翌朝、カナはダンブルドアの迎えを受けて、医務室を出た。校長室の扉が開くと、いちばん会いたい人がそこにいた。
 おかあさんの視線の合わない顔を見たとたん、カナは今まで溜め込んでいた気持ちがあふれて――泣きそうな心地になった。そっと近寄ると、おかあさんはソファーから立ち上がり、カナのことを腕の中に招いた。黙ってそれに応じ、痩せた細い肩に頬を寄せる。シオンがいなくなってから何度も繰り返していたこの行為に、カナはやっと意味を見出した。
「おかあさん、ぼく、ぜんぶ思い出した・・・・・・おかあさんのことも、それに、シオンのことも」
「ええ」
 目を伏せたまま、おかあさんは微笑んだ。カナはおかあさんの腕の中を離れ、ダンブルドアを振り返る。
「先生、パーシーは・・・・・・魔法省の人は?」
「きみがリラックスして話せる環境が大切じゃと思うての」声色は優しかったけれど、ダンブルドアの淡い色の目は険しさをたたえたままだった。「どのみち、きみは魔法省執行部の審問を受ける必要がある。しかし、きみは被害者であるからして、わしが代理人となって、調書を書こう。そうすればきみは魔法省の役人に、つらい体験の話を何度もしなくて済む。もっとも、わしが信頼するに値せず、ここにいてほしくないときみが望むのならば――」
「い、いいえ、先生。そういうことだったら――お願いします。それに、あなたのほかに、誰に話したらいいのかわかりません」
 カナが言うと、ダンブルドアは初めてニコリと笑った。
 ダンブルドアは、ふたりにお茶を淹れてくれた。ソファーに座るよう言い、自身は机の肘掛け椅子に座ると、話し始めた。
「まず、カナ。あの森できみを襲った者と、『闇の印』を打ち上げた魔法使いは、同一人物かね?」
「はい」
「それが誰か、わかるかね」
「わかりません。男でした。でも、姿は見えませんでした」
「目眩まし術かね?」
「いいえ、たぶん、透明マントだと思います。手首や杖だけ、見えたんです」
 カナがローブの袖を触って状況を説明すると、ダンブルドアがクスッと笑った。
「ミス・エリオット。透明マントについて詳しいようじゃな」
 カナは唇をとがらせた。ダンブルドアは意地悪だ――カナの友達のハリーが透明マントを持っていることを知っているくせに。
「その人は、ぼくのことを探していたようでした。ぼくに、話させようとしてました。ふ――『服従の呪文』を使って」
 ダンブルドアの目つきが変わった。おかあさんの骨張った手が、カナの背中を撫でた。
「おかあさんのことを、いくつか聞かれました。『おまえはエリアの娘か』って・・・・・・それから、『生きているのか』って。『どこにいるのか』って聞かれたときに、ぼく、答えられなかったんです」
「私の居場所は、私しか話すことができないものね」おかあさんが言った。ダンブルドアも頷いていた。
「それで・・・・・・」カナは顔を青くして、ふるえていた。「は、『磔の呪文』を受けました」
 カナの手を握るおかあさんの手に、力がこもる。ダンブルドアがひどく真剣な表情で、カナの目の前にあるティーカップに、砂糖をひとつ落とした。スプーンがひとりでに、クルクルとかき混ぜている。しかし、カナは話を続けた。
「ぼく、その呪文がなんなのか、当時は知りませんでした。ぼくが喋らないから、次に『シレンシオ』でぼくの声を奪いました。それで、言ったんです――『殺してしまいそうだ』って」
 カナはおかあさんの濁った青い目を見つめた。
「おかあさんのことを憎んでるみたいだった。おかあさんが言うことを聞いていればうまくいったのにって、言って――ぼく、首を――」
 おかあさんが、額をくっつけて、カナを抱き寄せた。かわいそうなほど震えている。
「だ、誰かが声をかけてきたんです」カナは顔を上げた。「たぶん、ハリーたちが。それで助かりました。解放されて――起きたことをすべて忘れるように、その人は言いました。そのあと、『闇の印』が上がりました」
 おかあさんの腕に、カナは手を添えた。そして、ダンブルドアをまっすぐ見た。
「ぼくが知っていることはこれでぜんぶです。本当のことです、ぼく、『真実薬』を飲んだっていい。先生、その人はおかあさんを見つけたら・・・・・・もしも見つかったら、こ、殺されるんじゃないかって・・・・・・だから、おかあさんのこと助けてください。お願いします・・・・・・」
 カナは頭を下げた。ダンブルドアは「顔を上げなさい」と言い、あわく息を吐いた。
「再確認をしようかの。なぜ、ヴォルデモートの配下にある闇の魔法使いたちが、きみたち親子のことをつけ狙うのか、カナ、自分でわかっておるかね?」
「ぼくたちが、スリザリンの直系の子孫の、ゴーント家の血を引くから・・・・・・それとも、ヴォルデモートの親戚だからですか?」
「それもあるかもしれんのう」ダンブルドアの目がキラリと光った。「闇の魔法使いの家系の多くでは、マグルびいきの者は『血を裏切る者』として勘当する習慣が、まだ残っておる。ヴォルデモート卿はひとつの時代の純血主義を熱狂的にするほどの反マグルでのう。自分と祖先を同じくする者が、主義主張を相反するとなれば――やつの基準で言えば、『恥』だと思うておるのかもしれんな。そして、あやつは『箔』がつくことをなによりも好んでおる。おそらくは、スリザリンの末裔であるきみたちを手に入れたが最後、死ぬまで解放してはもらえぬじゃろうな」
 ダンブルドアは、自分の言葉に呆れたように首を横に振った。
「まったくもって、前時代的な主張じゃと、わしは思うておる。ましてや、生まれや血筋を理由に他人を傷つけていい理由には、決してならない。じゃからこそわしは、純血主義者であったスリザリンの血が流れておるきみたちが、そのような考えに耳を貸さなかったことを、とても、幸いに思っておるのじゃ」
