カナはあたたかいジョッキを両手で包み、にっこりと笑った。
「バタービールはあったかいほうが美味しいね」
「僕もそう思う」
 甘い泡を口の端につけたカナを、セドは愛おしそうに見つめた。「三本の箒」の端っこの席で、ふたりは早めの休憩を取っていた。カナがどうしてもバタービールを飲みたいとねだったので、混み合う前にと、セドがそう言ったのだ。
「ぼく、大人になったらホグズミードで働こうかなあ。そしたら、毎日だって三本の箒に通えるじゃない?」
「そんなにバタービールを飲んでたら、カナ、あっという間にまんまるに太っちゃうよ」
 セドがいたずらっぽく言った。カナは衝撃を受け、ぽかんと口を開けたまま、自分の腹や、やわらかい二の腕を探った。
「そんなこと気にしたことなかった・・・・・・ほんとだ、ぼく、入学する前はもっと痩せてたもの」
「たしかに、きみは元からずいぶん細っこい子だったね」セドは頬杖をついた。「もうすこし太ってもいいくらいだ」
 全身を探っていたカナの手が丸い胸に触れたとき、セドが気まずそうに視線を逸らした。
「あんまり痩せてると心配になるからね」
「これでも食べてるほうなんだけど」セドの腕を引っ張って手首をさらし、カナは自分の手首と見比べた。「全然違う」
「そりゃ、男と女は違うさ」セドはやさしく、カナの手を包んだ。「きみとこうしていると、痛感するよ。女の子はちっちゃいし、それに柔らかい。ときどき罪悪感を感じるほどにね」
「罪悪感?」
 カナはジョッキに口をつけた。頬が赤いのは、セドのせいなのか、アルコールのせいなのかわからなかった。
「ああ、その」セドが歯切れ悪く言った。「うまく説明できないけど、そう思う時があるんだ。きみを怖がらせてはいないか、とか」
「ふーん?」カナは最後の一滴まで飲み干した。「よくわかんないけど、ぼく、そこまで怖がりじゃないし、平気だよ」
 セドはきょとんと目を瞬かせたあと、微笑んだ。

 カナはいつもより早く、ホグワーツ城へと帰った。ハニーデュークスで、両手で抱えるほどのお菓子を買い込んで、ハグリッドに届けるつもりでいた。大きな紙袋を抱えて、カナは昼時のホグワーツの校庭を横切っていた。
 新聞記事のことを知ってから、カナは毎日ハグリッドの小屋を訪ねていたけれど、成果は得られていなかった。朝だろうが夜だろうが、返事はない。かなしそうなファングの鳴き声が聞こえるだけだった。
 ふと、丸太小屋の目の前に、ひょろ長いシルエットが見えた。銀色の髭をたくわえたその人物が、ハグリッドの小屋のドアを叩いている――ダンブルドアだった。
「おや、ミス・エリオット。こんにちは」
「こんにちは」カナは紙袋の横から顔を出した。「先生も、ハグリッドに会いに?」
「われわれは、同じ考えのようじゃな」
 アイスブルーの目が、きらっと光った。
「聞こえておるかの、ハグリッド。この通りじゃ。おぬしを思う友人が、こうして集まっておる。まだ、わしらに友情をすこしでも感じてくれているのならば、この扉の鍵を、開けてはくれんかのう。魔法でこじ開けるなどといった乱暴なまねは、大切な者にはしたくないでの」
 ダンブルドアの哀願に、しばらく返事はなかった。カナがあわくため息を吐いたとき、ほんの少し、扉が開いた。
「ハグリッド!」
 モジャモジャの髪に覆われた巨大な頭が、隙間からこちらを覗いていた。
「招いてくれるのかね?」
 返事はなかったけれど、ダンブルドアが扉を開けた。カナも後に続く。扉が閉まりきる前に、ファングがとても嬉しそうに吠えながら飛びついてきたので、カナはあわてて、空の酒瓶が転がったテーブルの上に紙袋を置いた。
「ハグリッド、ずっと会いたかった――これ、きみにあげようと思って――元気出してほしくて――」
 ファングに頬やら耳やらをべろべろと舐められながら、カナはきれぎれに言った。たるんだ顎を撫でると、ファングはようやく満足したように、頭をカナの手に擦り付けた。
「荒んでおるの」
 ダンブルドアは杖を振り、テーブルの上や、シンクの中を片付けていく。そして、最後に杖の一振りでテーブルの上に三人前のお茶を淹れた。カナはハグリッドのすぐ隣へと座る。
 ハグリッドは、顔をまだらに赤くして、瞼は泣き腫らしたように見えた。モジャモジャの髪は、普段よりももっと絡みあい、かなり膨らんでいた。
「ダンブルドア先生、カナ、なんでおれなんかのところに・・・・・・」
「さあ、ハグリッド。何故じゃろうな」あいまいな物言いとは真逆に、ダンブルドアはにっこりと微笑んだ。「おぬしの顔をしばらく見ておらんでのう。フム、ミス・エリオットの言うとおり、会いたかったから、こうして来たまでじゃ」
「先生、おれは・・・・・・先生もあの新聞をお読みなすったはずだ。おれには、野蛮な巨人ジャイアントの血が流れちょる・・・・・・先生はいますぐおれを解雇なさるべきだ」
 嗄れた声で、ハグリッドは唸るように言った。酒に溺れ、まだ深く悲しんでいる。
「巨人を避ける魔法使いは多くいる。しかし、おぬしを怖がっておる生徒や教師は、ここには一人もおらんよ」
「そうだよ、ハグリッド」
 カナは身を乗り出しながら、はっきりと言った。
「ぼくは、ハグリッド、きみの味方だって、ぼくはそう言いたくて――」
 ダンブルドアは、マントの下の懐から羊皮紙の束を取り出した。ぶあつい、いくつもの便箋のように見えた。
「これは・・・・・・」
 そのとき、小屋の扉がガンガンガンガン!と激しく叩かれた。三人はパッと顔を上げた。扉は激しく叩かれ続けている。
「ハグリッド!」
