「心操」
 肘をグッと引き寄せると、肩が伸びて心地よい。こぼれるように息を吐いた声に、目の前の少年が振り返る。
 このひと月ですっかり青いきらめきを宿した藤色のひとみが、こちらを射抜かんばかりに見据える。
「手加減、ナシだからね」
 おどけた少女の声に、少年はクッと喉を鳴らした。
「当然」

 雄英体育祭。
 テレビの向こうでずっと眺めていた景色。
 数えきれないほど夢想した景色。
 空中をふよふよと漂いながら、そんなわたくし、少女・綿某つむじ、は。理想と現実のギャップにため息が漏れ出てしまった。
「私も混ざりたい」
 今まさに、すし詰め状態のゲートトンネルを見下ろしながら、本心からそう思った。
 真下を見下ろすと、ああ、心操が銅像みたいに数人に担がれて運ばれているのが見える。面白い。
 紅白頭の少年がいのいちばんに先頭に躍り出る。凍りついた地面をものともせず、彼を追うように、A組の生徒がおのおの飛び出していく。
 それを、組んだ腕に顎を乗せ、ぼんやりと眺めた。
「楽しそう」
 風があればなあ。まったりと漂うだけの自身に、物足りなさを感じる。眼下で起きているアクシデントに巻き込まれない高さで。でも振り落とされない順位で。目立たず、着実に、周囲の状況を知って。それが綿某つむじのやり方だった。
 ヒーロー科に行くつもりだった。まあ、入れるとたかをくくっていた。でも"個性"は戦闘向きじゃない。実力が足りず普通科にこぼれた負け犬。はたから見た「普通科」の評価はそんなところだろう。でも、普通科の全員が全員、ヒーロー志望なわけではなかった。ヒーローを支えたいと思う人。ヒーローを知りたいと思う人。でもやっぱりヒーローを夢見る人。その中でほんのひと握りの人間だけが、天からかすかに垂れる蜘蛛の糸に気がつくことができる。
 綿某つむじの"個性"は戦闘向きじゃない。そんなことは百も承知だ。自分自身がよくわかっている。今できる最適解の動きをしている。
 そして誰も気がついていない。
「つまんないの」

 むらさき色のモサモサ頭がゴール付近にいるのを見つけて、つむじはグッと全身に力をこめる。すると彼めがけてまっさかさまに落ちていき、ちょうど真横にズドン! と着地する。地雷原の爆発音と煙にまぎれて、女の子が自由落下するのを見た者はいないだろう。
「まあ、飛べるやつは飛ぶよな」
「おっそいけどねー」
 心操もゴール付近では普通に自分の足で走っていた。チョコレート色のレザーブーツが砂まみれになっているのが見えて、うれしい。日本の大地を初めて踏みしめる、私のあいぼう。

「んわあ! 心操一番手じゃん、どうする!」
「どうもこうも」
 観客席で、クラスメイトが大玉転がしに興じている姿を、二人でぼーっと眺めた。
「緑谷には知られてると思う、手の内。あの尻尾のやつが勘付いてたみたいだから」
「オジロだっけ? A組。あとB組のショウダ。彼らには悪いことしちゃったねえ」
「だとしても、やれることは全部やる。卑怯だと思われても」
「心操! マインド育ってきたじゃん」
「あんたがそう言ったんだろ」
 心操の視線が、地面に落ちる。
「運良く勝てたとしても、轟だ」
 ズゴゴ、と飲み干したストローが氷にぶち当たる。
「気持ちで負けんなよ、心操」
 拳で肩を突くと、ぶつかったところがふわっと霧散する。心操が目を開いているのを見て、ニッと笑ってやる。
「勝ち筋のない試合はない。どこかに転機はある。そして、きみはそういう力を持ってるでしょ」
「・・・・・・どうだかね」
「緊張してる?」
「そういう綿某は?」
「めっちゃしてる!」
 ようやく、心操がわらった。

 無言で隣に座った心操は、どことなく憑き物が落ちたような、負けたのにすっきりしたような顔つきだった。
「どんまい、心操」
「ズルだろあいつ」
 心操は自分の手首を捻って、見つめた。
「それに、力負けした」
「ほら、トレーニングについてこないからだよ」
「あんた足早すぎなんだよ。ついていけるかよ」
「私を追い越せなきゃヒーローにはなれないぞう」
 天まで届くような巨大な氷壁を溶かしている、紅白頭をじっと見つめた。
「心操、私、先に行っちゃうからね」
「・・・・・・いつか絶対に、追い越す」
「あは、私もうかうかしてられないなあ」
 つむじの凪いだ横顔を、心操もじっと見つめていた。
「なあ、勝てよ」
「ん? おう」
 ニッと笑い返すと、心操の表情もほころんだ。

