居酒屋の個室で高専関係からの業務内容メールを適当に返していれば、軽い足音が二人分近づいてきて私のいる個室の前でぱったり止まった。それから案内してくれた店員にお礼を伝えるような声が聞こえる。
「お待たせしました硝子先輩!」
からっと開かれた襖を見ると髪の毛をバサバサに散らからせた名前の姿。…走ってきたな。
「おつかれ、名前」
「遅くなってすみません。一年生達との実習でちょっと遅くなりまして…」
「構うかよ。ほら、座りな」
「失礼しまーす」と名前は顔を綻ばせながら鞄を肩から下ろし、掘り炬燵に脚を滑らすように腰をかけた。
「えへへ、硝子先輩と飲めるなんてめちゃくちゃ嬉しいです。夢みたい」
「私もまさかこうして名前と酒を交わせる日が来るなんて思わなかったよ」
飲み放題のメニューを渡せばニマニマしながら眺める名前をテーブルに肘を付きながら眺める。可愛い奴め。
「ここすごいですねぇ、美味しそうなお酒がいっぱい…」
そのセリフに同意の言葉を並べながら手元にあったジョッキを煽った。ここは個人経営創作居酒屋、そんじょそこらのチェーン店とは訳が違う。客席はほぼ個室になっているから少人数でひっそり呑むのも良し、名前の背後にある襖を外せば大人数での宴会も楽しめるような作りだ。高専関係者や呪術師達もここで宴を開いていたりするから、私もここの店長とは仲良くさせてもらっている。
「それで?どうだ最近」
お通しとおしぼりを持ってきた店員に「とりあえず生で」とおっさんみたいなお決まりのセリフとそれから適当につまみをいくつか注文する名前。おしぼりで手を拭いながら一息ついたのを見かねて一言そう言えば、乾いたような笑い声が先に返ってきた。
「…もーそれはそれは…。上からも下からもめちゃくちゃ扱かれてます」
「上は五条、下は一年か」
「ですね。副担任的なポジションを与えられてますけどぶっちゃけ教えられてるの私ですよ。なんとも情けない…」
眉を顰める名前にこっちが眉を顰めた。
いや、アンタ最近あの禪院真希を術式無し、棒だけでやり合ってはっ倒したって五条から聞いたけど…。喉まででかかったセリフはビールと一緒に飲みこんだ。謙虚さを持つことは大事なことだしな。
「高専に来てニヶ月とちょっとか…早いもんだな」
「ですね。空白の十年分たくさん飲み付き合ってくださいよ硝子先輩」
「そりゃこっちのセリフ。まさかお前も酒飲みだとは思わなかったよ」
「硝子先輩の酒豪っぷりは補助監督さんとか噂に聞いてますけど、流石にそこまで飲めないですよ私」
「へぇ、なんなら潰してやろうか。ホテルに連れてく趣味はねーけど解剖室までなら面倒見てやるよ」
「あははー…って、こっわ!」
通路側から「お待たせいたしましたー」と女店員の声が聞こえて名前が短く返事をすると、襖が開かれて注文通りのビールが到着。既に半分ほど減ってる自分のジャッキを持ち上げて小さく乾杯した。直後に気持ちいいくらいにジョッキを煽った名前は余程酒が身に染みたのかワナワナと震えた。
「ぐぅあ゛ぁあああっ」
「よっぽど疲れてんのな」
「ふふふ……昼間は一年生達の授業、鍛錬、実習付き添い。もしくは復職に向けた単独討伐任務。最近はハードになってきて一級術師と同行任務なんかありますよ…」
「……へぇ…」
「もー正直復職できるか危ういですよホント。最近の呪い、レベル高すぎません?下手したら学生時代よりも強いのが多いような気がしてるんですけど」
「……東京は特に、かもな」
「それありますねー。加えて夕方から夜にかけては五条さんとマンツーマンで指導練ですよ?泣いて良いですか?」
「今日よく来れたな」
「フッフッフ!!今日は五条さん出張なんですよ!ようやく一息つける夜が来たってわけなんです!」
