新しい杖はぐあいが良い。重くないし、やわらかくしなるから振りやすい。カナの手にすぐ馴染み、ずいぶんと魔法を扱いやすくなった。杖ひとつでこんなにも変わるものかと、カナは感動した。
 賢者の石のことを探っても、スネイプ先生はとくにカナに対して監視したりはしなかった。今までとなにも変わらない。変わったことといえば、誰かが買い物のことを漏らしたのか、やたらとスネイプ先生との関係について揶揄われることくらいだ――おもにグリフィンドールの怖いもの知らず達からだけれど。スリザリン生なんかは、ときどき面白がることはあっても、スネイプ先生に見つかることを恐れてか、表立ってカナを冷やかすことはなかった。
 カナは不思議だった――ハーマイオニーたちの三人はスネイプ先生が「賢者の石」を盗もうとしていると信じきっているけれど、あの日、カナをエイブリーからかばい、警告した先生の姿は、そんなふうには思えなかった。それに、カナには自分の縁者を信じたいという気持ちもあった。おかあさんのことを信用していいかどうかは別にして――カナはスネイプ先生が信用に足る人物なのではないかと、薄ぼんやりとだが思っていた。

 数週間が経ち、クィディッチの次の試合が近づいていた。ライバルはハッフルパフだ。グリフィンドールは前回の試合で好成績を残したため、次に勝利すれば、スリザリンから七年ぶりに寮杯にリードできる。プレッシャーが大きいのか、選手達は試合が近くなるにつれてピリピリし始めた。
「カナ、あたしの競技用ローブにも刺繍をしてくれる?」ある日、アンジーが寝室を訪ねてきて、カナに頼んできた。
「ぼく、そんなに刺繍は得意じゃないよ」
「アンジーったら、大仕事を前にして弱気になってるのよ。いつもこんなふうじゃないの。だから勇気づけてくれない?」
 アリシアも一緒になって頼んだ。カナはビーズマスコット作りで身につけた杖のコントロールを示すため、袖を捲った。

 翌日は午後から試合開始だった。選手達が更衣室に入る時、カナはアンジーらを見送りにいった。
「頑張ってね」
 手を振ると、アンジーはカナの頭をぽんぽんと撫でて「ありがと!」と快活に笑った。アリシアも「見ててね!」と言って更衣室に入っていく。それから、二年生のケイティ・ベル、フレッドとジョージがお互いの頭を撫でるついでにカナの頭をがしがしと揺らした。最後にハリーが入るけれど、最後の最後までハーマイオニーとロンの励ましを受けていた。
 今回の試合の審判はスネイプ先生が務めるそうだ。そのせいでハリーはずっと落ち込んでいた。いつも「スネイプに心を読まれているような気がする」と弱音を吐いていた。気持ちはわかる。あの黒い瞳は心を見透かして、生気を吸い込んでしまうような気さえするのだ。
「いいこと、忘れちゃダメよ。『ロコモーター・モルティス』よ」
「わかってるったら。ガミガミ言うなよ」
 観戦席へ行っても、ハーマイオニーとロンはピリピリしていた。隣のネビルが、どうして試合観戦に杖を持って来ているのか、不思議そうな顔をしていた。
「ねえ、ダンブルドアが見にきてるよ」カナが言うと、二人はバッと顔を上げた。
「本当だ!」ロンがみるからに嬉しそうに声を上げた。「スネイプったら、あんなに不機嫌なの、見たことない」
 試合が始まる。選手が入場して、ホイッスルが鳴った。
「さあ、プレー・ボールだ。アイタッ!」
 誰かがロンの頭の後ろを小突いた。背後に立っていたのは、クラッブとゴイルを従えたマルフォイだった。
「おや、失礼、ウィーズリー。そこに居たんだね?」マルフォイは後ろの二人に向かってニヤッと笑った。「この試合、ポッターはどのくらい箒に乗っていられるかな? 誰か、賭けるかい? ウィーズリー、どうだい?」