 おかあさんが鼻をすすり、涙で濡れた頬をぬぐった。
「カナ、きみが生まれてくる以前より、われわれはエリアの存在を隠し続けることに尽力してきた。籠の鳥のようにひと処に留めるというのはひどく窮屈な手段ではあるが、エリア自身がそう願い、わしもそれが最善じゃと判断した。つまり、カナよ、きみが頭を下げるまでもなく、わしはエリアを助けたいと思うておる」
 ダンブルドアの視線が、うつむいたままのおかあさんに向いた。
「エリアよ、きみは、カナの話を聞いてどう思うたかね?」
「以前も話した通り――カナじゃなく、私に・・・・・・・・執着する理由があると思い当たる人物は、たった二人です」おかあさんが顔を上げ、泣いて赤くなった鼻先が見えた。「でも、彼らはもう・・・・・・それに、あの人が死喰い人デス・イーターだなんて、いまだに信じられません」
「しかし、エリア・・・・・・」ダンブルドアは深々と息を吐いた。「事実として彼は・・・・・・」
「わ、わかっています」おかあさんは震えた声で言った。「彼は投獄されて――アズカバンで吸魂鬼ディメンターのキスを受けたと――」
 ぎゅっと拳を握りしめて、おかあさんは声を張り詰めた。
「私が見たものと同じです」
 ダンブルドアが静かに頷いた。
「ですが・・・・・・」
「エリア、きみの慎重さは十分わかっておるよ。きみの意見も尊重しよう。そのうえで、わしは視野を広げるべきだと思うておる」
「はい・・・・・・」
「カナを襲った人物が誰なのか、今ここで論じても答えは出ぬじゃろう」
 ダンブルドアがティーカップに口をつけた。カナもそれにならう。すでにずいぶんぬるくなっていた。
「おかあさん、その彼ら・・って、いったい、誰なの?」
 濁った目を開き、おかあさんは静かに息を吐いた。ダンブルドアも黙ったままだった。おかあさんの様子を伺っているようだった。
「彼らは、私の友人だった人よ。そう思っていたからこそ、あの頃の私は秘密を打ち明けた・・・・・・レギュラス・ブラック。それから、バーテミウス・クラウチ・ジュニア。この二人に」
 カナは目を開いた。おかあさんは視線が合わないまま、不器用に口角を持ち上げて微笑みをつくった。
「レギュラスは十七歳の誕生日を迎えてすぐ、ホグワーツを去り、死喰い人デス・イーターになったの。私とは道を違えたのよ・・・・・・そして、数年もしないうちに亡くなった。バーテミウスは品行方正で優しい人だったわ。私が闇の魔術を嫌っているのをわかってくれた。レギュラスと決別するとき、私を支えてくれた。そんな人が――彼が闇の魔術に与していただなんて、まだ信じられない――でも、あの頃のスリザリンは、本当に混沌としていたの。寝室を共にしている仲間が、裏で他人を苦しめるための呪文を熱心に学んでいた。誰も信じられなかった。だからこそ、私は逃げた――」
「その人が死ぬところを見た・・って、どういうことなの? おかあさんは目が見えないでしょう?」
「私の頭の中は、ときどき水晶玉みたいになるのよ」
 言っている意味はよくわからなかった。しかし、おかあさんの表情が悲痛なものに変わっていったので、カナはそれ以上なにも言えなかった。
「カナ、あなたがスリザリンの末裔だと知っている人はいるの?」
「ダンブルドアと・・・・・・あとは、フレッドが知ってる。誰にも言わないでって、言ったけど」
「そう。あの子ならきっと大丈夫。私は、信頼する人を間違えてしまったから」
 おかあさんが首を横に振ると、暗い色の髪が揺れた。
「私のせいで、カナは『許されざる呪文』を受けた」おかあさんはまた濁った瞳に涙を溜めながら言った。「ごめんなさい・・・・・・」
「おかあさんのせいじゃない」カナはすぐに否定した。「おかあさんも言ってたでしょ・・・・・・闇の魔法使いはいつだって、身勝手に他人を傷つけてきたって」
「その通りじゃ」ダンブルドアは慰めるように言った。「相手の目的もまだわからぬ。きみへの個人的な恨みがあるのかどうか・・・・・・もしそうであったとしても、エリア、気持ちをしっかりと保つのじゃ」
「・・・・・・そうですね、ダンブルドア」
 ふと、ダンブルドアが懐中時計を手に取った。「おお、もうランチの時間じゃのう」と言うと、立ち上がる。おかあさんもそれにならう。
「カナ」
 おかあさんが、あたらめてカナの手を包み込んだ。
「ほんとうに信用できる人物以外とは、二人きりにもなっては駄目よ。いい?」
「うん、気をつけるよ」カナはおかあさんの手に触れた。冷たくて、でも安心する手だった。
「エリア、帰り道に護衛をつけよう・・・・・・セブルスか、マッドアイあたりはどうじゃ?・・・・・・フム、セブルスは午後の授業はなかったはずじゃな」
「痛み入ります。ですが、結構です。駅に着いたら、『姿晦まし』で帰りますから」
「エリア、ホグズミードとて安全ではない」ダンブルドアは立ち上がった。「やはり、セブルスを護衛につけよう。ホグズミード駅までじゃ」
 有無を言わさぬ物言いだった。おかあさんも素直に頭を下げた。
 そのとき、校長室の扉がノックされた。「校長先生、ディゴリーです」と声がして、カナはダンブルドアを見上げた。お茶目なウインクが返ってくる。
「わしが呼んだのじゃ。カナを迎えに来てもらおうと思ってのう」
「私、もう少しダンブルドアと話してから帰るわ。カナ、元気でね」
「うん、おかあさんも」
 おかあさんの抱擁がこんなにも心地よいと感じたのは初めてだった。その頼りないぬくもりが離れていくのが、名残惜しかった。
 ふと――あの金のネックレスを、おかあさんは外してしまったのだな、とカナは思った。「がれきの城」でこうやって抱きしめられた時には、毎回、金細工が音を立てていたことを、カナは覚えている。
