クリスマスの翌日、カナはグリフィンドールで一人だけ早起きしていた。まだみんながとろとろと夢を見ている頃、黙って滑り起きて、ローブに着替え、髪をとき、顔を洗った。まだ空は真っ黒だった。
 カナは男の子たちに出くわすのが怖かった。ハリーや、ロンは、カナのことをどう思っただろう。裏切り者だと思っただろうか。それに、フレッドやアリシアは、カナにどんなふうに接してくるだろう。ジニーに対して、どんな顔をしたらいいだろう――そればかり考えていた。
 一人ぼっちで朝食を摂っていると、誰かが大広間に入って来た。カナの背後、ハッフルパフのテーブルに座ると、咳払いが聞こえた。
「あの」
 かすれた、高いような低いような声だった。カナはそれが誰か知っていて、振り返った。
「おはよう、デレク」
 カナが名を呼ぶと、デレクがぽかんと口を開けた。はしばみ色の淡い瞳が、カナをまっすぐ見ていた。カナはトーストをかじりながら、体ごとハッフルパフ側を向いた。
「昨日はどんなクリスマスだった?」
「舞踏会に参加してない下級生は僕一人でした」デレクはすこしぎこちなく話し出した。「スプラウト先生と、二人でディナーを摂りました」
 デレクも、クランペットのプレートを持ちながら、こっちを向いた。
「カナは――あ、あの、去年あなたがそう呼んでいいと言ったから――その、どうでしたか? 舞踏会は楽しかった?」
「うん・・・・・・まあ、楽しかったけど」かぼちゃジュースのゴブレットを手に取りながら、カナは続けた。「舞踏会なんて無ければよかったなって、正直思った。みんな変なんだ」
「変って?」デレクは興味深そうに聞いた。
「なんか、ぎくしゃくして」カナは口の端についたジャムを舐めた。「こんなにたくさん人がいるクリスマスも、苦手。ぼく、毎年ホグワーツに残ってるんだ。家族がいないから」
「あの、僕もです」デレクが身を乗り出した。「僕の両親、レストランを経営してるんです。マグルなんですけど・・・・・・だから、いつもクリスマスは忙しくて、毎年、家ではベビーシッターと過ごしてました。ホグワーツにいるほうがいいんです」
「デレクはマグル生まれ?」
「はい」デレクは耳を触った。すこし不安そうにカナを見ている。「カナは魔法族ですか?」
「うーん、たぶんね」
「たぶんって?」
 カナはどう言ったものか迷い、かぼちゃジュースに口をつけた。
「去年の、ルーピン先生、覚えてる?」
「もちろん。あの、やさしくておもしろい先生ですよね」
 カナはその言葉だけで、とても胸が温かくなった。そういえば、去年一年生だったデレクは初めて授業を受けた「闇の魔術に対する防衛術」の先生がリーマスだったのだから、とても運がいい。
「あの人が、ぼくの育ての親なんだ」
「うわさで聞いたことがあります」デレクも微笑んだ。「みんな、ルーピン先生のことを『人狼ウェアウルフ』だって知ってからは怖がってました。でも、僕は人狼を見たこともないし、両親もそれのどこが悪いのか知りません。僕、ルーピン先生のこと、好きでした」
「うれしいな」
 カナはにっこり笑った。リーマスへの手紙にこのことを書こうと思った――デレクが、フォークを床に落としてしまったので、カナがそれを拾おうとした。しかし、先に手が伸びてきた。
「やあ、おはよう」
 セドリックだった。デレクがお礼を言うと、彼はニコッと笑った。
「デレク、カナと友達だったんだ?」
 隣に席をとりながら、セドリックが言った。デレクはすこし遠慮したように、体の向きをハッフルパフのテーブルに戻した。
「去年のクリスマスに、ディナーの席で一緒だったんです」
「そっか。あ――カナ」セドリックが、振り向きながら言った。「このあと、すこし歩かないか? 今日は天気が良いし」
「うん、いいよ。マフラーを取ってくる」
「じゃあ、火蟹ファイア・クラブの前で。あの宝石がいっぱいついてる亀みたいなやつだよ」
 カナは立ち上がった。何人かの生徒や教員たちが、まばらに大広間に入ってくるところだった。
「デレク。それじゃあ、またね」
 カナが手を振ると、デレクはあわてて笑顔を取り繕ったようにして、手を振り返した。

 カナは談話室に戻りたくなかった。「呼び寄せ呪文アクシオ」でマフラーと、ブランケットも手に入れて、それを体に巻いた。まだ眠たそうな生徒たちが、ぞろぞろと玄関ホールを横切って、大広間に入っていく。カナは、グリフィンドール生に見つからないように顔を背けた。
 十分もせずに、セドリックが玄関ホールに現れ、まっすぐカナのもとへ歩いてくる。
「早かったね。ちゃんと食べたの?」
「もちろん。でも、こんなに急いだのは、入学した日以来だ。ホグワーツ特急に乗り遅れそうになってね――」
 ふたりは連れ立って、玄関から校庭へ出た。空はよく晴れていて、真っ白に積もった一面の雪をきらきらと照らしていた。
 雪を踏みながら、足を取られないようにして歩いていると、セドリックが手を伸ばしてきた。カナはそれを掴み、うれしそうにはにかんだ。
「カナ、泳ぐのは得意?」
「いや――」
 湖の目の前に来たとき、セドリックが出し抜けに言った。
「ぼく、泳げないよ。湖に近づくのも、怖いもの――」
 そこで、カナはふと、どうして湖が怖いんだっけ――と、考えた。足が止まると、セドリックが不思議そうに振り返った。
「大イカがいるから?」
 カナは首を横に振った。
「溺れたことがある・・・・・・昔ね。小さい頃・・・・・・」
 そう、カナは湖に溺れたことがある。そして、どうやって、誰に・・助けてもらったんだっけ――そもそも、どうして溺れてしまったんだっけ――
 黒い湖面は、じっと見つめても、答えを返してはくれない。
「箒から落ちて――そう、箒から落ちたんだよ。だからぼく、高いところも、泳ぐのも、だめなんだ」
「そうか、それは不便だね」
 セドリックも、湖をじっと見つめた。
「この湖、相当深そうだな」
「それに広いよ。ホグワーツ城をぐるっと囲んでいるもの」
マーピープル水中人も住んでいるし」
 淡いグレーの瞳が、カナを見下ろした。