「さて・・・・・・」
 トーナメントが進み、1回戦も後半に差し掛かる。選手入場口に立ち、足首を伸ばしながら、表情が弛んでいくのをおさえきれなかった。
「わくわくする」
《――さァ、第5試合だ! ガイズ、位置につけェー!》
 プレゼント・マイクのアナウンスを合図に、つむじはステージに躍り出る。陽光がまばゆく、歓声が耳に痛い。
《ヒーロー科、芦戸三奈! バーサス――普通科、綿某つむじ!》
 芦戸と、目線が絡む。勝気な表情に、こちらも浮き足立つ。
《スタート!》
 サイレンと同時に、芦戸が駆け出す。つむじは垂らした三つ編みのひとふさを、パッとほどいた。とたん、無数の白いフワフワの綿毛が地面に落ち、ステージを埋め尽くす。
「試合のルールは」
 肉薄した芦戸の拳を避けながら、つむじは言った。
「ノックアウトか場外、でしょ」
 なるほど、溶解液を出す個性か。芦戸の足跡を調べながら、つむじは回避に徹する。
「これじゃ足元見えないもんね」
「こんの・・・・・・っ」
 なかなかどうして、芦戸はいい動きをする。腕や足を避けた先に、溶解液が飛んでくる。
「液体系の人とは相性悪いんだよね」
「なら一発くらい、当たりなよ!」
 右ストレートを真正面から受ける。とらえた、と誰もが思っただろう。つむじはそれを、ふっと力を抜いて、
「は?・・・・・・はぶっ」
 瞠目してジャージが顔面に張り付いた芦戸の背後に、下着姿のつむじが立っていた。まるで芦戸がそのまますり抜けたみたいに。「悪いね」とお尻を突き出すと、押された芦戸がぺちゃ、と地面に倒れ込む。
「芦戸さん場外! 綿某さん、2回戦進出!」
 主審のミッドナイトの声が響く。会場がいろんな色の歓声に包まれる。やっぱり体操着だとどうしても着てる物を置いていってしまうけど、これ生中継で放送できんのか?と思いながら、つむじは芦戸の顔に張り付いた体操着を拾った。まあ18禁ヒーローのミッドナイトがOKなんだから、大丈夫でしょう。袖を通してしまうと、綿毛の海が、瞬時に消えた。
「な、何ー? 何が起きたワケ?! しかもなんで裸?! 悔しい!」
 芦戸がへたり込んだまま、両手をブンブン振った。つむじが近寄って手を差し伸べると、桃色の手がそれをつかむ。
「騙し打ちだよね」
「ヒキョーだよー!」
 頬を膨らませる芦戸が、まだ話し足りないとばかりにつむじを追いかける。
「しかも私の攻撃、一発も当たんなかったし!」
「見て避けれた」
「ここにも才能マンが!」
 ミッドナイトがとげとげした声で、お互いの控え室に戻るように促す。ほどいてわずかに少なくなった髪を編み直しながら、つむじは選手控え室を通り過ぎた。
 個性を鑑みてハーフパンツにしてもらったけど。ヒロコスの会社に頼んで、運動着も作ってもらおうかな。下着やヒロコスはアトランタ時代に作ったものだから、パパに言えばすぐ頼んでくれそう。おいくらするのか知らないけど。それも被服控除に含まれるのかな。日本の制度のことまだ詳しくわからないな。
「つむじ、すごいじゃん」
「体張るねえ!」
「あんなに動けるなんて知らなかったー!」
「ヒーロー科顔負けやん!」
「でも服脱ぐのはまずいだろー」
「去年の体育祭にもそんな人いたよな?」
 普通科の客席に戻ると、クラスのみんなが出迎えてくれる。「やったよー」とブイサインを作る。心操がなんとも言えない表情でジッとこっちを見ていることに気づいた。
「勝ちましたよ」
「おめでと。かっこよかったよ」
 つむじがにっこりと笑い返すと、心操は視線を落とした。
「あんたの言うとおりだな。俺もあれくらい動けるようになりたい」
「心操は男の子なんだから、伸び代あるよ」
「性別は関係ないだろ」
「まあ、うん。あるんだな、性別の壁は」
 足元の鞄から白粉おしろいの入ったコンパクトケースを取り出す。
「私なんてさ、マッチョになった心操にパンチされたら、簡単に吹っ飛ばされちゃうと思うよ」
「いや当たらないだろ、そもそも」
「あは、そうだった」
「つむじ、1勝おめでとー! ジンジャー飲みなー」
「ありがと! もらうー」
 クラスメイトの女の子が、汗をかいた冷たいジンジャーエールをおごってくれた。
「何それ。日焼け止め?」
「ちがうよう」膝の上にあるコンパクトケースを、つむじは手に取った。「個性使ったから、補給しなきゃなの」
「ああ、ケセランパサラン」
 不思議な個性だと、心操は横で会話を聞きながら、思っていた。



 春は嫌いだった。とくに、こういう桜並木は。
 ヴィラン向きの個性だね、って。誰からもそう言われてきた。悪じゃなく、正義ヒーローでありたいんだと、すぐには言い返せなかった。
「ねえねえ雄英生!」
 入学初日。駅からの通学路で、声をかけられた。
「きみも普通科の子でしょ。一年生でしょ! 名前教えてよ」
 でっかい毛糸みたいな髪を揺らして、屈託なく笑う、あかい瞳の女子だった。なぜ一年生だと判ったんだろう、と思って彼女を見下すと、皺のないブレザーにぴかぴかのローファーが目に入った。なるほど。
「私は綿某わたがしつむじ。好きに呼んで」
「心操、ひとし」
「シンソウ!」
 綿某はさらに嬉しそうに笑みを深くした。
「どういう字を書くの?」
「心を操って人を使う」
「はい?」
 きょとんとした顔。その顔が不審な目つきに変わっていくさまなら、これまで何度も見てきた。無意識に、彼女から目を逸らした。
「それがきみの個性なの?」
 心臓がきしんだ。「そうだよ、悪いか」と、言いたかった。口を開けないでいると、あっけらかんとした声が続いた。
「精神系の個性? 珍しいね! 雄英もよく捕まえたもんだよー」
 横目で、綿某を見下ろした。
「学校着いたらどんな個性か見せてくれる?」
「・・・・・・そういう綿某は?」
 呑気な声が癪に触って、態度に出たかもしれない。綿某の無邪気な笑顔が、すっとなりを顰めた。
 小さな白いてのひらが、すっと差し出された。
「タッチして」
 上から手を重ねるように、指先にそっと触れた。つもりだった。
 消えた。いや、たんぽぽの綿毛みたいなものが、ふわふわっと宙に舞う。それらはすぐにまた綿某の指先に集まって、形を成していく。
 消えた指先が元に戻る。
「まあ、こういう個性。殴ってみてもいいよ。当たんないから」
「いや、そんなことはしないよ」
 そういうと、綿某はまた嬉しそうに笑った。
「心操はヒーロー科の試験、受けたの?」
「受けた」
「私も」
 なんとなくそんな気はしていた。突破力重視の実技試験。人ならともかく、対人戦闘用ロボなんて。俺らの個性で倒せるはずがない。
「でも落ち込んでる暇はないよ。私らがいかに有用なヒーローになれるかって先生たちにアピールすれば、ヒーロー科に編入してもらえるかもしれない」
「! そういう措置があるのか」
「あるっぽい」
 一年用の昇降口を通って、だだっ広い廊下を辿る。クラスを探していると、綿某と同じ教室の前で足が止まる。
「クラス一緒じゃん!」
 廊下に張り出されたクラス名簿を見てニヤリと笑った表情に、思わずつられる。
「『人のために使う』って書いてある」
 とつぜん、綿某は、白くて小さなまるいこぶしを、すっと俺の鼻先に突き出した。
「心操。ヒーローは個性を『人のために使う』ものだ。そうでしょ?」
 あかい瞳が、夕日のようにゆらゆらと燃えていた。
「自分の個性ちからなら、さいしょに自分が好きになってあげないと」
 なぜ、この女は知っているんだろう。
「あんた、心が読めるのか?」
「あはっ」綿某はからっと笑った。「似たもの同士だって思っただけだよん」

