遅め控えめワンステップ



体育祭でも3Zは絶好調だ。特に女子の活躍が目覚しい。
神楽ちゃんやお妙ちゃんは自慢の力で綱引き優勝に貢献したし、九ちゃんは自慢の俊足で短距離校内1位をもぎ取ったしさっちゃんは玉入れのボールのコントロールがとても上手だった。その後口にしていた下ネタには無視を決め込むとして。

一方私は応援に声をからしていた。
これくらいしか出来ることがないと、彼女らの名前を叫び続ける。すごい気合いだな、と笑った近藤くんと東条くんと、お妙ちゃんと九ちゃんの名前を叫ぶ声の大きさを競い合い、切磋琢磨した。彼女らの出番が終わったあと、思わずお互いを称えるべく固い握手を交わす。隣にいた阿音ちゃんからは若干白い目で見られたが気にしない。百音ちゃんはリコーダーで応援のリズムを取ってくれていた。

女子リレーは危なげなく1位。思わず帰ってきたみんなを抱きしめた。
次は男子のリレーだと招集が既にかかっているそうで、私はお妙ちゃんの時とは違った気合を入れる近藤くんを見る。



「……次誰が走るの?」

「マヨとサドと……」「桂くんと高杉くんじゃなかったかしら」



軽い調子で聞いてみると、返ってきた名前に彼のものがあって思わず身を固くする。
あ、すぐそことあそこにいるじゃない。とお妙ちゃんが笑って指を指す先に私も視線を向ける。

ここから近いところには沖田くんと土方くんがじゃれあっており、そして奥の方には高杉くんとなぜかクラウチングスタートの姿勢を既にとった桂くんが話をしているようだった。気が早すぎる。



「……高杉くん」



思わず、小さくその名前を呟くと、ぎょっとした視線が様々な方向から突き刺さる。一瞬何故そんな目で見るのかと不思議に思って黙っていると、横から呆れたような声がかけられた。



「やよいちゃん、趣味わりーな」



こつ然、視界に現れた銀髪が体育祭特有の熱気が混ざった風に揺れる。すると男の人が纏うには少々甘い香りが漂って、私はぱちくりと目を瞬かせた。



「……いや、高杉くんはそういうのじゃないんですけど」

「……ふーん、どーだ、ウチのバカ共の調子は」



その人、銀八先生に言われたことを急いで否定するが、彼は私の話を聞いてくれるような気配はなし。ああびっくりした。からかっただけなんだ。
焦っただけ損だったと大きなため息をついてしまった。



「銀ちゃん、結構いい感じヨ! 男子リレーも多分ウチのクラスが勝つアル」

「ほーかほーか、まァぼちぼちやってくれや。俺ァ持ち場戻るからよー」



鼻に指を突っ込みつつもらしくないことをいう彼に、内心首をかしげてしまう。持ち場に戻る、なんて自分が今日持っている仕事を真面目にこなすだなんて。



「いや、教員のリレーに出たくなかったんだよ。んで、当日いろいろ忙しいらしい保健委員のテント担当になったわけ。いや、でもほんと、熱中症で倒れてるガキ共のためのテントが涼しくて快適なんだよ」



一瞬見直しかけたのになあ……
白い目で見られていることはつゆ知らず、というか気にもとめていないのだろう、銀八先生は最後に私をその目に映す。



「お前さ」



身構える私に構わず、彼は私の顔の横に自分の唇を寄せる。少しだけかかる息がくすぐったい。思わず目を瞑り、唇をきゅっと寄せる。

こんなの、セクハラじゃない!
いくら生徒との距離感を感じさせないような銀八先生だからって、こんなの、こんなの!