「カナ、きみは聞いているかもしれないけど、第二の課題で、代表選手はこの湖に潜るんだ」
 カナは目を瞬いた。
「えっと――いや、初めて聞いたよ。そうなんだ?」
「マダム・ポンフリーから聞かされていない?」セドリックも意外そうに眉を上げた。「どうしてだろう。ヴィヴはもう知っていたよ」
「わかんない。医務室に行ったら、聞いてみる」
「ハリーは、第二の課題について何て言ってた?」
「えっと」カナは湖面に視線を逸らした。「まだ、ハリーとは話してない。あれから」
「ハリーに教えたんだ。金の卵の秘密のこと――風呂の中で卵を開けると、不思議なことが起こるんだ。だから、監督生のバスルームを使うように教えた。ドラゴンのことを僕に教えてくれたのは、彼だったからね」
「セドリックらしいね」
「『セド』」
「ん?」カナは淡い色の目を瞬いた。
「そう呼んでくれないかい?」セドリックは、気恥ずかしそうに鼻の頭をかいた。
 それから、カナとセドはのんびりと校庭を歩いて過ごした。そのあいだは、カナは何も考えなくてよかった。次のホグズミードに一緒に行く約束をして、とりとめのないことを話して、柱の影でこっそりキスをして――耳までピンク色にしたセドの笑顔を見ていると、悩みなんて忘れた。

 セドが宿題を見てくれると言うので、カナは甘えることにした。カナが苦手な天文学とマグル学は、教えてあげられるそうだ。カナはグリフィンドール塔に長居したくなかったので、ちょうどよかった。ランチが終わると、カナはさっさと鞄に教科書と羊皮紙、羽根ペンなんかを詰め込んで、図書館に向かった。
 個人指導は、甘い時間というふうにはいかなかった。カナはとにかく頭がかたくて、描き始めたばかりの全天星図をぐしゃぐしゃに丸めてしまいたくなる衝動に何度も駆られた。しかし、セドは辛抱強く教えるのがとても上手だった。ハッフルパフ寮でも、こんなふうに下級生に教えてあげているに違いなかった。泣きたくなるのを何度もなだめられながら、カナは星座をひとつひとつ、描き足していった。
 半日かかって、ようやく星図が半分ほど埋まった。カナはうーんと体を伸ばし、大きなため息を吐いた。
「ねえ、セド。明日も付き合ってくれる? その――完成するまで」
「もちろん、いいよ」
「いやじゃない?」
「いやなもんか」セドは鼻先をかき、はにかんだ。「きみのこと、一日中見ていたって、飽きないよ」
 カナは顔が熱くなるのを感じた。「ありがと」と小さな声で言い、広げた羊皮紙と教科書をまとめた。
 一緒に大広間へ向かいながら、カナは自分の心臓がトクトクと脈打っていることに気がついた。でも、それはちっとも不愉快なものではなかった。むしろ心地よく、頭がぽーっとするようだった。
「鞄持とうか?」
「ううん。大丈夫だよ」
 そう言いながらも、セドはカナの鞄を持ち上げて、肩にかけた。
「このあいだ、鞄の底が破けちゃったんだ。買ったばかりだったんだけど――」
 セドの声色のひとつひとつが甘やかに感じられて、カナは戸惑った。今まで、友達として接していたころと何も変わらないはずなのに、突然、世界がぽやぽやし始めた。カナはその日、夕食に何を食べたのか、どんなふうにセドに「おやすみ」を言ったのか、どうやって寝室まで上がってきたのか、ちっとも覚えていなかった。
「ぼく、変になっちゃった」
 その夜、カナはパジャマに包まれた状態で、未完成の星図を広げながら言った。ハーマイオニーが、ふわふわに戻った髪にブラシを通しながら「どうしたの?」と聞いた。
「今日、セド――セドリックといたんだけど」
 パーバティとラベンダーが、突然カナのベッドの周りに集まった。「いいよ、続けて」と大きく見開いた目でカナを促した。
「その、午前中は散歩して――午後は宿題を教えてもらってたんだ。これ、天文学のね。それで、ぼくがどれだけ物分かりが悪くても、怒りもしないで教えてくれて――いやじゃないよって――」
 カナはまだドキドキしながら話した。カナの顔にだんだん熱が集まるのを、ルームメイトがじっと見ていた。
「あの、それで、ぼく、なんだか急に、変になっちゃったの」
「変になっちゃった、って」パーバティが顔を突き出した。「どんなふうに変なの?」
「な、なんか、ぽやぽやして・・・・・・『服従の呪文』にでもかかってるみたい。何食べたか、全然覚えてないし」
 カナはみるみる顔を赤くして、作りかけの星図で顔を隠した。
「ねえ、カナ! セドリックになんて言われたの?」ラベンダーが目をキラキラさせて聞いた。
「『一日中見ていたって、飽きない』って」
「きゃあっ!」
 ラベンダーとパーバティは飛び跳ねた。
「素敵ねえ。カナ、彼のこと好きなんでしょ?」ラベンダーが自分のことのように浮かれた。「恋してるのだわ!」
「恋?」カナが顔を半分出した。
「頭がお花畑になるのよ」パーバティがクスクス笑いながら言った。「カナ、フレッド・ウィーズリーにそんなこと言われたことないでしょ?」
「やめてよ」カナは星図を丸めた。「その名前は聞きたくない」
「ま、ハッフルパフの王子様が相手じゃあ、ね」ラベンダーが楽しそうに言った。
「ねえ、ハーマイオニー、あなたは?」
 パーバティの問いかけに、ハーマイオニーが意外そうに、目を丸くした。自分に話が回ってくるとは思わなかったんだろう。
「私?」
「そうよ――ヴィクトール・クラムと踊ってたのだわ!」ラベンダーがまた身を乗り出した。「彼とはどうなったの?」
「ヴィクトールとはまだ友達になったばかりだし・・・・・・彼は心を開いてくれているけど」ハーマイオニーもすこし顔を赤らめた。「まだ、どうもしてないわ」
「そう・・・・・・ねえ、年上の彼なんて、羨ましい。シェーマスったら、ゆうべはちっともリードしてくれなかったのよ」
「同級生の男子なんて、そんなもんでしょ」パーバティがキャップに髪を纏めながら言った。
 ラベンダーが、自分のベッドに戻りながら、パーバティに向かって話を続けた。「でも、意外よね。クラムの女の子の好みって――」
「ガリ勉がタイプなのかもよ――」