 ハーマイオニーの声だった。ダンブルドアが、立ち上がった。
「いい加減にして! あなたのお母さんが巨人だろうと、誰も気にしていないわ、ハグリッド! リータみたいな腐った女に負けちゃダメ! 今すぐここから出るの。このままじゃ――」
 ダンブルドアがドアを開け、ハーマイオニーが口をつぐんだ。まさか、ダンブルドアがいるとは思わなかったのだろう。ばつがわるそうに、「ハグリッドに会いたくて」と、うろたえた声が聞こえた。ダンブルドアがハーマイオニー、ハリー、ロンの三人を小屋の中に入れた。
「カナ、あなたも来ていたの」
 ハーマイオニーが目を丸くした。ハリーたちが挨拶しても、ハグリッドはしょぼくれた声を出すだけだった。ダンブルドアが杖を振り、さらに三人分のティーカップを出現させた。カナが持ってきたハニーデュークスのケーキが、ポンと現れて皿の上に乗った。
「ハグリッド、ミス・グレンジャーの言葉が聞こえたかね?」
 ハーマイオニーはちょっと恥入るようにした。しかし、ダンブルドアは微笑んだ。
「あの勢いからするに、この子達も、おぬしと今でも友人でいたいと思っておるようじゃの」
「もちろん、僕たちは今でもハグリッドと友達だと思ってる!」
 ハリーが、エメラルド色の目をキラキラして言った。
「あんなスキーターのくそばばあのことなんか――」
「プーッ!」
 カナがお茶を吹き出した。
「――すみません、先生」
 ハリーはあわてて謝ったけれど、ダンブルドアは天井に目を逸らしながら、組んだ指先をくるくると弄んでいた。
「さいきん耳が遠くなってのう・・・・・・ハリー、いまなんと言ったのか、よう聞こえなんだ」
「アー、えーと」ハリーはもごもご言った。「僕が言いたかったのは、ハグリッド、あんな――女が――きみのことをなんて書こうと、僕たちが気にするわけないだろう?」
 ハグリッドのコガネムシのような黒い目から、大粒の涙があふれた。モジャモジャの髭に、それがぽとぽとと落ちた。
「この子たちは、わしが言ったことの生きた証拠じゃよ、ハグリッド」
 ダンブルドアはまだ天井を見つめたまま言った。
「生徒の親たちから届いた、数えきれないほどの手紙を見せたじゃろう? 彼らは、自分が生徒だった時代におぬしに世話になったことをきちんと覚えていて、もしもわしがおぬしを解雇するようなことになれば、一言言わせてもらうと、はっきりそう書いて寄越したのじゃ」
「みんながみんな、そうじゃねえです」ハグリッドは手の中にある、その手紙の束を握りしめた。「全員が、俺が残ることを望んではいねえです」
「その通りじゃの、ハグリッド。万人から好かれようと思うのなら、残念ながらこの小屋にずっと閉じこもっておらねばなるまいな」
 半月型の眼鏡が、キラリと光った。
「校長職に就いて以来、毎週のように、わしの運営方法についての苦情をふくろう便が届けに来おるよ。かといって、わしはどうするべきかのう? 校長室に立てこもって、誰とも話さないようにすればいいかのう?」
「そんでも――校長先生は半巨人じゃねえ!」
 ハグリッドの嗄れた叫びに、カナはテーブルをバン!と叩いて立ち上がった。
「ハグリッド。そういうことなら、ぼくにはヴォルデモートと同じ血が流れてる」
 小屋の中がシーンと静まり返った。ハグリッドの黒い瞳が見開かれ、怯えたようにカナを見ていた。
「ぼくのことが怖い?」
「いんや、まさか――」
「僕の親戚だって、ダーズリーたちだ」
 ハリーが怒ったように言った。振り返るとハリーと目が合い、申し訳なさそうな微笑みが返ってきた。
「エヘン――きみたちは良いところに気がついた」咳払いをして、ダンブルドアが話し出した。「わしの弟のアバーフォースは、ヤギに不適切な呪文をかけた咎で起訴されてのう。あらゆる新聞に大きく出た。しかし、アバーフォースは逃げ隠れしたのかと言えば、しなかった。頭をしゃんと上げ、いつも通りに仕事をした! もっとも、文字が読めたのかどうかは定かではないのでの、勇気があったということにはならんかもしれんが・・・・・・」
 カナはハグリッドがテーブルに投げ出した手に、自分の手を重ねた。
「ハグリッド、戻ってきて。授業をしてよ」
「そうよ、戻ってきて。ハグリッドがいないと、私たち本当に寂しいわ」
 ハーマイオニーもそう言った。ハグリッドは唾をごくっと飲み込み、涙をボロボロと落とした。
「辞表は受け取れぬぞ、ハグリッド。月曜日から授業に戻るのじゃ」ダンブルドアが立ち上がった。「明日の朝八時半、大広間でわしと一緒に朝食を摂るのじゃ。言い訳は聞かぬからな。それでは、みな、よい一日を」
 去り際に、ダンブルドアはファングの耳の裏を撫で、小屋を出て行った。それを見送ったあと、ハグリッドは丸太のような両手に顔を埋めて、おいおいと泣き始めた。カナはそのモジャモジャの頭を抱きしめ、大きな背中をそっと叩いた。
 やがて、やっと顔を上げたハグリッドが、目を真っ赤にしたまま言った。
「偉大なお方だ。ダンブルドアは、偉大なお方だ・・・・・・」
「うん、そうだね」ロンが言った。「ハグリッド、このケーキ、ひとつ食べてもいい?」
「ああ、そうしてくれ」ハグリッドは手の甲で涙を拭った。「ああ、あのお方の言う通りだ。そうだとも――おまえさんたち、みーんなの言う通りだ。おれはバカだった・・・・・・おれのおやじは、おれがこんなことしてるのを見たら、恥ずかしいと思うに違えねえ・・・・・・」
 涙は止まらなかったけれど、ハグリッドの声はだんだんとはっきりしたものになってきた。
「おやじの写真を見せたことがなかったな。どれ・・・・・・」
