いや、やっぱりないわー。って思ってたら、それは意外と口に出ていたらしく、向かいの席にいた伊地知さんが「どうされました?」と平積みにされた書物の山から顔を出した。そのお顔はいつも通りお疲れ気味だったから明日は栄養ドリンクでも買ってってあげようと頭の隅で思いながら、机上の紙を掲げてひらひら伊地知さんに振る。
「この始末書、私が書くのってどう思います?」
「……あぁ……例のですか」
「です」
つい先日開催された京都姉妹校交流会が終わってから今日で二日目になる。
不安そうな表情を浮かべる憂太君とその隣で「だいじょーぶだいじょーぶー」と一体何を根拠に何がどの辺が大丈夫と言ってるのかわからない五条さんを東京駅で見送って、その足で「やったー二日間五条さん出張ー!鍛錬なしー!」と、高専に戻る前にちょろっと駅前の新しくできたパンケーキ屋へ行ったのが三日前。
それから五条さんから「憂太が里香出しちゃっててんてこまい!アハハッ!」と物騒なセリフをタハーと楽しそうに、それからハートマークが飛んできそうなテンションで電話報告があって暫く呆然と立ち尽くして動けなかったのが二日前。
夕方、任務終わりでヘロヘロになって高専へ戻ってきた私のデスクに始末書と大々的に書かれた用紙が置かれていて、付いていた付箋には「明日までによろ」なんて殴り書きの文字と、自分をイメージしてるのか知らないが小学生レベルの画力で描かれた五条さんの似顔絵を見て反射的に破り捨ててやろうかと思ったのが昨日の話だ。
この人、マジで沖縄一緒に行った人と同一人物なのだろうかとさえ思えてきている今日この頃。どう考えても好きな人に対する仕打ちじゃなさすぎて…やっぱり私揶揄われてるような気がしてきた。
「……終わった」
憂太君から聞いていた事情を基にして始末書としてまとめ上がったそれを持って立ち上がると、古びた椅子が音を立てたが、そんなのお構いなしにコピー機へ向いさっさとファックス。
コピー機のディスプレイに表示された時計を見ればもう少ししたら一年生達が午前の実習から帰ってくる頃だった。
午後からは座学、最近うんと冷えてきたから教室に暖房を入れてあげようか。一年生の教室、最近暖房の効きが悪いんだよねぇ…。これ夜蛾学長にお願いすれば直してもらえたりするんだろうか…。
物は試しだと思いながら自分の机にファックス済みの始末書を置き、まだ暖かいコーヒーを一口飲むと何やら最近調べ物で忙しい伊地知さんに教室に行ってくることを伝え、その足で事務室を出た。
「うー、冷えるなぁ」
呪術高専は東京の山奥にあって、年季の入った校舎のせいか、廊下は随分と冷えていた。大人になればなるほど毎年寒さに弱くなっていく気がする…なるほどこれが老いか。女子中高生のスカートにソックススタイルが可哀そうだ…真希ちゃんに冬服の要望聞いてみよ、絶対寒いって。
「名前か」
突然冷えた廊下に響いた女性の声に振り返った。そこにいたのは白衣を腕にかけた硝子先輩で「よ」と片手を上げられて、久しぶりに見たその人の名前を呼んだ。
「硝子先輩!研究に一息ついたんですね!」
「まぁな。この年になってくると一週間研究室に缶詰は流石にしんどいわ」
「年齢関係なくどの年でも一週間はしんどいと思いますけどね」
首元をかったるそうにさすった硝子先輩は何日ぶりに見るだろうか。最後に見かけた日より少しクマがひどくなっているような気もしなくない。
高専の医師ではあるけど、硝子先輩も一応は学者でもあり、たまに呪術の研究で部屋に篭りっぱなしのときもある。ちなみに今私が身に着けている呪力抑えのピアスを作ってくれたのは硝子先輩らしい。ホント頭が上がらない。
「一度スイッチ入ると中々出てこないですもんねぇ硝子先輩」
「すまないね酒の付き合いが悪くて。ひと段落突いたし、近々一杯行こうか。溜まってるだろ?五条に対しての愚痴」
「硝子先輩大好き!」
「フフ、知ってる」
「お店は私の方で探——ッ!」
「…なんだ?」
ゾワリと粟立つ感覚に咄嗟に二人して廊下の外を見た。
一見何もないように見える空だが、目を細めると宙になにかぼんやりしたものが。