 綿某はヒーロー科の試験に落ちたと言っていたが、だとしたら雄英の実技試験は本当に意味がないんじゃないかと思う。諦めきれないようで半分諦めていた俺と違って、綿某はちゃんと夢を追う道筋を見据えている。個性の訓練だってしているし、体の使い方だってプロヒーローと遜色ないように見える。
 一回戦の試合が一巡し、二回戦が始まろうかという時。
「実はさ、私、緑谷出久と友達なんだよね」
 綿某の発言に、「は?」と開いた口が塞がらない。
「こっち引っ越してきてすぐ、仲良くなったんだよね」
「だったらなんで、一回戦のとき緑谷のこと教えてくれなかったんだよ。個性のこととかさ」
 悪態じみてそう言うと、綿某がいつものヘラヘラした笑顔をひそめて、まじめくさって言った。
「出久の個性が何なのか、私知らなかった。聞かなかったの」
「そんなことあるか?」
「話したくなさそうにしてたから」
 会場が沸き立つ。意外な勝ち上がりの緑谷出久と、エンデヴァーの息子、轟焦凍。全体が注目するビッグマッチ。
《レディー――!》
「自分を壊すほどの超パワーだなんて」
 綿某の赤い瞳が、ゆらいでいた。
「私、無神経なこと言っちゃった」
《スタァー――ット!!》



 出久の面会ができるかと、会場の地下にあるリカバリーガールの出張保健所に向かう。しかしその足が、意外な人物との遭遇に、止まる。
「焦くん」
「・・・・・・おまえ、やっぱりつむじだよな」
 記憶の中のものとは違う、低い声。顔のひどい傷跡。でも、その紅白頭と唯一無二の個性を忘れるはずがない。
「そうだよ。覚えてたんだね」
「・・・・・・雄英に入ったんだな」
「ヒーロー科落ちちゃったけどね」
「選手用の通路だぞ。ここで何してんだ」
「えーと・・・・・・」
 頓珍漢なことを言う真顔の幼馴染に、調子が狂う。
「私、2回戦出てるから。一応選手ね」
 つむじの言葉に、焦凍はぎゅっと眉根を寄せて、数回瞬きをした。
「嘘はよせ」
「嘘つかないし」
「おまえの個性、そんなんじゃないだろ」
「はっはーん。さては1回戦、他人の試合は見てないんでしょ」
 つむじが眉を跳ね上げて言うと、焦凍はほんの少し口をまげた。
「次の試合が終わったら私出るから。焦くん、ちゃんと見てよね。言っとくけど私も優勝逃す気はないですから」
「・・・・・・おまえ、なんか性格変わったか?」
「そりゃ9年も会ってないんだから性格ぐらい変わるよ」
 つむじの言葉に納得できないのか、焦凍は後頭部を掻く。
「言っとくけど、焦くんだってなんかブアイソーだし。昔はもっと可愛かった。なんか声も低いし。首太いし」
「成長したんだから、そりゃそうだろ」
「そういうことをきみが言ったんだよって言いたかったんです」
 頭上でブザーの音が低く響く。会場修復するって聞いてたけど、飯田対塩崎、試合はや!
「ちぇっ、出久のお見舞い行きそびれた・・・・・・じゃあね、焦くん。またあとで話そっ」
「緑谷と面識あるのか」
 つむじは少し歩いた先で、振り返る。
「クレープ半分こした仲ですから」
 目が点になっている焦凍に作り笑いを浮かべて、今度こそ背中を向ける。視線が背中にちくちく刺さるようで痛い。



 幼い頃は、きょうだいだと思っていた。
 あの子だけきょうだいの中で誰にも似ていなくて。強いて言えば、髪の色がお母さんに、俺の右側に似ていた。
 だから、きょうだいだと思っていた。
 俺が知っているつむじは、いつも屈託なく笑っている。兄姉と切り離された生活のなかで、唯一俺に近づいてきたのがつむじだった。
「おかあさん。またしょうくんいたいいたいなの?」
「そうよ。痛い痛いだから、お母さんが看病してるの」
 俺にかかりきりだった母も、兄姉とは違って、たびたびぴったりと甘えてくるつむじを追い返したりはしなかった。
「つむじ、何故ここにいる」
「焦凍と同じ歳ですよ。突き放しては可哀想でしょう」
 いつだったか、脅すような声色の父に、憔悴した顔で母はそう言った。それ以降、父はつむじの行動に口を出さなくなったように思う。つむじは兄姉と遊ぶことが許されていながら、母に甘えることも許された。
 ずるい。
 おとうさんはつむちゃんにだけあまいんだ。
 ぼくのおかあさんをつむちゃんがよこどりするんだ。
 ずるい。ずるい。ずるい。
「ねえ、しょうくんのとこでねんねしてもいい?」
 枕を抱えたつむじが、こっそりと母の耳元でささやいた。ムカッとして、不安そうな表情の母の向こうに立つつむじを、布団の中から睨みつけた。
「どうして? つむじ。お父さんに怒られるわよ」
「おかあさんのかわりに、つむがしょうくんカンビョーするの」
 母が止めるまもなく、つむじが隣に枕を置いて、滑り込む。
「しょうくん、いたいいたいだから。よし、よし」
 布団の上から、小さい手が胸の上をやさしく叩く。やめろ、と突き放したかった気持ちが、とろとろ溶けていく。布団の中に入ってきた小さな手が、右手を包む。つむじも段々と眠くなってきたようで、垂れた目がまどろんでいく。
「つむもいっしょだからね・・・・・・」
 結ばれた手をきゅっと握る。あたたかい。
「しょうくん、おかあさん、なかないで・・・・・・」
 それは、今思い出せば。幼いつむじなりの、原初の正義感だったのかもしれない。