 ハグリッドは立ち上がり、クローゼットの引き出しを開けて、写真を取り出した。みんなでそれを覗き込む。
「わあっ、ハグリッド、かわいいね!」
 カナがにっこりと笑った。写真の中では、巨大な少年と、その肩に乗る小柄な魔法使いが、笑っていた。彼がハグリッドの父親なんだろう。ハグリッドと同じモジャモジャの短い髪に、真っ黒なクリクリした目がそっくり同じだった。七から八フィートほどありそうな巨大な少年がハグリッドだろう。その表情はまだあどけなく、でも、ハグリッドの笑顔そのものだった。髭も皺もなくて、かわいらしかった。
「ホグワーツに入学してすぐ撮ったやつだ」ハグリッドがカナの言葉にはにかんだ。「おやじは大喜びでなあ。おれが魔法使いじゃねえかもしれんと思ってたからな。ほれ、おふくろのことがあるし・・・・・・うん、まあ、もちろん、おれはあんまし魔法がうまくはなかったな。うん・・・・・・しかし、少なくとも、おやじはおれが退学になるところを見ねえで済んだな。死んじまったからな。二年生んときに・・・・・・」
「不思議。巨人は人間と愛し合うこともあるんだね」
 親子の写真を飽きずに見つめながら、カナはぽつんと言った。ハグリッドは「少なくとも、おやじはおふくろを愛してたな」とあきれたように言った。
「おやじが死んでから、おれを支えてくだすったのがダンブルドアだ。森番の仕事をくだすった・・・・・・人を信じるお方だ。誰にでもやり直しのチャンスをくださる・・・・・・そこが、ダンブルドアと他の校長との違いだ。才能さえあれば、ダンブルドアは誰でもホグワーツへと受け入れる。みんなちゃんと育つってことを知っておいでだ。たとえ家系が・・・・・・その、なんだ、そんなに立派じゃなくてもだ。しかし、それが理解できねえやつもいる。生まれ育ちを盾にとって、批判するやつが必ずいるもんだ・・・・・・骨が太いだけだなんて言うやつもいるな。『恥じることはないぞ』って、おれのおやじはよーく言ってたな。『そのことでおまえを叩くやつがいても、そんなやつはこっちが気にする価値もない』っておやじは正しかった。おれがバカだった。あのひとのことも、もう気にせんぞ。約束する。骨が太いだと・・・・・・フン、ふざけちょる」
 四人の子どもたちはそわそわと顔を見合わせた。ハグリッドは、いま自分が何を口走ったかも気がついていないに違いない。舞踏会の夜、ハグリッドがマダム・マクシームに話していたところを盗み聞きしていたなんて、彼に知られたくはなかった。カナたちはあのひとという言葉を、聞かなかったことにした。
「ところで、カナ・・・・・・」写真から顔を上げたハグリッドが、ちらっとカナに視線を送った。「その、なあ、さっき言った――おまえさんが『例のあの人』と同じ血筋って言うのは――おれの尻叩きのための冗談だよな?」
「あ、アハハ」カナは愛想笑いした。「さあね。ぼくもよく知らない。自分でも見てみたいものだよ、我が家の家系図をね。ゴーント家から――」
 ふと見回した時、ハーマイオニーとロンが、カナのことを目をまん丸にして、言葉も表情も失くして見つめていることに気がついた。
「あ、ごめん」
 カナは頭の奥から、急速にからだが冷えていくのを感じた。立ち上がって、すぐに小屋を飛び出そうとした――しかし、力強い手がカナの手首をとらえた。ハリーだった。
「カナ、座って」
 落ち着いた声で、ハリーが言った。カナはこわごわと、椅子に座り直した。そして、うつむきがちに、テーブルの上のケーキたちを、その向こうに座るロン、ハーマイオニー、ハグリッドのローブを見た。
 ハーマイオニーが、こわごわと聞いた。
「カナ、ゴーント家って――」
「ぼくの祖先だよ」カナは小さな声で答えた。「もう、誰もいない」
「驚いたな」ロンが目をまん丸に開いたまま言った。
「カナのことを『血族』だと呼んだのは、ヴォルデモートだよ。クィレルに取り憑いたあいつが、自分の口でそう言った」
「本当なの? カナ」
「わからない」カナはうつむいたまま、青い顔で言った。「さいしょ、ぼくの父親なんじゃないかと思ってた。でも、リーマスが違うって教えてくれた。祖父はレストレンジ家の人で、祖母はゴーント家の血を引く孤児だって・・・・・・ダンブルドア、から、聞いた・・・・・・」
 何かに気づいたように、カナは顔を上げた。ハーマイオニーが、カナとまったく同じ表情で、眉をひそめていた。
「カナ、それって、あなたの母方の祖父母の話よね?」
「そう、だと思う。それしかないよ」
「どうしたんだ?」ロンが二人を交互に見た。
「カナはお母さまの記憶を失っているの。覚えてる?」ハーマイオニーが説明した。「なのに、お母さまの両親のことはこんなにはっきり覚えてるなんて、不思議じゃない?」
「確かに・・・・・・」ハリーも口元に手を当てた。「ハグリッド、忘却術って、たった一人のことだけを綺麗に忘れることができるものかな?」
「一流の忘却術士にかかりゃあな」ハグリッドも神妙に言った。「だが、忘れっちまった記憶を補うために、自分の脳みそがうまく記憶を置き換えるはずだ。そうだろ? そうじゃねえと、ちぐはぐな記憶が残っちまう」
「ぼくの家族は今までもこれからも、リーマスだけだよ」カナは押し殺すように声を出した。「ぼくは、そうとしか覚えてない」
「シオンちゅうのがおっただろ?」ハグリッドが言った。
 沈黙となった。カナがぱちぱちと目を瞬いていると、ハグリッドが促すように続けた。
「おまえさんの、兄さんだよ。双子の」
「双子の・・・・・・」
 カナはかぶりを振った。