「ねえ、また会えるよね?」
 そして、おかあさんが夏休みに血を吐いてたことを思い出した。「体調がよくない」のだと、リーマスが言っていたことも。
「ええ、もちろん」
 そう言って、おかあさんが穏やかに微笑んだ。カナはそれを、なんとも言えない心地で見つめた。

 校長室の前には、セドがたった一人で立っていた。カナが出てくるのを見ると、心配そうにこちらを見ていた。
「カナ、具合は?」
「もう大丈夫」
 淡いグレーの瞳が、見定めるようにカナをじっと見つめた。
「ほんとだよ。その、昨日はごめんなさい。動揺して・・・・・・」
「うん、わかってる。きみが無事ならそれでいいんだ」
 ふたり並んで大広間へと歩き出しながら、セドは昨日のことを話して聞かせてくれた。セドが一番早くに湖中から戻ってきたこと。二番手はクラムで、フラーはグリンデローに襲われて、人質を取り返せなかったこと。しかし、ハリーが最後まで残って、自分の人質であるロンに加えてフラーの妹を連れ帰ったことで、時間は大きくオーバーしたものの加点されたこと。その結果、現状はセドとハリーが同点でトップの得点だということ。
「すごいね、セド、頑張らないと」カナはあまり浮かない声で言った。「ごめん、ぼく・・・・・・嬉しくないわけじゃないんだよ。ほんとうに、きみのことすごいって思ってる」
「カナ、いいんだ。つらいことを思い出したばかりだろうし」セドが気遣うように言った。「第三の課題は四か月後だ。六月二十四日・・・・・・まだ時間はある」
「うまくいくよ」
 カナは顔を上げて、精一杯笑って見せた。突然、セドがカナの手を握った。
「きみが不安なとき、僕はいつでもきみの助けになるから」淡い色の瞳が、まっすぐにカナを見おろしていた。「無理しないで」
「あの・・・・・・うん、ありがとう」
 カナは肩の力を抜いた。実を言うと、ほんの少しだけ、カナは気後れしていた。セドは優しすぎるけれど――彼にすべてを預けてしまうには、まだ時間が足りないような気がしていた。



 三月の朝、カナのもとに一羽のフクロウが舞い降りた。その封筒の色を見て、がっかりした。宛名も差出人も書いていないそれは、おかあさんでも、リーマスでもない。何なら、カナを落ち込ませるだけのものだった。
 カナが手紙をテーブルに伏せると、ハーマイオニーがそれに気がついた。
「手紙を読まないの?」
「いい。嫌がらせの手紙だよ。最近よく届くんだ」
「ちょっと、見せて」
 未開封の封筒をスッと滑らせると、ハーマイオニーがすぐさま手に取った。そして便箋を広げて、顔をしかめた。
「ひどいわ。よくもこんなものを送りつけられるわね」
「どこの誰だか知らないけどね」カナは平然と食事を続けた。「でも、手紙を送ってくるだけだよ。それ以上のことはしてこない」
「手の施しようがないものね」ハーマイオニーも便箋を仕舞い、朝食に手をつけた。「人気者とお付き合いするのって大変ね」
「ハーマイオニーも気をつけなよ」カナは手紙をポケットに突っ込んだ。「クラムのファンに何されるか、わかったものじゃないよ」
「そうだぞ、ハームオウンニニィ」
 ロンのからかいが飛んできて、ハーマイオニーは頬を赤くした。ヴィクトール・クラムがいちばん失いたくない人がハーマイオニーだったので、この数日で彼女は囃し立てられることが多くなった。
 もう一羽、遅れてフクロウが降りてきた。突風にあおられたのだろう。羽根があちこち飛び出している。
 カナは手紙を受け取った。これも見覚えのない封筒だった。開いたとたん、中身がバラバラとあたりに散らばった。テーブルや膝の上に広がったそれを見て、二人は絶句した。
「なに、これ――」
 写真だった。すべてカナが大きく映っている写真で、いつ撮られたのかも定かではない。友人と一緒にいる時の写真や、フレッドらしき人と映っているものもあれば、セドと映っているものもある。ハニーデュークスの窓を背にした写真。こっちは「三本の箒」だ。ユールボールの時のドレスローブ姿の写真。第二の課題の最中、ずぶ濡れで毛布に包まれている写真。睡眠薬で眠ったあと、誰かに運ばれている写真――
「悪趣味だわ」ハーマイオニーが声をひそめて、写真をかき集めた。「カナ、平気?」
 言葉が出なかった。どういう意図かわからないけれど、カナを付け狙っている人がいる。それも、ホグワーツの中で、誰かがカナを見張っている――そう思うと、吐き気が込み上げてくる。
「無理・・・・・・」
 カナが立ち上がると、ハーマイオニーもついてきてくれた。抱えられるようにして一階のトイレに駆け込むと、ばったり誰かと出くわした。
「どうしたの?」
 その声は、クリスマス以来ずっと話していなかった、ジニーのものだった。通り過ぎ、ハーマイオニーは一番奥の個室にカナを押し込んだ。
「うえっ・・・・・・」
 食べたばかりの朝食が逆戻りした。ハーマイオニーの手が髪をかきあげ、やさしく背中を撫でるのを感じながら、カナは胃をひっくり返し続けた。涙がぽとぽとと吐物の上に落ちるのを、ぼやけた視界でとらえた。
「知りたいの?」
 ハーマイオニーが言った。おそらく、ジニーに聞いているのだろう。ジニーとカナが口をきいていないことはハーマイオニーも知っている。
「ええ・・・・・・」
 ジニーのひそやかな声がした。ハーマイオニーは無言で写真を見せた。
「・・・・・・これ、なに? なにが起きてるの?」
「私たちだってわからないわよ」ハーマイオニーはカナの背を撫で続けながら言った。「カナのところに嫌がらせの手紙が届くの。ひどい言葉を使ってね。それと関係があるのかわからないけど・・・・・・」
