件の女子生徒は青城の生徒たちが本格的に登校するよりも前に母親のような変装をした補助監督に連れられて学校を後にした。
彼女はこの後硝子さんか、あるいは他に反転術式ができる人のところに連れていかれ特級呪物の残穢を取り除かれることだろう。必要あらば記憶改竄の措置もする筈だし、もう彼女の心配する必要性はない。
「セイジョウー!ファイっ!」
「オー!ファイ!」
今朝の一連の騒動が何事もなかったかのように平穏を取り戻した第三体育館は、今では集まった部員たちの声援やボールの打球音で賑やかになっており、今日も安定的に青春が築かれている。
呪術師が日々命をかけて守っている平穏の音を耳にしながら白い息を吐き、それから後ろにあった体育館の外壁にもたれる。体育館の裏側、人気のないところに居座っているのわけなのだが、なんとなく手持ち無沙汰な気持ちになってポケットの中から特級呪物を取り出してそれを眺めた。
別に女子生徒を迎えに来た補助監督と一緒に学校を後にしても良かった。
けど、別れの言葉を口にしようとした瞬間に見た及川徹のあの強い意思のある目になぜだか根負けして、ひとまず学校に残ることを選んだ。
まぁ、一応及川徹も短時間とはいえ特級クラスの呪力に充てられたわけだし、何か体調に変化が起きていないか確認しなければならない。学校に留まったことは間違った判断ではない…と思う。
にしても彼はどこへ行ったのだろうか、寒空を見上げながらぼんやりしていると、リズム良く砂利を蹴る足音が近づく。
「ごめんね苗字さん!寒い中待たせて…!」
「…いえ…。そのバッグは?」
「バレー部の救急箱!部室から借りてきた」
女子生徒を見送った後、及川徹のプレッシャーに負けた私が「説明しますから」と言うよりも、彼の方が何もかも早かった。
手早く私の手にタオルを巻きつけたかと思うと「これから後輩来るだろうから場所移した方が良いよね!片付けは俺がやっとく!体育館の裏、人全然来ないからそこでちょっと待っててくれる!?聞きたいことあるし!」と矢継ぎ早に説明すると風の如くどこかへすっ飛んで行ってしまったのだ。
そんな彼がようやく戻ってきたと思えば肩には箱のような形状のバッグと、手にはすっかり置き去りにして存在を忘れてしまっていた私のカバン。颯爽を現れては私の隣に腰を下ろした及川徹はバッグのジップを開けるとガーゼやらテーピングテープを取り出して、私の手を腫れ物でも触るかのように手に取る。
出血のせいでジンジンと熱い私の手に対して走ってきたばかりの及川徹の指先は思っていたよりずっと冷たく感じた。血が滲んだタオルを外し、精製水で洗い流す。冷たさから痛みはあまり感じなかった。
「タオル、汚しちゃってすみません」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ……んうぅ…むごい、ああ痛い」
「なんで及川さんの方が痛そうにするんですか」
「痛々しいでしょどう見ても!……なんというかまぁ、存外頼もしいね苗字さん」
「まぁ慣れっこですからこういのは」
ガーゼを充てて、それからテープでぐるりと手のひらを一周。思いの外手際の良い彼の処置に少しだけ驚いていると、傷に障らないように手を握られる。相変わらず冷たい手のひらに私の手の熱が奪われているようだ。
「……俺のせい、だよね。ごめん」
「及川さんのせいではありませんよ」
「そんなこと言ったって…」
納得はできない、と顔には書いてある。呪物さえしかるべき場所に預ければこのくらいの怪我は自分で処置ができるし、そこまで思いつめる必要はないのに。
それ以上彼に言える言葉が見つからなくて私は肩を竦めることしかできなかった。
「…ねぇ、苗字さんに怪我が多いのって、もしかするとさっきの濃い煙みたいなのが原因だったりするの…?」
「へ」
彼の言った言葉を理解するのに少し時間を使った。黒い煙みたいなの…?