「おーい、轟!」
 A組の客席に近づくと、上鳴が手を振り上げた。
「ヤバすぎだろあの大技! あんなん隠してたのかよ」
「ああ」
 壁に背をつけて上の空のまま、会場の中央に目を向ける。ステージにつむじと、常闇が上がってくる。
 ――だいたい、クレープ半分こって、何なんだよ。
《お待たせエヴィバディ2回戦第3試合! 普通科だが実力未知数のふわふわ系ジョシー! C組綿某つむじ、バーサス! こちらも実力未知数ー! ダーク系男子A組常闇踏陰ー!》
「あの綿某ってコ! あの子普通科だけど動きヤバかったよな。すげー楽しみなんだけど」
「さすがに常闇が勝つだろ!」
「私騙し打ちされたんだけどー!」
「戦略練ってくる感じか。緑谷と似たタイプかな」
 緑谷。つむじと仲良いのか。
 クレープ半分こって、どういうことだ、緑谷。
《スタァー――ット!!》
 つむじが走り出す。その速さ。客席がどよめく。速攻で蹴り上げるが、黒影ダークシャドウが防ぐ。足を掴まれそうになるが、た。
「出たよすり抜け!」
 常闇が距離を取ろうとするのを、つむじが追いかける。すり抜けては叩き、避けては突っ込み。
《すり抜けも凶悪だが、素の体術もかなり洗練されてるぞ綿某! 1回戦は個性使っての騙し打ちって感じだったが、なんつーかこりゃ、普通科のレベルじゃねぇー!》
《当たり前だ。マイク、お前データあるっつたのに見てねーのか》
 相澤先生の声がする。
《綿某つむじ。こいつもヒーロー科の入学試験で落ちてるが、入学前はアトランタにいたそうだ。向こうで地元警察からの捜査依頼要請を8回も受けてる》
《は? そりゃプロヒーローの仕事だろ。何だって素人の子供に・・・・・・》
《素人じゃない。個性活動資格ライセンスを持ってる。つまり、日本で言うヒーロー仮免許相当の実力者だ》
《はァー――?!》
 プレゼント・マイクの叫びと、会場の驚嘆が重なる。背筋がゾクリと粟立つ。つむじはここにいる俺たちの誰よりも、随分と先にいる。そう思うと、心臓の鼓動が逸る。
《向こうじゃ珍しいことじゃないらしいが。それでも13歳でのライセンス取得は超エリート級だ》
《なんでまたそんな、黄金の卵がヒーロー科落ちてんだよ!》
《だから合理性に欠けてんだよ、あの入学試験は》
 つむじの肘が常闇の鳩尾に入る。とたん、黒影ダークシャドウがつむじの胴をつかんだ。
「常闇が捉えた!」
 そのまま場外へ投げ飛ばす。勝負あったと、誰もが思った――しかし、つむじは空中で勢いを失う。のち、雲のように集まる綿毛を生み出して、そのまま空中を漂う。
「動きが速すぎる故に、見極めるのにときを要したが、貴様の個性、少し判ってきた・・・・・・攻撃する時、つまり相手に触れる瞬間だけは、綿毛状態を解除する必要がある」
「あったりー」
 つむじは空中でにっこりと笑顔を浮かべる。
「強いね、ミスター・ダークシャドウ。一発しか入れられなかった」
「それは降参という意味か?」
「まさか」
 直後、足元に散らばっていた綿毛が、人型に変化する。つむじに似たそれら2体が、常闇に襲いかかる。黒影ダークシャドウがすぐさま応戦し、常闇も飛び退く。
 その瞬間。
 上空からつむじが降ってくる。まっすぐ伸びた両足が、常闇の背中にまともに入る。しかし常闇もその隙を逃しはしない。黒影ダークシャドウが戻ってきている。
 パン!と小気味良い音が会場に響く。黒影ダークシャドウの手と手が、つむじを挟み込んだ。
《まるでハエ叩きだァー! 勝負あったかコリャ?!》
 静まり返る会場。主審のミッドナイトが、片手を上げて歩み寄ろうとする。その時、常闇が身構えた。
「抑え込め黒影ダークシャドウ!」
「デモ、フミカゲ――!」
 ボコボコッ、と黒影ダークシャドウの手から綿毛が溢れる。抑え込もうとした黒い手の隙間から、人影が躍り出た。
 振り上げられた踵が、常闇の頭上に勢いよく落ちる。踵落としをまともに食らった常闇がふらつく。同時に、半身がバラけたままのつむじが、地面に転がる。
「あ」
《あ》
「綿某さん、場外!」
 下着姿で手足の欠けた女の子が地面に転がる姿は、なんというか、何とも言い難い感情を誘った。
「ああっ、つむじさんの試合終わっちゃったか・・・・・・常闇くんの勝ち・・・・・・見たかったな・・・・・・」
 緑谷が客席に入ってくる。右手を吊り下げてガーゼや包帯に包まれた姿で、飯田や麗日に迎え入れられている。
 クレープ半分こした仲って、どういうことだ。そう聞きたかった気持ちを、グッと押し込んだ。