 二人が離れていくのを尻目に、ハーマイオニーが息を吐いた。膝に乗り移ったクルックシャンクスの長い毛に、ブラシをかけ始めた。
「外野の子たちはお気楽でいいわよね」
 ハーマイオニーがぼそっと言った。
「楽しいことばっかりじゃないわ、ねえ、カナ、そうでしょ?」
「あー、まあ」
 ハーマイオニーも問題を抱えているらしい――男の子とのあいだのことで。カナは心の奥底に沈めて忘れていた悩みがまた浮かび上がってきたので、ため息をついた。



 翌朝、グリフィンドールのテーブルにつくと、カナの元にフクロウが舞い降りてきた。淡いピンク色の封筒は見覚えがなく、差出人の名前も書かれていなかった。中身は、新聞の文字を切り貼りして、こう書かれていた。
「彼を弄ぶな。このアバズレ女」
 カナは便箋を静かに畳んだ。一気に心が冷え込んで、大広間じゅうから聞こえる話し声や笑い声が遠くに聞こえる。カナは朝食を食べる気分が失せて、かぼちゃジュースに少しだけ口をつけた。
「あら、食べないの?」
 ハーマイオニーだった。カナはあわてて、手紙をポケットに突っ込んだ。どぎまぎしていると、その隣に、ハリーとロンが座り、「おはよう」と、舞踏会の前と変わらない様子で挨拶した。
「うん、おはよう」
 カナがほっとしたように言うと、ロンが身を乗り出した。
「君、昨日はどこ行ってたんだ? 僕ら、大事な話をしてたのに」
 朝食のあと、空き教室に忍び込んで、カナはロンとハリーの話を聞いた。ユールボールの晩、ハグリッドとマダム・マクシームが話していたそうだ――ハグリッドは、マダムを「自分と同類の半巨人」だと、そう尋ねていたのだけれど、マダムは怒って立ち去ってしまったのだと。
「ハグリッドのお母さんが巨人ジャイアントだったってこと?」
「カナ、巨人がどんなものか知ってるだろ?」
 カナは首をかしげた。
「危険な連中だよ。イギリスでは絶滅したって言われてる――ハグリッドのママが最後の一人だったんだ」
「どうしていなくなったの?」
「子育てなんてできない連中だからだよ。壊したり殺したりするのが好きなんだ。それに、『闇祓いオーラー』がずいぶん片付けたんだ。トロールよりはおつむがあるけど、話し合いなんてできるやつらじゃないからね」
 床に座ってカナとロンがこそこそと話すのを見て、ハーマイオニーがムッとして腕を組んだ。
「偏見よ。全部が全部危険なはず、ないじゃない。人狼ウェアウルフだってそうよ。ねえ、カナ?」
「まあ――ハグリッドやリーマスが危険じゃないことは、みんな知ってるけど」カナはロンと顔を見合わせ、ロンが黙って肩をすくめた。「でも、ハーマイオニー。リーマスは生まれつきじゃない。ほかの人狼に噛まれたんだよ」
 カナが言い返すと、ハーマイオニーはなにも言えないようだった。ロンが、してやったりとカナの腕を肘で突いた。
「そうだ、ハリー。金の卵のこと、なにかわかった?」
 カナは話題を変えた。
「いや――まだ何も」
「お風呂で開けると、不思議なことが起こるって」
「なんで知ってるんだ?」ハリーが眉を顰めた。「僕、確かにセドリックに『監督生のバスルームに行け』って、教えてもらったよ。誰にも話してないのに」
「セドが心配してたから――」
セド・・
 ロンが大きな声を出したので、カナはビクッと跳ねた。
「風呂で開けると不思議なことが起こるって? 君、それを見たのか? もう監督生のでーっかいバスルームで、一緒に風呂にでも入ったのか?」
 唖然としたカナが答えられずにいると、ロンが面白がって続けた。
「君、ユニコーンにだって蹴られるぞ。あんな人目につくところで、べたべたキスする仲だしな――」
「意味、わかんない」
 カナはカッとなって言った。
「いい加減にしてよ。ぼくみたいなバカな子はどれだけからかってもかまわないって思ってるんでしょ! それに、フレッドのときはそんなこと言わなかったくせに。わかってるんだから、ぼくが・・・・・・」
 カナは立ち上がって、三人をぐるりと見下ろした。ふるえる息を吐き、カナは声を振り絞った。
「どうせ、ぼくがはしたない子だって、みんなそう思ってるんでしょ」
 空き教室を飛び出して、行く宛もなく、カナは早足で歩いた。三人が探しに来ない場所がよかった。グリフィンドール塔はダメ、図書館もダメ――そうだ。ガートとの訓練部屋があるじゃないか。カナは階段を駆け上がり、額縁に収まった地図を探した――
「あれ・・・・・・」
 しかし、いつもの場所に、地図がなかった。あるのは、古代ルーン文字の書かれたタペストリーで、その下をめくっても、つるりとした壁がそこにあるだけだった。
「何か探してるの?」
 涼やかな声がかかり、カナは振り返った。友人に囲まれたチョウ・チャンが、人懐こい表情でカナの後ろに立っていた。
「ここ――ヘブリディアンの絵画と地図がなかった?」
「あー、あったわね。いつのまに変わっちゃったのかしら。もしかしたら、授業で先生が使うから、持って行っちゃったのかも」
 チョウは難解な古代ルーン文字を指でなぞった。彼女の友人たちも、周りに集まってくる。
「これ、初めて見たわ」
「なぞなぞが書いてある」
「なんて?」
「スフーヒンクス? いえ、スフィンクスだわ――オイディプス王の――」
 チョウとその友人たちはしばらくぶつぶつと呟きながら、文字を指で追った。カナはそれを黙って見守りながら、チョウが何と言うのかを待った。
「わかったわ」にっこりとチョウが笑顔を浮かべた。「カナ、いい?『朝は四本足、昼は二本足、夜は三本足。これなーんだ?』」
「えーっ、わかんない」カナはすぐに降参した。
「考えなくちゃ!」チョウは楽しそうに笑った。
「有名な問題ね」眼鏡をかけた友人の一人が、出し抜けに言った。「私、スフィンクス伝説で知ってるわ」
「魔法生物?」カナが聞いた。
「いいえ、マグルにも通用するわよ」
「足が減ったり増えたりするものが、マグル界にもあるの?」
 カナの素っ頓狂な問いに、とうとうチョウが折れた。