「関係ないかもしれない」カナが青白い顔を上げた。まだ浅い呼吸であえぎながら、呆然と言った。「ぼく、監視されてる、たぶん」
「監視?」ハーマイオニーが訝しげに言った。「何のために・・・・・・いえ、まさか。死喰い人デス・イーターが?」
「ストーカーなんじゃないの?」ジニーがショックを受けたように言った。「ねえ、だって学校の中に闇の魔法使いがいるわけないわ。カメラなんて誰が持っててもおかしくないし――ねえ、違う? カナのことを好きな誰かが、アピールしてるだけよ、きっと」
「わかんない」タイルの床に座り込んで、カナはまた涙を溢れさせた。「怖いよ」
「弱気になっちゃダメよ!」ハーマイオニーが力強く言った。しかし、カナは首を横に振った。
「だって、だって、この写真を送ってきた人は、おかあさんを殺そうとしてるんだよ!」
 カナの叫びが、トイレの壁にぶつかってビリビリ響いた。
「ぼくを、お、脅してるんだ」
「そうと決まったわけじゃないわ。カナ、立って。立つのよ」
 ぼろぼろと涙を落とすカナを、ハーマイオニーが無理やり立ち上がらせた。流し台で溺れるように顔を洗い、口の中をゆすぐと、いくらか頭が冷えてきた。
「授業に遅れるわ」ハーマイオニーが控えめに言った。「カナ、今日は私が一緒にいるから」
 ジニーがハンカチを差し出した。オレンジの葉っぱのような甘い香りがするそれで、カナの顔を滑る水滴を拭った。
「あの、カナ」ジニーがくるみ色の瞳を揺らしながら言った。「今夜、そのハンカチを取りに来るから。それまで持っていて」
 それだけで、カナは肩の力が抜けていくようだった。カナは小さく頷いて、白いハンカチをきゅっと握った。
 女子トイレを出ると、廊下でハリーとロンが待っていた。
「これ、落ちてたよ」
 ロンが差し出した手には、カナの写真が数枚握られていた。カナはそれを受け取って、じっと見つめた。その無表情を見て、ロンが肩をすくめた。
「専属のカメラマンってわけじゃなさそうだな。コリン・クリービーみたいな」
「冗談じゃないよ」ハリーがちょっとあわれむように言った。
 写真の中の、キラキラしたメイクで淡く微笑みかける自分自身が、ひどく憎たらしかった。ふと、カナは思い出したようにハーマイオニーを振り返った。
「あのフクロウ、すごく風に煽られてたよね」
「ええ、そうね」
「でも、悪口を届けにきたフクロウはそんなことなかった」
「あなたが考えてることはわかるわ」ハーマイオニーは頷いた。
「何を考えてらっしゃるんですかね?」ロンがじとっと女の子二人を見た。
「写真を運んだフクロウは突風を受けてボロボロだったわ。ハリー、今朝届いたあなた宛のもそうだったでしょう。つまり、遠くから手紙を運んだということ。でも、ちゃちな悪口を運んできたフクロウはそうじゃなかった。風を受けるほどの距離を飛んでいないということよ。つまり、嫌がらせの差出人はホグワーツの中、写真の差出人はホグワーツの外にいるってこと」
 ハーマイオニーの説明を聞いて、ハリーが考え込んだ。
「だとしたら、どうやって写真を撮るんだろう。カナはずっとホグワーツの中にいるのに」
「生徒の誰かとしか、思えないよ」
 カナは大きくため息を吐いた。
「ダンブルドアに持っていくよ、これ全部」
「相手にしてくれるかしら?」
「誰が撮ったか調べてもらえるかもしれない」カナは封筒に写真をまとめて、教科棟に向かって歩き出した。「そうしたら、おかあさんを殺そうとしてる死喰い人デス・イーターと、誰がつながっているのかわかるでしょ」
「待って、カナ」ハリーがカナを追いかけた。「エリアおばさんが――殺されるだって?」
「思い出したんだ」カナは淡々と話した。「あの夜に『闇の印』を打ち上げた魔法使いは、おかあさんのことを喋らせようとして、ぼくを拷問にかけた。ものすごい殺意を感じた――」
「拷問?」ついに、ハリーはカナを引き止めた。「きみ、あのとき拷問を?」
「そんなことより、やつがおかあさんの居場所をつきとめたら――」
そんなことだって?」握られた手首に力が籠る。「カナ、大事な話だろう!」
 眼鏡の奥で、エメラルド色の瞳が、燃えるようにきらめいた。その熱量に、カナは気圧されそうになる。
「何があったのか、僕たちには話してくれないのか?」
「あ・・・・・・」ズキンと手首が痛むのと同じくらい、胸の奥も軋んだ。「ごめん、ぼく・・・・・・頭の中がいっぱいで・・・・・・」
「ねえ、また後にしましょ」ハーマイオニーが、ハリーの手の上をポンと軽く叩いた。「呪文学の授業に間に合わなくなるわ」
 手がほどかれた。カナが赤くなった手首をさらすと、ばつが悪そうにハリーがうつむいた。
「ハリー、力が強すぎるよ」歩き出しながら、カナが拗ねたように言った。
「ごめん、つい」急いたようにハリーが謝罪を重ねた。「本当にごめん」
「いいよ、そんなに謝らなくて」カナは仕返ししてやろうと思って笑った。「こんなのすぐ消える。でも、好きな子の手はこんなふうに握ったら駄目だからね」
 ハリーの顔が急に赤くなった。彼の頭の中に、いま誰が思い浮かんでいるのか、カナはわかっていた。



 呪文学の授業を終えた足で、四人は空き教室に入り込んだ。厨房から、魔女かぼちゃジュースの瓶とサンドイッチがたくさん詰まったバスケットをもらってきて、埃っぽい教室の隅で腹ごしらえをしながら話をした。
 カナはダンブルドアに話したことを、三人にありのまま話した。
「『磔の呪文』か・・・・・・想像するのも恐ろしいよ」ロンが身震いした。