「ベスト8かあ! 惜しかったねつむじー」
「絶対勝ったと思ったのに!」
「いやあ面目ないねっ」
「面目はあるでしょ! つむじも心操も普通科の星だよ!」
「ねえねえお疲れさま会しようよ! カラオケ!」
 明日と明後日は休校ってことで。ほとんど試合に出てなかったクラスメイトたちは浮き足立っている。
「私結構疲れちゃったからパスで。楽しんできてー」
「えー! つむじは今日の主役じゃん!」
「しょうがないよ。あんだけ動いたらそりゃ疲れるでしょ」
 友人たちと別れて、駅の改札を通る。
 ベスト8か。もっと上にいけると思ったけど、不甲斐ないな。
 ヒーロー科に落ちた時だって、父に報告しても色良い返事はもらえなかった。「そうか」って、それだけ。もし合格してても同じだったかもしれないけど。
 特急列車が通過します、とアナウンスが響く。いつもの乗り場に、ふらふらと近寄って立ち止まる。あわくため息が出る。
 連絡したくないな。頑張ってるんだから、少しくらい期待してほしい。父は逃げてるだけだ。あの人から――
「つむじ」
 振り返って見えたのは、紅白頭。
「しょ――」
 ぶおん! と背後を列車が走り抜ける。その風圧に吹き飛ばされて、焦凍の全身に綿毛がビッシリと張り付く。
「もがご」
「ごめん、気が緩んだ」
 ふよふよと寄り集まるケセランを、焦凍は訝しげに見つめた。
「おまえ、そんな体じゃなかっただろ」
「時の流れは残酷だよね」
 当然のように、焦凍が隣に並ぶ。
「焦くんも電車こっちなの?」
「ああ」
「会ったことないよね?」
「普段は歩きだ」
「じゃあなんで今日は・・・・・・」
「つむじが見えたから、追いかけた」
 思わずポカンとしてしまう。焦凍はなんでもないように続けた。
「おまえが俺よりずっと先にいるなんて、考えてもみなかった」
「ん? 今日の帰りの話?」
「ヒーローとしての話だ」
「ああ・・・・・・いや、何言ってんの? 私めちゃくちゃ出遅れてるけど! ヒーロー科落ちてるんですけど!」
「アメリカで実戦経験あるんだろ」
「パパに言われて、探偵ごっこみたいなことしてただけ。大した活動はしてない」
「あの試合、そんなふうには見えなかった」
 目的の電車が到着して、扉が開く。なんだか調子が狂う。一人分だけ空いた座席に座ると、これまた当然のように目の前に立つ焦凍にムカちんときて、プイッとそっぽを向く。
「つむじ」
「その呼び方なに。なんかエラソーに聞こえるからやめて。昔みたいに呼んでくれないわけ?」
「呼んでいいのか?」
 返事しないでいると、「つむちゃん」と、控えめな声が降ってくる。顔を上げると、ほんのり表情を和らげた焦凍が、仏頂面のつむじを見下ろしている。
「今日、うちに来ないか」
「はい?」
 たぶん、姉さんも喜ぶ。そう言われてしまうと、断ることができない。



 記憶の中にぼんやりと残っている、広すぎる家。目の前にすると、ありありと蘇ってくるものがある。
 広すぎる庭で遊ぶ白い頭の子どもたち。そのなかに焦凍はずっといなかった。
 お母さんと焦くんは、見かけるたびにいつも泣いていたから。だから、放っておけなかったの。そのせいでお父さんに怒られたりもした。私の、原初の記憶。
 もうひとつの、ほんとじゃない家族。
「おかえり、焦凍。つむちゃんも!」
 玄関で出迎えてくれたのは、冬美だった。成人した冬美は、それでも、記憶を裏切ったりしない、想像した通りの姿だった。
「冬美ちゃん・・・・・・」
 胸の奥が焦げるような、せつない気持ちになる。
「体育祭おつかれさま。急に焦凍から連絡来てびっくりしたの。お腹空いたでしょ。お夕飯できてるから。手を洗っておいでね」
 冬美はエプロンをはためかせながら、うれしそうに言って、台所へ消えていった。白いスニーカーを脱いでいる焦凍が「なに突っ立ってんだ」とつむじを急かす。
「あ、お、お邪魔します」
「ずいぶん他人行儀だな」
「だって」
 他人じゃん。飲み込んだ言葉を、焦凍は知ってか知らずか。
「部屋に荷物置いてくる。洗面所の場所覚えてるだろ。変わってねえから」
 確かにさ、場所は覚えてるけど。焦凍が消えた階段の奥がトイレで、その奥が洗面所だって、覚えてるけどさ!
「ほんと調子狂う・・・・・・」
 ローファーを脱いで揃えて、暑くなってきたブレザーを脱いだ。

