業だった。ハーマイオニーが先導し、あいだにハリーが入って、その真後ろをカナがついていった。テーブルを確保して、ハーマイオニーが飲み物を取りに行った後ろ姿を目で追った時、カナはふと気がついた。フレッド、ジョージ、リーと一緒に、ロンが同じテーブルに座っている。ハリーにそれを教えると、「フン」という鼻息が返ってきた。
「ねえ。僕がこっそり近づいて、後ろ頭を小突いてやるのはどう? ロンのやつと、フレッドのを」
「思ってもないくせに」
カナは椅子の向きを変えて、例のテーブルが視界に入らないようにした。
「カナ、バタービール以外ですからね」
ハーマイオニーが戻ってきた。ミントのたっぷり入ったソーダシロップをカナの前に置き、バタービールのふたつのジョッキのうちのひとつを、こっそりと「透明マント」の下に潜り込ませた。
「うん、もちろん」
さっそくスティックでミントの葉を混ぜながら、カナはすこし申し訳なさそうに言った。
ミントソーダはパチパチと口の中ではじける泡が楽しい。ハーマイオニーと、おそらくはハリーも、温かいバタービールで喉を潤した。
「それじゃ、カナ。そろそろ答え合わせをしましょうよ」
「・・・・・・いいよ。ハーマイオニーの推理を聞く。それが間違ってても、ぼくは答えを言わないからね。それでいい?」
「とにかく、私の話を聞いてちょうだい」
ハーマイオニーはコホン、とひとつ咳払いを入れた。
「ねえ、カナ。セドリック・ディゴリーはあの日、偶然あなたを見つけたんだと思う?」
「そうなんじゃないかな。静かになりたかったって、言ってたし」
「違うわ。私が教えたの」
カナは開いた口が塞がらなかった。
「待って――ハーマイオニー、まだ『逆転時計』でも使ってる? どうしてぼくの居場所がわかったの?」
「そんなわけないわ。簡単なことよ。あなたも図書館に来るって、あの日は言っていたじゃない」
カナは肩の力を抜いて、ソーダをひとくち啜った。ハーマイオニーは得意そうに続ける。
「ねえ――彼、どうしてあなたを探してたと思う?」
「・・・・・・さあ?」
「よく考えて。あの日は、例の新聞が出た日じゃない。セドリックはあなたを励ましたかったか、慰めたかったんだと思うわ。休日を静かに過ごしたかったのは多分ほんとうで、彼って注目されたいタイプじゃないでしょ? でも、偶然、あなたの友達である私が、図書館にいたの。そして、あなたも偶然、図書館にいた」
「それで?」
「ねえ、カナ。私が言いたいことを、わかってくれるわよね?」
「・・・・・・考えたくないよ」
「あら、嫌なの?」
「違うけど・・・・・・今は何も」
「そう。まあ、今のはひとつ目の推理よ。本当のところは察しがついてるのよ。ずばり、トーナメントのことでしょう?」
カナはにがーい顔をした。それだけで、ハーマイオニーは満足そうに頷いている。
「あなたが関わっていることで『誰にも言えないこと』だなんて、きっとそれしかないわ。マダム・ポンフリーに念押しもされたでしょうし」
助けを求めるように、カナはハリーがいるはずの空席を、じっと見つめた。ふと、その向こうに、見覚えのあるシルエットが見えた。
「あれ、ハグリッドだ」
それは、もじゃもじゃ頭の後頭部だけだったのだけれど――彼を知る者なら、すぐにハグリッドだとわかるだろう。なにせ、あんなに大きな後ろ姿は、他にはマダム・マクシームぐらいしかいないのだから。
「ああ、ムーディ先生と話してる」
椅子の動く音ともに、ハリーの声がした。立ち上がって、テーブルの様子を見たんだろう。カナも首を右に左に伸ばしてよく見ると、二人してこそこそと話している――ハグリッドは特大のジョッキを目の前に置いていたけれど、ムーディ先生はいつも携帯している自分の酒瓶を傾けていた。女主人のマダム・ロスメルタは、付近のテーブルから空いたジョッキを片付けながら、それを気に入らない様子で見ていたけれど――カナはそのわけを知っていた。闇の魔法使いは、誰も見ていない時にかんたんにコップに毒を盛るのだと、だからいつも自分で食べ物や飲み物を用意するのだと、ムーディ先生みずから、授業中に話していたからだ。