「ひとつ気になるのよね」サンドイッチをかじる手を止め、ハーマイオニーが髪をくるくると弄りながら言った。「エリアおばさまが言っていたじゃない? 記憶を抜き取る魔法を研究していたって。もしも、その方法でカナが家族のことを忘れていたんだとしたら、今回みたいに何かの拍子に思い出したりするものなのかしら?『忘却術』と似たようなものなんだと思うけれど、そんな簡単に思い出せてしまったら、今頃マグルたちは魔法のことを知っている人たちばかりになってしまうわ。違う?」
「さあね。でも、カナは『服従の呪文』の命令で思い出せなかっただけなんじゃないか? だとしたら、呪文の効力が薄まってただけだとも言えるし」
「あれから半年以上経っているのに? ほんとうにそう思ってる?」
「なんだよ、考えてるだけだろ」
 ハーマイオニーとロンの言い合いをよそに、ハリーはカナに話の続きをたずねた。
「それで、エリアおばさんが疑ってる人物って誰なんだ?」
 三人の視線がカナに戻ってくる。
「それが・・・・・・もう亡くなってる人みたい。レギュラス・ブラックと、バーテミウス・クラウチ・ジュニアって」
「レギュラス・ブラック?」ハリーが上擦った声を出した。
「クラウチの息子かよ!」ほぼ同時に、ロンが大きく目を開いた。「パーシーのやつ、きっと内臓がひっくり返るぞ」
「待ってよ、ブラックって――」ハリーが身を乗り出した。
「うん、シリウスの弟だよ」カナは夏休みに話したことを思い出した。「二人はホグワーツでおかあさんの友達だったみたい」
「でも、もう亡くなってるんでしょう」ハーマイオニーが言った。
「ブラックは死喰い人デス・イーターとして死んだ。クラウチ・ジュニアは、アズカバンで、吸魂鬼ディメンターのキスを受けたって」
 ふたつめのサンドイッチに手を伸ばす。カナは朝食を戻してしまってお腹が空っぽになっていたので、いくらでも食べられそうだった。
「ダンブルドアは、『ありえない』とは言わなかったけど、そう思ってたんじゃないかな。もっと視野を広げるべきだって言ってた」
「そうでしょうね。死人はどうやったって生きてる人を掴み上げたりはできないもの」
「その人のこと、シリウスが知ってるかもしれないね」
 ハリーがかぼちゃジュースで食べ物を流し込みながら言った。
「僕もカナに言いそびれてた・・・・・・シリウスがホグズミードに来てるみたいなんだ」
「ホグズミードに?」
「明日、午後二時にダービッシュ・アンド・バングズの近くの柵のところに来いって。できるだけ食べ物を持って」
「へえ、シリウスったら、ハリーに会いたくて仕方ないみたいだね」
 カナが言うと、ハリーは嬉しそうに、でも半分心配そうな複雑な表情を浮かべた。
「カナも来なよ。君のママの話、シリウスに話しておいた方がいいんじゃないか?」ロンが言った。「セドリックの坊やなんかと遊んでないでさ」
「えーと、午後二時でしょ。お昼になったらそっちにいくよ。ぼく、バタービールを持っていく」
 そう言うと、ロンはつまらなそうに頷いた。
「ああ、賢い選択だ。恋も友情も、どっちも楽しめるな」
「あなたと違って、女の子は忙しいのよ」ハーマイオニーは仕返しとばかりにニヤリと笑った。



 午後の魔法薬学の教室の前には、スリザリンの生徒が集まって何か覗き込んでいた。ひとりポツンと離れた場所にいるガートが、にがーい顔をしてカナたちに目線を送った。
「来た来た!」
 興奮した様子のパーキンソンが、クスクスと笑ってカナたちを見た。すると、スリザリン生のかたまりがパッと割れる。パーキンソンが歩み出た。
「あなたの関心がありそうな記事が載ってるわ、グレンジャー」
 そう言って、投げてよこした雑誌――「週刊魔女」を、ハーマイオニーは驚いて受け取った。ちょうどそのとき、地下牢教室の扉が開いて、スネイプ先生が生徒たちに中に入るようにと促した。
 いちばん後ろの席を陣取り、スネイプ先生が「冴え薬」の材料を黒板に書き始めると、ハーマイオニーは机の下でいそいで「週刊魔女」のページをめくった。そして、真ん中あたりのページでその手が止まる。カナも横から覗き込んだ。
 ハリーの写真と一緒に、短い記事が載っている。「ハリー・ポッターの密やかな胸の痛み」とタイトルがついていた。
「――両親を亡くして以来、愛を奪われて生きてきた十四歳のハリーは、ホグワーツで安らぎを見出していた。マグル出身の魔女で、ハーマイオニー・グレンジャーというガールフレンドだ。しかし、すでに痛みに満ちたその人生で、やがてまたひとつの心の痛みを味わうことになろうとは、少年は知る由もなかった。
 グレンジャー嬢は一見パッとしない少女だが、相当な野心家である。有名人にばかり食いつく趣味があるようで、ハリーひとりでは飽き足らないようだ。今年開催されたクィディッチ・ワールドカップのヒーローで、ブルガリアのシーカーであるヴィクトール・クラム。彼がホグワーツにやって来てからというもの、グレンジャー嬢は二人の少年の愛情を弄んできた。クラム君がこの食えない少女に夢中になっているのは誰もが知るところだが、彼はすでに『夏休みにブルガリアに来てほしい』と、グレンジャー嬢を招待した。クラム君は、『こんな気持ちをほかの女の子に感じたことはない』とはっきり言った。
 とはいえ、グレンジャー嬢の生まれもっての魅力に――それも大したものではないが――あの不運な少年たちが引っかかっただけとは考えにくい。
『あの子、はっきり言ってブスよ』同じ四年生のパンジー・パーキンソン嬢は、華やかで活発そうな笑顔を見せて言った。『でも、愛の妙薬を思いついたかもしれないわ。勉強だけはできるから。たぶん、そういうやり口を使ったんじゃないかと思うわ』
 愛の妙薬はもちろん、ホグワーツでは禁止されている。アルバス・ダンブルドアはこの件の調査に乗り出すべきだろう。その結果を待つ間、ハリー・ポッターのいちファンとしては、次はもっとふさわしい相手に心を捧げることを願っている――たとえば、皆さんは覚えているだろうか。ハリーに恋焦がれるもうひとりの少女のことを――(来週号へ続く)」
