それから一時間もすると、彼は、墓場から蘇生した男が、よろよろと自宅への道をたどり、三分一も歩かぬ内に息切れがして、道ばたに行き倒れた体を装って、とある森の茂みのかげに、土まみれの白布の姿を、横えて居りました。
丁度、一晩、食わず飲まずで働き通したのですから、顔面にも適度の憔悴が現れ、彼のお芝居を一層まことしやかに見せるのでした。
その時分には、もう太陽が高く昇って、森の外の街道には、絶えず、チラホラと人通りがして、今更ら隠れ家を出て、寺に帰りもならず、止むを得ず、見つけ出すのに骨の折れる様な、併し街道からは余り距たらぬ、茂みの影に、気を失ったつもりで、横わっている外はなかったのです。
街道に沿って小さな流れがあり、その流れに枝を浸す様にして、葉の細い灌木が密生し、そこからずっと森になって、背の高い松や杉などが、まばらに生えているのです。
彼は、往来から見えぬ様に用心しながら、その灌木の向う側に、身体をくっつける様にして、息を殺して横になっていました。
そして、灌木の隙間から、街道を通る人の足だけを眺めながら、気が落ちつくに随って、彼は又、変てこな気持ちになって来るのでした。

「これですっかり計画通り運んだ訳だ。あとは誰かが私を見つけ出してくれさえすればよいのだ。だが、たったこればかりのことで、海を泳いで、墓を掘った位のことで、あの数千万円の大身代が、果たして私のものになるのだろうか。話があんまり甘すぎはしないか。ひょっとしたら、私は飛んでもない道化役を勤めているのではないだろうか。世間の奴らは、何もかも知っていて、態と、面白半分にそ知らぬ振りをしているのではないか」

かくして、ある激情的な場合には、まるで麻痺してしまう所の、常人の神経が、少しずつ彼に甦って来ました。
そして、その不安は、やがて、付近の子供達が、彼の狂人じみた白布姿を発見して、騒ぎ立てるに及んで、一層はげしいものになったのです。

「オイ、見てみい、何やら寝てるぜ」

彼等の遊び場所になっている、森の中へ這入ろうとして、四、五人連れの一人が、ふと彼の白い姿を発見すると、驚いて一歩下って、囁き声で、外の子供達に云うのでした。

「なんじゃ、あれ。狂人か」
「死人や、死人や」
「側へ行って、見たろ」
「見たろ、見たろ」

田舎によく居る十歳前後の腕白共が、口々に囁き交わして、おずおずと、彼の方へ近づいて来ました。
青鼻汁をズルズル云わせた、子供に、まるで、何か珍しい見せ物でもある様に覗きこまれた時、その世にも滑稽な景色を想像すると、彼は一層、不安にも、腹立たしくもなるのでした。

「愈々、私は道化役者だ。まさか最初の発見者が子供だろうとは思っても見なかった。これで散々こいつらのおもちゃになって、珍妙な恥さらしを演じて、それでおしまいか」

彼は殆ど絶望を感じないではいられませんでした。
でも、まさか、立ち上がって、子供達を叱りつける訳にも行かず、相手が何人であろうとも、彼はやっぱり、失神者を装っている外はないのです。
で、段々、大胆になった子供達が、しまいには、彼の身体に触りさえするのを、じっと辛抱していなければなりません。
余りの馬鹿馬鹿しさに、一切がっさいオジャンにして、いきなり立上って、ゲラゲラと笑い出したい感じでした。

「オイ、父つぁんに云うてこ」

その内に、一人の子供が息をはずませて囁きました。
すると、外の子供達も、

「そうしよ、そうしよ」

とつぶやいて、バタバタとどこかへ駈け出してしまいました。
彼等は銘々の親達に、不思議な行き倒れ人のことを報告しに行ったのです。
間もなく、街道の方から、ガヤガヤと人の声が聞こえて、数名の大人が駈けつけ、口々に勝手なことをわめきながら、彼を抱き上げて介抱し始めました。
噂を聞きつけて、段々に人が集まり、彼のまわりを黒山の様に取り囲んで、騒ぎは段々大きくなるのです。

「ア、五条の旦那やないか」

やがて、その中に、司を見知っているものがあったと見え、大声に叫ぶのが聞えました。

「そうや、そうや」

二、三の声がそれに応じました。
すると、多勢の中には、もう五条家の墓地の変事を聞き知っているものもあって、

「五条の旦那が墓場から甦った」

というどよめきが、一大、奇蹟として、田舎人の口から口へと、伝わって行くのでありました。
五条家といえば、T市の付近では、いやM県の全体に亙って、所の自慢になっている程の、県下、随一の大資産家です。
その当主が一度、葬られて、十日もたってから、棺桶を破って生き返って来たとあっては、彼等にとっては、驚倒的な一大事変に相違ありません。
T市の五条家に急を知らせるもの、お寺に走るもの、医者に駈けつけるもの、野らも何もうっちゃらかして、殆ど村人、総出の騒ぎなのです。
前の夏油傑は、やっと彼の仕事の反応を見ることが出来ました。
この分なれば、彼の計画は満更、夢に終わることもないようです。
そこで、彼は愈々、得意のお芝居を演じる時が来たのでした。
彼は衆人環視の中で、さも今気がついたという風に、先ずパッチリと眼を開いて見せました。
そして、何が何だか訳が分らぬという面持ちで、ぼんやりと人々の顔を見廻すのでした。

「ア、お気がついた。旦那さん、お気がつきましたか」

それを見ると、彼を抱いていた男が、彼の耳の側へ口を持って来て、大声に怒鳴りました。
それと同時に、無数の顔の壁が、ドッと彼の上に倒れかかって、大勢の息が、ムッと鼻をつくのです。
そして、そこに光っている夥しい眼の中には、どれもこれも、朴訥な誠意があふれて、微塵でも、彼の正体を疑うものはありません。
が、傑は、相手の如何に拘らず、予め考えて置いた、お芝居の順序を換えようとはせず、ただ黙って、人々の顔を眺める仕草の外には何の動作も、一言の言葉も発しないのでした。
そうして、凡ての見極めをつけるまでは、意識の朦朧を装って、口を利く危険をさけようとしたのです。
それから、彼が五条家の奥座敷へ運び込まれるまでのいきさつは、くだくだしくなりますから、省くことにしますが、町からは五条家の総支配人、其の他の召使い、医者などをのせた自動車が駈けつけ、菩提寺からは和尚や寺男が、警察からは、署長を始め二、三の警官が、その他、急を聞いた五条家縁故の人々は、まるで火事見舞いかなんぞの様に、次から次へと、この町はずれの森を目がけて集まって来る始末でした。
付近一帯は、これを見ても、五条家の名望、勢力の偉大なことが、十分に察せられるのでありました。
彼は、それらの人々に擁せられて、今は彼自身の家であるところの、五条邸につれて行かれる間、それから、そこの主人の居間の、彼が嘗て見たこともない様な立派な夜具の中に横になってからも、最初の計画を確く守って、唖者の如く口をつぐんだまま、遂に一言も物を云おうとはしませんでした。


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