花冷えの待ち人

 傑の髪がわたしの鎖骨あたりに落ちる。学生のころから、こんなに髪の毛長かったっけ。髪、のびたね、と言うと、あのころにくらべたら、と曖昧に笑った。
「名前さんは髪、切ったんですね」
「髪の毛乾かすのがめんどくさくなっちゃって」
「…似合ってます」
 組み敷かれてキスをするたびに頬や首あたりに髪が当たってくすぐったい。その度にふふ、と笑い声が漏れる。困ったように、髪結びましょうか、と聞かれたが、このままがいいとお願いした。自分よりも髪が長い男に抱かれるなんて、傑が最初で最後になるはずだ。わたしの学生生活の思考のほとんどを支配した男に与えられるものならば、なんだって享受したい。それがたとえこの雰囲気を少しばかり壊してしまうようなことであっても。昔よりも綺麗になりましたね、と傑の唇が動いた。
 

 中学から高校に入るまでの長めの春休みにピアスを開けた。特に理由はなかったと思う。衝動的に開けたものだから、いつか誰かに怒られてしまうのではないかと思い、髪で耳を隠して過ごしていた。誰にも見つからなかったわたしのひみつは、ふたつ下の新入生のおかげで驚くほどあっさりとどうでもいいものになった。
「夏油くん、ピアスの穴拡張してるの、怒られたことないの」
「そんなこと気にするの、名前さんだけですよ」
「うそでしょ、じゃあわたしも、隠さなくていいかなあ」
 ピアスを隠すために伸ばした髪を耳にかける。びっくりするほど清々しい気分だ。
「そのピアス、似合ってるんだから、隠す必要なんてなかったのに」
 わたしの耳たぶに触れた指先から、他人の、夏油くんの熱が伝わって身体が熱くなる。その日から、わたしは夏油くんのことを考えて、嬉しくなったり悲しくなったりするようになった。
 夏油くんのことを傑と呼ぶようになってから一年と半年が過ぎたころ、わたしは呪術師として致命的な傷を負った。卒業後約束されていた未来が白紙になり、高専を卒業したら普通の大学に通うことになる。あっけなくわたしと傑の接点はかき消えてしまう。
 自分の卒業式の日に傑が好きだと伝えることを決めた。一世一代の決心とは、まさにこのことだな、と思った。告白する直前は緊張で手に変な汗が滲んでいた。
 顔も見ることができずに、好きです、とだけ伝えると、すぐに、ほかに好きな人がいると言われてあっさり断られた。彼と連絡先の交換もせず、そのあと特に話すこともなく、わたしは呪術師の世界から離れることになる。この時わたしになんの希望も持たせないような断り方をしたのは、彼にとっての優しさだったと気づいたのは最近のことだ。


「私は名前さんみたいな女に弱いんです」
 わたしみたいな女、と言って誰を思い浮かべているんだろう。あの日から傑の好きな人は変わっていないのだろうか。あの日触ることすらできなかった傑の手は、わたしの頬を撫でている。その指先に指先を絡めた。嫌がる素振りのひとつだってない。
 もう、わたしがあなたのことを好きだと言ったことは忘れてしまった?それとも、覚えていて、わたしを今こうして抱いているんだろうか。夏油傑という男は、そんな愚かな男だっただろうか。じゃあ、やっぱり、わたしの一世一代の決心を忘れてしまったんだ。もう二年も前のことを未練たらしく覚えているのは。今日偶然街で会ったことに運命なんて感じているのは。
「そのピアス、似合ってますよ」
「…ありがと」
 高専時代に同じように似合っていると言われたピアスは、この数年間呪いのようにわたしの耳から離れることはなかった。もうわたしが夏油くんと呼んでいたこと、初めて会った日に話していたことなんて、忘れてしまったのだろうか。

「…傑は今も優しいけど、昔の方が優しかったね」
 今も昔も、私は優しくなんかないですよ。傑はまた曖昧に笑う。さっきまでわたしの頬を撫でていた髪の毛はひとつに束ねられた。なんて名残惜しそうにキスをするんだろう。後頭部と腰あたりに手を回して、そんな泣きそうな顔で。ホテルの備え付けのメモには連絡先が書かれていた。
 あの日わたしになんの希望も持たせないような断り方をしたのが、彼なりの優しさだったと気づいたのは、本当に、ほんとうに最近のことだ。


20200504
花冷えの待ち人

title by 桔梗さん