海辺に打ち上げられた学生服の女は犬の散歩途中の人に助けられて病院に運ばれたけど、目が覚めたら何もかも忘れていた――そんな話はきっと誰もがドラマや映画の世界だけなものだと思うだろう。
けどこれは私、東雲名前の実体験の話になる。全くもって嘘のような本当の話だ。
「えっ、異動?ですか」
「そう。東、京。来月からお願いね」
冷房がガンガンに聞いた室内、その外では命短し蝉達が暑い中必死に求愛活動に励む季節。にこりと微笑んだ会社の女性上司、もとい副社長はハートマークが付きそうなトーンで私に異動先の名前を告げた。
「東京かあ」
一通り副社長からざっくりとした異動内容の説明を受けたあと、自分のデスクに着席してこれからお世話になる日本の首都、東京の名前をぼんやり呟いた。
思えばこの会社で働きだしてからもうすぐ七年になるだろうか。八年前、私はどうしてか日本海側の岸に打ち上げられていたらしい。当時の通りすがりの人、後にここの会社の社長に助けられて病院へ運ばれたらしいのだけど、目が覚めたら綺麗さっぱり記憶が抜けていたのだった。
ただ幸いだったのがズタボロな学生服の中からプラ素材の学生証が見つかって、下の名前と生年月日、年齢だけは知ることができた。
でもその時は名前と呼ばれてもその名前が自分のものであるとは思えなくて、赤丸に漢字のニのスタンプ印みたいなのが押された顔写真を見て、名前って私のことなんだと他人事のように思ったのを覚えている。
残念だったのはその学生証の発行元である学校名と苗字の部分がぼろぼろにはげてしまっていたことだ。
「東雲さぁん…!」
「山田ちゃん」
「異動するって聞きましたぁ」と泣きついてくるのが同じ部署内の後輩。七年も働いていれば会社の中のポジションではそれなりに上になるし、後輩も随分と増えた。
中でも山田ちゃんは彼女が入社してからよく東雲さん、東雲さんと懐いてくれる可愛い後輩だった。もちろん可愛い後輩だからと言っても贔屓したり優しすぎることをするわけではないし、厳しいことを言ったりする。そこは山田ちゃんも厳しさの中の優しさとやらを分かっているから、この子の面倒を見るのは全然苦じゃなかった。
「ねー、私もびっくりだよ」
また話は少し戻るけど八年前に病院へ運ばれたと同時に警察に保護されることになった私は一年経っても記憶は戻らなくて、警察も名前と言う名前だけで人探しをすることもできずお手上げ状態だった。
どうしたものかと担当者の人と頭を抱えて途方に暮れていたら、当時私を助けてくれた人が国産のアパレルメーカーを経営している人だったそうで、記憶が戻るまででも、記憶が戻っても何でも良い、ウチで働くと良いよと言ってくれた。
それからその社長がお気に入りの苗字、東雲で就籍登録してその人の元で働くことに。その社長の奥さんが先ほど私に東京異動の提案をしてきた人、副社長である。
「東京って最近できたばっかの支部だからオフィス綺麗そうですねー!」
「文字通りオフィスだけになるから製造現場に気軽に見に行けなくなるのがネックだけどね」
「私が東雲さんの目になります!」
「頼むよ山田ちゃん」
私が勤めているのは国産にこだわったオーダーメイドスーツを製造しているテーラー系会社だ。私が今働いているところが本社で、製造も全部ここで行なっている。一年前には東京に支店ができて、どうやらそちらの主力になってほしいとの意向だ。
「これから仕事の合間にどんどん引き継ぎ書作成しないとなぁ…。頼んだよ、山田ちゃん」
「はい!」
彼女の背中を叩くついでにそこに張り付く鳥みたいな妖怪を握り、ぎゅっと潰してやると妖怪は手中で姿を消した。
…もう一つ、記憶を無くしているのに不可解なことが。どうやら私はこの妖怪が見えるらしい。そしてそれを消滅させる術を知っていた。
◼︎
「――生地の配送が遅れてるらしいんだけど、納期間に合うか職人さんとスケジュールの確認お願いできる?ちょっとこっちも立て込んでて…うん、ごめんね山田ちゃん」
仕事の電話を終え一息ついて辺りを見渡すと、街中のディスプレイにサマーセールの文字がちらほら。これから秋服か…そしたらすぐに冬物か。ベストとジャケットの受注が増えて忙しくなりそうだな…。生地早めに仕入れて、それから製造現場のスケジュールを再確認して…それからそれから、と第二の繁忙期の訪れに備えて頭の中でやることリストを軽く練った。
「…はぁ、人多いな…しかもあっつい…」