 読み終えて、カナは顔をしかめた。
「だから言ったじゃないか。リータ・スキーターに構うなって!」ロンが歯を食いしばりながら囁いた。
「あの魔女ひとと何かあったの?」カナがこっそり聞いた。
「ハーマイオニーのやつ、喧嘩売ったんだよ。ハグリッドの時にさ――」記事を食い入るように見つめるハーマイオニーに向かって、ロンが言った。「だから標的を変えたんだ。あいつ、君のこと、あれだ――緋色のおべべ・・・・・・扱いだ!」
緋色のおべべ・・・・・・?」
 真剣に雑誌を見つめていたハーマイオニーが顔を上げ、プッと吹き出した。その笑いが尾を引いて、体を震わせているので、ロンが耳を赤くして釈明した。
「ママがそう呼ぶんだよ。その手の女の人のことを」
「――でも、せいぜいこの程度なら、リータも大したことないわね」ハーマイオニーはまだ笑いを押し殺しながら、雑誌をロンに押し付けた。「ばかばかしいの一言だわ」
「でも、やっかいなことになるのは、間違いないよ。ハーマイオニー」カナは冴え薬の材料を机の上に広げながら、そっと言った。「明日はスキーターの記事を読んだ人から、大量のお手紙が届くのがお決まりなんだから」
「その程度のこと、平気よ。私、あんな卑怯な女のやり口に、逃げも隠れもしないの」ハーマイオニーは余裕を見せつけるように、チラチラこちらの様子を見るスリザリンの一団にニッコリと微笑みかけながら言った。「私の両親はマグルだから、『日刊予言者新聞』も『週刊魔女』も読まないし」
 スネイプ先生が生徒たちの机を巡回し始めたので、カナたちも作業に入った。大鍋に火をかけ、タマオシコガネの山を乳鉢で押し潰す作業を始めた頃、ハーマイオニーがぽつんと呟いた。
「でも、変なのよね。リータはどうして知ってたのかしら・・・・・・」
「何を? まさか、ホントに愛の妙薬じゃないだろうな」ロンが突っかかるように言った。
「バカ言わないで。違うわよ、ただ・・・・・・」ハーマイオニーはようやくコガネムシたちをすり潰し始めた。その顔がうつむいていき、しだいに赤く染まっていった。「ヴィクトールが『夏休みに来てほしい』って私に言っていたことを、どうして知ってるのかしら?」
「はあ?」ロンが乳棒を落とした。
「湖から引き上げてくれた時にそう言ったの」ハーマイオニーはもごもご話した。「鮫頭の変身を解いた後にね。毛布に包まれてから、審査員に聞こえないように、こっそり言ったのよ――夏休みにとくに計画がないなら、ブルガリアに遊びに来ないかって――」
「それで、なんて答えたんだ?」
 ロンが乳棒を拾い、乳鉢のはるか外側の机をごりごりと擦っていた。手元じゃなくてハーマイオニーを見ていたからだ。
「そして、彼はたしかに言ったわよ。『こんな気持ちをほかの人に感じたことはない』って」
 とうとう、ハーマイオニーは湯気が出そうなほどのぼせていた。
「それで――なんて答えたんだ?」
 ロンが同じことを繰り返した。あまりに強く叩くので、机は軽くへこんでいる。
 カナはいつのまにかニコニコと微笑んでそのやりとりを見ていた。ふと顔を上げたとき、ハリーがカナと同じような表情をしていて、目があった。
「それは、私、あなたたちが無事かどうか見るほうが忙しくて、とても――」
「君のプライベートのお話は、たしかにめくるめくものではあるが、ミス・グレンジャー」
 氷のように冷たい声が背後からかかり、四人は固まった。
「私の授業では控えていただきたいものですな。グリフィンドールは十点減点」
 話に夢中で、スネイプ先生が忍び寄っていることに気がつかなかった。教室じゅうの生徒が、こちらを振り向いていた。スリザリン生がニヤニヤと視線を送ってくる。
「フム・・・・・・そのうえ、隠れて雑誌を読んでいたな?」
 先生はロンが尻に敷いていた「週刊魔女」を取り上げた。
「グリフィンドールはさらに十点減点・・・・・・フン、しかし、なるほど・・・・・・」
 スキーターの書いた記事を見つけ、先生は暗い瞳をギラギラと光らせ、ねっとりした嘲り笑いを発した。
「ポッターは自分の記事を読むのに忙しいようだな」
 教室内に、スリザリン生の笑いが響いた。カナたちが冷めきって、怒りを抱いているのを尻目に、スネイプ先生は記事に目を落とした。
「『ハリー・ポッターの密やかな胸の痛み』・・・・・・おや、おや、ポッター。今度は何が君を苦しめているのかね?『ほかの少年とは違う。そうかもしれない・・・・・・』」
 長くなりそうだったので、カナはため息を吐いて、杖で火壺をつつき、すっかり沸騰した鍋をおろした。それからの時間は散々だった。先生は一文を読むごとにたっぷり間を取って、スリザリン生が思いっきり笑える時間をもうけた。もともとひどい記事だけれど、スネイプ先生が読み上げるとなお酷い。
「――『たとえば、皆さんは覚えているだろうか。ハリーに恋焦がれるもうひとりの少女のことを』――ほう、有名人にはガールフレンド候補が何人でもいるようだ。いったい誰のことだろうな?」
 先生の意地悪な視線がカナに向いた。スリザリン生はいまやお腹を抱えて笑っている。大爆笑が地下牢教室を揺らす中、スネイプ先生は雑誌を丸めて、鼻で笑った。
「さて、諸君を別々に座らせたほうが良さそうだ。もつれた恋愛関係よりも、魔法薬の調合に集中できるようにな。ウィーズリーはここに残りたまえ。グレンジャーはミス・パーキンソンの隣へ。エリオットは、フム、ミスター・クラッブの隣が空いてるな、そこへ行きなさい。ポッターは、私の教卓の前の席に来るがいい。さあ、移動したまえ」