ふたりはやがて立ち上がって、「三本の矢」を後にしようとしていた。しかし、ふと――ムーディ先生の「魔法の目」がこちらにクルリと向いて、ハグリッドに何かを知らせた。すると、二人は振り返り、カナたちのいるテーブルへと歩み寄った。
「元気か? カナ、ハーマイオニー」
ハグリッドが、よく響く声で挨拶した。
「こんにちは、ハグリッド」
「元気だよ」
ムーディ先生は、片足を引きずりながらテーブルを回り込んだ。そして、ハーマイオニーが今しがた広げたばかりのS.P.E.Wの活動記録のノートを覗き込んでいた。
「いいマントだな、ポッター」
みんなが驚いて、ムーディ先生を見た。先生はノートを覗き込んでいるのではなく、ハリーに気がついていたんだ。先生はおそらくハリーと目を合わせ、ニヤリと笑った。
「儂の目は透明マントを見透かす――そして、ときには、これがなかなか役に立つぞ」
ハグリッドもにっこり笑いながら、ハリーの席を見ていた。ハグリッドにはハリーの姿が見えないはずだけれど、おそらくムーディ先生が教えたんだろう。
今度はハグリッドが、S.P.E.Wのノートを覗き込むようにして、ハリーに何か囁いていた。
「――そんじゃ。おまえさんたちに会えてよかった」
わざとらしい大きな声で言いながら、ハグリッドはウインクし、二人は今度こそパブを出た。
「ハグリッドが、真夜中に僕に会いたいって」
ハリーが驚いたように言った。
「会いたいですって?」ハーマイオニーも目を開いた。「いったい、何を考えてるのかしら・・・・・・ハリー、行かないほうがいいかもしれないわ」
「真夜中だと、約束の時間に遅れちゃうんじゃない?」
カナが言うと、ハーマイオニーも頷いた。シリウスとの約束の時間は深夜一時だ。ハグリッドの用事が検討もつかないうちは、シリウスを優先すべきではないかと、カナもハーマイオニーも考えていた。
「いや・・・・・・急いで会いに行けば間に合うよ。ハグリッドが真夜中に呼び出すなんて、きっと何かあるに違いないって、そんな気がするんだ・・・・・・」
カナとハーマイオニーは、顔を見合わせた。
「それに、断りの手紙を書こうにも、ヘドウィグが郵便を請け負ってくれるとは思えないよ」
それから、ハーマイオニーの追求をなんとか耐えながら、それぞれは夜中になるのを待っていた。カナは相変わらずドラゴンの本――セドリックが読み終えて渡してくれた「ドラゴンの巣から生き延びる五十通りの方法」を手に取っていた。これがなかなか、実用的らしきタイトルだけれど、中身はそうでもないようだ――実際の事件を載せてくれてもいるけれど、そのほとんどが重傷を負っている。生き延びることはできているけれど。それに、ことあるごとに「姿現し」だ。ホグワーツでは行使できないので、ハリーの役には立ちそうにない。
ずいぶんカナは難しい顔をして本に顔を埋めていたにちがいない。カナが文字を追うそのページの上に影が落ちるまで、誰かが近づいてくるのに気づかなかった。顔を上げて、カナは肩を大きく揺らした――目の前に立っていたのは、ジョージだった。
「やあ」ジョージはあいまいな表情で言った。「大丈夫か?」
「大丈夫だよ、もちろん」カナは本に視線を戻しながら、そっけなく言った。「ぼくなんかと話してる暇があるっていうの?」
「カナ、聞く耳持てよ」
「忙しいから、また今度ね」
「なあ、あの時は悪かったよ。きちんと話を聞く。どうだ?」
「でしたら、ご本人が直々にこちらにいらしたらどうですか?」
カナがひどく他人行儀に言うと、ジョージもむっとして表情を曇らせた。
「直々にお会いしたら、おそらくご口論になるかと」カナの向かいの椅子に腰掛けながら、ジョージが皮肉たっぷりに言った。
「わかってるなら、ほっといてよ」
「ほっとけないから、こうして声をかけてるんだろ?」
「ジョージに関係ないでしょ!」
ガタリと音を立てながら、カナは立ち上がった。思わず声を荒げてしまったことをわずかに後悔しながら、カナは本を閉じた。
「――へっぷしゅん」
そして、くしゃみをした。ちらりとジョージと目があって、カナは逃げ出すように背を向けた。しかし、そこにはフレッドが立っていた。