「ひょっとして見えてるんですか及川さん…?」
「見えるって?黒っぽいやつ?なんかさっきから視界の隅にちょいちょい何かいる感じがするんだよね」
そこまで聞いて眉間を揉む。そうか…とうとう見えるところにまで…。まぁ無理もない、あの呪いに充てられて生きてる方が奇跡なのだ、感化されて見えてしまうことも考えられる。考え込んでいると、隣で「ぶえっくし!!」くしゃみをする声。そりゃジャージを着ているとはいえスポーツウェア姿で外は寒いだろう。
「ちょっと失礼しますね」
「!」
自分の首に巻かれていたマフラーを解き、隣に座る及川徹の首にそれを巻き付けた。
朝のバレー見学で私にひざ掛けとしてジャージをかけてくれたお礼でもあったし、何より彼はこれからどんどん活躍していく選手。こんなところで風邪をひかせるわけにはいかない。
全ての呪いから解放された彼が今後どう活躍していくのか、案外高校バレーの動向を見守るのも悪くないかもしれないなと眼前の彼をじっと見据える。
「えっ、ちょっと…!苗字さん…?なんかそうまじまじ見られると緊張するっていうか…なんか最近こういうの多くない…?」
「気のせいです」
「食い気味!…あっ!そうやってまたその目する!」
「静かにしててくれませんか」
「……ハイ」
慌てふためく及川徹をじっと眺めると特級の残穢。まぁ呪いの可視化も含めて時間が経てばきっと風化されるだろう。
「もう、大丈夫ですよ」
「…!」
彼を苦しめる要素は全て取り除けた。これからは努力が裏切ることはない。胸を張ってコートへ入ってほしい。心の底から安堵して彼の首に巻いたマフラーからそっと手を離せば及川徹が突然勢いよく乙女の様に両手で顔を覆った。
「えっ…どうしたんです?やっぱり調子悪いですか?」
「…苗字さんさ、よく人誑しって言われない?」
「いえ全く」
「うぐぐ……チクショウめ」
「?」
何に対しての悪態を吐いているのか皆目見当がつかない。が、ここで私はすっと息を吸い込んで及川徹にある事実を伝えることにした。
「及川さん、単刀直入に言いますとあなた呪われてたんですよ」
「ちょ、急にホラー言わないでくれる!?」
「いえ、ホラーではなく本当に」
「は…?」
「私、呪術師なんです」
「……じゅじゅちゅ…」
噛んだ及川徹によって私たちの間に何とも言えない間が開く。噛んでしまう気持ちはわかる。わかるけれど、恥ずかしそうに唇をきゅっと窄める及川徹があまりにも面白くて小さく吹き出すようにして笑うと「不可抗力!」と非難の声が飛んできた。
「それで…呪術師って?」
「細かいことは割愛させてもらいますが、呪いを祓うのが仕事です」
「いや仕事って苗字さん同い年…よね?高校生だよね?」
「はい。ですが、本来の所属は違うところなんです」
「はい??」
「私は青葉城西高校には仕事で来てるんです。特別呪われた生徒がいるという話を聞きつけてここに来ました」
ここまでする必要もないだろうけど、一応呪術高専の学生証を彼の前に差し出す。
「えーと、それってひょっとするとひょっとして?」
「及川さんのことですね」
「マジかぁー…マジでぇー?」
残念ながらとてもマジである。最近不幸が立て続けに起こってないか尋ねてみたらそれはそれはもう可哀そうなくらい遭遇していることを今更知って申し訳ない気持ちになった。
「ホント酷かったですよ。しかも呪いは特別厄介で祓っても祓っても憑かれるという」
「なにそれ聞いててしんどい」
もう呪いはいないけれど話を聞いて無意識にだろうか、肩をぐるぐると回す及川徹を横目に見て、それから処置された手元を見る。お守りを渡した時に見た及川徹のあの大きな掌を思い出した。
「ほんとうに…よく耐えたと思います」
陰ながらに見た彼の努力がついさっき見たかのように思い返せる。思わずぽつりと出た言葉が白い息と一緒に宙に消えていった。
「呪いに抗って、耐えて、堪えて、自分を奮い立たせて……とても苦しい時間だったと思います。並大抵の努力と精神力が無ければ及川さんはきっと今ここには居られなかったと思います」
「……っ」
「もっと早く助けてあげればよかった。…遅くなってごめんなさい」
こんなこと、別に言うつもりはなかったのに気づけば私はそう口にしていた。
視線は自分の手のひらのままだったから彼のことは見ていないけれど、隣で及川徹がじっと私を見ているのはなんとなくわかった。何度か息を吸ったり吐いたりして言葉をひねり出そうとしている彼をただ静かに待つ。
「……で、も、苗字さんがその度に祓ってくれてたってことだよね?ありがとう」
ようやく出た言葉はほんの少しだけ震えているようだ。
「ま、仕事ですから」
「なんでそんな急にドライモード入っちゃう?今すっごい良い雰囲気だったじゃん」
「なんかいろいろぶち壊しだよ苗字さん」饒舌に突っ込んでくる及川徹にふふっと肩を揺らして小さく笑う。
「…ねぇ、苗字さん」
ぼんやり眺めていた手、その指先を緩く握り込まれた。視線を隣に移すと及川徹の双眼が私をまっすぐに見る。
「これをくれたのも…仕事のうちなの?」
「…それは…」
これ、と言いながらポケットの中から取り出したのは不格好なお守り。彼が呪いに悩まされないようにと想い、呪いを込めた産物。
当然仕事のうちに決まっている。非呪術師を守る、それは呪術師として当然の務めなのだ。けどどこからかもう一人の自分が自分に問いかける声が聞こえる。
――それが及川徹ではないほかの誰かだったとしたら?
