どうかしている

※暗


 ただの遊びだったはずなのに、いつのまにか心臓を鎖でぎゅっと繋がれてしまった。仕事で会えばどちらともなく手を取り合って夜を超えた。恋と呼ぶには時間が足りなかったし、愛と呼ぶには希望がなかった。それでもいいと思っていた。
 それももう一年と半年ほど前の話で、めっきり仕事を共にしなくなった。携帯電話のディスプレイも禪院甚爾という名前を映すことがなくなった。それでも死んだとは思えなくて、孔さんに聞いたら、あいつなら結婚して子供ができた、とだけ教えてくれた。その言葉を理解するのには少しだけ時間がかかったけれど、妙に納得した。そうか、術師殺しとして名を馳せた男も人並みに恋をして、誰かを愛して、子供を作ったのか。どこかで幸せになってくれていたらいい。


「助けてほしい、人手が足りない」
「…わたし、高いけど、いいの」
「金もないからお前に言ってる」

 久しぶりに携帯電話に禪院甚爾という名前が表示されて、驚きのあまり通話開始のボタンを押してしまった。挨拶もなしに助けてほしいだなんて、あんたらしくないんじゃないの。
 粉ミルク、紙おむつのSサイズ、離乳食、あとは適当に食べるものを買って来てくれ。住所は…。
 電話の向こうで子供の泣き声が聞こえた。本当に子供がいたのか。子育てしているこの男のことを考えると、すこしだけおかしい。告げられた住所は今いる場所から歩いて十五分くらいのところで、勘がいいところだけは変わらないと呆れる。わたしも一応女なので、子供が、と言われたら弱い。頼まれたものとは別に、スポーツドリンク、ウエットティッシュ、子供用の歯ブラシを適当に放り込んで会計を済ませた。六千円とちょっとを財布から抜き出して、言われた住所までタクシーに乗った。歩けない距離ではないけれど、買いすぎた荷物が重い。

 この大荷物を持ち歩きたくなくてタクシーに乗ったのに、たどり着いた賃貸にはエレベーターがなかった。剥き出しの階段をコツコツと音を立てて四階まで登る。暑い。首筋に汗が伝わるのがわかった。このピンヒールには、鉄の音がする階段も、購入済みのシールが貼られた紙おむつの袋も、何も似合わなかった。

「子供が泣き止まない」

 わんわんと泣き喚く子供を抱いた甚爾が玄関の扉を開いた。その部屋に足を踏み入れる。玄関に入ってすぐ、子供の泣き声とともに散らかった服が目に入った。片付けが下手な奥さんなんだろう。でも、よく見ると子供服と男物の服しかない。そもそも、わたしが呼ばれた理由、本当は薄々気づいていた。

「奥さんは、どこにいるの、泣いてる子供置いて」
「天国かな」
「…わたしたちが、一生行けない場所ね」
「子供が泣き止んだら、茶でも出す」

 久しぶりに甚爾に会っても、なんとも思わないだろうな、ぼんやりとそう思っていた。もう一年以上会っていなかった。その間、わたしの心臓を繋いでいた鎖はとっくに錆び付いてしまったし、結婚して子供ができたと聞いた時も、穏やかに家族と幸せであればいいと思っていた。
 子供の名前、なんていうの。泣きじゃくる子供を恭しく抱きかかえている甚爾に尋ねた。めぐみ、と答えたけれど、男の子が着るような青い服を着ていたので、めぐみくんだと理解した。めぐみ、恵。変わった名前ね。そう言うと、俺が名前をつけた、と言って優しい顔をする。本当に甚爾の子供なのね。こんなに可愛いのに。涙で濡れた睫毛が太陽の光を反射して、まぶしい。

 せめて、わたしじゃない誰かがあんたの子供を産むのなら、幸せになってほしかった。わたしを頼るような甚爾なんて、知りたくなかった。

「わたしだったら、あんたよりも先に死ぬなんてこと、なかったのに」

 その言葉は、恵と名付けられた子供の泣き声に溶けていった。こんな惨めな言葉、聞こえていなければいいと思う。耳がいいあんたには、どうせ聞こえているんだろうけど。どうかしている。わたしはこんな悲しい気持ちになりたくなかった、そんなふうに子供を撫でるあんたなんて見たくなかった。誰かの手で変わってしまったあんたなんて見たくなかった。わたしの知らないところで、人を殺さずに、幸せになってほしかった。
 人手が足りないと言われて来たのに、わたしは狭い部屋で靴も脱がずに荷物も持ったまま立ち尽くして、赤子の鳴き声を聞いている。こんなに小さいのに、爪なんてわたしの十分の一ほどしかないのに、髪も目もあんたに似て黒々としていて、その瞳からは涙が溢れている。歯が生えていない口の中はとても赤い。
 腕の揺籠で泣いている子供のように泣きじゃくれば、あんたにそんなふうに触ってもらえる?ねえ、甚爾、わたし、どうかしてる。
 聞こえているはずなのに、目も合わせないし何も言わない。散らかった部屋に、子供の泣き声だけがまだ響いていた。



20200406
どうかしている