 ロンは答えなかった。それは賢明な判断だと思った。試合ではジョージがブラッジャーをスネイプ先生の方に打ったという理由で、ハッフルパフにペナルティ・シュートが与えられたところだった。ハリーは上空の高いところを旋回して、スニッチを探している。その中段あたりで、ハッフルパフのシーカーも同じく哨戒していた。
「グリフィンドールの選手がどういう風に選ばれたか知っているかい?」マルフォイが聞こえよがしに言った。ちょうどスネイプ先生が、何の理由もなくハッフルパフにペナルティ・シュートを与えたところだった。
「気の毒な人が選ばれてるんだよ。ポッターは両親が居ないし、ウィーズリー一家はお金がないし・・・・・・ネビル・ロングボトム、君もチームに入るべきだね。脳みそがないから」
 ネビルは顔を真っ赤にしたけれど、座ったまま振り返ってマルフォイの顔を見た。
「マルフォイ、ぼ、ボク、きみが十人束になってもかなわないぐらい価値があるんだ」ネビルはつっかえながらも果敢に言い返した。
 クラッブもゴイルもマルフォイも大笑いした。ロンは試合から目を離す余裕がなかったけれど、「そうだ、ネビル、もっと言ってやれよ」と口を出した。気づけばロンはひどい貧乏ゆすりをしていたので、隣に座っていたカナもつられて揺れていた。
「ロングボトム、もし脳みそが金でできているなら、君はウィーズリーよりも貧乏だよ。つまり生半可な貧乏じゃないってことだな」
 カナは杖を頭上に向かって突き立てた。「パーン!」と爆発音がすると、周囲の誰もが静かになって、音のした方を見た。だが実際には爆発は起きていなかった。爆竹のような音が鳴っただけだ。みんな試合観戦に戻る。ちょうどスネイプ先生が笛を吹いて試合を止めて、選手を集めて注意していたところだ。
 カナは振り返らずに言った。
「そうだ、クラッブ。新しい杖をありがとう。すごく調子がいいよ」隣のロンが「フンッ」と思わず鼻を鳴らして笑った。後ろでは、クラッブが顔を真っ赤にしてカナをにらんでいた。
「いいか、エリオット。あまり調子に乗るなよ、スネイプ先生に気に入られているからって――」
「へえ? スネイプ先生ってぼくのことを気に入っているの? ならきっときみたちのおかげだね。先生は生徒の尻ぬぐいで忙しいんだ」後ろでダン!と足を踏み締める音がした。カナは立ち上がった――周りのみんなもだ。ハリーが急降下を始めた!
「運がいいぞ。ポッターはきっと地面にお金が落ちているのを見つけたのに違いない!」
 ロンはついに切れた。あっという間にマルフォイを地面に叩きつけ、馬乗りになった。ネビルは一瞬ひるんだけれど、ベンチの背をまたいで助勢に加わった。
「行けっ、ハリー!」
 ハーマイオニーは叫びながら椅子の上に飛び上がった。ハリーがスネイプ先生の背中に猛スピードで突進してゆく。試合観戦に夢中で、ロンとマルフォイが椅子の下で転がりまわっていることにも、ネビル、クラッブ、ゴイルが取っ組みあって悲鳴が聞こえてくるのにも誰もまるで気づかなかった。
 スネイプ先生がふと箒の向きを変えた途端、耳元のすれすれをハリーがかすめていった。次の瞬間、ハリーはふわりと浮き上がり、頭の上に拳を突き出した。その手には金色のスニッチが握られていた。
 観客席に大歓声が響いた。新記録だ、こんなに早くスニッチを捕まえるなんて前代未聞だ、と。それもそうだった。試合開始から五分と経っていないのだ。
「すごいわ、やったわ! カナ、今の見てた?」
「うん!」ふたりは手を取り合って飛び跳ね、椅子の上で踊り、抱き合って喜んだ。
「ロン! ロン!どこ行ったの! 試合終了よ! ハリーが勝った! 私たちの勝ちよ! グリフィンドールが首位に立ったわ!」