――呪術高専から取り寄せれば済むであろうお守りを、なぜ睡眠時間を削ってまで自分で用意した?
――私情が全くないと言い切れるだろうか?
「…そのお守りは……及川さんのバレー活動を守るために作ったものです。それ以上、それ以下でもありません」
「……そっか、ありがとう」
…彼の問いかけに対して狡い答え方をしてしまった自覚はあった。義務と私情の狭間に置かれている私にはそういう言い方をするしかなかったのだ。
私情の根幹にある、胸の辺りがくすぐったくて、暖かくなるような、それでいてどんどん大きくなっていってしまう感情の名前を私は本当は知っていた。でも私たちは生きる場所が違う、育てるわけはいかない。
私はこれ以上彼に言える言葉がなく、及川徹自身もこれ以上の深入りは出来ないと理解しているのか、私たちの間に沈黙が続いた。
「クソ川どこ行きやがったゴルァ!隠れながらオーバーワークやってたこと許してねぇぞ俺は!」
「落ち着けって岩泉!」
「ゲッ、なんか今岩ちゃんの声が聞こえた気がする」
館内の僅かに開かれた窓から聞こえた岩泉さんの怒号に及川徹がピクリと肩を揺らした。そっと彼の手を離し、腰掛けていたコンクリートの段差から腰を上げてスカートの裾を叩く。視線を落とすと私のマフラーで首元がモコモコになっている及川徹が見上げていた。
これから明るい未来を見つめる瞳は、やっぱり私には眩しいもののように感じて目を背けるようにして前を向く。
「その視界に映る黒っぽいものは、今はバレーには支障をきたすかも知れませんが時間が経てば見えなくなります。心配しないでください」
「あ、うん」
「そろそろ部活に行ったほうが良いですよ、岩泉さんの声すごく聞こえます」
「…みたいだねぇ。ちょっと憂鬱だけど」
「大丈夫です、お守りがありますから」
「…!…うん、そうだね。ありがとう」
「いえ、こちらこそ手当てありがとうございました」
「…苗字さんはこのあとどうするの?」
「ひとまず病院、ですかね」
「そりゃそうか」
それから五条さんが東北近くにいればあの人に呪物を預かってもらって、それから日下部先生に報告して、…ひと段落ついたとはいえまだまだやることは多い。
私から遅れて立ち上がる及川徹に救急バッグを持たせて、「ほら、早くした方がいいですよ」彼の背中を、呪いが完全に消え失せたその背を押して急がせた。
「あっ、マフラー…!」
「あぁ、そのまま持ってって良いですよ。体壊したら困ります」
「そんなにヤワじゃないけどね…。苗字さん、また学校には来る…?」
「…一応退学の手続きがありますからね」
また、らしくもない答え。私は自分が答えたことで及川徹が落胆する様子を見たくなかったのだ。そんな様子を見てしまったら、……変に期待をしてしまうから。
「次会ったら、マフラー返すから」
「……そうですか」
「それじゃあ、またね!苗字さん」
またね、か。なんとも非呪術師らしい挨拶だと思った。
「いってらっしゃい」
変な約束をしない呪術師らしい挨拶で遠のく彼に手を振った。
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