「カナ。医務室に行こう」
「行かない」
「カナ」
「平気だってば!」
カナがそっぽを向くと、フレッドはその手から本を取り上げた。
「返して!」
「おとなしく医務室についてくるなら、返してやる」
カナが手を伸ばしても、フレッドが高く持ち上げてしまったら届かない。カナはハーマイオニーとハリーが宿題を広げている窓際の席をチラリと見た。今夜は談話室を空っぽにしなくてはいけないのに――ハーマイオニーはこくりと頷いて、「大丈夫」だと合図を送った。
「アンジー、こいつを医務室に届けてくるから」
フレッドは監督生のアンジーに向かって、ぶっきらぼうに言った。カナは黙ってぶすくれながら、フレッドに肩を抱かれて、額縁を潜って談話室を出た。
「やめてよ」カナは肩にかかったフレッドの手を払いのけた。「一人で歩ける」
「和解する気はないってことか?」
一歩後ろをついて来ながら、フレッドは静かに聞いた。
「ぼく、怒ってるんだから――っくしゅん」
ブランケットを引き寄せたけれど、カナはまたくしゃみをした。
後ろから、体温が残るマントがかけられた。カナはそれを取っ払って、後ろに突き返した。
「意地張ってどうすんだよ」
「やめてったら!」
階段の踊り場に、パシッ――と小さな音が響いた。壁にかけられた松明の炎が、ふわっとゆらめく。フレッドの手がはじかれ、彼のマントが床に落ちる。二人の間にため息が落ち、フレッドがマントを拾う――カナはその数秒のあいだ、階段の暗闇を見つめながら、俯いたまま黙っていた。
「行こう」
フレッドは平坦な声で言い、カナを追い越して行った。しかし、カナがついて来ていないのを見ると、振り返る。
「カナ。医務室だ」
ひどく泣きたい気持ちになった。カナが歩き出すと、フレッドは横並びになるように歩いた。歩幅は合わないのに、ふたりの歩く速さにそれほど違いはない。暗く静かな城に、不揃いの足音だけが響く。
しだいに、そこに小さな嗚咽が混じり始めた。
フレッドが足を止めて、ため息とともに振り返る。
「なあ、お前は僕にどうしてほしいんだ?」
カナは顔を上げた。冷たい表情のフレッドがそこに立って、カナを見下ろしていた。そんな目で見ないで欲しい――ひどくみじめな気持ちになる。
「フレッドこそ――ぼくを突き放すのか、そばに置きたいのか、はっきりしてよ。ぼく、もう、いや。疲れた」
涙を落としながら、カナはしどろもどろに言った。
「きみを追いかけまわすのも嫌。『また今度』ってあしらわれるのも嫌。きみがぼくのところに来てくれるのをいつまでも待つのも、嫌。ぼくが拗ねてるとジョージが気をつかうのも、きみのことでめそめそ泣くのも、もう嫌なんだから――ぼくに親切にしないでよ。きみのこと、窓から放り投げてやろうって、そう思ってたのに。嫌いになりたいのに――」
「なあ、それはなんのためにだ?」
「ほっといてよ」
顔を覆った両手を掴まれた。カナの、しとどに濡れた頬を、分厚い手が覆った。
「フレッド」
張り付いた髪を乾いた指先がやさしく撫で、そこから頭が、背すじが、つま先まで痺れるようだった。暗闇で、亜麻色の目が淡くゆらめいているのが、鼻の先に見えた。
「やだ」
でも、カナは抵抗しなかった。
唇が触れて――薄くそこを開くと、貪るように唇を押し付け合う。息をするのも忘れて、口付けを交わした。たまらず、カナが熱い息を短く吐くと、濡れた頬を熱い手が滑り、頭の後ろと背中に回る。カナはぎこちなく、でもぴったりとからだをくっつけた。また唇を寄せ合う――頭が沸騰してしまいそうだった。このまま溶けて、消えて無くなってしまいたいと、遠のく意識のかたすみで思った。
「あのな」
ひどく不機嫌そうなジョージと、顔のあちこちにあざや大きな腫れをこさえたフレッドが、医務室のカーテンを背に並んで座っていた。
「病人が倒れるほど盛り上がってこいだなんて、僕は言ってないぞ」
「はい、反省しております」
珍しく、フレッドがジョージに叱られている。
昨夜、カナはあのまま、キスの熱に浮かされていると思いきや、高熱で意識を手放して医務室に入院したようだった。