 カナはロンの大鍋を無言でつかんだ。カナの大鍋はまだ熱々で持ち運べそうにないからだ。ニヤニヤ笑いを浮かべたままのマルフォイ、クラッブ、ゴイルの机に、カナは無言で座った。
「もう他の男に乗り換える予定か? エリオット」
 マルフォイが身を乗り出し、下品に笑いながら言った。
「ディゴリーの坊やはもう飽きたのか? あいつが脚光を浴びて、よっぽど魅力的に見えたんだろう。のっぽなだけの木偶の坊がね」
 巨体のクラッブとゴイルが、揃って不気味に笑った。カナは無視して大鍋を火にかけた。杖をそっと振り落ろして、生姜の塊を薄く刻む。
「ああ、泳ぐのだけは上手いんだったかな?『河童の川流れ』ってやつかもな――」
 真横のクラッブがひいひいとお腹を抱えて笑うので、目の前の大鍋ががたがた揺れた。中身がいくらかこぼれた大鍋に、不揃いの生姜を放り入れたとき、マルフォイが囁くように続けた。
「おおかた、『色ぼけ』さんは満足できなかったんだろう。水掻きは上手くても、アッチの方は下手くそだったってことだ」
「黙って」
 カナはとうとうマルフォイを睨みつけた。下世話な話に付き合うつもりはなかったけれど、好き放題言われて笑われるのも耐え難かった。
「図星か?」
 マルフォイが声色を変えると、クラッブとゴイルは大喜びで机を叩いた。アルマジロの胆汁が入った瓶が倒れかけて、あわてて手に取った。
「クラッブ、静かにしてよ。鍋が爆発しちゃうでしょ」
「おれに指図するな」
 厚いまぶたの奥にあるクラッブの目が、意地悪そうにカナを見下ろした。カナはため息をついた。
「普通の会話すらできないわけ?」
「おや、エリオットが普通の会話・・・・・をしたがるなんて、驚きだな」またマルフォイが顔をつき出した。「男に媚び入る言葉しか知らないのかと思っていたよ」
 ばかばかしくなって、カナはまた無視することに決めた。胆汁を何度か分けながら混ぜ入れていると、またマルフォイがカナを下品に蔑み、クラッブとゴイルが笑う――その繰り返しだった。カナは辟易しながら、完成した「冴え薬」を瓶に詰める。みんなはどうしているかと、顔を上げた。ハーマイオニーも同じような状況で、怒りをこらえて知らん顔をしてやり過ごしているようだ。ロンは幾分かましな状況だったけれど、たった一人で魔法薬を調合しているので、うまくいっていないようだった。ハリーはというと、スネイプ先生にネチネチ言い寄られている――その表情がひどおそろしげに歪んでいるので、どんなひどいことを言われているのだろうと、カナは胸が悪くなった。
「いますぐ駆け寄ってやらなくていいのか? ポッターに取り入るチャンスだぞ」マルフォイが、カナの視線をたどってそう揶揄った。
「きみがそうしてあげたら?」カナは机にこぼれた薬品を拭きながら、淡々と言った。「どこかでスキーターが盗み聞きしてるなら、新聞に載れるかもよ。『生き残った男の子の大親友』ってね」
 とたん、青白い顔が赤く燃え上がり、怒りをあらわにした。グレーの瞳がカナをギロリと睨みつけると、吐き捨てるように言った。
「誰が? あんなのと親友になりたいだって? 口を慎めよ、エリオット。後悔させてやる――」
 その時、教室の戸が叩かれた。スネイプ先生が「入れ」と言うと、入ってきたのはカルカロフ校長だった。
「話がある」とスネイプ先生に歩き寄り、口元を引き絞りながら、ほとんど唇を動かさないようにして話していた。
「話なら授業が終わってからにしろ、カルカロフ――」スネイプ先生がそう呟いたのを、遮った。
「いいや、今だ。セブルス、君が逃げられない時に。君はわたしを避けているだろう」
「授業のあとだ」しかし、スネイプ先生はピシャリと跳ね除けた。今や生徒たちの視線が二人に注がれている――先生が怒りを滲ませた表情で生徒たちを見回すと、みんなすぐさま自分の大鍋に視線を戻した。
 そのあと、授業が終わるまでカルカロフはずっと不安そうに髭を触り、スネイプ先生の教卓の後ろでウロウロと忙しなくしていた。
 終業の鐘が鳴ると、カナはすぐさま立ち上がった。一秒だって長くこの教室内には居たくなかった。
 全員、ムカムカしながら合流したのは一目瞭然だった。どんなにひどい時間だったか、言葉にするまでもなく通じ合っていた。
「見たかい? カルカロフが、わざわざ授業中に何をしに来たか」
 スリザリン生と分かれ道になってしばらくすると、ハリーがこそっと三人に向かって言った。
「スネイプに何かを見せてた。こう、腕の内側を捲って」ハリーが真似をして、ローブの左袖をめくった。「ものすごく急いでたよ。『こんなにはっきりしたのは初めてだ』って言ってた」
「なんだろうな、蕁麻疹か何かかい?」ロンが肩をすくめた。
「いや、スネイプに同意を求めてた」ハリーは真面目な顔のままそう言った。「舞踏会の夜もカルカロフは、心配だって、スネイプにそう話してたんだ。二人には共通の厄介ごとか何かがあるに違いないよ」
「むかし友達だったのかな?」カナが言った。
「うん。カルカロフは元死喰い人デス・イーターだろ」ロンが声をひそめた。「もしかしたらスネイプも・・・・・・」
「バカね」ハーマイオニーがピシャリと言った。「ダンブルドアはスネイプを信用してホグワーツに置いてるのよ。カルカロフみたいな来賓ならともかく、よくない過去がある魔法使いを長年教師として雇うわけがないわ」
「さあ、どうだろうね」カナが言った。「ダンブルドアは誰にでも『やり直しのチャンス』を与える人だって、ハグリッドも言ってた。どんな過去があっても見捨てないからこそ、そばに置く魔法使いたちはとんでもない秘密を持ってるかもよ」
「僕もそう思うな」ロンが同意した。「カルカロフを警戒するべきなら、スネイプのことも同じくらい警戒しないと。そうだろ?」
