「手、つめた!今八月だよ?寒いの?」
背後から聞こえた声と一緒に手中にいた呪霊が祓われて消え、被さった大きい手が緩く握ってくる。その手が暖かいと感じ取れるくらい私の手は冷え切っていた。
「(う、そ…)」
何年振りかに聞いた胸のあたりがくすぐったくなるような…、それから普通の人よりも高いところから聞こえる声に全身が氷水を被ったみたいにどんどん血の気が引いていく。
通行人達の視線が私と、私の後ろに向けられ、特に後ろに向けられる視線の位置が高くて、嫌な予感しかしない。心臓がドクドク激しく脈打っているのがわかる。
「やあやあ名前。十年ぶりなんじゃない?」
耳元でそう囁く声。横を向いたら絶対"いる"から、向くに向けない。いや、真横でも後ろでも振り返れない。
「あらら、シカト?えー悲しいなぁ僕」
いや、まさか、そんな、うそ、いや、と固まっていると、握られた手をやんわりこじ開けられて手の甲側から指を絡められ、「ねぇ」低い声と一緒に痛いくらいに強く握り込まれる。
「東雲ってさ、どういうこと」
「い゛っ」
ひどくドスの効いた声と軋む手に驚いて、ばっと振り向こうとした途端、
「そうだ、高いところ好きだっけ?」
「え」
瞬きと同時に突然変わった視界。目の前に広がる東京の夜景に「へ」と呆気に取られる。
ちょっと待って、今私新宿駅にいたと思ったんだけど。なんでこんなビルの屋上にいるんだ…?
「逃げられたら面倒だからねー」
「お前がこの僕から逃げられるとは思えないけど」笑いを含むその声に腹を括り、恐る恐る後ろを振り返ると、真っ先に視界に入ったのは目元を覆う包帯。後から入ってきた情報は、白髪で長身を黒で統一させていたことくらいだ。
…あれ、なんか思ってた人と違う…?何度か瞬きを繰り返すけど、そこにいる人物の姿形が変わるわけでもなくて、頭の中が混乱する。
「え、と………」
「ん?」
「どなた、ですか」
「はっ?…あぁ、コレか」
ぱっと私の手を離し、その手で包帯を下げるその一つ一つの動作はスローモーションのようにゆっくり動いて見えた。包帯で逆立っていた髪は柔らかく垂れ下がり、目元には髪の色と同じ睫毛が姿を現す。
「コレでわかるっしょ?」
その睫毛の下から現れたアイスブルーの双眼がまっすぐに私を射抜いた。瞳の青が夜景のいろんな光を吸収して、ゆらゆらと輝きを放つ。
——御尊顔、昔硝子先輩がふざけながら言ってた言葉を思い出す。
「おーい、名前?」
呆然とする私に「え、起きてる?もしかして僕のこと忘れちゃった?」なんておちゃらけたように手をブンブン振るその人と、過去の記憶の中にいたあの人がマッチしない。いや、外見は間違いなく当てはまってるんだけど、あの人はそんな人懐っこい仕草をする人ではない、はずだ。でも、あの人以外にこんな綺麗な顔を持っている人は心当たりがなくて。
「…ごじょう、さん?」
どう考えてもこれしか思い当たらない名前を恐る恐る述べると、なんだ覚えてるじゃんと言いたげに五条さんは「うん」と言って笑った。五条さんで合ってた……いやでも、あなたそうやってにこやかに笑うキャラじゃなかった……でしょ…?
「なんで、」
「お前、呪力のコントロール下手くそ」
「…は?」
「何日か前に伊地知の車ん中で感情乱しただろ。残穢がっつり残ってたんだよ。素人か。相変わらずすぎて呆れんだけど」
「んなっ!」
途端に人が変わったかのようにべらべら語っては馬鹿にされ、ついカチンと来た。
この、人を煽る言い方にやっぱり目の前にいる人はあの五条さんなんだと思い知らされて、心のすごい端っこでホッとする。いや、そりゃ十年も時間があれば性格だって少し変わるだろうけど、これは変わりすぎて人違いの錯覚を起こすレベルだ。顔はすっかり大人の顔にはなっていたが、基本的なところは変わらなくて、……ただ性格が整形レベルだろ!
