新宿区内で発生した一級呪霊討伐任務を終え、戦闘で少し乱れたジャケットとワイシャツの襟元を正しながら大通りに出る。腕時計で時間を確認したところ、このまま高専に戻れば定時三十分前に到着といったところか。
報告書は"邪魔"さえ入らなければ十五分で終われるはず…定時で帰れれば帰りにワインを一本買い、早く帰って読みかけの本が読みたいところだ。
さて、彼を…伊地知君を呼びますか。
少し離れたところで待機をしているはずの彼の番号をスマホから探し、耳に当て一息つくと不意に前方から近づいてくる女性にふと目が止まる。普段は別にその辺の人間に目が止まったりしないが、珍しく視線が人に定まった。身体のサイズにぴったりのスーツを着こなし、手にはビジネスバッグや紙袋。ヒールは歩きにくそうだというのに、足取りはスムーズだ。相当履き慣れているのだろう。
そんな彼女の顔は俯いていて表情は伺えないが、少し肩を落として歩くその背格好は十年前に死んだとされている今は亡き同期を彷彿とさせた。
今月は命日があるからか……やたらその女に彼女を重ねてしまう自分がいて呆れる。
「(…出ませんね、伊地知君)」
呼び出し音しか鳴らないスマホを切り、スーツのジャケットの内ポケットにしまう。前方から近づいてくる彼女とすれ違うために進路方向をずらそうと爪先を少し逸らした瞬間、彼女は不意に短い髪を耳にかけながら顔を上げた。
すれ違い様に横目でその顔を見た瞬間、文字通り視線が釘付けになった。
——まさに亡き同期だった。
高専時代に嫌というくらい毎日付き合わせていた顔、彼女であると確信させる軟骨に空いたピアス。
「……苗字?」
「えっ?」
もう何年も発してないその名前は自分でも驚くくらいしっかり声に出ていた。苗字の名前に反応した彼女は驚いたようにして私の方を振り返り、見上げる。
まるで私が誰であるか確認しているようだった。
「苗字」
もう一度名前を呼び、彼女の顔を目に焼き付けるように凝視した。髪型、髪色は違えども、幼さが消えて垢抜けようとも人の顔は基本的には変わらない。間違いない、早く思い出してくれ。
「えっと……あの…う、わっ!?」
彼女が私の名前を呼ぶのを待ちきれず、少し乱暴に腕を掴んで元来た道を歩き、人気のない路地裏に連れ込んで衝動的に華奢な体を抱きしめた。許して欲しい。全てを許してくれと懇願するように小さい身体を掻き抱く。
「苗字」
「わっ」
思えば学生時代こうして抱きしめたことは一度もなかった。ただの同期だったからのだから当たり前だろう。こんなに小さかったのかと思い知らされ、こんな小さな体にあの日全て背負わせてしまったと激しい後悔の念に苛まれる。
「死んだのかと、……ばかり」
思っていたよりも震えた声が出て一級術師でありながら情けないと思った。
生きていたなら何故帰って来なかった、何故連絡の一つ寄越さなかった、言ってやりたいことは山ほど出てくる。
「あの……すみません…私のこと…知ってるんですか?」
途端に頭の中が真っ白になるのが分かり、同時に血の気が引く。
まさか早まったのか、人違いだったか。いや、しかし、何度も共に死線を乗り越えた仲間の顔を見間違うはずがない。あの軟骨に空いたピアスホールの存在が私に彼女が"そう"であると自信をつけてくる。
ならば何故彼女はそんな嘘をつく?短時間で思考が目まぐるしく変化する中、その答えはこの後のセリフですぐに分かった。
「ごめんなさい。私、実は八年前より昔の記憶が無くって」
「…八年前?」
彼女が死んだとされたのは十年前だ。それを腕の中にいる女は八年前と言った。なんだ?ただの偶然か?……いや、一つの可能性が脳裏をよぎる。
呪霊の結界は極稀に現実世界との差異を引き起こすことがある…。
私は彼女を解放し、もう一度顔を見るとやはり間違えようがなくて安堵のため息を小さく吐いた。……推測が正しければ、彼女は産土神の呪霊の…結果か何かに閉じ込められ、解放されたら一、二年後になっていて、記憶も無くしていた…この説が有力そうだ。
「少し……私と話しする時間をいただけませんか」