「知らない。ぼく、きょうだいはいないもの。見ての通りだよ」
「ハグリッドの言っていることは正しいわ」ハーマイオニーが言った。「カナ、あなた、以前私たちにも話してくれたわ。お兄さまがいて、その、もう亡くなったって、あなたは言ってたわ」
 いまだに、カナは言われていることを飲み込めないでいた。記憶もなければ、現実味がなく、それに、もう死んだ人が自分の家族だということを、どうやって証明するのだろう。
「エリアさんの写真は持ってるけど・・・・・・その、シオンの写真はある?」
 みんな、首を左右に振った。
「私、見たことないわ」ハーマイオニーが答えた。
「『みぞの鏡』で、きみは死んだきょうだいを見たって言っていたよ。覚えてる?」ハリーがやさしく言った。
「一年生の頃、『みぞの鏡』を見に行ったこと、覚えてるよ。でも、ぼくは鏡を見てない」
 カナが視線を下げる傍ら、ハリーとロンが顔を見合わせていた。
「そうだ。ダンブルドアに頼んで、もう一度『みぞの鏡』を見せてもらおうよ」ロンが名案だとばかりに言った。
「いい・・・・・・」カナは何度もかぶりを振った。「頭が痛い・・・・・・」
 城に帰ろうと、カナは立ち上がった。ハグリッドが、戸口まで付き添ってくれた。
「カナ。おまえさんが誰と血が繋がっていようと、ちっとも怖くなんかねえ。おまえさんはグリフィンドールが認めた、やさしくて、勇敢な子だ。みんなそう思っちょる。大切なことを話してくれて、ありがとな」
「うん」カナは顔をしかめたまま、笑顔をつくる努力をした。「ハグリッドを励ましにきたのに、ぼくのほうが励まされちゃったね」
「お互いさまだ」ハグリッドがやさしく背を叩いた。「エリアによろしくな。おまえさんの、おっかさんに」
 冷たい風が、カナのマントを吹きつけた。まだ頭はズキズキと痛んだ。
 シオン――シオン――シオン――カナは何度も、頭の中でその名を反芻した。やっぱり、少しも心当たりがない。リーマスがその名を言葉にするところを想像することすらできなかった。大人に知らせるべきなのだろうか。でも、自分から手紙に書くのは、抵抗があった。まるで、自分が薄情者みたいに思えるからだ。



 それからのカナの様子は、心ここに在らずという言葉がピッタリ当てはまる。ぼんやりして、どこで何を食べているのか、誰と何を話したのか、自分が何をしているのか、さっぱり覚えていなかった。胸の中が空っぽになったようで――大切なものを、もう戻れない場所へ置き去りにしてきたような心地だった。
 シオンって、どんな男の子だったんだろう。
 カナは日記を書かないし、子どもの頃の写真すら持っていない。エリアさんのときには、こんなに気にかかることはなかったのに、顔も声も知らない、本当かどうかも信じがたい「きょうだい」の存在に、カナはずっと心を奪われていた。フレッドとジョージ、パーバティとパドマみたいに、同性の双子だったら、顔立ちも想像しやすいのに。異性の双子というのは、なんだか考えられなかった。
あいたっ!
 突然、頭の後ろにやわらかいものが降ってきて、カナは叫んだ。ロンが「デパルソ追い払い呪文」の練習のために飛ばしたクッションだった。フリットウィック先生は、呪文学の授業中、危険を少なくするために生徒たちにクッションをひと山与えていた――しかし、ネビルはフリットウィック先生を追い払いデパルソしてしまったので、その配慮もむだになってしまった。
「わざとじゃないよ。でも、君、ぼーっとしちゃってさ」ロンがあきれたように言った。「話聞いてるか?」
「話?」カナは疲れ切ったような声を出した。「全然、聞いてない。なんの話?」
「だと思ったわ」ハーマイオニーが、なめらかな杖さばきでクッションを目標の箱にスポッと投げ入れた。そして、声をひそめた。「ハリーが昨夜、監督生のバスルームに行ったでしょ。その帰りに、『忍びの地図』上で、クラウチさんがスネイプ先生の研究室にいたって話よ。そして、ダンブルドアがスネイプ先生を置いているのは、『やり直しのチャンスを与えるため』だと、ムーディ先生がおっしゃったって」
「えーと、それがどうかしたの?」
「カナったら、しゃんとしてよ!」ハーマイオニーは、カナの折れ曲がったままの三角帽子をなおした。「パーシーの話じゃ――」
「ハーマイオニー、そこまでにしてやれよ」ロンが杖をぴゅんっと振り上げながら言った。クッションはクルクルと空中を舞い、真後ろの床にポスンと落ちた。「朝食の豆をポロポロポロポロこぼしてさ、ものを考えられるような頭じゃないよ、今のカナはさ。そうだろ?」
「ぼく、ただ」カナがとつとつと話した。「家族に忘れられるって、どんなにつらいことかなあって、考えてただけ」
「お兄さんのこと?」ハリーが気遣うように聞いた。カナは頷いて、「それに、エリアさんもね」と付け加えた。
「きっといつか思い出せるわ」ハーマイオニーが根気強く言った。「それに、前も言ったけど、あなたは悪くないの。みんなそれをわかってるわよ。だから、くよくよしないで――今やるべきことをやらなくちゃ」
 促されて、カナは杖を手に取った。「デパルソ」で、クッションが高く放り出され――目標の箱の縁にぶつかって、弾き出されていた。



 あっという間に、二月二十四日が目の前に迫っていた。ハグリッドがすっかり自分を取り戻して、授業に復帰していたのは喜ばしかった。少し評判を気にしたのか、ハグリッドはユニコーンの金色の赤ちゃんを捕まえてきたりした。