昔から性格矯正したほうがいいとは思ってたけど、…ここまで変わられると逆に怖いわ。
「それで?なんで生きてるの黙ってた」
急に下がった声、絶妙に開いた距離を詰められて、「う、」と息が止まった。ぐっと近づいた双眼に心臓が萎縮する。このままだと寿命が縮むんじゃないかと場違いなことを少し思ってしまった。
「…それは、」
「それは?」
目は口ほどに物を言う。口以上に。
あの双眼から五条さんが怒りに満ち溢れているのが伝わって、上手く言葉にできない。とにかくなにか言わないと。そんな焦りと、明らかな怒気を纏う五条さんに気圧されてしまい、頭が混乱してうまく言葉を紡げない。
「……はぁああっ」
突然大きな溜息を吐いた五条さんにビクリと肩が大袈裟に跳ねた。それから私の左腕を持ち上げて左手を見てしばし眺めると、その腕を強く引っ張ってくるから、予想だにしなかった行動に驚いて私は五条さんの胸板に額と鼻がぶつかった。「うぶっ」とつい出た声が可愛くないなと頭の片隅で思っていたら、そのままぎゅう、と緩い力で抱きすくめられる。
「名前」
「…は、はい」
「名前だよね?」
「そうですね」
「名前名前名前名前」
「や、あの、ちょっと恥ずかしいんで勘弁してください…」
「いいじゃん別にここ誰も来ないし」
「いや、そういう問題では…。毛蟹とかポンコツなら連呼していいんでそっちにしてくれませんか」
ぴくっと五条さんの体が揺れる。今まで下の名前で呼んだことなかったくせに急に呼ぶとかズルくない?あれ、あったっけ?十年も前だと全然覚えてないや。
なんとか黙らせたくて、他に言い方なかったかと思ったら昔勝手につけられたあだ名を思い出した。毛蟹懐かしいなぁ…呼ばれてた理由は記憶喪失とか関係なく忘れたけど。
「名前名前名前名前」
「う゛っ」
ぎゅっと強くなった腕に背中のどっかの関節がポキって言った。みしみし音を立てる体に、どこか折られるのではないかと冷や冷やする。どんな誰よりも一番痛い抱擁だよコレ。熱い抱擁なんて可愛いヤツじゃない、下手したら死ぬぞ。
…でもその痛さから、相当心配させてしまったんだと体よりも胸が痛んだ。
「お前さぁ、僕が十年前どんな思いであの凄惨な現場を見たと思ってんの」
先程の五条さんの威圧的な声から一転、突然弱々しい声に打って変わって瞠目した。それから小さな声で「なんだよ…」と力なく言う。その言葉で"あの後"は五条さんが派遣されたのかと知らされる。
「ご、五条さん」
「なに」
「…すみません…。すみませんでした」
「ふざけんな、絶対許さないから。一生」
「…で、ですよね…」
痛い抱擁を少しでも罪滅ぼしになればと黙って受け入れる。きっと夏油先輩も硝子先輩も同じような展開になりそうだな……夏油先輩も痛そうだ、なんて思いながらミシミシ言う体に顔を歪め、それから心を痛めた。
「まじで……もうホント勘弁して…」
「…すみません」
居た堪れなくなって視線を下げると五条さんは体を離し、長い人差し指を私の額に何度も何度も突いてきた。
「いだっ」
「言いなよ全部」
「いたいっ!」
「あの日何があったか洗いざらい話すこと」
「いだっ」
「合コンの話になったところまでね」
「いてっ、……って、聞いてたんですか!?」
「…うん」
またぎゅう、と抱きすくめられて五条さんの香りに包まれる。この人こういう絶対キャラじゃなかった。なに?寧ろこっちの方が何があったか話してくれってレベルなんですけど。七海でもハグは最初の一回だけだったよ。
それに加えてこの体勢。五条さんアホみたいに背が高いからこうも覆いかぶさるようにかかってこられると首と背中が絶妙にのけ反っててて辛い。学生時代にあんまりここまで至近距離にいた記憶がないんだけど、この人また背伸びてないか?
「な、長くなると思うんですけど…、また後日じゃダメですか?あの、ちゃんと連絡先、教えますから…」
「ダメ」
「あと、あの、この体勢首と背中痛くってですね…」
「じゃあ行く」
「どこにですか」
「お前んち」
「…………ん?……はい!?」
「場所どこ。トぶから」
「はっ?」
言ってることがめちゃくちゃで、五条さんのセリフを消化できずにいると「ノロマ」と舌打ちされ、次の瞬間には小脇に抱えられた状態で見知らぬマンションの上空に五条さんと一緒に宙ぶらりんに。
お願いだからちょっと待ってくれ。いろいろと頭が追いつかないんだってホント。
五条さんはまるで足元に透明の地面でもあるかのようにテクテクと、さながらジブリのワンシーンみたいに宙を歩いて行くと、マンションの最上階にある手すりに足をかけ、そこからようやく目に見える床に着地。五条さんが迷うことなく手をかけたベランダのガラス扉は鍵はかかってないらしく、あっさり開かれた。
え、なにここ、まさか。
「僕んち」
「はっ、うぶっ!?」
黒い遮光カーテンを荒々しく開くとその先には明かりがないせいで一瞬真っ暗に見えた。数回の瞬きで目を慣らし、近くにあった高そうな革張りのソファの存在に気付いた直後、あろうことか顔面からぶん投げられる。
私女なのに顔からいくか普通!?それと靴!靴!と怒りと焦りに感情をもみくちゃにされながらワタワタ体を起こすと私とソファの間に五条さんの長い脚と大きい体が割り込んで、後ろから長い腕が体に巻きつかれて抱きつかれてしまった。
ちょっと待って、お願いだから待って!ただでさえ十年ぶりに会ってで緊張してるのに、こんなんされたらマジで頭と心臓が辛くてもたない!
「あ、あの五条さん…!?」
「ん」
ん、って…。これで良いだろ話せよ、ってことか?いやいや。側から見たらソファで靴脱ごうとしてる女に後ろから大男がくっついてる絵面、なんですけど。
「あの、靴脱ぎたいんですけど…」
「ん」
いやだから、ん、って何。…離さない、のか?
恐る恐る前屈みになってみると素直に私の体の動きに合わせてくれる体…動くな、というわけではなさそうだったので、とりあえず脱いだ靴は持っていたバッグの上に横向きにして置いた。
「名前」
「はい?」
「名前」
「…ハイハイ、話しますよ」
「ハイは一回でしょ」
「…ハイ」
うーん、さて、どっから話しましょうかねと私は十年前のあの日の記憶を手繰り寄せた。
21.08.02(一部加筆修正)
まにまにtop
top