私が住んでいた町もそこそこに人は多いと思っていたが、東京は比べ物にならないレベルで、人混みに揉まれる度に人口密度のキーワードが脳裏に過る。生活は慣れども正直この人の多さだけは妙に慣れない。それに加えてこの暑さ。東京の人達はタフだなぁなんて他人事のように思いながら人混みを縫うように歩いていく。
とりあえず明日行けば仕事休みだから、冷房ガンガン効かせて映画三昧で夜更かししちゃおうかなんて考えながら歩いていると、不意にトンとぶつかった肩に反射的に謝罪の言葉を紡いだ。いけない、ぼーっとしすぎた。
「あ、ごめんなさ、い」
ばっとそちらに顔を上げたら全身の毛が粟立った。
白い制服のようなものに身を包み、いかにも気の弱そうに眉尻を下げた男子高校生、その背後に佇むこの世のものではないおぞましい異形のソレに一気に血の気が引いて、真夏なのに全身鳥肌が立ち寒気がした。どこからか現れた黒っぽいソレは『ゆうたぁ、痛い?痛い?痛かった?』と男の子の安否を確認するようなセリフを何度も何度も繰り返す。
「あっ、いえっ、こちらこそすみませんでした!」
焦りながらもしっかりお辞儀をしてくれた男の子。その背中から出ている黒い影が『ゆうたぁ、ゆうたぁ、痛かったぁ?あの女どうする?』しつこく男の子に尋ねている光景がなんとも奇怪で。
私に消せる、だろうかと右手が一瞬ピクリと動いたが握りこぶしを作る。
あれは"ダメ"だ、と本能言っていた。
「高菜」
「あ……心配してくれてありがとう狗巻君。大丈夫だよ」
白い制服の男の子のすぐ隣にいた短髪の明るい髪の男の子が何か言ったかと思えば、今度は私の方をチラッと見て頭を下げた。つられるようにして私も軽く頭を下げると、二人はくるりと身を翻して足を進めていった。
「全然痛くないよ里香ちゃん。僕がよそ見してたのが悪かったんだ」
あの子がどんな表情をしているのかは見えないが、声色は穏やかで、『よかった、よかったあぁ』と男の子にすり寄るソレは、男の子を堪能した後にふとこちらに目もない顔を向けてきた。
「――っ」
なのに目があったような錯覚を受けてしまって、ぶわりと全身から汗が噴き出し慌ててポケットからスマホを取り出して耳にあてた。
別にどこへかけるわけでもない、アレに"見られている"と思われたくないがための行動だ。アレに関わったら死ぬ。それだけは本能的にわかった。…東京はやっぱり怖い…。
「……苗字?」
「えっ?」
すれ違い様に呼ばれた誰かの声にパッと顔を上げた。
苗字……いや、違う、私は東雲だ。でも何故か今、自分の名前を呼ばれた気がして反応した……。どういうことだろう、というか、誰が呼んだのだろう。顔を上げると近くにいた一人の男の人がこちらをじっと見て立っていることに気づいてピタリと足が止まった。
長身に天然ブロンドヘアを七三にきっちり分けた日本人離れした容姿の男性。間違いなくオーダーメイドであろう、身の丈にしっかり合ったスーツに身を包んで棒立ちしていた。
目元にあるのは、眼鏡…?だろうか?なんだこの人…しっかりしてるんだか変なんだか…。
「苗字」
その人から発せられた震える声にドクリと胸が騒ぎ始めるのが分かった。
私はこの人を知っている、のだろうか?私の私じゃない部分が、この人の顔を見てホッとして泣きつきたそうにしているのだ。頭と心が別物になってしまったように今の自分の感情がどういうものか感じられずにいると、男の人が一歩前へ踏み出す。さらに一歩。また一歩。私は動けなかった。
「えっと……あの…う、わっ!?」
素早く私の手を取った彼は凄まじい力でグングン私を引っ張るので、自然と一歩、二歩、と足がどんどん出ていく。初めて会う人なのに不思議と恐怖心は全く湧かなくて…。こんな感覚が初めてで自分で自分がよく分からないまま彼についていくような形で足が進んだ。
「苗字」
「わっ」
こけそうになっても男の人がしっかり腕を持ってくれているので転げずに済み、そのまま脇道に入るなり、大きな身体に身を包まれる。おろしたてのスーツと男性が好む香水の匂いがした。ついさっき会ったばっかりの人に抱きしめられているのに全然嫌じゃな感じがしなくて本当に何がどうなっているのか全然分からない。
「死んだのかと、……ばかり」
死んだ?私が?彼のセリフに八年前に海辺で打ち上げられていたという話が脳裏を過る。この人はひょっとして、ひょっとすると、私のことを何か知っているのだろうか。ごくりと生唾を飲み込んだ。
「あの……すみません…私のこと…知ってるんですか?」
私を抱きしめる大きな体が硬直したのが分かって、もしかして今のセリフでこの人を傷つけてしまっただろうかとすぐに後悔した。他に言い方があっただろうに…!