「ウーン・・・・・・」その言葉には、カナは同意しかねた。「実は、スネイプ先生を信頼してるのはダンブルドアだけじゃないよ。ぼくのおかあさんもそうなんだ」
 みんな、意外そうに目を丸くしていた。
「入学する日に、おかあさんはこう言ってた。『困ったことがあったら、スネイプ先生を頼りなさい』って」
「『スネイプを頼れ』だあ?」ロンが思いっきり顔をしかめた。「ドラゴンの巣に入り込むほうがまだ建設的だぜ?」
「スネイプ先生はおかあさんの上級生なんだよ、同じスリザリンでね。たぶん、おかあさんはぼくもスリザリンに入ると思って、そんなことを言ったんじゃないかな」
「でも、エリアおばさまが信頼しているってことは、スネイプはかなり潔白に近いんじゃないかしら。おばさまはかなり用心深い人みたいだし」ハーマイオニーが自信を持って言った。カナも頷いたけれど、ロンとハリーはまだ難しい顔をしたままだった。



 窓際にある満月草のつぼみが、今にも開きそうになっているのをカナは見つけた。なんだかんだで、これが一度目の開花だ。水やりを忘れてしまうことも多くて、育てるのに難航していた。ハーマイオニーの提案で、毎日朝と晩に水やりをしてくれるよう、ジョウロ代わりのお古のティーポットに細工したのだ。おかげで、想像していたよりも随分小ぶりではあったけれど、カナの満月草は開花直前まで成長することができた。
 寝室の扉が叩かれた。ラベンダーが扉を開けると、カナを呼ぶ声がした。パジャマ姿のジニーだった。
 カナはジニーとふたりで、階段の踊り場の壁に寄りかかった。談話室にあるクッションやブランケットを呼び寄せて、身を寄せ合った。
「ジニー、ハンカチをありがとう」
 カナは真っ白なハンカチをジニーに返した。ハウスエルフに頼んで、きれいに洗濯してもらい、ぴったりと畳まれている。
「カナ、またあたしと話してくれるのね」ジニーはハンカチをポケットに仕舞いながら、浮かない声で言った。「あんなにひどいことを言ったのに」
「ジニーの気持ちはわかるよ。ぼくも同じような気持ちになってた――やけっぱちで、すさんでたし。舞踏会なんて無ければよかったのにって思った」
「あたしも後悔ばっかり残ったわ。結局、ハリーをダンスに誘えなかったの。ネビルには何回も足を踏まれたし」
 クスッと、控えめに笑い合う。
「でもね、あたし、おかげで思い知ったのよ。ハリーはあなたのこと、とっても信頼してるわ」ジニーは床を見つめながら言った。「男の子とか、女の子とか、そういうの抜きにしてね。大切な友人だと思ってるんだわ」
「そうだね。ぼくらが想像してる以上に――ほら、ハリーは身寄りがないでしょう。だから、友達がいちばん大切な人なんだよ」
「うん。あたし、想ってばっかりで・・・・・・彼のために何もできてないって思ったの。『秘密の部屋』で、ハリーはあたしを助けてくれたけど、それって、あたしがロンの妹だからだわ」
「それだけじゃないと思うよ」
 カナはジニーの手を探って、握った。くるみ色の瞳が、きょとんとカナを見つめている。
「ハリーは、命の尊さを誰よりもわかってる。誰にも傷ついてほしくないと思ってるんだよ」
「ほら、カナはハリーのことをよくわかってる」
 ジニーは悲しそうに微笑んだ。
「あたしもあなたたちみたいに、秘密を分け合ってみたかったわ」
「何言ってるの、ジニー。こうして秘密の話をしてるじゃない。男の子たちの前じゃこんな話できないよ」
 カナはいたずらっぽく笑い、耳に顔を寄せた。
「少なくともハリーは、ジニーが味方だってことはわかってくれてるよ」
 そばかすの浮いた白い頬が、ポッと赤く染まった。
「あたし、実は気にしてることがあって・・・・・・今のあたしと同じ年齢のとき、カナはもうファーストキスをしたでしょう。あたし、まだなの」
 カナはぽかんとして、赤くなったままのジニーの憂い顔を見つめた。
「ママが、『十七歳になるまで、男の子とキスをしたらダメ。どうしてもしたいなら、ほっぺやおでこまでですからね』って、口酸っぱく言うの。お兄ちゃんたちにどう言ってたか知らないけど・・・・・・ねえ、これって子ども扱いよね?」
「あははっ!」
 カナが思わず、堪えきれないように笑うと、ジニーはまぶたをパチパチと瞬いた。
「ジニー、キスなんてね、大したことないんだよ」カナがそう言うと、ジニーは信じられないような表情を浮かべた。
「ウソよ」
「ほんとだよ」カナは目頭の涙をぬぐった。「ぼくの場合はね、去年の夏休みに家出したときに会った子だったんだけど――」
「えっ? フレッドじゃないの!」
 ジニーは今度こそ驚いて声を裏返した。
「そう、実はね。あ・・・・・・モリーおばさんには絶対ないしょにしててよ」
「当然よ。ねえ、もっとカナの話を聞かせてよ――」
「あんまりいい話じゃないんだけど・・・・・・」
「それなら、セドリックとはどういう感じなのか、教えてよ」
「えっとね――」
 声をひそめてクスクスと笑い合い、ふたりは深夜をまわるまでおしゃべりに夢中になった。ジニーはカナと違って、もっと背が伸びるんだろう。まるいおでこやツンととがった鼻はアーサーおじさんに似ている。でも、笑った顔はモリーおばさんみたいに柔らかくて優しい。ジニーはどんどん綺麗になっていくんだろう。そうしたら、きっと男の子が放っておかない。ジニーはいつまで、ハリーが振り向いてくれるのを待つつもりだろう。それとも――
 カナは満月草の開花の瞬間を見届けようと思っていたことなど、すっかり忘れてしまっていた。



20250709


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