今思えば、あの呪いと灰原の相性は最悪だったと苗字は思う。
話は十年前、土埃っぽさと夏のじめじめとした空気が入り混じったあの八月某日へと遡る。
当時高専二年の二級術師七海建人、灰原雄、苗字名前は東北地方の限界集落の地に降り立っていた。時刻は昼時ではあったが、補助監督による帳が降りていた状況で辺りは夜のように暗い。その静寂とした空間の一端で突如轟音が響き、森の中から砂埃が立ち上がる。
「いっ、たぁ…!」
「苗字大丈夫か!?」
「大丈夫!貼れた!」
砂埃の中からひょっこり姿を表したのが苗字。彼女を庇うように立ったのが同期の七海と灰原だ。様子を窺うように名前を呼ばれた苗字はなんでもない様に立ち上がり、薙刀の形をした一級呪具を構える。
前方から地響きを鳴らしながらゆったりとした足取りで近づいてくるのが今回の祓除対象の二級呪霊だ。
六メートルはとうに超えた巨体には、体のおおよそ七割を占める一つの目玉がついており、どこまでも見透かしてしまいそうな雰囲気が異質で不気味であった。左右には苗字の身長と同じくらいの耳がついており、こちらも小さい声、遠くの声が聞こえるように備わったように感じ取れる。地面に着く脚とぶら下がる手は果たして何本あるのか、数える気を失わせる。これが産土神信仰の影響によって生み出された呪霊だ。
「この近辺の人達、自分がこんなの信仰してたって知ったら信者の皆さん卒倒しちゃうだろうなあ」
「そもそも神の存在自体が人間が作り上げた創造の生き物。それに子供の安寧どうこう任せたり自分が老後楽になるように願えばそりゃ拗れてこんなにもなりますよ」
「ははっ、七海辛口すぎ!」
目の前に迫ってきた祓除対象から法螺貝のような鼓膜が揺れる叫び声が響く。痛々しい殺気と呪力に充てられ、つい薙刀を握る手に力が入ると一緒に持っていた呪符がくしゃりと音を立てて少し形を変えた。それに灰原が一瞬だけ視線を送り、また呪霊へと視線を戻す。
「破るなよ苗字」
「ハイハイ」
苗字の手中に握られている呪符は灰原雄の呪力から作られたものである。
灰原の術式は呪符・護符を使った呪術であり、祓除対象である呪霊に己の呪力を込めた札を貼り付け、言霊で術式を発動させる遠隔操作タイプの術式であった。似たような呪術に呪言師があるが、呪言師はその場で術式を発動できる即効性と手軽さ、それに伴う反動はあれども、呪符と言霊を扱う灰原の術式は呪符を貼らなければならないと言うデメリットがあるが、その分言霊を放った後の反動が無いのが特徴であった。
故に灰原は後衛に、接近タイプの苗字と七海で間合いを詰めのが彼ら二年の戦闘スタイルとなる。この日も例にもれなく苗字と七海が先陣を駆け抜けていく。
「ふう……っよし!」
苗字は術式で強化した肉体と呪具で呪霊に思いきり叩き込む、が、刃が弾かれ、崩れかけた態勢を整える。今日はこんなのばっかりと小さく舌打ちをした。
「…ぐぅっ…硬いなぁアイツ…!」
「苗字、呪符は残り何枚ですか」
「二枚!」
苗字の横に並んだ七海は急所は交わしているが所々負傷している。しかしそれを物ともせず苗字に呪符の数を尋ねた。
灰原の持つ呪術の一つには呪霊を一瞬で完全祓除することができる術式が存在する。しかしそれには専用の呪符を五枚、呪霊の血が湧いている場所…即ち傷口に貼り付ける必要があった。先刻苗字が吹っ飛ばされた拍子に一枚貼れたため、残りは二枚となっている。
「あなたは貼ることに集中を。私の術式で叩き斬ります」
「わかった」
「苗字!七海!僕も応戦を…!」
「いえ、あなたは完全封祓のために温存してもらわなければ困ります。…苗字」
「ハイハイ」
「ハイは一回」
「ハーイ」
「…」
七海の持つ確実に弱点を生み出す術式――十劃呪法で活路を開く。
「灰原!」
「任せろ!ーーーー」
全ての呪符を貼りつけ、灰原の言霊が始まるのを耳にした二人が身を引いたその瞬間、呪霊の威圧感が増加した。まるで激昂した龍のように。
呪霊が抵抗をしているのか、そう気づいた瞬間バチンと雷撃が近くで音を立てる。
「がっ、は……っ!?」
「は、灰原!?」
突然血反吐を吐き出した灰原。