「違うわ、カナ! 答えは『ヒト』よ。ほら、朝――生まれたばかりの赤ちゃんは四つん這いで四つ足。昼、働き盛りは二本足で歩く。夜、永い眠りにつく前は、杖をつくから三本足になる」
「ふぅーん・・・・・・」
 カナがあまり納得いかないように言うと、チョウは興味深そうに首をかしげた。
「ほかの答えがあった?」
「いや――赤ちゃんが四つん這いで歩くなんて、知らなかったから」
 カナの言葉に、その場にいる全員がキョトンとした。そして、チョウが笑い出した。
「それじゃ、卑怯な問題だったわね!」チョウはもう一度タペストリーを見上げた。「スフィンクスの問題が解けなかった者は、その場で喰われてしまうんですって――カナ、気をつけてね」
 なんとも言えず、カナは青い目をぱちぱちと瞬いた。思い出したように、チョウが付け加えた。
「そうだ。セドリックが言ってたわ――『図書館で待ってるから』って」
「あ――うん」
 カナもたったいま気がついたように、頷いた。セドに宿題の続きを手伝ってもらうよう、約束していたのだった。

 図書館に手ぶらで向かうと、たしかにそこにセドがいた。天文学の本をいくつか手に取り、中身を吟味しているところだった。
「セド」
 カナが声をかけると、キラキラッとグレーの目が輝いたような気がした。
「カナ、待ってたよ――あれ、宿題は? 持ってこなかったのかい」
「あのね、セド」
 カナは後ろから、自分よりもひと回りも大きな腰に両手を回した。ぎくりとセドの体がこわばるのを、カナは見逃さなかった。「アバズレ女」と、声のない声がカナを蔑んだ。
「監督生のバスルーム、ぼくも見てみたいな」

 可愛いカナのおねだりだ。戸惑いつつも、セドはかんたんに承諾した。べつに、彼をどうしてやろうという算段があったわけじゃなかった。カナは、誰も来ないところに行きたかっただけだ。
 六階の「ボケのボリス」の像の後ろには、扉がずらっと並んでいる。左を向いて四番目の扉に向かって、セドが「パイン・フレッシュ」と言うと、蝶番がきしみながら、扉が開いた。
「中にかんぬきがあるんだ。だから、誰かが使用中だったら、ちゃんと開かないようになってる。普通の鍵じゃ、『アロホモラ解錠呪文』で開けられちゃうからね」
 言いながら、セドも閂をかけた。カナは、こんなに素晴らしい空間をホグワーツ城内で見たことがなかった。真っ白な大理石の床の真ん中に、大きな大きな縦長のくぼみ・・・があって、それが浴槽なのだと、カナは一瞬では理解できなかった。まわりに、いくつもの金色の蛇口が飛び出していて、ひとつひとつ色が違う宝石が嵌っていた。一面の壁には大きな窓があって、ホグワーツ城を見下ろした。反対の壁には、一枚の額縁が飾られていた。長いブロンドのマーメイド女マーピープルが、岩の上でくつろいでいる。カナとセドが入ってきたのを見て、驚いたようにブルーの目を瞬かせていた。天井から金色の大きなシャンデリアが吊るされ、蝋燭のやわらかな光が浴槽を照らしていた。部屋の隅にカーテンがかかったシャワールームもあった。その真横に、ふわふわの白いタオルが山積みになっている。
 カナは浴槽の隅に近寄って、赤いブーツの紐をほどいた。
「ねえ、お湯を出してみてもいい?」
「いいよ」
 セドの合図で、カナはいちばん手前の蛇口をひねった。勢いよく出てきたのはお湯じゃなく、ピンク色の泡だった。触れると、それはとても柔らかくて弾力があり、甘い香りがバスルームにパッと広がった。カナが喜んで振り返ると、セドが笑って、二番目、三番目と、つぎつぎに蛇口をひねっていく。カナもそれに加わった。それぞれの蛇口からは、すべて違う種類の泡や、とろみのついたお湯が出てきた。そうしていると、あんなにおおきな浴槽が、あっという間にいっぱいになった。あわてて、今度は蛇口を閉めてまわる羽目になった。
 カナはそっと、はだしの足をお湯につけた。ローブを太ももまでまくり、浴槽のふちに座ると、なめらかなカラフルな泡がカナの白い足を撫でた。あたたかくて、ここに肩まで沈んだらとても気持ちいいだろうな、と思った。
「いいなあ。監督生って、ここを毎日使っていいんでしょう?」
「カナ、まさか、今からお風呂に入りたいだなんて言わないよね?」
「あははっ、セドがいいならそうするけど」
 カナは挑発的に微笑んだけれど、セドは「やめなさい」と首を振った。
 セドも靴を脱ぎ、カナの隣に座った。脛の毛に泡が絡みついているのを見て、男の子と女の子のからだって違うな、と、カナはぼんやりと思った。
「セドに聞きたいことが、いっぱいあるよ」
 足を蹴り上げると、湯面が波立ち、泡があたりに跳ねた。太ももに泡が伝うのを、カナは手で払った。空中に、ふわふわとシャボン玉が舞い上がって、それを目で追いかけた。
「たとえば?」
「どうしてぼくを好きになったの? とか」
 カナが振り向くと、セドはやわらかく微笑んで、気恥ずかしくなるくらいまっすぐにカナを見ていた。
「そうだなあ――」
 セドはゆらゆら揺れる泡に視線を移して、はにかんだ。
「僕たち、三年前に出会っただろう。ほら、杖が折れて――きみが一年生の時だ。ブルーの瞳がすごく綺麗だなあって、その時思ったんだ」
「それだけ?」
「それだけで好きになったりはしないよ」
 セドはカナを見て、それからカナがちゃぽちゃぽ揺らしている足を見た。
「今年の夏までは、僕はきみのこと、友達だと思っていた。でも、キャンプ場であんな事件があって、きみのことが気がかりになった。そのあと、きみがフェレットを助けただろう。あの時、きみに急激に惹きつけられたんだ」
 カナがじっと、セドのやわらかな表情を見つめていると、パッと笑顔がこちらに向いた。
「誰かに尊敬されたいと思ったのは、初めてだった。もちろん、今までも両親に恥ずかしくない生徒であろうと振る舞ってきたけれど、そういうのとは違う。きみに褒められたかったし、きみを笑わせたいとも思った。そのうち、きみのことばかり考えるようになった」
 節くれた指が伸びてきて、床に置いていた手に重なった。グレーの淡い瞳が、ゆらめく泡を反射してきらきら光っていた。