 ロンはひどい鼻血を出していたけれど、周囲の大歓声を聞いて輪の中に戻ってきた。ネビルが地面にのびていることに、かわいそうなことに歓声の中では誰もそれに気がつかなかった。
 グラウンドではグリフィンドールの選手たちがハリーを激励し、キャプテンのオリバーなんかはハリーを肩車をして喜んだ。その中にはダンブルドアもいて、ハリーの肩を叩いた。
 カナやハーマイオニーやロンは、真っ先にスタンドをおりて、グラウンドのハリーのもとへ走って、ハリーをもみくちゃにした。カナはハリーのすばらしい飛行が大好きになった。彼ほど勇敢な人はいない。

 試合が終わって解散、となった時、ロンはそのひどい鼻血をテントで待機していた校医のマダム・ポンフリーに見つかり、処置を受けるために連れていかれた。失神したネビルも医務室に運び込まれ、ハーマイオニーはロンに付き添った。カナは着替えを済ませたハリーを迎えに行くために、更衣室の出入り口へと向かった。カナはハリーに、クリスマス休暇でのことを謝ろうと思っていた。カナは大声を出して、ハリーが家族と会う時間を邪魔したのだ。
 もう夕食の時間で、あたりは薄暗くなってきていた。カナは応援でかなりエネルギーを使ったようで、お腹が空いて仕方なかったので、はやく食事にありつきたかった。
 更衣室はすでにもぬけの殻で、ハリーの姿は無いようだった。ハリーのニンバスも無かったので、箒置き場かもしれないな、と校庭の植込みの前を渡る。やっぱり、箒置き場の木の扉の前に寄りかかっているクシャクシャ頭が見えた。ハリーだ。相棒のニンバス2000を抱えて、宙を見つめていた。
 カナが黙って近づくと、すぐそばまで来たところでハリーが足音に気づいた。ハリーは目が合うと、カナを力強くハグした。カナもそれに応える。試合の余韻が、ハリーを高揚させているのが伝わった。
「僕、やったよ。やったんだ」
「うん」
「スネイプになんか負けなかった」
「うん」
 ハリーの声は少しだけ震えているような気がした。それはカナの気のせいかもしれなかった。ただひたすらハリーの言葉に相づちをうった。カナにできることはそれだけだ。どんなにたくさんの称賛も、いまのハリーをこれ以上高ぶらせるものはないだろう――
 どれくらいそうしてただろう。たぶん数十秒程度だったのだけれど、カナはハリーに合わせてちょっぴり背伸びをしていたので、つらくなってそっと離れた。ハリーは頬をかいた。
「大広間に行こう。きっとごちそうが待ってる」
「ハリー、あの鏡のことだけど・・・・・・」
「いいんだ、カナ」ハリーはすっかり目を輝かせて、満足そうに微笑んだ。「あれは現実じゃない。心の奥の望みを映すだけの、まぼろしだ。あの鏡はもうないんだ。ダンブルドアにも叱られた・・・・・・それに、きみのことも傷つけた。僕、きみのこと、何も知らなかった」
 ハリーはきっと、カナが死んだ家族を見たこともわかっているだろう。
「でもハリー、きみに・・・・・・」
 ふと、ハリーがカナの肩越しに、何かにくぎづけになっていることに気がついた。カナもハリーの視線をたどって振り返る。ホグワーツの正面階段を、目深くフードを被った人物が降りていった。あの片足を引きずった忍び歩きには、見覚えがある。
「スネイプだ」ハリーはカナにだけ聞こえるささやき声で言った。「禁じられたの森の方だ」
 カナはハリーの腕を掴んだ。
「行ったらダメ」
「スネイプの証拠を掴めるかも」
「先生はそんな人じゃないよ」
「なんだ・・・・・・きみは結局、スネイプの肩を持つのか?」ハリーの険のある言い方にカナは頭にきそうだった。それに、ハリーが腕に込める力はカナよりもうんと強い。