呪霊が灰原の術式に抵抗し、呪符を介して保持者の灰原へ己の呪力を叩き込んだせいだった。苗字と七海はそれに気を取られて視線を灰原に向けるが、それが命取りだった。
「しまっ、」
「七海!」
呪霊の触手に七海が弾かれ、岩壁に叩き込まれる。まずい、まずい。何が起こった?苗字に状況を理解させてくれる時間もくれないまま呪霊の手が灰原に伸ばされ、苗字が伸び続ける腕に向かって刃を振り下ろした。
「私が…ッ、いるでしょーよ!!!」
ズバンと派手な轟音を立てながら切断できた腕に手応えを感じ、そのまま反撃に移る。伸ばした部分は脆くなるらしく、そのタイミングを逃さないよう地面を蹴った。
なんなんだこれは、なんなんだこいつ。
不意に七海が吹っ飛ばされた方から瓦礫が続々と落ちる音が聞こえ、戦いの合間にそちらに視線を移すとぐったり岩壁に身を預けて俯く七海の姿が。彼の特徴でもあるあの綺麗なブロンドヘアから血が滲み出ているのが遠くからでもわかった。頭を打ったとなれば、恐らく気絶している。
くそ、と苗字が顔を歪めると、灰原の完全祓除の術式が相当癇に障ったらしい呪霊がいやに感情的に当たり散らかし始めた。
『あア゛あああァア゛アア!イタイ痛い゛いたいヒドイいたいイイイ゛!!』
「うっ…!?」
背後から迫っていた触手に気付かずそのまま頭を殴られて視界がぐらつく苗字。しかし視界の端で七海へと伸びる二本の触手の存在を視認すると、なんとか意識を踏み留め、体を回転を生かして薙刀を振る。
しかし触手は一本しか斬り落とせず、残りの一本が無情にも意識のない七海へと伸ばされた。
「っ、七海!……あっ…?」
脳震盪でぐらつく体、思うように動かない体のせいで受け身を取れず地面に転がり、どうにか起き上がると苗字の視界には信じがたい光景が飛び込んできた。息がひゅっと詰まる。
「――灰原ぁぁぁああっ!!!」
苗字の叫声を耳にした七海が意識を取り戻し、目を覚ます。
「う、…」
自分に何が起こったのか、今はどうなっているのか、ぼやける視界に何度か瞬きを繰り返すと自分に降りた影、そこに広がる血が視界に入った。それから自分が気絶していたことに気付いてはっと顔を上げると、もう何度も見てきた同期の背中がそこにあった。その真中には血塗れの呪霊の触手が突き出ている。
瞬きすることさえできずにその背中を見ていると、背中の持ち主が「ごほっ」と咳き込み、足元に血が散らばった。
「はい…ばら…?」
「七海、…ごめん、あと、は……まかせたよ」
少し後ろを振り返りながら人懐っこい笑顔でそう言う灰原に七海は身動きひとつできずに見上げる。状況が飲み込めない。目の前の出来事を脳が、心が、全身が拒絶していた。
「う゛、あ゛あぁあ゛ああ!!」
「――っ!」
苗字の叫喚に思考が現実に引き戻された七海は、びくりと動いた手を素早く動かし近くに転がっていた呪具を手に取っては灰原の前に潜り込んでその触手を斬り落とす。
一心不乱で呪霊に向かう苗字の名前と、それから抑制を促すセリフを叫びながら崩れ落ちる灰原の体を受け止めた。
「灰原…っ」
虚ろな眼差し、息絶え絶えな腕中の同期を見下ろしたところでようやく状況を受け入れる。七海が沈痛な表情を浮かべた。
これはどう考えても二級討伐案件ではない、自分達の力量の範疇を超えている。その思った瞬間、轟音が響いて視線を上げる。苗字が呪霊に何度も呪具を振り下ろす音だった。あの彼女が、なるべく呪霊を苦しませないように一撃で仕留める優しい彼女が何度も刃を振り下ろす光景は七海には異様に見えた。
それだけの事態が今起こっている。
「苗字!!苗字やめろ!撤退だ!!」
「ななみ、」
「灰原の救命優先!」
「……分かった」
七海は咄嗟に灰原を肩に抱え駆け出すと、苗字もその後を追うように駆け出す。彼女の目尻には涙が溜まっていた。
「クソ……これは一級案件だ…!!」
「灰原!ねぇ!寝ちゃだめだよ!!いやだ!寝たら…寝たら妹に会えないよ…!?」
「…っ」
『ア゛ッアアヒドイ酷いイダイィイ!』
「!」
背後からの悍ましい叫声に僅かに後ろを振り返り見ると、呪霊の触手が眼前に迫る。その瞬間苗字の目つきが変わるのを七海は見逃さなかった。