「ふーん、ホントお疲れだな。ウチがそんなにブラックだとは思わなかったなー」
「高専じゃなくて五条さん、がブラックですよね」
「ははっ、伊地知も相当苦労してるらしいな」
「典型的なブラック企業の上司ですよあの人。あ、そうだ、今度伊地知さんも呼びましょうよ」
「伊地知?」
「いや…、むしろ今でも良くないですか!?五条さん今二日間出張で不在ですし!いくら最強でもここまで耳は届くまい!よし、そうとなれば!」
名前がスマホをサッと取り出した直後、襖の向こうでドタバタ足音が聞こえた。名前が振り向きかけたところを「とりあえず伊地知は今度にしよ」と止める。
同時に向こうも静かになって一人喉で笑うのを誤魔化すようにジョッキを煽った。
「ま、話は戻るけどさ、つい最近まではあんだけ毎日筋肉痛訴えてたのに今は疲れた顔してるだけで済んでるなら大したもんよ」
「…それ褒め言葉ですか?」
「褒め言葉褒め言葉」
「…まぁ、硝子先輩がそういうならそう受け取っておきますけど…」
「お前が来てから五条は毎日楽しそうだよ。見ててうぜぇ」
「…アレですよね、弱者を愛でるそんな感じのヤツですよね」
「さーな。合ってるかもしれんし違うかもしれんな」
「絶対合ってますよ」名前が持つジョッキがやや煩雑な動きでテーブルの上に置かれる。私は違うと思うけどな。
「五条さんと言えばあの人、この十年で人変わりすぎません?初めて会った時誰この人ってびっくりしましたよ。なんなんですかあの包帯といい僕っ子といい」
「十年越しの再会であぁじゃ、そりゃそうもなるわね」
「目怪我したのかと思えばそうでもなさそうですし…」
「クククッ……ほら、お通し食べな。私はいらないから」
「そうなんですか?ありがとうございます」
続々と運ばれてくる料理をつまみながら、改めて名前から十年前のあの日のことから高専へ戻ってくることになった経緯を全て聞かせてもらった。いやぁ、腹が痛い。
「勝手に寿退社…ふふふっ、無茶苦茶だなぁアイツ。ウケんね」
「ウケませんって…振り回されてる側としてはたまりませんよ…」
「学生時代からそうだったじゃないか。…そうか、最近五条のやつ、やたら伊地知にクリーニング頼んでるなとは思ってたけど、まさかそういうことがあったとはな。…くくくっ…あぁ、暫くお前の話だけで笑ってられるな」
「え、あの人クリーニング頼んでたんですか?…うわぁ…意外ときっちりされてるところあるんですね…」
「いんや、アイツの場合たぶん一般家庭の洗濯とクリーニングが一緒の感覚だと思うよ」
「何ですかその金持ち思想。洗濯機メーカーと全国の洗濯家事に携わってる人達に謝ってほしい」
学生時代の同期がそんなに必死になって名前を高専に呼び戻してくるとはね。……それに加えてコイツの天然さ……もはや特級レベルだな。
お陰でこれだけで笑えて酒が進む進む。
「で?この十年の間で良いヤツはできたのかよ」
「わーこのいぶりがっこ美味しいですね!」
「はぐらかすな。美味しいけど」
「…うーんと、まぁ、その、それなりには仲良くさせていただいた人もいましたよ。まぁ、一時期婚約者とかいましたけど」
「………へぇ」
途端に個室内の気温が一気に氷点下になったような錯覚。名前が素早く後ろを振り返った。
「っ、今殺気が…!?寒気がしました…!呪い…!?」
「あー気のせい気のせい。空調壊れてんだよきっと。空調の方が呪われてるかもね。そんで今はどうなの」
「…意地でもこの話に戻したがりますね硝子先輩…。…さっきの話の流れで居そうに見えますか?」
「あーまぁそうだよな。居たらいたで面白そうだなって」
「めちゃくちゃ面白がられてる私」