カナも恥入った様子で、黙ってゴブレットの水をちびちびと啜った。
「お前らに世話焼いた僕らがバカだった」
「おっしゃる通りで」
フレッドは後頭部の大きなたんこぶに、もう一発パンチをくらった。
「フレッド、今日は休業だ。お前に時間をやるよ。二人とも、ちゃんと考えろ」
そう言うと、ジョージはあきれたようにカーテンの向こうへと消えた。すると、まもなくマダム・ポンフリーが顔を出し、「ミス・エリオット。元気になったのなら退院してよろしい」と、そっけなく言った。顔を引っ込めるときにじろりとフレッドを見やり、鼻息荒くカーテンを閉じた。
カナはついでに、マダム・ポンフリーに「聖マンゴ上級医監修治療薬一覧・魔法生物全般編」を借りて、医務室をあとにした。ふたりはぎこちなく、言葉少なく歩き、あわく風が吹く渡り廊下で足を止めた。
「その」フレッドがポケットに手を突っ込みながら、手すりに寄りかかった。「やり直すつもりがあるか?」
「きみがそうしてくれるなら」カナはぶあつい本をぎゅっと抱え、大イカが顔を出した湖を眺めた。
「僕らは今――大事な時期なんだ」
「わかってる」
カナは穏やかに言った。大イカが波を立てて、ダームストラングの漆黒の船を揺らしていた。
「きみの夢を邪魔したくはないよ」
亜麻色のひとみが、カナの空色のそれをじっと見つめていた。
「でも、ぼくは辛抱強くない――ねえ、どうするのが、いいのかな?」
「僕にだって、わからない。わかってたらこんなことになってない。お前さんが寂しがってるなんて、思い浮かべもしてなかった」
首を横に振ったフレッドはらしくなく、何か――言いたくない言葉を、言い淀んでいるようだった。
「きみのこと、嫌いになれたらよかったのに」カナの言葉に、フレッドが顔を上げた。「きみがとってもひどい人だったなら、ぼくだって諦めるのに――」
「カナ」突然、フレッドはカナを腕の中に抱き込んだ。「それ以上言うなよ」
「フレッド」
カナは手を伸ばして、赤毛の襟足をぽんぽんと撫でた。
「きみのことが好きだよ。今もね。きみもおんなじだと嬉しいけど――」
「同じだよ」
「うん、でも、きっとまたいつか信じられなくなる」
カナを閉じ込めていた腕がゆるんだ。フレッドが、動揺したように見つめてくるので、カナはあわくほほえんだ。
「フレッドはぼくを信用していないでしょう?」
「そんなの――」
「まるっきり見当違いじゃないはず」
カナはいたずらっ子みたいにほほえんだ。
「お前さんは、だって」フレッドは頭を左右にゆさぶり、悲痛そうに眉根を寄せた。「いつも僕の目の前からいなくなる。僕がどれだけ強く手を握っても、振り解くか、消えているか――それが恐ろしいんだ」
「キャンプ場でそうだったから?」
「いいや。もう、ずっとだ」
あたたかい腕が離れていく。また手すりに寄りかかりながら、フレッドは分厚い雲で覆われた空を見つめた。
「秘密を隠してる。だろ?」
カナはただ穏やかに、不気味なほど静かに微笑んだままだった。
「きみにすべて話したって、いいよ」
亜麻色の瞳が、揺らいだ。
「みんなに内緒にしてくれるっていうのなら、ぜんぶ打ち明けたっていいよ」
フレッドが息を呑んだ――その時のカナは、ただの十四歳の少女とは思えない、異様な雰囲気をまとっていた。妖艶さや剣呑さ、それらを薄くまとい、ためすようにフレッドを見つめ返していた。
「いいぜ。言ってみな」
カナが手を引き、ふたりは空き教室に入った。入り口に鍵を閉め、扉から一番離れた窓際で、影に溶けるように体をぴったりと寄せ合った。
そこで、カナは話した。自分が「名前を言ってはいけないあの人」の血族だということ。これはハリーとカナと、それからダンブルドアだけの秘密だということ――自分はサラザール・スリザリンの血を引いていること――カナは「例のあの人」に気づかれていて、いつか狙われるということ――去年の夏休みに家出したのは、自分が「例のあの人」の娘かもしれないとまだ考えていて、思い詰めて飛び出してしまったということ――
「それにね、フレッド」
かたくつないだ手を、フレッドの太ももの上に落とした。
「ぼく、八月に初潮が来たんだ」
「はあ?」