 ハリーは結局、湖に潜って無事でいられる方法を見つけられていなかった。セドは、課題についてカナに話すことはなかったし、カナもそれを尋ねたりはしなかった。カナも、毎日図書館で対策呪文を調べる手伝いをしたけれど、あまり集中できていなかったために、前日の夜ははやく休むようにと、ハーマイオニーに言い渡されていた。
「元気がないな」
 全身が、ピクンと跳ね上がった。談話室の隅っこの席で、顔を上げると、フレッドが目の前にいた。胸がほんの少し跳ねた痛みに、表情が曇る。
「なんか用事?」
 海洋生物の本を閉じ、カナはなんでもないふうに聞いた。フレッドも、同じように思っているようで、だけど少しだけカナを気遣うような視線を寄越した。
「マクゴナガルが呼んでる。お前さんを連れて来る役目を仰せつかったのさ」
 談話室を出て消灯前の廊下を、フレッドの数歩後ろをついて歩きながら、カナは言葉にするかしまいかと、何度も考えた。あわくため息をつくと、フレッドが耳聡くそれを聞いていた。
「なんだよ?」
 やさしい声だった。その背中は、振り返ったりはしなかったのだけれど、それでもカナのことを気にかけているように感じられた。
「ぼくは以前、きみに・・・・・・」カナは息を吸った。「自分のきょうだいの話をしたことがある?」
「シオンのことだろ、覚えてるよ」フレッドの背中が、明朗に答えた。「お前さんより口がうまくて、パーシーみたいに頑固の石頭で、僕らのおふくろみたいに家族想いだって」
 カナの足が止まると、フレッドがようやく振り返った。
「なんだよ、それも忘れろ・・・ってか?」
 フレッドがいたずらっぽく言った。カナはなんとも言えない表情のまま首を横に振り、また歩き始めた。
 シオンは、いたんだ。ほんとうに。胸がざわつくような、でも喉のつかえが取れたような、そんな気持ちになった。
 マクゴナガル先生の事務室の扉を、フレッドがノックした。カナはマクゴナガル先生に引き渡される。フレッドはほんとうにつれて来るだけの役目だったようだ。
 部屋の中には、マクゴナガル先生のほかに、ダンブルドア、カルカロフ、そしてマダム・マクシームの三名の校長陣もいた。カナはいやな予感がした――案内された暖炉の前には一人がけの肘掛け椅子が四つあり、その一つに豊かな銀髪の少女が座っていた。ホグワーツの一年生よりもすこし幼く見える。不安そうに揺れる、その瞳の深い青色を見て、フラーの親戚に違いないと思った。マダムが、その少女を安心させるように、親しげに椅子の背もたれに触れていた。
 まもなく、もう一度扉が叩かれた。中に入ってきたのはハーマイオニーとロンで、ふたりとも、何が何だかといった表情だった。
「人質の諸君、お揃いですな」
 四つの椅子が埋まると、ダンブルドアが言った。校長陣がずらりと並び、四人を見下ろした。
「きみたちには苦労をかけることになるが、わしが、身の安全をきちんと保証する。トライウィザード・トーナメントの第二の課題についてじゃが、代表選手たちは湖に潜り、一時間以内にマーピープル水中人らから大切なものを取り返さねばならん」
 半月眼鏡の奥にあるダンブルドアの瞳が、きらりと光って四人を見渡した。マダム・マクシームが、少女に母国語でダンブルドアが言ったことを説明をしている。
「彼らが取り返すべきなのは、きみたちじゃ」
 カナとハーマイオニー、ロンは顔を見合わせた。おずおずと、ハーマイオニーが手を上げた。
「先生、私たち、水中でどうやって選手を待つんでしょうか?」
「きみたちがすべきことは、何もない」ダンブルドアがわずかに微笑んだ。「わしが魔法をかける。きみたちは、今晩ここに泊まり、次に目を覚ますのは明日の競技中――水中から顔を出した時じゃ」
「それじゃ、もしも代表選手が僕たちを助けられなかったとき、僕たちはどうなるんですか?」ロンが聞いた。
「安全は必ず保証する」ダンブルドアは繰り返した。「マーピープルのおさから、協力を得ておる。彼らは試練の仕掛け人として協力してくれるうえに、水中で何が起ころうと、きみたちの安全も守ってくれると、約束してくれた」
「ガブリエル、だいじょーぶでーす」マダム・マクシームが、やさしく少女に向かって微笑んだ。「フラーが必ず、迎えに行きまーす」
「質問はないかの?」ダンブルドアが、全員を見回した。「それでは、マクゴナガル先生。マダム・ポンフリーをお呼びくだされ」
「ここにおります、校長先生」
 入り口から、マダム・ポンフリーが現れた。手には大きなゴブレットを四つ載せたトレーを抱え、まっすぐに暖炉の前に滑り出た。
「マダム」睡眠薬だろう、透明な水薬で満たされたゴブレット受け取りながら、カナは話しかけた。「ぼくが第二の課題の対象になるって知ってたから、救護チームから外したんですか?」
 マダム・ポンフリーは、黙って四人にゴブレットを配り終えると、静かに息を吐いた。
「ええ。しかし、それだけではありません。ミス・エリオット。あなたは少々、友達思いを抑えきれないようですから」
 そうこぼしながらも、マダムは厳しく引き結んだ口元をわずかにゆるめた。
 カナは震えながらも、ダンブルドアの指示で、水薬をひと息に飲み干す。とたん、強烈な眠気が襲い――椅子のやわらかな背もたれに倒れ込んだ。ゴブレットが床に転がる幾つかの音を最後に、カナの意識は途切れている。








 何かに突き飛ばされた、と思った。石の床に落ちたみたいに体じゅうが痛くて、びりびりと裂けそうな頭をこらえて目を開けた時には、暗い水の中に沈んでいくところだった。