「違うよ、禁じられた森に入ったらダメ。危険だってハグリッドが何度も言ってたでしょ」
「知るもんか、僕は行くよ! 自分の目で確かめたいんだ」
 ハリーはカナをふりほどき、ニンバスにまたがった。追いかける間もなく、ハリーは城の上空へと飛び上がっていく。
「ハリー!」
 あまりにも移動がすばやく、カナはハリーを見失ってしまった。ハリーの集中力と動体視力なら、禁じられた森に入っていったスネイプ先生をどうしても見つけ出すだろう――カナは森の方角を目指して歩いた。もう日が沈みかかっていて、薄暗いけれど――明るくしていれば大丈夫だと自分に言い聞かせ、カナは進んだ。
 杖を灯していても、森は光を吸い込むみたいに暗かった。蜘蛛が垂れてきたり、コウモリが群れて飛んでくることなんてざらだ。栗鼠みたいな小動物だけじゃなく、大きな鹿の親子だって、突然カナの目の前を横切っていく。木の根が波打って、足を掴まれたりもした。カナは森林を歩き慣れていると思っていたけれど、ここはあの「がれきの城」の森よりもいちだんと鬱蒼としていた。

 もうどのくらい歩いただろう。木の葉は深く、空が何色かも見えない。こんな中で真っ黒なローブのスネイプ先生を探すのは無理だ。悪路で足も疲れてきた。さすがにあきらめて引き返そうと思った時だ。
 ふと、カナは囁き声を聞いた気がした。
 水の流れる沢のような、風が梢を揺らすような、蟻やムカデの足音のような――かすかな音だった。ヒタリ、ヒタリと、歩くような、滴るような音だ。カナは暗闇に目を凝らす。
 静かに音の方へと進むと、銀色の雫が地面に垂れているのを見つけた。その痕跡はたどっていくほど大きく、生臭い饐えたにおいが強くなっていく。カナの心臓は早鐘のように脈打ち、頭痛をもたらした。カナは銀色の痕跡から目が離せない。本能的に理解していた。これは、生き物の血だ。
 また、かさかさと音がした。こんどは確実に何かがいると思った。不思議と、銀色の血を見つけてから他の生き物を見かけなくなった。風も吹かない静寂の中を、足音を立てないよう進んだ。血が濃く、広がっていく。
 カナは見つけた。死体だ。それが何か知っていた。
 純白の一角獣――ユニコーンだ。まさに今、絶命したばかりのように見えた。黒い、悲しげな瞳がカナを見たような気がした。カナは近づいて、鼻筋に触れた――白く光る毛並みはまだあたたかい。触れると、銀色の血が淡くカナの手を汚した。彼の体はあちこち傷だらけだ。腹部に大きな穴が空いていて、そこから大量の血液が流れ出ていた。
「ひどい・・・・・・」カナは気づけば涙を流していた。音もなく滑り落ちる雫が、ユニコーンの閉じることのない瞳を濡らした。真珠色のたてがみはばらりと垂れ落ちていた。カナはそれを撫でた。もう死んでいるのだとわかっていても、何故かそうせざるを得なかった。
 ずる、と、何かを引き摺るような音がして、カナは顔を上げた。黒い影が、森の暗闇の方から這い出てきて、銀色の血溜まりをたどってやってくる。
 カナは金縛りにあったかのように動けなかった――フードですっぽりと頭を包んだそれは、人のように見えたけれど、まるで人ではないような、人にしてはあまりにいびつなシルエットをしていた。スネイプ先生なんかじゃない。ハリーでもない――
 影はカナを無視して、ユニコーンの腹部に倒れ込んだ。
「ヒッ」カナが息をのんでも、かまわずその「何か」は、ユニコーンの銀色の傷口にすがりついて――血を啜り始めた。
 カナは、カナは動けなかった。魂が抜けたかのように、ユニコーンの頭を抱えたまま、すぐそばで動けないでいた。ふと、影が頭――おそらく頭、を持ち上げた。暗くて顔がよく見えなかったが、その顎を銀色の血が滴り落ちているのだけが見えた――そして――
