メトロポリスに花が注がれて



 世界が今よりもやわらかく美しく見えていたころ、わたしにとって死はとても身軽なものだった。死にたい、なんて日常的に口に出していたし、友人たちもそうだったように思う。マラソンの授業がある、死にたい、昨日よりちょっと太った、死にたい。一時間も経てば忘れてしまう死にたいを日々代謝して生きていた。同じように、死ね、とも軽々しく言っていたように思う。あの頃、死はとても薄っぺらいように思えた。
 大人になるにつれて今生の別れというものが輪郭を持った今、そんな言葉軽々しく言えない。もちろん言いたくもない。けど、今、思わず、死んじゃえと言いたくなってしまった。

「綺麗なだけが取り柄なのにねえ」
「…は」
「帰ったら?」

 階段を、登っても登っても終わらないような気がする。たぶん、体調が悪い。気を抜けば涙が溢れそうだし、もしかしたらマスカラも落ちてしまっているかもしれない。朝うなじにつけた仄かにかおる香水の甘ったるい匂いに吐きそうになる。
 ぴかぴかに磨いたヒールをちゃんと履きこなせるようになったのは最近のことだ。普段は履かないような高さのヒールを履いて、真っ直ぐに歩くことで、ようやく社会人として認められたような気分になる。もちろん仕事だってそれなりに成果をあげて、それなりに評価してくれているのだと思っていたのに。
 綺麗なだけが取り柄。きれいなだけがとりえ。
 上司に言われた言葉を頭の中で反芻する。
 お父さんもお母さんも、わたしが仕事で綺麗なだけが取り柄だと言われていると知ったら、どう思うだろう。頭が痛い。無理してヒールを履いている足も痛い。
 帰ります。すみません。どうしようもなく弱々しい声でわたしはそう言ってカバンを持って階段を降りる。階段は、とこまで降りても終わらないような気がした。その階段を降りる途中で、死んじゃえ、それか、死にたいと声にならない声で呟いた。


「熱、たぶんない。しんどいだけだから。薬飲んで寝てたら治る」
「は?熱くらい測れよ、あと、病院いけ」

 家に帰ると甚爾がいたけれど、驚く余裕もなかった。会うのはいつぶりだったか、それすらもまともに思い出せない。会いたかったような気もするし、もう二度と会いたくないと思っていたような気もする。家の鍵すらまともに開けられなくて見かねた甚爾が玄関を開けて迎えてくれた。
 どうした、仕事じゃねえのか、とぶっきらぼうに聞いてきたが、顔色を見て何か感付いたのだろう。わたしは大丈夫、でも、今日は帰って。ふらふらする頭を抱えてヒールを脱いだ。ようやく地面に足がついた感じがする。

「病人置いて帰れると思うか?」
「あんたは泣いてる女置いてどっか行っちゃうようなやつでしょ」

 ジャケットを脱いで、手を洗う、うがいをする。両親がわたしに教えてくれた清潔なルールだ。甚爾は帰ろうとせずに、手を洗うわたしをなにも言わずに眺めていた。先ほどのわたしの言葉に、返す言葉を今の彼は持ち合わせていないのだ。

 うがいをしていたら、洗面台の鏡の中の自分と目があった。
 本当にひどい顔をしている。
 髪の毛は梳かしたはずなのにぼさぼさだし、チークを塗っていないはずなのに顔は赤く浮腫んでいる気がするし、まぶたも重い。マスカラの黒い繊維が頬のあたりにはらはらと落ちている。
 わたし、きれいなだけがとりえらしいから。
 体調が悪いときは、なんでこんなに涙もろくなってしまうんだろう。冷たい水に濡れた手を拭いながら、ぽろぽろと泣いてしまった。前、泣く女は嫌いだと言っていたこの人の前で泣いてしまった。
 あなたが見ている世界はどんな色をしていて、どんな花が咲いて、夜明けのにおいはどんなにおいで、今どんな季節なんだろう。その世界のうつくしさで、わたしが見ている世界を、全部否定してほしい。ベッドの上でふたりで毛布にくるまっていたら、同じ世界を共有できたり、しないかな。

 甚爾、そばにいて、一緒に寝て。どうせあんた風邪とか引かないんでしょ。離れないで。そしたら治ると思うの。
 泣きながら大きな身体に縋り付いた。これじゃまるで子供だ。

「病人を犯す趣味はねえよ」

 大人しく寝とけ、あととりあえず熱測れ、という甚爾は、ひとりで暮らすわたしの部屋に体温計が無いことを知らないのだ。
 体温計なんてないし、冷蔵庫にはミネラルウォーターしかないの。そう白状すると、嘘だろ、とでも言いたげな顔で後頭部に手を当てた。

「…体温計と、薬と飯、買ってきてやる」
「いいってば、寝とけば治るから」
「病人の言うことは聞かない主義なんだ」

 あと、お前より見た目がいいやつなら他にもいるからな。
 甚爾はそう言い残して部屋を出て行った。わたしはなんだか不思議な気分でスーツを脱いで、パジャマに着替えてベッドに潜り込んだ。
 ベッドの上で、うとうとしていた。毛布は柔らかくて気持ちがいい。少なくとも、甚爾にとってわたしは、綺麗なだけが取り柄な女ではないのだ。嬉しい。たぶん、あの上司にはわからないようなわたしの良さを、この人は知ってくれている。それだけで充分ではないか。
 あと少しで完全に瞼が落ちる。そんなタイミングで電話がかかってきた。ディスプレイには甚爾の名前があった。

「おい、体温計ってどこで売ってんだ」

 電話の向こうで焦った甚爾の声が聞こえている。この人が体温計を必死に探して歩いている姿を想像すると、笑えてきてしまった。笑ってんじゃねえ、と少し怒ったような、呆れた声がする。
 わたし、まだ、死にたくない。まだまだ死にたくないな。
世界は今、わたしを包む毛布みたいに、柔らかくて、優しい。



20200529
メトロポリスに花が注がれて