新しい日々のこと

 名字のこと、俺は可愛いと思うけど。そう言われた瞬間に恋が始まった。

 呪術師なんだからいつまでもうじうじしてるんじゃないわよ、野薔薇は切りすぎた前髪を気にしているわたしにそう言った。だって、何回鏡を見たって似合ってない!それに呪術師だけど女子高生なんだから、鏡を見るたびに目に入る自分の前髪に悲しくなる。
 朝起きて、化粧をする、髪の毛をセットする。唯一と言っていいはずの朝のお楽しみがこの三日間はぜんぜん楽しくなかった。

「最近元気ないね」
「前髪切りすぎちゃって」
「そう?俺は名字のこと可愛いと思うけど」

 前髪も、マチルダみたいでいいじゃん。似合ってるし。
 マチルダ?誰それ?有名人?と聞くと映画のヒロインだと教えてくれた。任務の移動時間に虎杖くんが行っていたマチルダを検索する。十三歳のナタリーポートマンが演じたマチルダという少女はとても美しかった。黒いボブヘアに凛とした瞳、少しだけ短い前髪。
 社交辞令だなんて百も承知だけれど、それでもわたしを形容する言葉にこの女の子を選んでくれたことが嬉しくて、心臓が少しだけはやくなる。少し?いやもっとかも。かわいいなんて、男友達に言われたことなかったからだろうな。たぶん気のせい、これは気のせい。野薔薇、伏黒くん、虎杖くん、そしてわたし。四人でいるのが心地良いのに。もしかしたら虎杖くんのことを好きなのかもなんて、考えたら、だめだ。
 でも、だめだだめだと思えば思うほど虎杖くんのいいところしか考えられなくなっていく。優しい、強い、かっこいい、料理が上手い、歌が上手い、誰とでもすぐ打ち解けるけれど節度を持って接している、少しだけ高い声もいい、あと筋肉もすごい。
 あれ?虎杖くんすごくない?すごく、よくない?なんで今まで気づかなかったんだろう。今までは無意識にそういう対象として見ないようにしていたんだろうか。たぶん、そうだ。
 鏡を見て、前髪に触れる。さっきまで鏡見るのだって嫌だったのに。あんなふうにさらっと可愛いって言えるなんて、虎杖くんもしかしてモテるのかな。土日はだいたい四人で遊んでいるから、彼女はいなさそうだけど。

 たとえば、音楽。たとえば、美味しいご飯。たとえば、散っていく桜の花びら。たとえば、落ちていく夕日と移り変わる空の色。
 わたしが聞いたもの、見たもの、触ったもの、そのすべては虎杖くんというフィルターを通して見た世界になっていく。恋は人を盲目にさせるとはよく言ったものだ。もう今までどんなふうにこの毎日を生きていたか忘れてしまった。特にラブソングなんてもうだめ。全部わたしのことを歌ってる?と聞き返したくなる。これは、紛れもなく恋だ。誰にも言えない内緒のやつ。

 冬の終わりに恋をして、気がついたら春だった。その一ヶ月と少しの間に前髪は思った通りに伸びていた。一ヶ月と少し、伸びていく前髪を眺めながらたくさん虎杖くんのことを考えた。映画も見るようになったし、筋トレもいつもより気合をいれてするようになった。もちろんレオンだって見た。泣いた。たくさん虎杖くんのことを考えたし、たくさん遊んだし、たくさん話したけれど、やっぱり一年近くお友達として仲良くしてきたので、友達以上の距離感にはなれていないような気がする。わたしばっかりこんなにどきどきして、なんだか悔しい。虎杖くんも、わたしのことを考えて、ちょっとは悩んでくれてもいいんじゃないか。

 よく使っている通販サイトのトップページがなんだかおかしくて、今日がエイプリルフールだと気づく。もし今日告白して、ダメでも、エイプリルフールだよって笑えば友達のままでいられるかな。最近は虎杖くんのことを考えすぎて、毎日自分でも驚いている。誰にも言えない気持ちが行き場を失っていた。

 談話室に行くと走ってきたあとだろうか、虎杖くんが水を飲んでいた。首筋には汗が光っている。おはよ、と挨拶して隣に座る。虎杖くんがいる左側だけ体温が高くなるような気がした。ソファーの上で三角座りをして、顔を膝の上に埋める。どれだけたくさん話しても、告白するのは泣きそうなくらい緊張することなんだな。四月一日じゃなければ、もっと緊張していたのだろうか。

「名字?」
「…わたし、虎杖くんのこと、好きだよ」
「どうせ友達としてってやつでしょ、たまにからかわれるんだよね」
「違う意味の好きって言ったら、困る?」

 時間がここだけゆっくり流れているんじゃないかと錯覚する。きっと実際は数秒のことだった。

「…わかった!エイプリルフールだ!騙されないからね、俺」
「えーばれちゃった。…ざんねん」
「あぶねえ、ぬか喜びするとこだった」
「ね、ね、嬉しかった?」
「エイプリルフールじゃなかったらね」
「…わたし、本当に虎杖くんのこと、好きなんだけど、可愛いって言ってくれた時から」

 あまりにも気まずくなって、ごめん、とだけ言い残して談話室を出ようとする。ちょっと意識してもらいたかっただけなのに、傷つけたかもしれない。エイプリルフールに告白するなんて嫌な保険のかけ方をしてしまった。そしてその意味もなくなってしまった。馬鹿だ。自分から友達という優しい関係を捨ててしまった。明日から、どうしたらいいの。

「名字、待ってよ」
「…ん、」
「いまの言葉、明日、もう一回聞きたいんだけど」

 それって、ねえ、期待してもいいのかなあ。浅はかで愚かなわたしだけど、期待していいの。友達以上になれないならこのままでいれるように、今日この日を選んだずるいわたしだけど。

「日付変わるくらいに、もう一回会える?」

 虎杖くんのその言葉に首を大きく縦にふる。
 今この時から、日付が変わるまで、ずっとわたしのことを考えてくれればいいのに。わたしと過ごす新しい日々のことを考えて、楽しくなったりどきどきしたり、自分の心臓の音に驚いたりして欲しい。もう一回ちゃんと好きって言ったら、笑って抱きしめてくれないかしら。

「俺、可愛いなんて、名字にしか言ったことないから」

 この言葉が嘘だというのなら、虎杖くんは嘘をつく天才だと思った。それ以上話さなくてもいいよ、わたしは今、手を伸ばせば届く距離にいる虎杖くんの心臓の音を聞いている。
 本当だからね、と照れくさそうに目を伏せる君が、わなわなと愛おしい。


20200402
新しい日々のこと


エイプリルフールの話なのにエイプリルフールに載せられなかったわたしは仕事ができないタイプの人間です。