「それで、なんでその婚約者とは入籍しなかったんだ?」
「…プロポーズはされてたんですけど、なんというかいざご両親へ挨拶って直前にこの人でいいのかって思ってしまって…やっぱごめんなさいってしました」
「へぇー」
元彼…元婚約者の愚痴をこぼす名前には悪いが、頭の中では五条に買わせる酒の銘柄を考えながら耳を傾ける。
最近ハマってる日本酒、久保田の最高価格のヤツにしようかとも思ってたが、こうも面白い話聞かせてくれるとは思わなかったしな……やっぱり年代物ワインにするかな。赤の希少輸入のヤツ。
「そういう硝子先輩はどうなんですか!」
「ん?」
不意にこちらに話を振られたので、「私は日々仏さんとお見合いランデブーしてんよ」って適当に言ったらブーイングが飛んできた。
◼︎
「——やるよ。復職祝いみたいなもんだ」
ビール、ハイボール、カクテル、最終的に日本酒でしんみり落ち着いた頃にそれを名前の目の前に置いた。
「えっ……え?」
取り皿の目の前に置かれた、今の時代から見たら懐かしいと思える二つ折りのガラケーを見た名前の目が開かれる。
「え、うそ!え!?」
「夢かどうかメスでも刺してやろうか?」
「信じます!ありがとうございます!」
喉で笑う。「なんで、これ、どうして」とテンパる名前が最高に笑える。
「アンタあの日、その携帯宿に忘れてったんだよ」
話しは少しあの日に戻る。
夜蛾センから現場急行の指示があったあの日、最寄りの新幹線駅まで向かう途中、真っ先に現場に駆けつけていた五条から名前が行方不明であること、生存の可能性が低いことを電話一本で淡々と知らされた。「そうか」そのくらいの一言を返した気がする。
「来ても無駄足だと思う」あの五条がそう言うから、それなら間違いないと判断し、補助監督に高専まで引き返すように伝え、座席の背もたれに深々と行儀悪く凭れた。
どうせそのうちボロボロになって高専に帰ってくるオチだろ、としょっぱい口元を舐めながら車窓を眺めていたのを今でも覚えている。
名前が消え、灰原が死んでから数日後。
名前達一年が泊まったという宿から高専へ、女性モノらしき携帯の忘れ物があると連絡があったことを夜センから知らされた。その見覚えのある忘れ物を目の前に差し出された時はつい動揺して、「なんで私に」なんて野暮なことを聞いてしまった気がする。後々思えば夜蛾センが私にそれを託したのは当然っちゃ当然だ。
あの頃五条は後輩がいなくなってから何かに取り憑かれたかのように任務を詰め込むようになり、ほとんど寮には帰らなくなった。
夏油は何かに思い塞ぎ込むことが増え、呪霊討伐から帰ってきたかと思えばふらりどこかへ姿を消してしまうようになり、七海はどうやら卒業後の進路について担任の日下部と話をしていることをそれとなく聞いていた。七海のヤツは同期の死が余程身に応えたんだろう。無理もない話だ。
そんな状況でこの忘れ物の存在をアイツらに教えるべきか、今じゃない方がいいのか、もし伝えるのならばタイミングは、そうこう考えているうちにあっという間に十年ってわけだ。
名前の背後、襖の向こうから感じたピリッとした殺気に呆れたように笑う。悪かったって。
「私あの頃よく携帯どこかに置き忘れるクセあったんですよねぇー、嬉しいです…!ありがとうございます…。充電まで…」
「今の時代でそれに使える充電器探すのは結構骨が折れたけどな」
タイムカプセルでも眺めるかのように、昔の自分の携帯を懐かしむ名前は、写真フォルダを開いては「うわ、うわ」と楽しそうだ。充電しといてやって良かったよ。
それから何かを見た名前が不意に携帯を操作する手を止めて、それをゆっくりテーブルの上に置いた。その画面には学生時代の夏油の写真が表示されていた。灰原と喋ってるところを撮ったようだ。