まさか自分からこんなにも懇願するような声が出るとは思わなかった。
もし彼女が本当に記憶喪失であったのならば、彼女の立場からしたら突然見知らぬ男に知らぬ名前を呼ばれて、連行されて抱き締められて…相当恐怖を覚えるに違いないと少し頭が痛くなる。警察に連絡されても何もおかしくはないのだ。完全に早まってしまったからには断られる可能性が高かった。
「…!」
腹を括りながら彼女を見ればあっさりと首を縦に振るものだから呆気に取られてしまう。断られなかったことに密かに胸を撫で下ろし、伊地知君に再度電話をかけ直すとツーコールで出た彼に「私を今朝下ろした場所までお願いします」と合流を促した。
道中とにかく先の失礼を丁寧に詫び、自分の名前を名乗れば「ナナミ、ケントさんですね」と、高専時代の時とは違う他人行儀な呼び方をされ、続けて彼女は「私は東雲名前です」と、苗字ではなく東雲と名乗った。
その瞬間、脳裏に一つ上の学年の先輩の姿がよぎる。…嗚呼、余計に頭が痛くなりそうだ。
「七海さんお待たせしました」
任務前に降ろされた駐車場に来た伊地知君は彼女の姿を見て戸惑いを見せるので「二人にしてもらえますか」と伝えると、何を思ったのか知らないが頭を下げてその場を立ち去ってくれた。遠退く小さな背に帰りにお詫びにコーヒーを一杯ご馳走しますと心の中で伝える。
それから苗字を横目に見れば彼女は黒い高専専用車の中を眺めていて、そこでまた自分は冷静ではなかったことを思い知らされた。カフェや飲食店では誰がどこで聞いているか分からないから比較的安全に会話ができそうな車の中でと思ったのだが、これは完全に判断を誤った、と思う。先に失礼をしたばかりにも関わらず、今度は車で二人きりになろうとは浅はかすぎた。
「車のドアは開けっぱなしで構いません。だからどうか、」
「大丈夫です、乗りますよ。ドアも閉めます」
「いえ、そこまで無理してほしくて誘ったわけではありません」
「私、ナナミさんのこと不思議と初めましてな感じがしないんですよね」
「……そう、ですか」
「こっちから乗りますね」
本当に記憶が無いなら何を根拠に私を信じるのか…正直理解し難い。さっさと後部座席に乗り込んでドアを閉める彼女にまた少し頭を抱えた。昔から微妙にズレている危機管理能力は健在らしい。当時はかなり困ったものだが、流石に今回は助けられた。
彼女が乗り込んだドアとは反対側から後部座席に乗り込んでドアを閉める。何から話したものかとつい両膝に肘をついて、額に手を当てる。彼女は私の出方を窺っているのか、特に何も口にしない。
そうだ、まずはと少し顔を上げた。
「……苗字名前」
「え?」
「それが本当のあなたの名前です」
「そうなんですか?」
「ええ」
そういって彼女は徐にビジネスバッグから小さなポーチを取り出すと、一枚のプラスチックカードと洋服ボタンを取り出し「これ分かりますか?」とおずおず私に差し出してきた。
手中にある廃れた学生証と学生服のボタンを見た瞬間、十年前の出来事が一気に頭の中を駆け巡り、ついに堪えきれずに眼鏡を外して熱い目頭を押さえた。
気持ちが落ち着いた頃にもう一度学生証を見せてもらい、その際についでに左手の薬指を見るも、そこには指輪は何一つ身についていない。それから学生証へ視線を移すと、学校名と苗字の部分がすっかり剥げてしまってるのが分かる。なるほど、記憶喪失に加えて手元にある情報がこれでは……、高専まで戻れるわけがなかった。
「…苗字ですか、なんか変な感じ…でもしっくり来るような…」
「失礼なのは承知の上で尋ねます。…東雲とはどこから…?」
私達も身を固めてもおかしくはない年ではあるが、差しさわりの無い程度に確認をさせてもらえば、彼女は「あぁ、八年前に私を助けてくれた人が就籍を取る際に付けてくれたんです」そう言って、彼女は自分の身に起きたことを語った。