そんな風に内心パニックになっていた私の耳を、銀八先生の低めの声が少しだけ熱を帯びた吐息、それからキャンディの香りと一緒になって掠めたのだった。

いちごみるくが、酷く甘ったるい。
でも聞こえたその声の調子は、いつになく鋭くて冷たかった。



「……ちゃんと返せよ、ソレ」



すぐに“ソレ”を指すものに気がついて、私はばっと彼を見上げ、Tシャツの裾をぎゅっと握りこんだ。
神楽ちゃんたちに意識を向けると、彼女らは私たちのやり取りを訝しげに見るばかりで、会話の内容までは聞こえてないようだった。

わざわざあんなほぼゼロ距離で耳打ちしたのも、そういう事だったのか。
思わず下へと視線をずらす。偶然目についた蟻がとことこと歩いていた。目指しているのだろう草むらは遠い。



「俺もお前がそういう人一倍ビビリなのもわかってるつもりだっての。
が、あん時も言ったが、あのTシャツは高杉んとこの親御さんが金出して買ってんだよ。文化祭は終わっちまうがちゃんと返せよ、ホント」



俯いた私を残して、銀八先生はそのまま去っていく。今まであまり感じていなかった上からの日差しが妙にじりじり暑い。身も焦がしてしまいそうな強さだ。
そのままぼさっと突っ立っていると神楽ちゃんが駆け寄ってきて私の体調を心配してくれたが、その声は意味を含んだ音にはどうしても聞こえなかったの。

いつもへらへらしている銀八先生の硬い声が厳しくて、ホイッスルのあとに遠くで鳴ったピストルが乾いていて、たちまち私を除く全校生徒が叫ぶ応援の声がぐるぐる頭を渦巻く。

その渦中で、私はぽつりと立ち尽くしている。

私はいったい何をしたいんだろう。


その時聞こえてきた、何もかもを吹き飛ばすような大きさの黄色い歓声に、そちらにゆっくりと目を向ける。
それは風紀委員の栗色の彼に向けられた声援のようだった。彼はやる気なさげだったけれどもどんどん相手クラス選手を引き離し、近藤くんが嬉しさの混じった野太い声で名前を呼ぶ。

そして、バトンは彼に渡る。



「晋助ーっ!」「高杉くーんっ!」



高杉くんが走る。紫がかったあの髪の毛を後ろになびかせて、長い足を前に踏み出して。



「……高杉くん」



ふと気になって視線を向ければ、先程私のすぐ下で見かけた蟻は、草むらの近くまで進んでいた。少しずつ、少しずつでも確かにその小さな虫は自分の意思でしっかりと進んでいたのだ。

……私は?
私は、もんもんと考えるだけでここからたったの一歩でも進めていたのだろうか?

怖がらない、色眼鏡をかけない、なんて言っただけで、ただのひとつでも何か行動を起こしたのだろうか?


がつんと頭を殴られたような衝撃に耐えながら、リレーの行方を見守る。大きな歓声と共にアンカーの土方くんに白いバトンがきっちりとパスされた。
思わず叫ぶ3Zのみんなに、クールな表情を崩さない走者の四人。

そのまま、土方くんの体がゴールテープに突っ込んでいく。終わりのピストルが鳴った後ハイタッチを交わすみんなを背にする彼を、私は呼び止めた。



「あの、お疲れ様」



振り向いた彼の表情は、少し汗が滲んでいる以外はいつもと同じ。やっぱりちょっとは足がすくんでしまったけれど、それを押さえ込んで思い切り肺に空気を取り込む。

馬鹿馬鹿しいだろう、おこがましいだろう、それでも私は決めたのだ。



「高杉くん、あのね、メールは見てもいいけど、内容は無視してほしいの

私、駅に絶対にいるから」



今日、言わなければいけないの。
文化祭が終わるまでにTシャツも返せなかったビビり屋の私だけど、やっと一歩だけ進めた気がする。



「おう。……御上もな」



高杉くんは変わらず手が届きそうにないし、これを成長と言うには程遠いけれど。

御上もな。そう言って私に返した言葉が私が何気なく発した「お疲れ様」だったことに気がついて、それから少しだけ喜んでしまった。


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