「…夏油先輩のこと、聞きました」
ひっそり呟く名前に「そうか」一言返す。
「すっかり高専の中では裏切り者扱いなんですね…。あの事件の資料見ましたけど…犯罪者扱いで…」
「まぁ事実だしな。別にお前が気にやむ必要はない」
「…でも、」
「夏油が出した答え。それだけのこと」
そう、お前と灰原の死がきっかけで夏油が離反した、と言えばそれはそうかもしれない。だがアイツも二年半高専で呪術を学んできた身。呪術師が如何に馬鹿げてる職種であり、後悔のない死や平穏な死が訪れないことも全て分かっている筈だ。その分かりきった上でのアイツの決断なんだろ。
まぁ、アイツの馬鹿げた思想は理解に苦しむけどね。
「そのうち会えたら説教の一つや二つしてやってよ」
「死人の私が急に目の前に現れたらびっくりしますかね。丁度いいや、天からのお告げ的な感じでご高説垂れましょうかね」
「お前の場合セリフを吐く前に気絶させられそー」
「ありえなくもないですね」
二人して静かに笑った。不意に時間が気になってスマホの画面に触れば、もうじき日付が変わろうとする時間だった。
「…さて、ぼちぼちお開きにするか。明日は?」
「あ、一応休みです!」
「疲れてんだろ?ゆっくり休んどけ」
「すいません、気を遣わせちゃって」
「良いってことよ。一級になったらお前の奢りでお祝いしよ」
「飲み放題でお願いします」
「一番ランク高いやつな。それで手打ってやる」
先にお手洗い行ってくると一言言って個室を出ると、会計場のところに見慣れた白髪の長身が壁に背を預けるようにして佇んでいるのが見えた。サングラスにチェンジしているあたり、仕事は終わってるらしい。「伊地知はどうした?」とそれだけ尋ねれば「帰らせた」と即答だ。
「……そうだなぁ、50年代モノのワインはまだ飲んだことないんだよね私」
「…しょうがないね。手配してやるよ」
「くっくっく……名前と飲むっつったら出張先からすっ飛んできやがって」
「…たまたま早く仕事終わったの」
「最強とも言われるようになると素直さが抜け落ちちまうのかねぇ」
「お前こそ素直に後輩と飲めて楽しかったくらい言えないの?」
「あぁ、楽しかったね。ついでにお前の反応も」
「……会計は済ませといたから。じゃあね」
「流石気が利くね最強サマは」
壁から背中を離し立ち去ろうとするその背中に「五条」と声かける。
「なに?」
「お前、名前に"あのこと"言ってなかったのか?」
「え?だってその方が面白そうじゃん」
「……嫌われるぞ」
「まさか」
ひらひら背中越しに手を振り立ち去る五条を見送る。
それから個室に戻り、会計はいい、素直に甘えろと伝えたら名前は申し訳なさそうにしながらも出世払いということで落ち着き、店を出た。私払ってないけど…まぁいいか。説明するのも面倒だし、五条もそんな細かい事気にするようなみみっちいヤツじゃない。
「あ、五条さんから連絡来てました」
「…ふーん、なんだって?」
「出張の件です…か、…ね……」
「どうした?」
語尾を小さくした名前の手元にあるスマホを覗き込めば『名前、今度から僕お前を殺すつもりで徹底的に鍛錬扱くからそこんとこよろしく』の文字。「え?」と隣から間抜けな声が上がってこみ上げる笑いに耐えられなくなった。
「ぶっ…くくくくっ…!!」
あー面白い。「名前、やっぱり行くぞ。二軒目」ついて来いと言わんばかりに顎でしゃくって名前を誘った。
21.08.03(一部加筆修正)
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