 カナは緑色の閃光を見た。







 啜り泣く声が聞こえた。野太い男の声が、赤ん坊みたいに泣いているような――どうしてこの子が――あなたのせいじゃない――そんな声が、水の中にいるみたいにぼんやりと聞こえてきた。ずきずきと頭が痛んだ。カナは目を開けることを思い出したけれど、瞼がくっついたみたいに離れなかった。息もできているだろうか、そこに誰かいるんだろうか――カナは声を出そうとして、乾いた咳がかすかに出ただけだった。
「カナ? カナ・エリオット!」
 マクゴナガル先生の声だ。今度は耳元で聞こえた。カナはいまにも意識を手放しそうだった――ぴく、と指先がようやく動く。感覚がほとんどない。まるで体が内側から凍りついているみたいに、動かすのがつらい――

 カナが次に気がついた時には、風呂桶の中にいた。氷が溶けていくように、じわじわと体に温度が戻っていく。カナは朦朧としたまま目を開けた。まだ腕も足も重い。ぎこちなくはあったけれど、呼吸はしている。
「カナ・エリオット!――」
 カナは半分くらいしか開かない目で、声のした方を見た。マダム・ポンフリーとマクゴナガル先生だ。カナが反応したのを見ると、マダム・ポンフリーはあわてて仕切りの向こうへ出て行った。
「エリオット、わかりますか?」
 カナは返事をしようとした。腕をなんとか動かして、風呂桶のへりに捕まって、体を起こそうとした。しかし思っていたよりも力が入らず、つるりと腕は滑り、だらりと垂れた――「いくらわたくしでも仮死状態から戻す薬なんて調合したためしがありませんでしたわ。薬湯が効いたのか、それとも・・・・・・」マダム・ポンフリーのうわずった声が響く――マクゴナガル先生は、カナの腕を湯の中に戻した。
「先生――」かすれた声だ。カナは咳き込んだ。「スネイプ先生」
 スネイプ先生が、カーテンの向こうから顔を出した。
「先生、森で――」
 カナはまた闇の中に引き摺られるように意識を手放した。



 次はベッドの上だった。カナは狭い部屋で、暖炉の一番近くに寝かされていた。ぴく、ぴくと指先、足先を動かしてみた。こわばってはいたけれど、いちおう動くみたいだ。
「きみが姿を消した時、学校じゅうは大騒動じゃった」
 カナは声のした方を見た。銀色の髭を垂らしたダンブルドア校長が、ベッドのすぐそばに腰掛けていた。
「じゃが、エリアはずいぶん落ち着いておったよ」
「せんせ・・・・・・」カナは枯れた声で呼んだ。
「おや、喉がからからのようじゃな。水を飲んで――そう、レモン・キャンデーはどうじゃ? わしの大好物での」
 カナはダンブルドア先生が口に運ぶまま、キャンディをもらった。甘いけれど、ずっとものを食べていないカナにとっては刺激が強すぎる。口の中がぴりぴりと痛んで、カナは吐き出してしまった。
「ごめんなさい」「いや、いや、かまわんよ。つらかったね」先生はカナの口元をぬぐった。
「ふむ、それで、わしがどうかしたかの?」
 先生の声色は優しく、柔らかい。まるで雲が人になったら、こんな感じだろうとカナは思った。
「おかあさんを、知ってるんですか」
「ホ、ホ、長い眠りから目覚めて、最初の質問がそれとはな」ダンブルドア校長は髭を揺らして笑った。カナは自分が眠っているあいだに、どれほどの時間が過ぎたのかと思いつきもしなかった。「じゃが、聞かれたからには答えよう。もちろん知っておるよ。わしが校長を務めておるあいだに、エリアはホグワーツへとやってきて、そして巣立っていった」
 カナはそれ以上のことを知りたかったけれど、ダンブルドア校長は話してはくれなかった。
「きみは、自分の身に何が起きたのか覚えておるかね」