 口を開くと、ごぼ、ごぼ、とおおきなあぶくが生まれては離れていくのを、カナは両手で必死に掴もうとした。息がつけなくて、喉や鼻に流れ込んでくる水が痛くて、苦しくて苦しくて、大声で泣き叫びたかった。もがいて伸ばした手足がみるみるうちに重くなり――しぬのかな、とぼんやりした頭で思った。
 誰かが、力なく投げ出されたカナの腕を引っ張った。いつのまにか、カナは水底に沈んでいた。砂埃が舞い上がり、水草のあいだをかきわけて、水の中をぐいぐいと誰かが引っ張っていく。押しつぶされそうになりながら、カナはぐったりしたまま、引っ張られた。
 やがて、鉛のような重みが外れ、カナは水面に顔を出した。ふたりは足がもつれたように、浅瀬に倒れ込む。誰かが、カナの胸を深く押した。がぼっ、と水を吐き出すと、真っ青になったカナの唇が、ふるえながら弱々しく息を吸った。
「カナ!」
 誰かが頬を叩いた。髪がかき上げられ、血の色を失った青白いまぶたが、ほんの少しだけ開いて、スカイブルーの瞳が覗く。
 咳をし、あえぎながら、誰かがカナを岸辺へと引きずった。草が茂る地面に、ふたりのかたまりは身を投げた。ぐったりと倒れ込んだままの冷たいカナを、ずぶ濡れで息をきらしあえぎながら、震える腕がぎゅうーっと抱きしめた。
 カナは、こたえるように、そのおそろしげにふるえる背中に手を這わせた。
「こわかったね」か細い、鈴虫のような声だった。「こわかったね。シオン、こわかったね」
「カナ、怖かったね」シオンはいちだんとぎゅうーと力を込めながら、泣き暮れたように言った。「でも、生きてる」
「うん・・・・・・」
 ふるえて息を吐き、ふたりはしばらく、きつく抱きしめ合った。トクントクンと全身がきちんと脈打っているのを感じた。
 カナの顔に血の色が戻るようになって、重たい衣服を脱ぎ、裸ん坊の裸足になって、箒とぐしょ濡れのシュミーズを抱え、水滴を落とし続けるブーツを揺らしながら、ふたりは暗い森の中を歩いた。
「もう箒には乗らない」
「そうしよう」
「湖にも近寄らないし」
 ざりざりと、水の跡を引きずりながら、ふたりは歩いた。
「カナが風邪をひいたら、ぼくが怒られる」
「怒んないよ」カナが胸の前で、まだ水が滴り落ちる衣類をギュッと押し絞りながら、言った。「おかあさんは怒ったことも褒めたこともないもの」
「カナはそればっかり」シオンは悲しげに言った。「カナ、きみがさっき湖に落ちたのは・・・・・・」
「シオンのせいだからね」カナはまだ震えながら言った。「きみが箒を持ち出さなかったら、ぼくは落ちたりしなかった」
「そうじゃなくて・・・・・・」
 シオンが足を止めた。足元に、じわじわと大きな水の染みができていくのを、振り返ったカナも見た。
「カナはぼくのことをうらむだろうね」
「なんの話?」カナはシオンの腕のあいだに、自分の腕をむりやり通した。「ぼく、シオンをうらんだりしないよ。いちばんの味方で、たった一人の家族だもん」
「一人じゃない。おかあさんもいるでしょ」
「あっ、そうだね」カナは気にしていないように言った。「でも、おかあさんはどう思ってるかな――うわっ!
 木の根に足をとられて、カナはつんのめった。しかし、シオンがとっさに手を出して、カナが地面にぶつかるのをふせいだ。
「もう、こいつ!」
 シオンが箒で木の根を叩くと、まるで触手のようにうねうねとうごめき、茂みの中へと戻って行った。
「何?」
「さあね。わかんないけど、早く帰ろ。もしかしたら、おかあさんがぼくらの話を盗み聞きしてるかもしれないよ」



「それは、カナ。シオンを怒らせるようなことを言ったんじゃないか?」
 リーマスはそう言った。でも、カナにはよくわからなかった。
「よく覚えてない。でも、いつもしてるような話だよ。あの日はおかあさんが、地下室を爆発させてて、お城の中が煙でいっぱいになっちゃったから、外に遊びに行くことにしたんだよ」
「ンー・・・・・・」
 じろじろと、リーマスはカナの全身を見た。
「その傷は?」
「あ、これは・・・・・・」リーマスの指は、カナの左腕に大きく走る、赤いかさぶたを指差した。「何日か前に、お皿を落としちゃって、割れたの」
「高熱を出して寝込んだと聞いたけど?」
「誰に聞いたの?」カナは訝しんで鳶色の瞳を見た。「まさか、おかあさんがそんな話をするはずがないし」
「エリアはきみたちのことを、ちゃんと知っているよ。あれでもね」
「そうかな・・・・・・」カナはかさぶたのおうとつを撫でた。「ぼく、わるい子なのかな。さいきん、よくない目にあうことが多いよ。怪我したり、寝込んだり。もちろん、湖で溺れたのも」
「カナ、悪いことが続く時だってある」リーマスがやさしく言った。「きみが悪い子だから悪い運命にあうだなんて、そんなことはないんだよ。もちろん、なにか後ろめたいことを隠しているから、不注意になってしまうということはあるかもしれないけどね」
「なにも隠してなんかないよ」カナは笑った。「リーマスには、ぜーんぶ話してる。さいきん、シオンは怒りっぽいから」
「怒りっぽい?」
 カナはきょろきょろと、近くに片割れがいないことを確かめてから、リーマスに話した。
「話を聞いてくれなくなっちゃった。ぼくがね、『シオンはぼくのことより、おかあさんのほうが心配なんでしょ』って言うと、大きな声で話を遮るんだ。ぼく、びっくりしちゃって――それで、お皿を落としたの」
「喧嘩かい?」
「けんかにもならないよ」リーマスが差し出したチョコレートを、カナは受け取った。「シオンが何を考えてるのか、今じゃ、よくわからない」
 甘い、チョコレートのかけらが、口の中で溶けていく。カナはため息を吐いた。
「たまに、怖いって思っちゃう」