 台所を覗くと、冬美がすぐにつむじに気がついた。
「つむちゃん! 座ってていいのに」
「や、なんかまだ気恥ずかしいというか、慣れないっていうか・・・・・・」
「ふふ! 何年ぶりだろうね」
「9年だよ」
「9年かあ・・・・・・」冬美が目を細めた。「もうそんなに経つんだねえ」
「ね、お母さんは出かけてるの?」
 つむじが聞くと、冬美はくちびるを固くした。
「つむちゃんがいない間にね、いろいろあったの・・・・・・あとで話そ! 食べながらつむちゃんの話、たくさん聞きたいな」
「うん・・・・・・」
 冬美が料理を運ぶのを、つむじも手伝う。箸や湯呑みはパサランたちが運ぶ。食器をしまう場所も昔と同じだ。
 ちょうど、ブレザーを脱いだ焦凍が通りかかる。つむじの後ろにいくつも手が浮いているのを見て「お」と声を漏らした。どういう感情なのかさっぱり読めない。
「焦凍も、今日はみんなで食べようよ! お父さんには私から言っとくから」
 食卓に料理を運び終えると、三人で手を合わせていただきますをする。
「すごい、ぜんぶ冬美ちゃんが作ったの?」
「うん。お手伝いさんが辞めちゃってから、家事は自分たちでしてるの。あ、お父さんと焦凍は忙しいからさせてないけどね」
「・・・・・・」
 そわそわと焦凍を横目に見ている冬美は、些か緊張しているようにも見える。
「それよりつむちゃんだよ! 体育祭見てたよ。すごいじゃない!」
「凡ミスしちゃった。2位の人の前でこんなこと言うのカッコ悪いけど」
「全然! あんなに強くなってるなんてびっくりしたよー! ね、焦凍」
「ああ」
 感情の読めない表情で、口に料理を運びながら、焦凍はずっとつむじを見つめている。
「アトランタでの暮らしはどうだった?」
「楽しかったよ。パパがヒーローの知り合いが多くて、よく面倒見てもらってたの。訓練つけてもらったりもしたし」
「それで強くなったんだ」
「うん」
 怖い思いもたくさんしたけど。そういうことは言わなくていいだろう。冬美の美味しい料理が台無しになる。
「つむちゃん」
 焦凍がようやく口を開く。二人の視線が焦凍に注がれる。
「緑谷とクレープ半分こしたって、どういうことだ」
「え、急にどした」
 冬美が目を丸くして焦凍を見て、つむじを見た。つむじは一瞬ポカンとしたが、「ああ」と頷いた。
「そのままの意味だけど。遊園地でクレープ半分こしたの」
「緑谷と、か」
「そうだけど・・・・・・」
「二人で行ったのか」
「なんか悪い?」
「もしかして恋バナ!?」
 冬美が両手を頬につけて、耳を赤くした。ちょっと嬉しそうに見える。
「いや、友達。私がヒーロー科落ちたから、春休みに連れていってもらったの」
「入学前から仲良かったのか」
「こっちに引っ越してきてすぐ、偶然会ってね。意気投合したの」
「つむちゃんはどこに住んでるの?」
「田等院駅の近くだよ」
「思ってたより近いのね! たまにこうして遊びに来てよ。いつでも歓迎するから」
「でも・・・・・・」
「全然迷惑じゃないから! うちってこんなに広いのに誰も集まらないからさ、ちょっと寂しいんだよね。夏くんも大学入って帰り遅いし」
 冬美がへら、と笑ったのち、表情をおさめる。
 部屋がしん、と静まり返ったその時、着信音が鳴り響く。つむじだ。「ごめん」と断りを入れて廊下に出る。
「モーニン、パパ。あ、うん。終わったよ、体育祭。ベスト8で敗退。うん・・・・・・わかってる。でももしかしたらヒーロー科に・・・・・・うん、はい。はぁい。あのっ、それと、今日は轟家に誘われてて、遊びに来てて、それで・・・・・・」
 影が落ちる。見上げると、エンデヴァー――轟炎司その人が、胡乱げにつむじを見下ろしていた。ぺこっ、と頭を下げて、つむじは背を向けた。炎司が障子を開ける音がする。
「冬美ちゃんが誘ってくれたの。いつでも来てって言ってくれたの。いいでしょ。ね、これからも遊びに行ってもいいでしょ・・・・・・」
《もう炎司の家に迷惑をかけるな。お前、自分の立場が分かってないな》
「なんで・・・・・・」
《そういう聞き分けのないところも、あの女にそっくりだ。いい加減にしろ。俺に恥をかかせるな》
「それとこれとは話が別でしょ」
《日本のNo.2ヒーローだぞ。お前も今後メディアに露出していくなら、あの女のことは切っても切れない。そんな子供がエンデヴァーの家に出入りしていると知れたら、とんだ醜聞だ。何のために就学前にお前を引き取ったと思ってる。今後二度と炎司とは関わるな。お前は存在するだけで迷惑なんだ。あの女と同じで――》
「ママの話しないでよ!」
 キシ、と床が鳴る。振り返ると、焦凍が驚いた顔で立ち止まっていた。障子が開いている。部屋の中で冬美と炎司がつむじのことを見つめている。
 カッと燃えるように首筋が熱くなる。反対に冷たく、震える手で通話を切る。焦凍が伸ばした手をすり抜け、部屋の脇に置いた鞄とブレザーを乱暴に掴んで、炎司の前で膝をつく。
「炎司さん。私みたいな賤しい人間が勝手に上がり込んで申し訳ありませんでした。もう二度とこの家には近づきません。冬美ちゃん、ありがとう。ごはん美味しかった。残してごめんなさい。会えてよかった。焦くんも、ごめん。さよなら」
 早口に捲し立てて、うつむいたまま出て行こうとしたけれど、出入り口で焦凍が待ち構えている。個性ですり抜けて通り過ぎて、伸ばされた手も躱して、走るように玄関へと向かう。
「つむちゃん!」
 焦凍が追いかけてくる。冬美もだ。靴を履く暇も惜しくて、ローファーをパサランでひっつかむ。玄関にぶつかる。鍵がかかってる。手がすべって、うまく開かない。
「待て、どうしたんだよ!」
「もう帰るから!」
 だから追いかけて来ないでよ。
 やっと鍵が開いた。 
 靴下のまま石畳に飛び出したとき、焦凍の手が鞄を掴んだ。引っ張ろうとしても、力比べでかなうはずがなくて。「はなして」と力なくつぶやくので精一杯だった。
「つむじ」
 低く、響くような声が呼ぶ。ぐちゃぐちゃの気持ちのまま振り返る。焦凍の向こう。四角い玄関の奥、明かりの灯った屋内から、炎司がつむじを呼ぶ。
「飯の途中だ。戻りなさい」
 ぼろぼろと、涙があふれる。「おとうさん」とつぶやいた声を、焦凍が聞いていたかどうか、わからない。