 カナは思い出していた。クィディッチの二回戦の日だ。つまりは二月の頭ごろ――カナは禁じられた森に入った。スネイプ先生を追いかけて。そして深くまで入って――カナは誰かに呪いをかけられたんだ。
「緑色の――」ぞっとするほど悪意に満ちた魔法だったように思う。カナはあとからあとから、場面を鮮明に思い出すにつれ、恐ろしくなってきた。
「ふむ。カナよ、『許されざる呪文』を知っているかね」
 カナは目を閉じて、「知らない」と意思表示した。
「きみは『とある呪い』をその身に受けた。非常に強力な闇の魔術だ。じゃが呪文は不完全だったか、あるいは――」ダンブルドアは髭を撫でながら、カナの顔色をうかがった。「眠たいようだね?」
「いえ、聞かせてください」
 返事を聞くと、校長先生は迷う様子もなく言った。
「誰かがきみの命を奪おうとした」
 カナは驚かなかった。思い出していた。気を失う前に見た、おぞましい光景を。ユニコーンの銀色の血を啜る影を――
「しかし、誰かがきみを生かし続けた」
「ぼくはあの血を飲んだんでしょう」カナは呆然と言った。「ユニコーンの血を飲まされたんだ」
「正直なところ、きみの体に起きていることは、わしらにも正確にはわからんのじゃ」
 カナは手のひらを眼前に持ち上げて、見た。銀色の血は付いていない。
「きみにひとつ、忠告せねばならぬ」ダンブルドア校長は、淡い色の瞳を針のように鋭くして言った。「『ヴォルデモート卿』が、きみの存在に気がついた」
「『ヴォルデモート』?」カナはおうむ返しに言った。校長先生は微笑んだ。
「きみはその名を恐れていないね? それでよい。その純粋さこそが、何より尊いのじゃよ」
 ダンブルドア校長はすこしやつれているようにも見えた。
「じゃが、ちと無警戒すぎる。禁じられた森に入ってはいけないと、わしはたしかに言うたはずじゃ」
「すみません」カナはころりと転がった。ダンブルドア校長の顔がよく見える。
「しかし『入ってはいけない』と言われると、入りたくなってしまうものじゃな。規則というのは好奇心を掻き立てる。怖いもの知らずの獅子の子らにはなおさらじゃ。言い方を考えねばならん。減点が怖くない生徒もおるようじゃしの。例えばミスター・フレッド・ウィーズリーに、ジョージ・ウィーズリー」
 校長先生は、ベッドの脇に積まれた見舞い品のプレゼントの箱の中から、青と黄色のリボンで括られた四角い箱を取り出した。
「わしの見立てじゃと、こいつは『糞爆弾』じゃ。この部屋は本来、マダム・ポンフリーの私室での。炸裂したら大目玉食らうわい」先生はそれをローブの袖の中に仕舞った。
「皆、きみの安否を心配しておる」
 ベッドのそばにはいくつものプレゼントの箱や包みが届いていた。「おや、これはミス・グレンジャーからじゃの。試験対策の勉強科目じゃ」先生はぐるぐる巻きのぶあつい羊皮紙を手に取って眺めていた。
「ぼくはどのくらい眠っていたんでしょうか」
「ふむ、きみが失踪したのが二月。見つかったのが四月じゃから、ここで眠っていたのはひと月ほどかね?」
 ダンブルドア先生は最後に爆弾発言を残していった。
「もうじきに期末試験が始まる」



 カナの入院はそれからたっぷり一週間を要した。起き上がることができ、食事を吐き出さなくなり、杖やフォークをしっかり握ることができるようになるまで、カナは医務室に閉じ込められていた。
 いくつかの生徒や先生の面会が許された。ハグリッドはカナの歩く練習に付き合いながら涙を流し続けた。「ハリーが見つけてくれたんだ。そうじゃなけりゃあ、おまえさんはいまここにいないかも知れねえ。まだあの暗い森の中で、体を冷たくしたままだった。ハリーはおまえさんに謝りたがってた。それにおれの、おれのせいで・・・・・・グリフィンドールはひどい減点がされた。ハリーが掴んだスニッチの点数が台無しになったんだ。でもその違反がなけりゃあ、おまえさんは見つからなかったかもしれないと思うと、やりきれねえさ。ドラゴンなんて買わなけりゃあ・・・・・・」