「でも、勇気がなかった。それに、きみはフレッドと付き合ってたから、声をかけることも、なかなかできなかった。喧嘩してるだとか、そんなことを考えもしなかったよ。きみたちはずっと仲が良いように見えたから。舞踏会の夜に、ハリーと現れたときは、驚いたな。正直、悔しかった。ハリーに出し抜かれたような気がしてね。きみとは踊れないものだと思って、決めつけていたから・・・・・・」
 急に、魔がさした。カナは重なった手を両手で包み、セドの手を持ち上げて、その指先にキスをした。おおげさなリップ音が、バスルームにこだました。穏やかに話していたセドが、黙った。
「セド。ぼくのこと、節操のない女の子だって思う?」
 浴槽から足を引き上げた。膝を立てて座ると、捲り上げたローブがずり落ち、泡が尻を伝って下着を濡らした。
「はしたない女の子だって、一度だって思ったことはある?」
 指の隙間で吐息混じりに、カナは問いかけた。見上げたセドの顔は、すっかり困惑していて、カナは心臓をつかまれたように切ない気持ちになった。
「失望したことはある?」
 セドの反対側の手が、カナの両手を包んだ。うろうろと視線を彷徨わせたあと、セドははっきりと言った。
「カナ、何の話をしているのかわからないけど――きみのことをそんなふうに思ったことはないよ」
「ぼくがいろんな人と遊び回ってるって話、聞いたことないの?」
 カナは自分で言いながら悲しくなった。どうして、自分のことを好きだと言ってくれている男の子にこんな話をしているんだろう、と。
「根も葉もない噂は立つものだよ」セドはやさしく微笑んで、眉を垂れ下げた。「僕は自分の目で見たものと、きみ自身が話してくれたことを信じるよ」
「ほ、ほんとうだったら?」カナは涙声だ。「噂がぜんぶ、本当のことだって言ったら、セド、どう思う?」
 セドは今度こそ押し黙ったように見えた。カナは彼の顔を見ていられなくなって、捲れ上がったローブの裾を見下ろした。
 包まれた手に、ぎゅっと力がこもった。
「カナ、僕を見て」
 こわごわと、顔を上げた。そこには変わらず、クスッとやさしく微笑んだセドの顔があった。
「本当かどうかは重要じゃないさ。きみが自らすすんでそうしようとしないかぎりは、きみは気高い女の子のままだ。過去のきみが、どうであれ。僕は、そう思う。違うかい?」
 セドが身を寄せた。あたたかい両手がカナのからだをすっぽり包み、背中をとん、とん、と叩いた。
「僕を失望させるなら、カナ、きみはよっぽど恐ろしいことをしないといけないと思うよ。それくらい、僕はきみのことが好きなんだ。わかってくれるかい?」
 じわじわと、セドのローブの胸に涙の染みをつくりながら、カナはうなずいた。カナのつむじに、唇が触れる。見上げると、今度は唇どうしが触れ合う。離れては触れ、口付けを繰り返すうち、カナはセドの首に巻きついて、体重をかけた。はじめ、びくともしなかった体は、しだいになすがままに、大理石の床へと背中をつけた。濡れた尻を腹筋の上に乗り上げたまま、カナはセドの頬や耳にキスを落とし、どぎまぎしたグレーの瞳を見つけると、「フフッ!」と笑って、隣に転んだ。
「はははっ、あー、なんでこんな話しちゃったんだろう」シャンデリアの淡い灯りを見つめ、カナは息を吐いた。「セド、ごめんなさい。きみが優しすぎて・・・・・・ぼく、試すようなことを言ってしまって」
「いいや」セドがころりと転がって、カナを見た。「きみの心に触れたようで、僕は嬉しかった」
「ほら――そういうところだよ」カナも横に転んだ。「女ったらしなんだから」
「女ったらしだって?」セドが大きく口を開いた。「カナ、きみ以外の人にこんなことを言ったりしない。お腹の上に女の子を座らせたりもしない」
「あははっ――うわっ!
カナ!
 逃げるように寝返りをうって、カナは泡のしぶきをあげて浴槽の中に落っこちた。思ったよりも浴槽は深い――あまりに足がつかなくて、底が無いように思えて――カナは一気にパニックになりながら、ローブで重たい手足をばたつかせた。何度も泡を飲み込んでは、ごぼ、と空気を吐き出した。あ、やばい――と思ったとき、カナの体が一気に湯面に持ち上がった。
 セドが浴槽に飛び込んで、カナを救い上げてくれた。大理石の床にカナを押し上げ、背中を叩いてくれる。けぽっ、けぽっ、と何度も泡を吐き、カナはようやく呼吸を取り戻した。
「ああっ、もう――最悪。ぼくって、ほんと、バカ――」
「カナ、本当に泳げないんだな」セドは慰めるように言った。「上がってこないから、びっくりしたよ。お風呂なのに」
「足、つかなかった――」
 カナはずぶ濡れのセドを見上げた。ピンクやブルーの泡まみれだった。カナも同じような状況だろう。
「ごめん――あの、どうやって帰ろうか?」



「それで、濡れ鼠、泡鼠で寮まで歩いた挙句、医務室送りになったと」
 冬休みの最後の日、ガートがマダム・ポンフリーの真似をして言った。結局、「訓練部屋」は変わらずそこにあって、タペストリーを杖でつつくと捲れ上がり、中に通してくれた。すっかり「改装」を終え、ふかふかのクッションと滑らかなブランケットを備えたかんぺきなカウチの上で、ぬくぬくと小型ストーブの暖を浴びながら――ふたりはゆったりと、植木鉢から変身させたオットマンの上へと足を伸ばした。
「一緒にシャワーでも浴びて帰ればよかったのに」
「バカじゃないの」
 想像するだけで、カナは顔がのぼせそうだった。
「ガート、スネイプ先生に絶対に喋らないでよ。セドが減点されちゃうから」
「減点じゃ済まないでしょ。『貴様は監督生失格、そのバッジを返したまえ。のぼせあがるのも大概にせよ、恥を知れ』ぐらいのことはおっしゃると思うよ」
「ほんと、黙っててよ」
 カナは熱いお茶をすすり、顔が赤いのをごまかした。
「しかも、ぼく、マダムにお払い箱にされちゃった。救護チームはクビだって」
「おや、どうして?」
「わかんないよ。話してくれなかったもの」
「さすがに代表選手と仲が良すぎて、競技にならないと思ったのかな」