今は呪力が殆どない時期のせいで眼鏡がないと雲に霞んでしまってその正体が見えない。そう思ったところに見えた黒に瞠目した。隣にいた硝子先輩も息を呑む。
「うそ」
その黒の正体に気付いた途端、廊下の窓を開け放って窓の縁に足をかけると、後ろから白い布が私の頭上を越えて胴に回った。ビン、と白い布が張られて前に出られず、混乱しながら振り返ると硝子先輩。ギリギリと白衣を握りしめて私を止めていた。
「ここは三階だ。そのまま行ってみろ、死ぬぞ」
「……うわ、」
そのセリフでようやく我に返った。私が窓辺から身を引くと硝子先輩は私を引き止めるために使っていた白衣を解く。
そうだ、呪力が殆どない時期じゃん私…このまま飛び出したら術式発動できなくてシンプルにおっ死ぬところだった…!「正規ルート辿って行ってこい」と顎でしゃくるように言われ、一度引き止めてくれた硝子先輩にお礼を伝えて全力で元来た道を駆け戻る。
目的はあの黒い影が降りた方、正面ロータリー。
「——はぁっ」
ロータリーに到着した途端、憂太君の肩を組む大きな背中から目が離せなくなった。
私が校舎の廊下から見た黒そのものが、追いかけてきたそれが今目の前にいた。憂太君もその人もこちらに背を向けてるから、その顔は分からない。分からないからこそ「どうか別人でいてくれ」と願わずにはいられなかった。
「僕の生徒にイカれた思想を吹き込まないでもらおうか」
二人の向こうにいた五条さんにピントが合う。五条さんとその人の姿を自分の視界に同時に入れることが久しぶりで、ひどく懐かしい気持ちになった。嬉しいような悲しいような…うまく言葉に言い表せない情動に胸が苦しくなり、無意識に自分の胸元を掴む。懐かしいその人は今では呪詛師となった人だ。
それはつまり私達の敵で、……でもかつては仲間だった人で……。
「傑」
五条さんが敵視する声色でその人の名前を呼ぶから無性に泣きたくなった。
「悟ー!!久しいねー!!」
この二人の、この短い会話でこめかみの辺りがぎゅうと締め付けられる。二人の今の関係性をまざまざと見せつけられ、ズクリと痛む心臓を押さえつけながら袈裟姿の人物を観察した。
一度も染めたことのないような艶とコシのある長い髪。優しくて落ち着いてて、聞き入りたくなるような声。
往生際の悪い私は五条さんがその人の名前を呼んでいてもまだ顔を見たわけじゃないから、と何度も何度も小さな希望に縋りついた。
「おや?」
私の気配に気付いて振り返った顔は昔と同じように前髪の束がひとつ垂れていて、一重に切れ目、それから三白眼。その目は私の顔を一目見ると一瞬驚いたような顔をしながらもニコリと優しく微笑んだ。
「名前」
その優しい笑顔は十年前とちっとも変わっていなくて、格好は胡散臭い服装だったけどお釈迦様みたいに優しい顔の夏油先輩には似合っていた。似合いすぎて呪詛師なんて実はドッキリなんじゃないの?とさえ思う。
「げ、とう、先輩…?」
絞り出した声は、いつかの夏みたいにかっすかすの声で、先輩は「まだ先輩と言ってくれるのかい?嬉しいね」と笑うから、その袈裟姿の人が夏油先輩であることはもうこれで確実となってしまった。お願い、実はドッキリでしたって言ってくださいよ、今なら怒りませんから、だから。憂太君から腕を離す夏油先輩に縋るように心の中でそう願った。
「噂には聞いていたけれど、生きていたのは本当だったんだね」
「え」
いつの間にか目の前にいた夏油先輩に抱きすくめられて戸惑っていると、突然顎を掬われて上を向かされる。
近づく顔に身動き一つ取れずにいると、直後にこの場に似つかわしくないリップ音が一つ。夏油先輩の長い髪が私の頬を撫でるようにするりと触れていった。
「会えて嬉しいよ。とても綺麗になったね」
「……は…」
「傑…!!お前!」
「そう怖い顔するんじゃないよ悟」
少し振り返って五条さんのいる方を向きながらペロリと悪戯っ子のように舌を出して笑う夏油先輩を呆然として見上げた。
五条さんのこの声めっちゃ怒ってるよ……夏油先輩なんでこんなこと……、謝らないとダメですよ…?あの人すっごいネチネチ怒ってくるんですからね…?
