神様の悪戯

二〇一七年夏
東京都立呪術高等専門学校内 資料保管庫

 目の下に隈、右目下に泣きぼくろを持つ気怠げな印象の女はまだ冷房が効ききっていない資料保管庫内で、一冊のバインダーを手にして佇んでいた。少し色あせてきたコピー用紙に載った苗字名前の文字を白い指が這う。

「まーたこんなところにいたの硝子」
「五条」

 音もなく突然ひょっこり顔を出した全身黒服の男に特段驚く様子もなく、名前を呼ばれた女、硝子はその男の名前を紡いだ。

「お前ホント好きだねソレ」
「私が好き好んで読んでいるように見えんのか」

 白髪頭に背はすらりと高く、日本人離れした容姿の男、五条の目元には包帯が雑に巻かれていた。にも拘わらずその足取りはしっかりしていて、硝子の傍まで長い脚を進め、近くにあったスツールに腰を掛けると「違うの?」とおちゃらけた風に声を発した。
 通常であれば人は目が見えていなければ満足に歩くことができない。しかし五条は足元に平積みされた資料を避けて硝子のところまでやってきた。この男が普通の人間とは何かが違うのが窺えたが、硝子は見慣れているのか「違う」と短く返事をした。

「なんも面白くなくない?」

 先のおちゃらけた声から一転、低い声だった。半ば呆れたように言う五条のソレとは硝子の持っているバインダーのことで、ラベルには十年前の年号が書かれている。
 呪術高専が保管する呪霊に関する数々の報告書が綴じられたものだった。

「お前は現場を見てるからな。…私は見てないからこうしてあの時のあの子に思いを馳せてんのよ」
「二十七にもなって可愛げもクソも何もかも置き去りにしちゃったかと思ってたけど、案外残ってて安心したよ」
「口の利き方に気をつけな。治療してやんなよ」
「大丈夫、僕最強だから」

 五条のセリフに硝子はこの文句じゃ怯まないか、と短い溜息をついてバインダーを閉じた。

「じゃあアンタの受け持ちの生徒の面倒見ない」
「それは困る、ごめん」

 お前がダメならと生徒に矛先を向けたらコロリと謝る五条は体の大きさの割には素直な性格をしていた。その様子に小さく鼻で笑った硝子はバインダーを元あった場所に押し込むと白衣の裾を翻してその場を立ち去る。当然のようにその後ろを五条も付いていった。
 硝子の白い指が保管庫の電気とエアコンのスイッチに触れ、保管庫は元の静寂に包まれた。

「すっかりルーティンワークだね。僕ルーティンって嫌いなんだけど、意味あるのそれ?」
「ほっとけ。花は?」
「リクエストを押し付けてぜーんぶ伊地知に任せてあるよ」
「あまり伊地知をいじめるなよ」

 広い高専の中を歩けばうるさく鳴き喚く蝉の鳴き声が嫌でも耳に入ってくる。求愛行為の一環で鳴くと言われている蝉の声は、どうにも人間には暑くて鳴き喚いているようにしか聞こえないなと硝子は鬱陶しげに空を仰ぎ見た。
 この高専は山奥にあるとはいえ、東京だ。じっとりした暑さが二人を蝕む。

「五条さん、家入さん」

 高専内のロータリーに停められた一台の黒い車。そのすぐ傍には眼鏡をかけた痩躯のサラリーマン風の男が立っていた。気が弱そうな顔つきをしている。

「やぁ伊地知」

 伊地知と呼ばれた男は五条がその後に言いそうなセリフを察してか「全部済ませてあります」とか細い声で言った。気が弱そうな顔付きは声にも出ていた。

「さすがだね、ありがとう。じゃ行こっか」
「毎年悪いね、伊地知。助かるよ」
「と、とんでもないです!」

 伊地知の肩を軽く叩いた五条はさっさと後部座席を開けて車に乗り込み、その後ろを硝子は伊地知に労いの言葉をかけながら車に乗り込んだ。特に後者の労いの言葉が胸に響いたのか、伊地知は胸に手を当てて硝子のセリフを噛みしめていると「早くしろよ」と五条が催促してきたので、慌てて運転席に乗り込んだ。
 車の中は適度に効いた冷房と一緒に花の香で充満した。助手席に置いてあるジニアをメインに組まれた花束に気怠そうな目を向けた硝子は暫く考えてから口にした。

「……なんだっけその花」
「また?毎年これなのによく毎年忘れるね。いい加減覚えない?」
「花より仏と呪いに囲まれることが多いから仕方ないだろ」
「ジニアだよ、ジーニーア」
「確か他に言い方があっただろ。だから覚えられないんだ」
「百日草、ですね」

 伊地知が苦笑いしながら答えた。そっちの言い方での名前が知りたかったんだよ、と言いたげに硝子は五条を細目で見たが五条はどこ吹く風だ。
 ジニアの言い方は英名だが、日本語では百日草を意味するそれの花言葉は不在の友を思う、別れた友への思いがある。そうだ、毎年それだったなと硝子は視線を五条からジニアへ、それから流れる車窓へと移した。