「ごめんなさい。私、実は八年前より昔の記憶が無くって」
「…八年前?」
たっぷりの間の後、フウと彼の自分を落ち着けさせるためのため息が背中越しに聞こえた。
「少し……私と話しする時間をいただけませんか」
必死に震える声を抑えているのが痛いくらいに伝わった彼の要望を私は何も疑わずに首を縦に振った。
私をそっと解放して「伊地知さん、私を今朝下ろした場所までお願いします」スマホを取り出して誰かに電話をかけたその人は、一呼吸を置いてから私に場所を移すと言って足を進めた。
道中彼は「先ほどは取り乱したり、色々と失礼を致し、申し訳ありませんでした。私は七海建人と申します」と丁寧に、尚且つ私の表情を伺うように自己紹介をした。
「ナナミ、ケントさんですね。私は東雲名前です」と答えると、ナナミさんの眼鏡越しの目が僅かに見開かれたような気がした。それがどういう気持ちから来る表情なのかは今の私には汲み取る力はなかった。
「七海さんお待たせしました」
サラリーマン風の男の人が乗ってきた車が駐車場に停まった。二人きりで話がしたかったナナミさんは運転手さんに「二人にしてもらえますか」と伝えると、彼は私を一目見てはぺこりと頷いてどこかへ行ってしまった。
車の中で話す、ということだろうか。というかこの人、運転手つきだなんてお金持ち…かなんかなのだろうか。日本人じゃなさそうだし、どっかの御曹司、とか?
「不安であれば車のドアは開けっぱなしで構いません。だからどうか、」
「大丈夫です、乗りますよ。ドアも閉めます」
「いえ、そこまで無理してほしくて誘ったわけではありません」
「私、ナナミさんのこと不思議と初めましてな感じがしないんですよね」
「……そう、ですか」
「こっちから乗りますね」
後部座席に乗り込んでドアを閉める。全く緊張していないと言ったら嘘だ。
けど、その緊張は会って間もない人と同乗する緊張ではなくて、これから何かを知れる期待からくる緊張の種類だった。ナナミさんも後部座席に乗り込みドアを閉めると、車内の冷房に包まれて、蝉の鳴き声が少しだけ小さくなった。
細長く息を吐き、少しだけ項垂れたナナミさんを横目でチラッと見た。なかなか喋り出さない。私から切り出した方がいいのか、それとももう少しこの人が落ち着くのを待っていた方がいいのか。
「……苗字名前」
「え?」
「それが本当にあなたの名前です」
「そうなんですか?」
「ええ」
徐にビジネスバッグから小さなポーチを取り出すと、一枚のプラスチックカードと洋服ボタンを取り出し「これ分かりますか?」とおずおずナナミさんに差し出してみた。
廃れた学生証と学生服のボタンだ。昔の私と今の私を繋げる唯一のアイテムだ。それ一目見た瞬間、ナナミさんは眼鏡を外して目頭を押さえるので言葉に詰まってしまった。
「…苗字なんですね…。なんか変な感じ…でもしっくり来るような…」
「えぇ…失礼なのは承知の上で尋ねます。…東雲とはどこから…?」
「あぁ、八年前に私を助けてくれた人が就籍を取る際に提案してくれたんですよ」
苗字かぁ…心の中でつぶやくも、何もピンと来るものがなかった。こんな外見が良い人、きっと昔だって麗しい見た目をしていただろうに、全然思い出せない。また沈黙が続く。
「…私とあなたは高校時代の同級生でしたよ」
「そう…だったんですか」
「はい。同級生は三人でした」
「少なっ」
「あなたと、私と、それから……もう一人」
「もう一人」のセリフでナナミさんは顔を上げた。少し目じりを赤くしていたが、怒っているわけじゃない。苦しそうに眉間に皺を寄せながら背中を丸めた姿勢のまま私を見上げた。
もう一人、その人は今何をしているんだろうか。その同級生が三人しかいない高校で何を教わっていたのだろうか。ありとあらゆる疑問がどんどん浮かんでくる。
「宗教系の学校ですよ」
「……はい?」
「東京の山奥にある高等専門学校です」
「へぇ、宗教、ですか」
「そうです」
「なんでそんなところに入ってたんだろう私」
「……分かりませんよ」
重々しく言葉を連ねるナナミさんは一つ一つ慎重に言葉を選んでいるように見えた。
どうしてそんなに苦しそうな顔をするのか。それをさせている原因が私だとしたら、解決させてあげることはできるのだろうか。
21.08.02(一部加筆修正)
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