それまで神妙な面持ちでカナの話を聞いていたフレッドが、気の抜けた声を出した。
「モリーおばさんがね、フレッドになら話していいよって、ほんとは男の子には内緒だけど、話していいよって言ってくれたんだ」
ぽかんと、間抜けな表情をしているフレッドがおもしろくて、カナは鼻先にキスをした。
「ねえ、フレッド」
ふるえるカナの睫毛に、涙が浮かんで濡れていた。
「いままでの話、ぜんぶ忘れてくれる?」
唇にかみつきながら、カナはフレッドにまたがった。ローブの前をくつろげ、音を立てて首筋に口付けると、「おい!」と焦った声が聞こえてくる。腰を上げて自分のローブとシュミーズをまくりあげ、下着をするりと脱ぎ下ろしたとき、熱い手が肩に掴み掛かった。
「バカ、カナ!」
膝に引っかかったままのショーツをカナが引っ張って投げ捨てると、真っ赤に顔を染めたフレッドが、腕を伸ばしてカナを遠ざけながら、視線を彷徨わせていた。
「いったん考えようって、去年言っただろ!」
「待てないよ」
カナはフレッドの茹だった頬をつかみ、顔を突き合わせた。
「ぼく、待てないんだ」
燃え上がるって、こういうことなんだな、とカナは思った。はしたない女の子だと思われてもかまわなかった。去年はちっともよいものだと思えなかった行為が、これ以上ないほどカナの胸を締め付け、そして頭をおかしくさせた。開きもぬかるみもしなかったはずの性器が、まるで違う生き物みたいに、よろこんで彼を受け入れているのがわかった。うれしかった。カナは泣くほど嬉しくて、涙が止まらなくて、こんなにも彼が好きで、でも同時に、ちぎれそうなほど切なかった。冷え切った教室の隅っこで、額に汗を浮かべるほど没頭しているフレッドのことが愛おしくて、カナはなんどもあちこちに、たんこぶになったつむじにも、青あざのある口の端にも口付けた。とちゅう、気をやってしまいそうな瞬間もあった。カナがあまりに泣いているので、「カナ?」とフレッドが何度も心配して顔を覗き込んでくる。それだけのことが、ふるえあがるほど心地よかった。
何も考えなくてよかった。その間だけは、その一時間ほどの交歓のあいだは、カナはただひとりの女の子でいられた。
「カナ、もう、充分だから」と、フレッドがカナの白い胸のあいだで浅く息を吸っていると、もうたまらない気持ちになった。フレッドの上から退いてあげたかったけれど、腰がふるえて、足が立たなかった。
「フレッド、その」カナが後ろに手をつきながら、ふるえる息を吐いた。「立てないかも」
フレッドがゆっくりと離れ、熱を抜き去っていく。カナはその光景を、まじまじと見つめた。「あんま見るなよ。いいもんじゃないだろ」カナは首を横に振った。
大丈夫だった。ちっとも怖くなかった。そんなことよりも、すっかり腰砕けになってしまったことが、カナは気恥ずかしかった。
ごまかすようにカナは笑って、涙を拭って、手を伸ばす。そうすると、求めている人が腕の中に収まってくれる。カナは、今この瞬間――誰よりもしあわせだった。
「フレッド、ありがと」
ぬぐってもぬぐっても涙があふれるカナをぎゅっと抱きしめて、フレッドは大きく息を吐いた。
「なんで、お前が礼を言うんだよ」
「それじゃ、ごめんね?」
「だから、なんで」
フレッドの頭を撫でると、たんこぶがぼこぼこと盛り上がっていて、またカナの胸がきゅんと切なくなった。
「ぼくがわがままを言ったから・・・・・・きみが望まないこと、しちゃったかもしれないから」
「バカ言え」
フレッドはもう一度深く息を吸い、やわらかな胸に鼻先を埋めながら言った。
「ずっとこうしたかったんだ」
フレッドと肌を合わせたことは、すこしも後悔していない。むしろ、カナはすっきりした気持ちになっていた。逆にフレッドはしばらくは腑抜けたありさまだった。ただ、ひとつだけふたりの心中に、かなり大きな後味の悪さが残っている。