「七海は?」
「仕事。日帰りだからすぐ帰ってくるしょ」

 高専専用の墓地の駐車場で伊地知がギアをパーキングに動かし、サイドブレーキを踏む動作音が響く。

「――着きました」

 高専の敷地内は広く、いくら同じ敷地内でも車で五分の距離も歩けば三〇分はかかる。加えてこの暑さだ、車を使わない手段がない。

「あっっっつー…」

 心地よい冷房の利いた車内からじっとりとした暑さを孕む外気に包まれた五条はなんて鬱陶しい時期にくたばるんだアイツと例年通り同じ悪態を内心で吐いた。

「私は水を汲んできます」
「ありがと伊地知。はい硝子」
「ん」

 後部座席を降りた五条は助手席にあった花束を硝子に手渡し、自分は御燈香セットを手に取った。伊地知はトランクから桶と柄杓を取ると、湧き水が涌いている場所へと向かう。

「ま、手入れは行き届いているね」
「高専で管理者雇ってるしな」

 相変わらず目が見えてなさそうな風貌をしている五条は、苗字名前と彫られた個人墓の前で立ち止まった。
かれこれ十年か。何も言わない二人が考えていることは同じだった。

「お待たせしました…!」

 桶たっぷりに水を汲んできた伊地知が到着し、綺麗ではあるが墓石を五条と伊地知が磨き、硝子は花を差し替えながらあの子は百日草なんかに合うような子じゃなかったんだけどなと苦笑した。線香に火をつけて供物台に置き、手を合わせると硝子はふと資料保管庫で五条に言われたセリフを思い出した。

「五条」
「なにー?」
「さっきのセリフ、そっくりそのままお返ししてやるよ」
「は?」
「二十七にもなって可愛げもクソも何もかも置き去りにしちゃったかと思ってたけど、案外残ってて安心したよ」
「…何それ僕のこと?」

 十年前なんてお前は自称僕っ子じゃなかったくせに、と硝子は思いつつ、合わせ終えた両手を白衣のポケットに突っ込んで妖艶に笑った。

「持ってんだろ、名前が現場に残した遺品。毎晩縋り付いて泣いてんじゃねーだろうな?」
「前言撤回、やっぱりお前可愛くない」
「……」

 五条のヘラヘラとした雰囲気が一変する。突如と始まった嫌悪モードに傍にいた伊地知は夏の暑さからくる汗とはまた違う種類の汗を流した。伊地知から見たらこの二人は高専時代の二つ上の先輩にあたり、活躍する部門は違えど二人とも呪術師界では有名人で居なくてならないような人間だ。その二人が目の前でバチバチに睨み合っているのは後輩の伊地知から見たら恐怖そのものだ。

「……はぁ、あるよ」

 素直に認めた五条はポケットの中から小さな箱を取り出し硝子に差し出し、無言でそれを受け取った硝子は躊躇うことなく箱を開ける。
その肩越しに伊地知もそろりと硝子の手元を覗き込んだ。毎年こうして墓参りに同席してるんだ、これくらい見たってバチは当たらないだろう。実際五条は何も言わなかった。

「ただ毎晩縋り付いて泣いてねぇよ」

 意外と硝子の先のセリフは気に食わなかったらしく、その乱暴な言い方は高専時代のようだと伊地知は思った。硝子は別に本当にそう思って言った訳じゃないんだけどな、と思いながら手元の箱を傾けると、中にあった少し歪な形のボタンピアスがコロンと向きを変えた。

「ありがと」
「うん」

 硝子が箱の蓋を閉めて五条へ返す頃には二人の間の空気は今まで通りになっていた事に気付いて、伊地知は一人胸を撫で下ろした。「あちいから早く帰ろ」五条を先頭にして三人は駐車場へ戻った。

「……」

 車に乗る前に硝子は一度名前の墓があった方を振り向く。百日草なんて似合うような子じゃなかったけど、

「こんな良い天気が似合う子だったな、名前」

 ざあと強く吹いた風に髪が弄ばれ髪を抑えていると、車の中から五条が催促する声が聞こえて硝子は車に乗った。





――同時刻 ◯◯県◯◯市某所

「えっ?」

 短い髪を耳にかけた女が振り返りながら言った。その耳には何も飾られていないが、軟骨部分には小さな穴が開いている。

「東雲さん?」
「……」

 振り返った女に向かって、その女より少し若い女が名前呼びかけたが東雲と呼ばれた女は後ろを振り返ったまま無反応だった。若い女もつられて東雲の後ろを振り返るが、何もない。

「おーい、東雲さーん!」
「えっ、あっ、ごめん!」
「どうかしましたか?」

 東雲の目の前で手を振ってみたらようやく反応があって、何かあったのかと尋ねると彼女はまた少し後ろを振り返る。が、暫くするとまた前を向き、手元にあったパスタを突き始めるので、若い女もつられるようにして自分の手元のパスタをフォークで巻き始めた。

「あー…ううん、なんか名前を呼ばれた気がして」
「や、私さっきから呼んでましたけど…」
「あぁ、ごめんね!そう言うんじゃなくって!親しい人に呼ばれたような気がしてさ!それで、なんだっけ?」
「そう!こないだ営業の鈴村さんとお話しする機会があったんですよー!」

 東雲がすっと目を細める。先日の出来事を楽しそうに語る職場の後輩の肩に、蛇のような蛙のような中途半端な生き物が纏わりつくようにしてそこにいるのが見えた。が、纏わりつかれている張本人は見えていないのか、気にせず一口サイズに巻き終えたパスタを口に含む。

「山田ちゃんごめん」
「はい?」
「最近どっか体調悪かったりする?」
「え、うそ、分かるんですか!?」
「あ、見てみて噂をすればなんとやら。営業部の鈴村さんいるよ、後ろ」
「えっ、まじですか!?」

 表情豊かな後輩がばっと振り返った隙を見逃さずにその不気味な生き物に手を伸ばす。
目の前の後輩に気づかれないようぎゅっとそいつを掴むと、手中にいた妖怪のような生き物は姿を消した。

「どこです!?東雲さん!?」
「あーごめん、人違いだった」
「なんだぁー」
「それで、どこが調子悪いの?」
「それなんですけどー、最近首が………あれ?」
「うん?」

 いや、なんかたった今楽になった気がするんですけど…なんですかこれ!?と一人楽しそうにする後輩を見て東雲は微笑んだ。

21.08.02(一部加筆修正)



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