「ドラゴン?」カナは反応した。ハグリッドははっと気づいて「シー!」と指を立てた。
「あんまし大きな声で言うな、いつか話しちゃる。そうだ、ファングもおまえさんが来ないから、最近は落ち込んどるよ。元気になったら遊びに来てくれ。外はずいぶん暖かくなってきたしな」
 先生たちは、カナにいくらかの補習を施した。三か月分の全てを網羅することは難しいけれど、それはありがたかった。カナは試験が不安でしょうがなかった。あまり勉強に自信があるほうではない。
 グリフィンドールのみんなも代わる代わる来てくれた。プレゼントの包みの中にあったハンカチは、アリシアとアンジーがカナのために刺繍をしてくれたものだ。双子やリーはうるさいので、なにか事が起こる前にさっさと追い出されていたし、ラベンダーやパーバティはカナのやせた姿を見てショックを受けていた。積まれた見舞い品の中からお菓子を取り出して、今すぐ食べろとせがんできた。監督生の二人も来てくれて、グリフィンドールの得点の状況を教えてくれた。ハリー、ハーマイオニー、ネビルが(あのネビルが?)くだらないいたずらのために夜中に学校を抜け出して、百五十点も減点されたそうだ。そのせいでグリフィンドールは首位から落ちた。寮杯はスリザリンのものだそうだ。なんとか授業に精を出して点数を稼いでいる子もいるけれど、きっともう駄目なんだ――と、パーシーはひどく落ち込んでいた。

 退院の日はマクゴナガル先生が迎えに来てくれた。カナの歩行はずいぶん安定した。まだ箒に乗れるかどうかは定かではないけれど、生活していくうちにもとに戻ると説明された。
 すっかり雪が溶け、もう暖かい風が吹くようになっていた。
「太った婦人」の裏の穴をよじのぼると、カナを迎えたのは山のように積まれたパイとチキン、それにケーキやトライフルやプディング、グリフィンドール寮のみんなだ。みんなカナの復帰を祝福してくれた。マクゴナガル先生が、とくべつに今夜はパーティーを許可してくれたのだ。
「カナ!」
 アリシアだ。アンジーと一緒に駆け寄って、カナを抱き上げて両頬にキスをした。みんな集まってきた。カナをかわるがわる出迎え、「元気になってよかった」と声をかけてくれた。
 カナは自分がいかに長い間眠り、グリフィンドールが気落ちしたか知るよしもなかったけれど――少しだけ理解していた。ぼくが居なくなってからの寂しさや焦り、虚無感に似ているのかもしれないと。カナはまだ本調子ではないのでゆっくり座りたかったけれど、みんなの握手や抱擁を甘んじて受け入れた。カナが思っているよりも、みんなが心配してくれていたことがくすぐったかった。
 カナが居ない間に、何が起きたかみんな話してくれた。リーがマシュマロ入りのホットチョコレートを持ってきてくれたのだけれど、それを冷やかしてフレッドとジョージが「気をつけろ」とはやしたてた。なんでもついさきほど、スリザリン生の夕食のかぼちゃジュースに下剤を仕込んできたのだと、それは楽しそうに話した。アンジーは双子をたしなめたけれど、カナはけらけら笑った。こんなに楽しい夜は久しぶりだったし、夜ふかしをするのも楽しかった。まるでクリスマス休暇の夜みたいだった。
 アリシアが金色のリボンで装飾された小箱を持ってきた。「アンジーと選んだのよ」と言って、カナに手渡した。中身は真珠色のケースに収まったリップクリームだった。金色の文字で、カナの名が箔押しがしてある。