カナの投げ捨てた下着が、どこにもなかったのだ。頭を抱えた――考えられるのは、ポルターガイストのピーブズだ。どこにでも現れる台風のような彼が、カナたちが熱中しているさなかに空き教室に迷い込んで、面白がって覗き、床に放られたカナの下着を盗んでいったに違いなかった。そう思い至ったとき、カナは冷や汗が止まらなかった。このことを言いふらされたり、カナの下着を見せ物にされたりしたらたまったものじゃない――とりあえず、まだよろめくカナはフレッドに支えられながら、空き教室を出た。
「おぶってやろうか?」
「それもいいね」
カナはフレッドの腕にぎゅっとしがみついて、微笑んだ。
「ああ、ほんと」呆けたようにフレッドが言った。「マルフォイのやつが、僕より先にカナの胸に埋もれただなんて、気が狂いそうだ」
「急にどうしたの?」
「いや」えらく真剣なまなざしだった。「どうにも忘れられそうにない感触だからさ」
グリフィンドール塔へと戻ると、ふたりは静かに別れた。カナは寝室へ、フレッドは――バスルームだ。
まだこわばったままの腰をかばいながら、カナはベッドに腰掛けた。まだフレッドの体温が全身に残っているような気がして、むずがゆい気持ちになった。初めてじゃないのに、こんな感覚は初めてだ。
それにしても――無くなりすぎだ。カナはいったいいくつ下着を買い足せばよいのだろう。心配がだんだんと苛立ちに変わっていきながら、カナはトランクの中から新しい下着を引っ張り出して、とりあえず身につけた。そのとき、一緒にころりと転がり出たものがあった。小さな袋だ。
手に取って、カナはそれが何か思い出した。エリアさんが手紙でくれた、満月草だ。すっかり忘れてしまっていた。スプラウト先生に植木鉢を借りて、教科書と睨めっこしながら育てなければいけない。
「――カナったら!」
揺さぶられて、カナはようやく目を開けた。ぼんやりした視界の真ん中に、あきれた顔のハーマイオニーが立っている。
いつもの朝と同じように、シーツを引き寄せて、うつぶせた顔をこすりつけ――ふと気がついて、カナはパッと飛び起きた。
「い、いま何時? まだ日曜日?」
「ええ、まだ日曜日はあと二、三時間あるわ」まだローブを着たままのハーマイオニーが、カナの顔を覗き込んだ。「医務室に行ってもいないと思ってたのよ。まさか、退院してからずーっと寝室にいたの?」
「まさか」
さすがに、ランチをすっぽかしてまでボーイフレンドとずーっと一緒にいただなんて、ハーマイオニーには言えなかった。
「ぼく、すっかり寝ちゃってた」垂れた髪をはらい、カナはあわく息を吐いた。「なんか、安心しちゃって・・・・・・」
手の中から、何かが転がり出た。小さな袋から、まあるい種がいくつかこぼれ出ていた。カナはそれを拾い集めて、袋に仕舞う。
「満月草の種なんて、どうしたの?」ハーマイオニーが聞いた。
「よく知ってるね」
カナがこぼすと、「教科書に書いてあるわよ、薬草学の」と返ってきた。
「エリアさんがくれたんだ。月の満ち欠けを覚えるのに役立つって」
「いい提案じゃない。そんなに大きくはならないから、ベッドの窓際で育てられるわよ」
ハーマイオニーは「薬草ときのこ千種」を引っ張り出し、その中程のページを開いた。
「鉢植えで成育可能。水やりは一日二回。その花は、月が満ちるとともに開き、満月の夜に満開になったあとはひと晩ずつ花弁を落とす。種を落とすのはちょうど新月の夜になる。土と水が十分にある限り、ふたたび満月の夜に開花する」
「ふうん」
カナは種が入った袋を、窓辺に置いた。以前ハグリッドがくれたもみの木のミニチュアの隣に。
「そんなことより、ハーマイオニー、その、昨夜はどうなったの?」
「カナ。明日きちんと話すわ。それに――」
ハーマイオニーは薬草学の本を仕舞う代わりに、一冊の本を手に取って見せた。カナが図書館から借りている「ドラゴンの巣から生き延びる五十通りの方法」だった。
「こいつなんでしょ?」
カナは開いた口が塞がらなかった――そして、短く息を吐いた。
「ああ、よかったあ。ぼく、いつか言わなきゃって――でも喋ったらいけなかったから――」
「わかってるわ。でも、肝心なのはこっちよ――『生き延びる方法』」
ハーマイオニーは神妙な顔で、きゅっと口角を絞り上げた。
「カナも手伝ってくれるんでしょう?」
「モチの、ロンだよ」
ふたりはこっそりと微笑み合った。
20250514