何が何だかよくわからないまま、目の前の袈裟を掴んだら、布地の下に夏油先輩の硬い筋肉に触れる感覚があって、見上げると先輩は困ったように微笑んでいた。
「君のことは連れて帰ってやりたいのはやまやまなんだけどね…怒らせると面倒なのがいるから我慢するよ。……だから今は少し眠っててね」
「え」
ぐっと鳩尾に当てられた無機質物の感覚。途端に全身から力が抜けてしまって、立っていられずに膝から崩れ落ちると夏油先輩が支えてくれた。何この力が抜ける感じ…前にもあったよう、な。
「名前!」「苗字さん!」何人かが私の名前を叫ぶが、倦怠感と眠気に勝てずに目を閉じた。
◼︎
「!」
「起きた?」
文字通りベッドからはね起き上がり、状況を整理する前にベッド際から聞こえた声に私はすみません、と反射的に謝っていた。
「……何に謝ってんだか知らないけど、それより何か異変は?」
「あ……ちょっと気怠いですが…今のところ何も」
「眠らされただけ、ってところか」
五条さんの口調は淡々としていて、目元が包帯で隠されていることも相まって感情が見えない。意識を手放す直前のことを思い出そうと記憶の糸を手繰り寄せていると「傑がさ」と五条さん。
その声に耳の神経が全てそちらに向けられる。
その後に語られたのは、クリスマスイヴに行われる百鬼夜行の話。それから夏油先輩の目的について。それを聞かされて「名前」と呼ぶ夏油先輩の優しい声が蘇る。そう、ひどく懐かしくて落ち着く声なのは今も昔も変わらないみたいだった。一通り話を聴いたところで「そうですか」力なく額に手を当てて俯く。
五条さんがあの時…憂太君のマンツーマン指導の話を持ちかけてきた時、帰り際に言いかけたことは夏油先輩に気をつけろってことだったんだろう。五条さんのことだ、前から夏油先輩の動向について何か掴んでいたのかもしれない。
夏油先輩が呪詛師になったなんて今の今まで半信半疑でいたけれど、今日の一件で見事にクロとなってしまった。悲しいことにドッキリの看板が出てくる気配もない。
頭痛とはまでいかないけど、頭がぼんやりする違和感に自分の首を撫でて確認していると、ベッドがギシリと音を立てるから、そちらを見れば視界いっぱいに五条さんのドアップがあった。厳密にいえば、包帯のドアップ。
「び、くりした……」
「呪力もほとんど残ってないね。今ゼロの時期?」
「今は…呪力枯渇期向かってるところですね…。殆どないのには変わりないですけど」
「……アレか」
「アレ?」
「呪力を吸う呪物にやられたかもね」
なんだろう、なんか懐かしいその響き。記憶の糸を手繰り寄せると高専時代のバレンタインデーのことを思い出した。呪力を吸い取る特級呪物。
「アレ今行方不明なんだよねー。まさかアイツが持ってたとはね…」
甦るあの日の記憶。手持ちの呪霊で私を助けてくれて、五条さんに完全に祓うなと注意して、それからボロボロになったチョコをリアルなダメージ加工とか言って笑ってくれた夏油先輩の笑顔を思い出して、目を伏せた。自然に出るため息もセットだ。
「名前」
「は、い…っ!?」
名前を呼ばれて顔を上げたら、五条さんが大きい体を少しかがめながら私の顔を大きな両手で包み込んできて驚いた。
いつの間にか包帯は取っていたらしく、取れかけた包帯の隙間から青い目が真っ直ぐ私を射抜いてきて、なんか近、と思ったその次には、本日二度目の唇の感触を体験していた。
21.08.03(一部加筆修正)
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