 大きな手が、カナの髪を混ぜた。カナはくすぐったくて、はにかみながら、リーマスのやさしい笑顔を見上げた。
「ン、大丈夫だよ。きみたちは誰よりも仲が良い。きっと、すぐに元通りになれるさ。今はシオンを待ってあげよう」
 カナは頷いた。それから、リーマスは苦笑いした。
「それと、カナはどうして、シオンがお母さんのことを好きだということをわかっているのに、お母さんのことを悪く言うんだい?」
「だって――」カナは目をぱちぱち瞬きながら、考えた。「おかあさんのことが好きだなんて、変だよ。そうでしょ?」
 いたって当たり前のように、カナは言った。けろりとした表情を見て、リーマスは呆れた。
「わたしだってエリアのことは大切に思っているよ」
「リーマスも変だよ」カナは頬を膨らませた。「それとも、ぼくが変なのかな?」
「いいや、好き嫌いは自由だけどね」苦い表情のまま、リーマスは目をそらした。「誰だって、自分の好きな人を悪く言われたら、嫌な気持ちになるんだよ」
 リーマスの視線の先には、暗い色の髪を垂れ下げた、陰気な魔女が立っていた。
「準備できたわ」
 それだけ言うと、おかあさんは地下室へとさっさと引っ込んでしまった。
「ああ、今行くよ――カナ、それじゃ、いい子で眠るんだよ。満月の夜は早く寝ないとね。おやすみ」
「うん、おやすみ――」
 リーマスは、カナの丸い額にキスをひとつ落として、おかあさんの元へと足早に歩いた。カナはまたもやもやした気持ちになった。リーマスがこの城を訪ねた日の夜は、いつもこうだった。おかあさんが、自分の元からリーマスを奪い去るような気がして――なんだか悲しい気持ちになる。



 カナはおかあさんが嫌いだった。あのひとは母親らしくもなかった。やさしく声をかけてもらったことも、慰められたことも、怒られたことすらなかった。リーマスやシオンは、おかあさんのことをかばおうとするけれど、カナにはそれが理解できなかった。
 カナはおかあさんが嫌いだった。あのひとはとても正気ではかった。誰とも話さないし、子どもたちの世話をしたことはないし、いつも悲しそうで、陰気で、何か見えないものに怯えているようだった。それが不気味で、腹立たしくて、悲しくて、カナは否定した。
 カナはおかあさんが嫌いだった――シオンが死ぬまでは。



「ようやく見つけた」
 頭上から、掠れた男の声が降ってきた。
 手が、手首だけが、空中に現れた――ちがう、これは――透明になった誰かがカナを捕らえている。カナの喉元に、杖が突きつけられた。
 カナは咄嗟に、猫の姿へと変身した――アニメーガスの能力を使うのは久しぶりだったけれど、やはり並大抵の変身術とは、精度が違う。小さな体の黒猫となったカナは、拘束する腕の中から難なく抜け出し、地面を蹴って駆け出した。
イモビラス動くな!」
 男の声が矢のように飛んできて、青い閃光が黒猫を貫いた。カナの四肢は突然こわばり、無様にもその場に転がってしまう。
「小賢しい真似は通用しないさ」
 気味が悪いほど、甘やかな声だった。足音が近づいてくる。相変わらず、その姿は目に見えない。おそらくは、「目眩まし術」、あるいは「透明マント」だろうと思うけれど。
 杖先が、黒猫の頭の先から、背筋をなぞり、尻尾の先まで滑った。カナはいつの間にか人の姿に戻っていたけれど、手足はピタリと止まったままだった。
 何かが覆い被さってくる感覚がした。カナは恐怖で身がすくむ。杖が手の中にあるというのに、何もできない感覚が、こんなにもおそろしいなんて――
 何者かは、カナの髪を乱暴に掴んで、身を起こした。そしてすぐ耳元で、まるで愉快そうに吐息を漏らした。
インペリオ
 掠れた、感情を押し殺したような男の声が、カナの耳元でささやかれた。カナの胸、心臓のあたりに、杖が突き立てられていた。すると、さっきまで恐怖でこわばっていたカナの体からくったりと力が抜けた。ガチガチに固まっていた手足もほどけ、ぼーっと、まるで眠りに落ちる寸前のような表情で、カナは髪を引っ張られるまま、真後ろにいる何者かに身を預けた。
「悪い子だと思ったんだが・・・・・・考え直すよ。おまえはいい子だ」
 男は言った。甘い声が脳に響き、カナはそれがしあわせでたまらないという表情で、「はい」と頷いた。
 乱暴に頭を引っ張られて無理やり立ち上がるよう仕向けられても、カナは文句のひとつも言わなかった。むしろそれが当然であるように、カナたちは歩き出した。引き摺り込まれた地点から、もっともっと森の奥へと。
「おまえ、名前は?」
 歩きながら、男が問いかけた。
「カナ・エリオット――」
「エリアの娘だな? エリアは生きている、そうだな?」
「はい。おかあさんは生きています」
 男は苛立ちながらも満足そうに、カナの髪を捕まえた腕に力を込めた。相手の姿は見えなかったけれど、カナはなすがままにされていた。
「答えろ。エリアはどこだ?」
「はい、おかあさんは――」
 カナは言葉を発そうとしたけれど、喉が引き攣って、音にならなかった。なんども口をぱくぱくと開くのに、すこしも声は出なかった。それに、頭も真っ白になって、おかあさんはどこに住んでいるんだっけ――と、考えなければならなかった。
「答えろ――」
 怒りが漏れ出たように、男が声に凄みを効かせた。杖がカナの喉に食い込む。それでも、言えなかった――言ってはいけないというより、なぜだか、言葉にならなかった。カナは目の前の男が求める答えを知っているはずなのに――この人の助けになれるはずなのに――
「ああ、むかつくよ――痛いほうが好きか?――クルーシオ!