 お茶を飲み、ひと息入れると、ガートが楽しそうにした。
「それにしても、ハッフルパフの王子様はやることなすことロマンチックだねー。あたしも言われてみたいもんだよ。『きみは気高い女の子だ』・・・・・・ってね」
 ガートはやたらとハイテンションだった。
「監督生のバスルームってのも、いいよね。だって、イチャイチャし放題。でしょ?」
「あそこ、『嘆きのマートル』が流れてくるらしいよ」
「ワオ、気をつけないと」
 ガートが高級店のビスケット缶を開けた。ひとつつまんで、にっこりと笑った。
「それにしても、カナ、やさしい男の子と付き合えて、よかったじゃん。あんたにはそういう人がぴったりだと思うよ。あんたが不安で不安でしょうがないときに、偉そうなこと言わないで受け入れてくれる彼がさ」
「ぼく、そんなに弱虫じゃないよ」
「何言ってんの、寂しがりの泣きべそちゃんが」ガートはほくそ笑んだ。「だって、ディゴリーってルーピンとおんなじタイプじゃん」
 カナは紅茶を吹き出した。熱い飛沫が膝にかかると、ガートは心配するどころかケラケラ笑い出した。
「何をいまさら動揺してんの。カナ、わかってたんじゃないの?」
 カナは真っ赤に熟れた顔で、ガートを見上げた。カナのブルーの目がウルウルと揺れていると、ニヤリ笑いが返ってきた。
「ちょっと情けないくらいやさしくて、焦ってなくて、心の底からあんたを愛してる人。あんたが好きなのは、そういう男でしょ?」
 ため息をつきながら、カナもビスケットを手に取った。潤んだ目で、ガートを横目でにらんだ。
「ガート、ずっと気になってたんだけど・・・・・・きみは今まで何人の男の子と付き合った?」
「あたし?」ガートが指を折って数えた。「三・・・・・・か、四。ホグワーツじゃ三人かな。みんな一年持ったことないし」
「ふーん」カナはビスケットをもうひとつ取った。「その子たちみんなと、その、えっちした?」
「まさか!」ガートが芝居がかった仕草で両手のひらを口もとにあてた。「あたし、ボーイフレンドにそこまで許したことはありませんことよ。ましてや、ホグワーツの中で! 誰が見てるかわからないのに!」
 カナは唖然として、ビスケットを落とした。ガートはにまにまと笑っている。
「ガート、きみ、ぼくに『わかるよ』とかなんとか、知ったようなこと言ってたじゃない!」
「なにさ、共感しちゃダメなわけ?」
「そうじゃないけど」カナはまた顔を赤くして、体を折り曲げてうつむいた。「ぼくだけ、はしたないみたいで、恥ずかしいじゃない」
「カナ、あたし、処女ヴァージンだとはひとことも言ってない」
 背中をポンと叩いて、ガートが言った。カナが起き上がると、ガートは口の端を片方だけつりあげた。
「・・・・・・『ばーじん』って?」
「あーっ、その説明からか」



 休暇の最後の夜、談話室の隅っこで、カナは教科書とにらめっこしながら、全天星図の最後の星座を描き足していた。セドが懇切丁寧に教えてくれたおかげで、あとほんのちょっとの仕上げぐらいは、自分ひとりでできるようになった。マグル学のレポートも、セドに書き方を教わって、数日前には完成した。それに、カナはほんのちょっと、字がキレイになったような気がした。完成した星図のインクが乾くまでが手持ち無沙汰で、カナは羽根ペンをぬぐい、インク壺に蓋をした。
 その隣の席に、突然、ハリーがどかっと座った。カナはびっくりして、思わず完成したばかりの星図を守るように持ち上げた。鮮やかな緑色の目が眼鏡の奥でそれをちらりと見た。
「それ、そんなに大事?」
「え?」カナは持ち上げたばかりの星図を、机の上に置きなおした。「まあ・・・・・・こんなに立派な星図、今まで描けたことないもの」
 ハリーが黙った。カナが様子を伺うように見つめると、ハリーがカナを見ないまま、机に肘をついた。
「マグル学なら、僕だって教えられるのに」
 カナがぽかんとしていると、ハリーが続けた。
「それに、宿題のことならハーマイオニーに聞けばいいのに――どうしてあいつなんだ?」
「どうして、って」カナは言葉を探した。「ハリー、どうしてそんなに怒ってるの?」
「怒ってる? 僕が?」体ごとカナに向き直りながら、ハリーが眉を顰めた。「怒ってなんかない。聞いてるだけだ」
「セドが関わるから? 代表選手が」カナが食い下がった。「クラムと踊ったハーマイオニーにも同じことを言ったの?」
「きみが――」ハリーは自分を落ち着けるように息を吸った。「きみ、あの日、セドリックと本当に風呂に行っただろう。僕、見たんだ」
 カナが羽根ペンを床に落とした。でも、誰も拾わなかった。
「『忍びの地図』でね。きみがああ言ったから、セドリックに言われた方法を試そうと思って、誰かバスルームにいないか、見てたんだ。たまたま、その時にね。そしたら、ふたつ、名前があった」
 開いた口が塞がらなかった。
「カナ、見たの? 金の卵がどんなふうになるのか、見せてもらったんだろ? それで、どうなった?」
「知らないよ」カナは青ざめながら星図をつかんだ。「金の卵なんて、知らない――ハリー、そういう覗きの方法があるなんて、ぼく、考えもしなかった」
「聞いてくれよ。僕は、あいつに一杯食わされたと思ってる。もしもバスルームに忍び込んで、何も起きなかったら――」
「騙すような人じゃないって、わかってるでしょ」カナは立ち上がった。「ねえ、ぼく、ついさっきまでは、きみが困っていたら手伝ってあげようと思ってた。でも――」
 カナは口をつぐんだ。そして、さっときびすを返して、女子寮の階段をのぼった。纏めずに持ち去ったせいで、星図はくしゃくしゃに皺になったし、落ちた羽根ペンもそのままだった。



 新学期が始まったけれど、カナの気分は最悪だった。グリフィンドールの中では、カナはいつもロン、ハリー、ハーマイオニーの四人組で行動していた。ハーマイオニーはカナには変わらず接してくれたけど、ハリーとロンはカナを遠ざけているようだった。気後れして、カナはハーマイオニーからも離れて、一人で歩いた。薬草学の授業中は、ハッフルパフのハンナやスーザンが話しかけてくれて、すこしは気がまぎれた。でも、その次の魔法生物飼育学に向かう道では、カナはまたひとりぼっちになった。