 汚れたルーズソックスを脱いで、はだしでスリッパ履いて、しゃくりあげながらぺたぺたと焦凍の後ろを歩く。さっきまで和気藹々と食事を摂っていた部屋が凍ったように静まり返って、つむじの嗚咽の音だけが吸い込まれていく。
 冬美がタオルを貸してくれて、つむじは顔を覆う。みんな気まずく俯いている。
「つむじ」
「・・・・・・ぁい」
 かすれた声で、タオル越しに返事する。
「・・・・・・俺が怖かったか?」
「ぇ?」
 思わず顔をあげた。ぐちゃぐちゃのままの視界に、同じような表情の焦凍と冬美が映る。
「俺が帰るまでは皆で食事をしていたのだろう?」
「そうだけど、ちがくて・・・・・・」
 目元をもう一度ぎゅっと押さえて、改めて顔をあげた。
「おと、炎司さんは悪くなくて、私がパパの言いつけを破っただけで・・・・・・」
「穂高か」
 炎司と父は旧知の仲だ。生まれたばかりのつむじを轟家に預けたのも、互いに厳格なこの二人がそれを許したのも、深い仲であることが伺える。
「あいつの言うことは気にするな。どうせ日本にも戻って来ん臆病者だ」
 つむじはびっくりして炎司の顔を見つめた。そんなふうに父を呼ぶ人は、初めてだった。
「それに、俺のことは呼びやすいように呼んでいい」
 つむじの垂れた目尻からまた涙がひとつぶ落ちた。
「・・・・・・またお父さんって呼んでいいの?」
 ダン、と食卓が揺れる。見ると、焦凍が表情を歪ませて、卓に手をついて立ち上がったところだった。
「焦凍! 飯の途中だと言っただろう」
「そりゃアンタだけだ。姉さん、ご馳走様」
 自分の分の食器をつかんで、焦凍は出ていってしまった。「焦凍ォ!」と最後まで叫んでいた炎司も、つむじの時のように追いかけてはいかなかった。

「つむちゃん、ごめんね」
「私のほうこそ、ごめん冬美ちゃん。せっかく食事に誘ってくれたのに、台無しにしちゃって」
「ううん。最初からうまくいくだなんて思ってなかったから」
 洗い物をしながら、冬美が力なく、あきれたように笑う。空になった食器を運び、首を傾げていると、冬美が振り返る。
うちのこと、つむちゃんに話さないとね」
 二人で皿を拭きあげ、食器棚に仕舞い終えると、冬美がお茶を淹れた。台所のテーブルに横並びに座り、一息つく。
「お母さんね、今入院してるの」
「どこか悪いの?」
「・・・・・・一緒に暮らせなくなったの」
 冬美が遠くを見つめながら話す。
「小さい時から焦凍がお父さんから訓練を受けてたのは、つむちゃんも知ってるよね」
「うん。なんとなくね・・・・・・」
 毎日傷だらけだった焦凍。「お前は俺の最高傑作だ」と、何度も聞こえていた声。泣いている冷。泣いている焦凍。
「お父さんは焦凍と私たちを分けてた。焦凍に影響があるといけないから、関わらせないようにしてた。お母さんは一番小さい焦凍にかかりっきりでね。もちろんお父さんも私たちの面倒なんか見ないわけで。お手伝いさんが来るようになってね。お母さんだけが焦凍の味方だった・・・・・・つむちゃんは、そういうの関係なしに焦凍のところに突撃してたよね」
「あの頃は、何もわかってなかったの」
「うん。私たちにはできないことだった。つむちゃんは『よその子』だったし、ある意味で緩衝材になってたのかもしれない。それで、ある日ね、お母さん、耐えられなくなっちゃったのね」
 冬美がお茶を啜る。眼鏡の奥にある黒い瞳が、ゆらゆらと揺れた。
「つむちゃんがうちを出ていってすぐだったかな・・・・・・たぶん、精神的に限界だったんだろうね。焦凍の左側に、火傷させちゃったの。手元にあったヤカンの中身を浴びせて」
「あの顔の傷・・・・・・」
「うん、そうなの。それで、焦凍に危害を加えるからって、お父さんはお母さんを病院に押し込んだの。自分のせいじゃんって、私、思ってた。つむちゃんが向こうに行ってから、『おかあさんをいじめるな』って、焦凍はよくお父さんに立ち向かってたっけ。あの子はすごいよね、きっと根っからヒーローなんだよ」
 弱々しく笑う冬美に、つむじは居た堪れなくなる。つむじが居なくなってからそんなにひどい夫婦喧嘩があったことに、心が痛む。
「だから焦凍は、お父さんのことものすごく憎んでる。焦凍だけじゃなくて、夏も。私もね、そういう気持ちがないわけじゃないの。でも、今日、焦凍がつむちゃんのこと教えてくれて――」
 眼鏡を外して、冬美が手の甲で涙を拭う。
「ほんとの家族みたいになれなくても、一回だけでいいから、みんなで食事ができたらいいなって、思ったの。つむちゃんがいたころは、ちぐはぐだけど、でもこんな薄暗い気持ちは持ってなかった。ほんの一瞬だけでいいから、見た目だけでもいいから、家族らしく過ごせたらって――」
 言葉が出なかった。そっと冬美の背中に手を伸ばす。震えながら、「ありがとぉ、つむちゃん」と言う冬美の、なんと気丈なことか。
「つむちゃんはさ、燈矢兄と仲が良かったよね」
 冬美が顔を上げた。
「ほんとの兄妹みたいだった。ううん。私、つむちゃんがよその子だって、昔から知ってたの。それでも、私よりずっと、ほんとの兄妹みたいに仲良しだったよね。だから、言いづらいけど――」