 ぎぃん、とカナの頭が突然締め付けられた。全身が焼き切れるような激痛が走り、カナは背中を逸らして叫び、手足を跳ね上げた。
「暴れるんじゃない――」
 しかし、カナの頭痛はますますひどくなる。巨大な万力に押し潰されるみたいだ――とうとう、濁った絶叫がカナの口から漏れて暴れ始めると、男はカナの喉元に力を込めた。
「クソッ――シレンシオ黙れ!」
 カナの悲鳴は音にならなかった。たしかに叫んでいるのに、まったく聞こえない。ただ、カナが男の腕の中で暴れる、鈍い音と布擦れの音がするだけだ。
「ああ、かわいいエリアの娘――ヤバいよ、このままじゃ、殺してしまいそうだ――」
 首に大きな手が巻きつき、カナの踵が、地面から離れた。
「はあ、いけない――しかし――かわいそうに、おまえも母親と同じだな――そんなふうに――俺に逆らうから――不幸になる――」
 カナの首が、大きな手にすっぽりと塞がれる。絞め上げられている――
「素直に言うことを聞いていれば、俺たちはうまくいった――」
 声も、息も、出なかった。カナは動くようになった手を、男の手の上に重ねた。引き剥がすほどの力が入らない。力なく、骨ばった手の甲を引っかくだけだ。その上から、さらに男の手が力強く押さえつけた。
 ふと――朦朧とした視線の先に、誰かがいるのが見えた。はだしの、誰かの足だ――ぽたぽたと唾液が地面に垂れた――膝に力が入らない――
「――誰かそこにいるの?」
 誰かが、別の誰かが声を発した。カナは地面にドサリと投げ出された。思いっきり肺が膨らむと、喉が引き攣れて激しく咳き込んでしまう。ピクピクと不規則に呼吸を繰り返しながらぼんやりとしていると、男がカナに被さるようにかがみ込んだ。
「ハア――なあ、おまえはいい子だ、そうだろ?――俺のことは綺麗さっぱり忘れるんだ――」
 カナはぼんやりと、声がした場所を眺めた――そして、無意識に頷いた。



「げほっ――ごぼ、ンン!」
 急激に意識が引き上げられた。水を吐き出したと思ったら、息をつく暇もなく再び口の中に水が流れ込んできた。いくらか水を飲み込みながら、カナはあわてて近くにあるものにしがみついた。
「カナ、もう大丈夫だ!」
 セドだった。ふたりは湖のまんなかに浮かび上がっていた。遠くで歓声が聞こえる。そうだ――いまはトライウィザード・トーナメントの競技中で――
「いやあっ! セド、いやだ、嫌――助けて!」
「捕まってて。大丈夫だから」
 ブルブルふるえるカナをセドは力強く抱えながら、岸に向かって泳ぎ始めた。ぎゅうっと目を閉じて、カナは恐怖と戦った。足がつくようになると、カナは浅瀬に座り込んでしまった。セドがカナを抱えようとしたけれど、激しく息を吐くカナの姿に、動揺しているようだった。
「マダム・ポンフリー!」
 セドが叫びながら、力任せにカナを抱え上げた。半ば引きずられるようにして、カナの足は芝生を踏む。とたん、あたたかくてやわらかい毛布が、カナの全身を包んだ。セドにも同じようにぶあつい毛布が掛かる。
 マダム・ポンフリーが手渡した熱い「元気爆発薬」の入ったゴブレットを、カナはひどくふるえたままの手で受け取った。しかし、とたんにゴブレットをひっくり返し、薬湯をこぼしてしまう。
「カナ」
 セドが自分の手にあった元気爆発薬を、カナに飲ませた。カナはまだ浅く呼吸を繰り返していて、何度かに分けながら、薬を飲み干した。ボフンと顔じゅうの穴から煙が吹き出し、体が温まる。煙で浮かび上がった毛布を引き寄せて、セドはカナを毛布できっちりと包んだ。
「きみが湖を怖がっているのを知っていたのに、こんなことになるなんて」
「セド、違う――」
 カナは顔を上げて、視線を巡らせた。マダム・ポンフリーが新しい薬湯を運んできたその向こうに、ダンブルドア、マダム・マクシーム、ルード・バグマン、パーシーがいるのが見えた。まだ厳しく湖面を見つめている。セドは一番初めに戻ってきたんだろう。審査員たちは、岸に近寄って他の代表選手とそのパートナーが戻ってくるのを待っている。カルカロフだけは、審査員席に座ったまま、静かに会場を見つめていた。
「もう制限時間の一時間を切ったんだ。早く帰ってこないと――」
「ぼく、ダンブルドアに話さないと」
 カナが立ち上がろうとしたとき、誰かがそれを押さえつけた。振り返ると、ヴィヴだった。
「お疲れさん。まだ座って休んどけ。君はずいぶんパニックになってたし」
 ヴィヴはカナを座らせ、セドの背中を力強く叩くと、救護テントへと戻っていった。大きな毛布を抱えたノエムとエノスが、入れ替わりに出てくる。とたん、頭上から大きな歓声が上がった。空中に設けられた観客席では、立ち上がって声援が送られた。クラムとハーマイオニーが戻ってきたようだった。
「セド・・・・・・ぼく、思い出した」
「いったい何を?」
 いまだにブルブル震えているカナをなだめるように、セドの手が背中をゆっくり撫でた。カナが、寒さや湖のせいで震えているわけではないことに気がついたようだった。
「夏休み、キャンプ場で――『闇の印』が打ち上がるとき、あのとき、ぼくがど、どんな目に遭ったか、お、思い出した――ぜんぶ――」
 セドが息を呑み、あたりに視線を走らせた。クラムとハーマイオニーが、カナたちと同じように毛布に包まれながら、こちらに歩いてくるところだった。
「あまり大きな声で話さないほうがいい。試合が終わってから、ダンブルドアに知らせよう」
「おかあさんを呼んで・・・・・・知らせないと・・・・・・おかあさんに・・・・・・」
 カナがセドにすがっていると、目の前にふたたびゴブレットが差し出された。ヴィヴだった。澄んだ青色の水薬を、カナは知っていた。
「マダム・ポンフリーからだ」
「でも――」
「カナ」
 意思の強い黒い瞳は、反論を許さなかった。セドリックに手伝われながら、カナはゴブレットの中身を飲んだ。そしてまもなく、重く降りてくるまぶたに抗えず、目を閉じた。鉛のような頭をセドの胸に預け、もたれかかったまま、周りの声が遠のいていく。カナは眠りに落ちていく。



「――ひと晩眠りませんと、無理ですわ。この子はいつもそうなのです。休ませなければ」
「しかし、この件に関して我々はすでに後手に回っています。大きく出遅れているのです。彼女が証言するというのであれば、魔法省の捜査だって進展しますし――」
「パーシー、ひと晩たりとも待てぬと言うのかね?」
 まぶたを押し上げると、見慣れたカーテンに囲われた天井が目に入る。医務室のベッドの上だ。カナが身を起こすと、わずかに開いていたカーテンのすきまから、マダム・ポンフリーが駆け寄ってきた。
「ミス・エリオット。安静に――」
「ダンブルドア先生」カナは開ききっていない喉から、か細い声を出した。ダンブルドアが、そっとカーテンを開いて入ってくる。ずきずき痛み、ぼーっとする頭で、カナはなんとか言葉を絞り出す。
「おかあさんに――」
「カナ。わかっておるよ」やさしくて、あわれむような声色だった。「もうじきに、スネイプ先生がお薬を持ってきてくださるじゃろう。明日、きみの話を詳しく聞こう。今は体を休めなさい」
 マダム・ポンフリーに促され、カナはブランケットを被った。
「先生」
 カナの哀願に、もう一度だけダンブルドアが振り返った。鼻先に、涙が伝うのが自分でもわかった。
「先生、お願い・・・・・・おかあさんを助けて」



20250623


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