「苗字やめろ!構うな!!」
七海が叫ぶと同時に苗字は体を捻り、後ろを振り返っては触手を斬り落とし、呪霊の体のおおよそ七割を占めている巨大な目玉をありったけの力を込めて足蹴にし転ばせた。
すぐさま指を二つ揃え、印を組み、
「闇より出でて闇より黒くその穢れを禊ぎ祓えぇえ!!!」
帳を下ろす言葉を泣き叫ぶように言い放つ。
「苗字!」
「七海…灰原をお願い…!」
「やめろ、…やめろ苗字!戻れ!」
帳が完全に下りる寸前、苗字は術式で地面を蹴りその闇色の中へと消えていった。この帳はおそらくあの呪霊と苗字以外は何人たりとも立ち入ることはできない。直感的にそう感じた。
「今まで帳を一つ下ろすのに散々手こずってたクセになぜ土壇場で……!クソ…!!」
腕中の灰原の上擦る呼吸に、一瞬我に返る。まずは灰原を補助監督の元に連れて行き、灰原の処置を……それから応援申請だ。五条悟、あの人だ。
あの人なら必ず苗字を助けてくれると信じて七海は地面を蹴った。
◼
所変わって帳の中。
『ヒドイイタイイィァア゛アア…!』
「お望み通り残ったよ。これで満足ですか?カミサマ」
呪霊は相変わらず興奮しているようで今に飛びかかってきてもおかしく無い。謂わば一触即発状態だった。灰原の腹に穴を開けたことに激昂した苗字は、呪力抑えのピアスを荒々しくはぎ取り、手の中で転がるそれを見下ろした。
満月期は過ぎており、あまり良い状況とは言えなかったがもはやなりふり構っていられなかった。ピアスをその辺に放り投げて、目元の涙を雑に拭い取って薙刀を構える。
初っ端からアレをやるしかなさそうだと集中力を高めるために深呼吸を繰り返す。思い出せ、あの時のことを。
「――領域展開、」
そう口にした直後に苗字の肩から血飛沫が散る。舞う鮮血、熱い肩に何が起こったのか理解できないまま両ひざが地面に着き、身体が傾いていく。
――結論から言えば苗字の領域展開は失敗に終わった。
灰原のことで気が触れており、数時間前から術式で肉体と呪具を強化していたせいで呪力、体力、気力が全て疲弊。領域展開はほんのわずか一瞬開きかけたところで終わり、呪霊に反撃されることとなった。
地面に倒れた苗字を用済みと判断した呪霊は帳へと向かうが帳の向こうへは一向に進めない。苛立ちが募る呪霊、その大きな耳が人間であれば聞き逃してしまいそうなくらい小さな荒い呼吸音を拾った。
「は、…行かせるか…、っ、くそったれ…!」
苗字だ。死に間際でありながら、意地でも意識を維持させ、帳を決して上げずに踏み止まっていた。少しでも七海を遠くまで離れさせるために。
『ア゛ア゛アア』
苗字が生きているせいで帳の向こうへ行けないと判断した呪霊がヒタヒタベタベタ音を立てて彼女の元へ向かう。触手を伸ばし、血だらけの苗字に巻きつけて彼女の身体を持ち上げる。まるで苗字の姿形を視認するようにして巨大な目玉の近くまで寄せ付けた。
「こりゃ……流石に詰んだ、わ」
『ア゛アァア゛アア』
霞む視界の中で何度か瞬きを繰り返しながら目をこじ開けると、呪霊の巨眼の下から無駄に多い歯列を揃えた口が開かれる。一寸先は闇だ。
「――呪術師に悔いの死はない」
苗字の脳裏に恩人、夜蛾の言葉が過ぎる。母親を呪いに殺され、呪術師として生きる道を選んだ苗字に向けられた言葉だった。その言葉を今更思い出し、苗字は本当だと一人薄ら笑う。
どうせ死ぬなら、最後は不気味な黒より圧倒的な強さと美しさを纏うあの白を見て死にたかった、と。
「お、まえ…なんて……ごじょ、うさんが………」
全ての言葉を発する前に視覚と体が全て闇に飲まれる苗字。
閉じられた呪霊の口元から「ぶっ殺してくれるんだから…!」と悪あがきするような弱々しい声が聞こえた気がした。
ひび割れた大地を流れ続ける苗字の血が地面に転がるピアスを飲み込むと、それが合図かのように同時に帳が上がる。こうして呪霊は再び自由を得ることとなった。
これが応援に駆けつけた五条悟が到着する三十分ほど前の出来事、全てである。
21.08.02(一部加筆修正)
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