 雪が深く積もった校庭を、みんな、かき分けながら歩いた。これから、さらに大きく凶暴になったスクリュートの相手をしなくてはいけないと思うと、さらに気が滅入った。
 ハグリッドの小屋の目の前に、見たことない魔女が立っていた。生徒たちがノロノロ歩いてくるのが見えると、突き出た顎をしゃくって、大声で呼びかけた。
「さあ、急ぐんだね。鐘はもう五分前に鳴ってるよ」
 短い白髪の、老魔女だった。誰かが、「あなたは誰ですか?」と問いかける。
「あたしのことは、グラブリー=プランク先生とお呼び」魔女は明朗に答えた。「魔法生物飼育学の代理教師さね」
「ハグリッドはどこ?」
「ハグリッドは?」カナとハリーが、同時に聞いた。
「あの人は気分が悪くてね」何度聞かれても、魔女はそれしか言わなかった。
 いやみな笑い声が、背後から聞こえてきた。スリザリン生がカナたちが分け入った雪道を悠々と歩いてきた。みんな不敵に微笑み、機嫌がよさそうだった。グラブリー=プランク先生を見ても、誰も驚いていなかった。
「さあ、こっちへ来るんだね」
 先生は、ボーバトンの馬たちの囲い地を沿うように、早足で歩いた。カナはハグリッドが気になって、丸太小屋を何度も振り返った。窓のカーテンがすべてぴったり閉じられている。
 グリフィンドールの生徒たちが、何度かハグリッドについて尋ねたけれど、新しい先生はすべて聞こえないふりをした。やがて、禁じられた森が近づくと、ぽつんと一本離れて立った木のところに、一匹のユニコーンが繋がれているのが見えた。
「わあっ!」
 女の子たちが声をあげた。
「なんて綺麗なのかしら!」
 そう言ったのはラベンダーだった。たしかに、ため息が出るほど美しい生き物だった。カナは生きているユニコーンを見るのは初めてだった。純白の毛皮に、銀色の艶やかなたてがみに尾。金色の輝く蹄が、神経質そうに地面を掻いていた。横に振る首の、その額には、鋭い真珠色の角が収まっている。
「あの先生、どうやって捕まえたのかしら。とっても難しいはずだわ・・・・・・」
 ラベンダーが、うきうきとユニコーンに近づいた。ほかの生徒も、近寄っていく。
「男の子は下がるように!」
 先生が腕を伸ばし、男子の行く手をさえぎった。
「ユニコーンは女の子のほうが感触がいいからね。女の子はゆっくり近づくんだよ。前へお行き・・・・・・」
 促され、カナもユニコーンを囲む一団へと加わった。真っ黒な瞳が、女の子たちをじろりと眺め、長い睫毛が瞬いた。
 先生は、離れている男の子にも聞こえるように大声でユニコーンの特徴を説明した。そのあいだ、先生の指示で、女の子たちはひとりひとり、順番にユニコーンを撫でていく。カナもそっと手を伸ばした――そのとき、ユニコーンがブルッとふるえ、興奮したように首を振り回した。
 カナは一歩下がったけれど、遅かった。ユニコーンの強烈な後ろ脚が、カナを蹴飛ばした。
 悲鳴があがった。カナが雪に埋もれるように倒れ、ユニコーンがさらに興奮したように鼻を鳴らし、地面を激しく蹴ったので、先生が女の子たちに後ろに下がるよう指示した。
「おやまあ、あんた――」急いでカナを抱え上げた先生が、小さくしぼんだ目をキラリと光らせた。「男の子の匂いがするってさ。ほれ、医務室にお行き――歩けるかね――」
 そんなこと、大きな声で言わなくってもいいじゃない――スリザリンのクスクス笑いを無視して、カナはカッと顔を熱くしながら、先生の手を離した。しかし、立っていられなくて再び座り込んだ。蹴られた太腿が激しく痛み、力が入らない。
「誰か、この子に手を貸してやんなさい――」
 先生は男の子に声をかけた。カナは雪の中に座り込んだままローブをまくりあげ、患部を確認した。真っ黒に腫れ上がっている。「うわ」と声をあげたのはロンで、カナを手伝いに来たようだ。
 しかたなくロンの肩――というか腕を借りた。ずいぶんと身長差があるので、親子みたいだった。痛みにうめいていると、ロンが同情するように言った。
「ほんとにユニコーンに蹴られるなんて――」
 カナの大きな目がじろっと睨み上げると、ロンは肩をすくめた。
「僕はほんの冗談のつもりで言ったんだよ、カナ」
 いつだったか聞いたような言葉に、カナはため息を吐き、黙って城に向かって、片足でヒョコヒョコと歩いた。
 ハグリッドの小屋まで差し掛かった時、カナはその扉を叩かずにはいられなかった。ロンに目配せすると、碧い目がカナを非難するように見た。
「あの先生に見つかったらどうするんだよ?」
「ロンの担ぎ方が悪かったって、言う」
「おい――」
 カナはロンの腕を引っ張るようにして、丸太小屋に近づいた。そして、扉にもたれかかるようにして叩いた。
「ハグリッド、いるんでしょ? ねえ、どうしたの? 具合が悪いの?」
 中から、「クゥーン」とファングが鳴いた。ドアノブを捻っても、鍵がかかっていて、びくともしなかった。
「ハグリッド!」カナが叫んでも、扉は開かない。
「寝込んでるか、医務室にいるんじゃないか?」
 カナは諦め悪く、無言の扉をにらみつけた。
「ハグリッド、きみが医務室にいなかったら、ぼく、また来るから」
 そう言って、カナはまたロンの腕をギュッと掴んだ。その力が強すぎたので、ロンが「イテテ」とうめいた。
「ぼく、あの女の先生、嫌い」
「どうして? みんな喜んでたじゃないか」
「意地悪だよ。ぼくのこと知ってて、あんなふうに言ったんだ」
「そんなわけあるもんか!」
 ロンが払いのけるように言った。
「君さあ、第一に、さいきん自意識過剰だぞ。なんか変だ。すぐキンキンわめいて」
 カナは黙っていた。城に続く坂道を登るとき、思いっきりロンの腕に体重をかけなければいけなかった。
「それに、情緒不安定だ」
 ロンが軽々とカナを引き上げた。
「ユールボールのことを引きずってるの、君だけだぞ」
わかってるったら!