 二階にある、階段をあがってすぐの部屋。
 むかしは燈矢と夏雄の部屋だった。
 大きな黒塗りの仏壇の真ん中に、燈矢の幼い遺影が立てかけられている。手を伸ばしても、記憶の中と同じ姿の彼が、笑いかけてくれることはない。
「燈矢兄・・・・・・」
 遺影を手に取って、座り込む。仏壇の前には、さっきの夕食が供えられている。
「・・・・・・にぃ、燈矢にい・・・・・・」
 ぼーっと、遺影の中の碧い瞳を見つめる。13歳か。つむじがアメリカに経って、間もない頃に。
 ――山火事でね。燈矢兄、いつもあの山で隠れてトレーニングしてたらしいの。
 知ってる。
 ――骨もほとんど残らなかったって。それほど、燈矢兄の炎の勢いも温度も、激しかったって。
 知ってる。
 ――燈矢兄、あれだけお父さんに止められてたのに、ヒーローになる夢を諦めきれていなかったみたい。
 知ってるんだ、冬美ちゃん。私知ってたの。
「・・・・・・うっ、うぅっ、ぅぅううっ・・・・・・」
 ぽとん、ぽとん、と涙が落ちる。燈矢の顔を濡らしていく。
 焚き付けたの、私なの。
 私が言ったの。燈矢兄ならお父さんより強くなれるって。
 何も知らない幼いバカな私が、燈矢兄を。
 ――わあぁっ! とうやにぃの、あおくてキレー!
 バカな私の言葉が。
 ――おとうさんのよりカッチョいい!
 大好きな人を殺してしまったの。
 ――わたしもとうやにぃみたいに、カッチョいいヒーローになるっ!
 あの日。つむじが家を出るほんの数日前。いつもみたいにつむじの小さな手を引いて、燈矢は碧い瞳をきらきらさせていた。
 ――家のやつらにはナイショな。つむちゃんにだけ特別に見せてやるよ!
 もしもつむじが燈矢に惹かれず、ヒーローになんて興味を持たなかったら。彼は今でも生きてたんだろうか。



「・・・・・・ここにいたのか」
 焦凍が襖を開ける。月明かりが泣き腫らしたつむじの顔を照らす。胸に遺影を抱き込んだまま、畳の上に寝転んで丸まったつむじのそばに、焦凍が歩み寄る。
「もう帰らなきゃだろ」
 無言で寝返りをうって、焦凍に背を向ける。
「アイツが車で送るってさ」
「・・・・・・嫌」
「さっきは帰るって言ったり、今度は帰らないって言ったり、わがままな奴だな」
「・・・・・・燈矢兄が死ぬくらいなら、私が死んだほうがマシだった」
 焦凍がため息をつき、すぐ後ろに座る気配がした。
「おまえ、よくそんなこと言えるな」
「ほんとだもん」
「おまえの親父さん泣くぞ」
「泣いて喜ぶだろうね。目の上のたんこぶがいなくなったら」
 肩を掴もうとされたのち、燈矢の遺影をグイと掴まれて、離さないようにしていたら、仰向けにされる。もう学習してきてるなあ、と頭の片隅で思う。
「怖い顔しないでよ。ほんとだよ」
 真上から覗き込んで、怒ったように眉を吊り上げている焦凍を、無表情に見つめる。
「私、望まれて生まれてきた子じゃないの」
 焦凍の表情がゆらぐ。体をねじって、向こうの月を見る。明るい満月だ。燈矢の遺影をそっと胸から離す。ほんの少し濡れている隅のほうを、パサランで拭く。
「パパがね、こっちで警察やってた時、ヴィラン組織に潜入捜査したんだって。そのとき恋人になったのがママ。まあほんとの恋人じゃないよ。でもママ側もそれをわかってて、陥れるために私ができたってわけ。でもすぐにママの組織は捕まったよ。だから私、プリズンベビーなの」
 知ってた? と、意地悪く目を細めて、仰向けになって焦凍に向き直る。
「その時逮捕協力したヒーローの一人がエンデヴァー。パパは私が生まれるまで私のことなんか知らなくて、アメリカの会社に引き抜きされるって絶好のタイミングで、ママはパパに復讐したの。私を使ってね」
「つむちゃん」
「パパは自分の経歴に傷がつくのを嫌がって、エンデヴァーに押し付けたの。子沢山だし、家も広いし、何よりパパとママの関係を知ってたから。私、だからね、むかしはお母さんと焦くんをいじめるお父さんのことキライだったよ。でも実の親のこと知るとさ・・・・・・」
「もういいから」
「焦くんはお父さんのことキライかもしれないけど、私はすごく感謝してるの。欠陥品とか失敗作とかひどい言い方するけど、生まれてこなければよかっただなんて言ったことはないんだもん。それに・・・・・・」
「つむちゃん、もう喋らないでくれ」
「いーや、喋るね!」
 つむじは体を起こした。ごつん、と焦凍の額に、つむじの額がぶつかる。焦凍は瞠目しながらも、つむじに気押される。
「燈矢兄は私が殺したんだ」
 焦凍のTシャツの胸元を、ぎゅうと掴む。焦凍が腰を下ろし、つむじもそのまま引っ張られるようにして、掴んだままの両手に顔を埋める。
「私が焚き付けたの。燈矢兄ならヒーローになれるって。私にだけ個性を見せてくれたのがうれしくて、何度も言ったの。何も知らないバカな私が。無責任に言ったの。そう言うと燈矢兄、嬉しそうにしたから」
 焦凍の冷たい手が、こわごわと肩に触れた。ぎゅうっと縮こまって、焦凍に縋る。泣き果てたはずの涙が、焦凍の服を濡らしていく。
「私が燈矢兄を好きになんかならなかったら、死ななかったかもしれないの・・・・・・っ」
 わあん、わあんと、子どものように泣きじゃくるつむじの背中を、焦凍の右手がゆっくりとさすった。泣き声が、家じゅうに響く。それを止められる人間は、この家にはいない。いまはもう、ここには。






20260718


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