彼女の話によれば八年前に日本海側の岸に打ち上げられ保護されたがその時にはもう記憶が無かったらしい。保護されてから一年後、命の恩人の元で働くことになり、その際に就籍が必要で東雲という名前で取ったという。勤務歴は七年。勤めている会社は私も耳にしたことのある、日本で有名な某スーツメーカーだ。
苗字は二月ほど前から東京へ異動、今では新宿支店で働いているらしい。こうしてまた東京へ戻ってくるあたりは何かの縁を感じさせる。
「…私とあなたは高校時代の同級生でしたよ」
懐かしい学生証を返しながら私達の関係を伝えた。先に失礼なことをしたのだから、ここは関係性を明確化しておく必要があると感じた。
「そう…だったんですか」
「はい」
恐らく彼女はピンと来ていないことだろう。
「同級生は三人でした」
「少なっ」
「あなたと、私と、それから……もう一人」
覚えていませんか。私は十年前、一日で二人の同期を亡くしたんですよ。何か思い出してくれと少し祈ったが、彼女の表情に変化はない。
「なんの、学校だったんですか?」
こうも聞かれてしまえば、今は彼女は一般人として接するのが最適だろう。眼鏡をかけ直す。
「宗教系の学校ですよ」
「……はい?」
「…東京の山奥にある高等専門学校です」
「へぇ、宗教、ですか」
「そうです」
「なんでそんなところに入ってたんだろう私」
「……分かりませんよ」
入った理由…か。そこまで話をしたことがなかったなと、ふと学生時代のことを思い浮かべた。
「突然行方不明になったんですよあなたは」
「………そうでしたか」
「…しかし、生きていることが分かって安心しました。こんな時間になるまでお話しする機会を与えてくださって本当に感謝します」
「あ、結構暗くなってしまいましたね」
苗字がふと窓の外を見上げる表情は、学生時代にも見たことがあって懐かしい気持ちにさせられた。
「(…元関係者とはいえ、もう彼女は一般人だ)」
あまり長居して根掘り葉掘り聞かれてもいずれ返答に詰まってしまうだろう。ここら辺で別れるのが最適だ。彼女に時間を作ってくれた礼を述べ、伊地知君を呼ぶべくスマホを内ポケットから取り出した。彼女を希望の目的地まで近くまで送るよう頼むとしよう。
伊地知君に電話をかけながら彼の姿を探すふりして隣にいる彼女を盗み見する。苗字はこうして生きていて、過去を切り離して一般人となった。今更こちらの世界に引っ張る訳にはいかない。今日の非礼ことは本当に申し訳なかったと思っているが、もう私のことは忘れて欲しいとも思っている。
…あの日のことは私だけが覚えていればいい。
それから伊地知君に来てもらい、彼女が希望した家の近くの公園まで送り届けてもらい、二人で降りて少し歩く。
「今日は突然引き留めたりしてすみませんでした」
この辺で見切りをつけ、足を止める。
「あっ、いえっ、むしろありがとうございました。……それから、あの、良ければなんですが連絡先を、「今日のこと、私のことはどうぞ忘れてくださって構いません。ではどうかお元気で」……へ?」
頭を下げ一礼してから踵を返し足を進める。今から高専に戻って報告書を提出となるとしっかり残業タイムに突入するが、微塵も悪い気はしない。少しだけ過去の柵から抜け出せたような、肩の荷が下りたような、そんな気分だ。それでも灰原の死はなかったことにはならないが。
苗字、あなたはそのままでいてください。普通に生きていてください。灰原のことは私が覚えていれば、
「——はくじょうもの」
すっと入ってきたセリフに止まる思考と足。
明らかに先ほど車の中で話していた雰囲気とは打って変わり、突然くだけたような声のトーンになった彼女に違和感を覚える。まるで親しい友人に話しかけるような声色だったのだ。
少しだけ、動揺しつつ振り返ればそこにはひどく悲しそうで今にも泣きだしそうな顔をした苗字が。
まさかとも思うが確信が持てない。あなたは、今のあなたは苗字なのか、東雲なのか。
「七海ぃ…!!ごめぇん…!!」
そう言った彼女の目元から大粒の涙が零れ落ちた。
21.08.02(一部加筆修正)
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