 カナはロンの腕を放り出した。涙をぽとぽと落としながら、歩こうとして、よろめいた。ロンが駆け寄って、カナの肩を支えた。カナは座り込み、両手で顔を覆って、声を上げて泣いた。ロンがおろおろしながら、カナの周りを歩き、触れようか悩み、どう声をかけたものかと口をパクパクさせた。しかし、カナは座り込んだまま――さめざめと泣きじゃくった。

「カナ、ごめん。僕――僕たち、きみがそういう噂で悩んでるって、知らなくて」
 医務室のベッドの上で、泣き腫らした青い目が、椅子に腰掛けたハリーをじとっと見た。その横に、「百味ビーンズ」の箱を持ったガートが立っていた。二、三粒手のひらに出して、パクッと口に放り込んでいる。
「ガート、喋ったの?」
「友達に喋らないでとは言われてない。それに、報酬も貰ったし」ガートがビーンズの箱をからりと持ち上げた。
 ぎゅっと、シーツを掴む手に力が籠る。すぐそばに座るハーマイオニーが、やんわりとそこに手を重ねた。
「カナ。私たち、あなたが本当はどういう子か、わかってるつもりよ」
「そうだよ。だいたい、いまさら何でそんなことを気にするんだ? セドリックのやつと付き合うのに不利にでもなるのかい?」
 ガートがロンの頭を叩き、ハーマイオニーが肩を押し飛ばした。
「女の子の世界は、あんたたち男が思ってるよりも、うーんと悪意に満ちてるんだからね」
 振り返ったロンを、ガートが冷たく見つめた。
「去年は大丈夫でも、今年は大丈夫じゃなかったり。昨日までは耐えられても、今日は突然耐えられなくなったりするものなの。そういうの、わからないわけじゃないでしょ?」
「もういいよ、ガート」
 カナはすっかり痛みも腫れもおさまった足をベッドから下ろし、はだしをぷらりと揺らした。
「だいたい、どうしてきみが三人と一緒にいるの?」
「ウィーズリーが、恥を忍んでスリザリンのテーブルにお願いしに来たからだよ。『カナが突然泣いたり怒ったりして、変なんだ、何か知ってるなら教えてくれ』ってね。まあ、舞踏会の縁もあるし、だからあたし、教えてあげたの。スリザリンのお喋りインコが、あんたのことターゲットにしてるって」
「そんなの、わかりきったことでしょう」
 ブーツの紐を結びながら、カナは平坦に言った。
「いまさらだよ。ぼくだけじゃない、ハーマイオニーだってひどいことを言われるのは同じだし・・・・・・いちいち、ぼくが泣いたり怒ったりしたくらいでおろおろしないでよ」
 ロンとハリーが顔を見合わせて、下唇を突き出した。
「僕らがルーピンだったとしても、そんなふうに言うのか?」
 ロンの言葉に、カナは頬を膨らませた。
「言ったら悪い?」
「あはは!」ガートが笑った。みんながパッと彼女を見上げる。「わかった。カナ、あんた、甘えるのが下手だね」
 視線がカナに戻る。カナは唖然としたまま、ガートを見ていた。
「あんた、この三人のこと、親友だと思ってる。心を許してる。そうでしょ? そうじゃなきゃ、あんたはわがままを言わない」
「わがままなんて言ってない」
 髪を払い、カナはベッドから降りた。三人がぞろっと立ち上がる。
「そんなことより、もっと心配すべき人がほかにいるでしょう。ぼく、ハグリッドのところに行かなくちゃ」
「そう? それじゃ、あたしは帰るよ。おやすみ」
 そう言って、ガートは医務室を出て行った。カナがそれに続こうとすると、ハーマイオニーが隣に並んだ。
「カナ。私たちも行くわ。一人で城の外に行ってはダメ」
 カナはハーマイオニーのまっすぐな栗色の目を見つめた。そして、黙ってそっと彼女の手を握る。ハーマイオニーは目を丸くしていたけれど、手を振りほどきはしなかった。
「腑に落ちないよ」廊下で、ロンが背伸びをしながらぼやいた。「友情の対価が八つ当たりか?」
「うろたえてたロンの顔、あなたに見せたかったわ」
「ロン、ハーマイオニー、ごめん」カナが言った。「それに、ハリー、課題のこと、手伝わないなんて言って、ごめん。撤回する」
「いや、いいんだ」ハリーがパッと紙を差し出した。「これ、読んで」
 日刊予言者新聞だった。「ダンブルドアの『巨大ジャイアントな』過ち」――そんな見出しで始まる記事を、玄関ホールに向かいしな、目を通した。
「スクリュートが火蟹とマンティコアの混種だって?」
「カナ、そこじゃないだろ」
 新聞から顔を上げ、カナはロンとハリーを見た。
「問題は、なんであの女記者がハグリッドがマダム・マクシームに話した内容をそっくりそのまま知ってるかってことだ」
「マダム・マクシームも、誰かにそのことを話すはずないわ。『自分は骨が太いだけ』なんて言い訳するくらいだから。知られたくないはず」
「あの夜、リータ・スキーターが校庭にいたの?」
「いいや、僕らは見てない。そもそも、あの女はホグワーツに入っちゃいけないことになってる。ハグリッドがそう言ってたんだ」
「なにか、たね・・があるはずよ」ハーマイオニーが毅然と言った。「あの女が盗み聞きする方法が、どこかに隠してあるんだわ」
 カナは新聞をハリーに返した。スリザリン生のむかつくインタビューのところに、大きな皺が残った。
 ハグリッドの小屋にたどり着いたけれど、結果は昼間と同じだった。薄い灯りが灯っているのがカーテン越しに透けていたけれど、どれだけ激しく戸を叩いても、返事はファングの吠え声だけだった。しだいに、ファングはかなしく鼻を鳴らし、扉をカリカリと掻いているようだった。
「ハグリッド、帰ってきてよ」
 カナは諦めきれずに声をかけた。
「ぼくたち、あなたの味方だから」
 そう言い残して、四人はとぼとぼと城へ帰った。しかし、その後も、ハグリッドが授業どころか、夕食の席や森番の仕事をしている姿すら、見かけることはなかった。



20250610


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