 アリシアは「誕生日を祝えなかったからね」とウインクした。
 そういえば、カナは眠っているあいだに十二歳になっていた。
 リップクリームを手に取った。アリシアはカナのチョコレートのついた口端をハンカチで拭いた後、「すこし口を開けて」と言って、カナが従うと唇に塗ってくれた。クリームがついているみたいな感じで、舐め取りたくなる。「舐めたらダメよ」とアリシアが釘を刺した。
「うん、やっぱり似合ってる!」とアンジーが笑った。
「お子ちゃまには早すぎると思わないか?」とフレッドが言った。ジョージも頷いていた。リーは「ピッタリの色だ」とアンジーとアリシアのセンスを誉めた。
 アリシアは鏡を見せてくれた。すこし頬の肉付きが薄くなったカナが、呆然と自分を眺めていた。唇は淡い薔薇色に色づいて、自分じゃないみたいだと思った。
「恥ずかしいよ」カナは素直に言った。「可愛いわよ!」とアリシアはフォローした。カナは頬まで赤くして、はにかんだ。

 カナは寝室に戻る前、ハリー、ロン、ハーマイオニーの三人を見かけた。談話室の隅っこで、遠巻きにパーティーを眺めていた。カナはハグリッドの言葉を思い出した――ハリーは謝りたがってるって。
 杖を振って、ロンのローブの端をくいっと引っ張った。すると窓際の机に腰掛けていた三人がこちらを向く。カナは近づいた。ハリーがぎくりと肩を揺らして、俯いたのが見えた。
「カナ、退院おめでとう」ハーマイオニーは控えめに笑った。
「君が消えてから、グリフィンドールは毎日お葬式みたいだったよ。それに・・・・・・」ロンはハリーとハーマイオニーをちらりと見て、「なんでもない」と口を閉ざした。
「ハグリッドは自分のせいだって言ってたよ」
「違うんだ、いや、違わないけど・・・・・・」
「はめられたのよ、マルフォイに。それに、うっかりしてた」ハーマイオニーも気落ちしたように言った。
「カナ」ハリーがやっと口を開いた。
「カナ、ごめん。僕はきみの忠告を聞くべきだった。あの石に関わらなければよかったんだ。余計なことに首を突っ込んだりしなければ。そうしたらきみはこんな目に遭わなかったし・・・・・・もっと良いやり方があったはずなんだ」ハリーは落ち込みながらカナに謝罪した。
「ううん。ぼくが勝手に迷い込んで・・・・・・それに、ハリーがぼくを見つけてくれたんでしょう?」カナが言うと、ハリーはうつむいたまま力なく頷いた。
「ありがとう。大丈夫だよ、ぼくは生きてるし――まだクィディッチの試合は終わってない」
「でもスリザリンには届かないよ」
「届かなくてもいいよ」カナはハリーのくしゃくしゃの頭をぽんぽんと撫でた。ハリーは顔を上げた。今にも泣きそうだった。「ハリーが飛んでるのを見たいよ」
 ハリーは複雑そうな痛々しい表情を浮かべ、「ありがとう」とぎこちなく笑った。
「いろいろ聞いてもいい?」カナが言うと、三人はうなずいた。
「ハーマイオニー、ぼくにも試験勉強を教えてくれる?」「ええ、もちろん」すこし涙声でハーマイオニーはほほえんだ。
「ロン、ドラゴンに噛まれたってほんとう?」
「本当だよ」ひそひそとロンは言った。「ここ、大鍋みたいに腫れたんだ」
「ぼくもドラゴンをひと目見たかったよ」
「よしておくれよ! 鶏の血を運ぶのはもううんざりだ」
 カナたちは暖炉が消え、パーシーが注意しに来るまで談話室の隅っこで話した。石のことなんてすっかりどうでもよくて、子どもたちはやわらかい友情に安堵した。試験まであと三週間だ。



20171226-20230313


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