十二


あらゆる款待の内に、満悦の旅を続けながらも、傑は、ともすれば、恐れと懐しさの入り混じった感情で、邸に残した悟の姿を、心に思い描くのでした。
あの泣きぬれた生毛の魅力が、悩ましくも、彼の心を捉え、私かに覚えた、彼の二の腕のほのかなる感触が、夜毎の夢となって、彼の魂を戦かせるのでありました。
悟は司の双子の弟であって見れば、彼を愛するのは、今や司となった傑にとって当然の事でもあり、彼の方でも、無論それを求めているのでしょうが、その様に易々と叶う願いであるだけに、傑にとっては、一層、苦しく悩ましく、一夜の後にどの様な恐しい破綻が起ころうとも、身も心も、彼の終生の夢さえも、彼の前に抛げ出して、いっそそのまま死のうかと、そんな無分別な考えを抱く様にもなるのでした。
でも、彼の最初からの計画によれば、まさか悟の魅力が、これ程、悩ましく彼の心に食い入ろうとは、想像もしていなかったものですから、万一の危険を慮って、悟は名前だけの弟にして、なるべく彼の身辺から遠ざけて置く予定だったのです。
しかし、その一方で、ただの双子の兄弟がここまで仲が良いのも変だ、とも思いました。
傑の前に居る悟は、まるで妻や恋人、愛人に寄り添う女のようであり、例え双子で普通の兄弟よりも距離が近かろうとも、これは一種、異常な近さでした。
その事に傑はいつも恐怖せられていたのです。
それは、彼の顔や姿や声音などが、どの様に司に生き写しであろうとも、それで以って、司、昵懇の人々を欺きおおせようとも、舞台の衣裳を脱ぎ捨てて扮装を解いた赤裸々の彼の姿を、亡き司の双子の弟の前に曝すのは、どう考え直しても、余りに無謀なことだからです。
悟は、きっと司のどんな小さな癖も、身体の隅々の特徴も、掌を指す様に知り尽していることでしょう。
随って、傑の身体のどこかの隅に、少しでも司と違った部分があったなら、立ち所に彼の仮面ははがれ、それが因になって、遂には彼の陰謀がすっかり曝露しないものでもないのです。

「私は、それがどれ程、優れた弟だろうと、たった一人の悟の為に、私の年来、抱いていた大きな理想を捨ててしまうことが出来るのか。若しその理想を実現することが出来たなら、そこには、一人の人間の魅力などとは、比べものにもならない程、強く烈しい陶酔の世界が、私を待ち受けているのではないだろうか。まあ、考えて見るといい。私が日頃、幻に描いている、理想境の、たった一部分だけでも思い出して見るといい。それに比べては、一人と一人の人間界の絆などは、余りに小さな取るにも足らない望みではないか。眼先の迷いに駆られて、折角の苦労を水の泡にしてはいけない。私の慾望はもっともっと大きかった筈ではないのか」

彼はそうして、現実と夢との境に立って、夢を捨てることは勿論、出来ないけれど、といって、現実の誘惑は余りに力強く、二重、三重のディレンマに陥り、人知れぬ苦悶を味わねばなりませんでした。
が、結局は、半生の夢の魅力と、犯罪発覚の恐怖とが、悟を断念させないでは置かなかったのです。
そして、その悲しみをまぎらす為に、悟の物淋しげな、憂い顔を、彼の脳裏からかき消す為に、それが本来の目的でもあるかの如く、彼はひたすら、彼の事業に没頭するのでありました。
巡視から帰ると、彼は先ず最も目立たぬ株券の類を、私かに処分せしめて、それを以て理想境の建設の準備に着手しました。
新しく傭い入れた画家、彫刻家、建築技師、土木技師、造園家などが、日々、彼の邸につめかけ、彼の指図に従って、世にも不思議な設計の仕事が始められました。
それと同時に一方では、夥しい樹木、花卉、石材、ガラス板、セメント、鉄材、等の註文書が、或いは註文の使者が、遠くは南洋の方までも送られ、夥多の土方、大工、植木職などが続々として各地から召集されました。
その中には、少数の電気職工だとか、潜水夫だか、舟大工なども混ざっていたのです。
不思議なことは、その頃から、彼の邸に小間使いとも女中ともつかぬ若い女共が、日毎に新しく傭入れられ、暫くすると、彼女等の部屋にも困る程に、その数を増して行くのでした。
理想境建設の場所は、幾度とない模様替えの後、結局、S郡の南端に孤立する沖の島と決定され、それと同時に、設計事務所は、沖の島の上に建てられた急造のバラックへと移転し、技術者を始め、職人、土工、それにえたいの知れぬ女達も、皆、島へ島へと移されました。
やがて、註文の諸材料が次々と到着するに従って、島の上には、愈々、異様なる大工事が始まったのです。
五条家の親族を始め、各種、事業の主脳者達は、この暴挙を見て黙っている筈はありません。
事業が進捗するに従って、傑の応接間には、設計の仕事にたずさわる技術者達に立ち混じって、毎日の様に、それらの人々が詰めかけ、声を荒らだて、傑の無謀を責め、得体の知れぬ土木事業の中止を求めるのでありました。
が、それは傑がこの計画を思い立つ最初に於て、已に予期していた所なのです。
彼はその為には、五条家の全財産の半ばを抛つ覚悟を極めていたのでした。
親族といっても皆、五条家よりは目下のものばかりで、財産なども格段の相違があるのですから、止むを得ない場合には、惜しげもなく巨額の富を別け与えることによって、訳もなく彼等の口を緘することが出来たのです。
そして、あらゆる意味で戦闘の一年間が過ぎ去りました。
その間に、傑がどの様な辛苦をなめたか、幾度、事業を投げ出そうとしては、からくも思い止どまったか、彼と双子の弟の悟の関係が如何に救い難き状態に陥ったか、それらの点は物語の速度を早める上から、凡て読者諸君の想像に任せて、之を要するに、凡ての危機を救ってくれたものは、五条家に蓄積された無尽蔵の富の力であった。
金力の前には、不可能の文字がなかったのだということを申し上げるに止どめて置きましょう。


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