ちなみに少し楽しんでいます

 この数日間、ときどき晴れ間がのぞいたりしたけれど、基本的にはずっとこの街は濡れていた。可愛い傘をさせるから雨は好き。水滴がついた紫陽花も可愛い。雨が降るか降るか降らないかの水を含んだ空気のことも好き。今みたいな季節のことを世間では梅雨と呼ぶらしい。この時期に傘を忘れるなんてこと、あるはずがないけれど、傘を忘れたと嘘をついて五条さんに会いに来た。

「僕ってそこそこ忙しいんだよね」
「…知ってます」
「雨も降ってるし、気が滅入るよ」

 忙しいといいながらもコーヒーを出してくれる。なんだかんだいって、五条さんはとても優しい。机に山積みになった書類の一枚を手にとり、甘い匂いがするコーヒーカップに口付けながらそれを眺めている。五条さんがとても忙しいことは、言われなくたって知っている。だからこうして嘘をついてまで会いに来たのに。書類を眺める横顔を見つめていると、見すぎ、と笑われた。
 彼は書類を見ながら、とるにたらないこと、たとえば、数十年前の映画の話についてだとか、海外のお菓子事情だとか、をわたしに向かって話していた。話しながらも手は動いているので、器用な人だなあと感心する。めちゃくちゃに強いし。脳の作りとか、人間としての性能が根本的に違うんじゃないか。そんな人が身を粉にして働いてくれている。好きになるしかない。
 五条さんが入れてくれたコーヒーの湯気が立ち消えるころ、雨はますます強く降り出した。

「雨、止みそうにないけど、名前、どうすんの」
「五条さんが帰るまで雨宿りして、それから考えます」
「僕もう疲れたし帰ろうと思ってたんだけど」
「…じゃあわたしも帰ります」
「どうやって?傘ないんでしょ」

 タクシーでも呼ぼうかな、五条さんはどうやって帰るんですか、あ、もしかして相合傘とかしてくれるんですか。冗談に聞こえるように、努めて明るくそう言った。

「残念だけど、僕も傘持ってないんだよね」
「じゃあ五条さん濡れちゃうじゃないですか、風邪ひいちゃう」

 五条さんが風邪をひいてしまっては、大変だ。思わず、嘘がバレるのも厭わずに鞄の中に眠っている傘を差し出して使ってくださいと言いそうになる。

「…バイクのヘルメットはここにふたつあるけど、どうする」
「乗せてくれるんですか」
「行き先は僕の家だし、風邪ひいちゃうくらい濡れるかも。それでもいいなら」

 サングラス越しに五条さんの水面をたたえたような瞳と目が合う。わたしは何も言わずに頷いた。
 まず五条さんのバイクが置いてあるところまで手をつないで走る。バイクに跨ったら五条さんの背中に抱きついて離れないでいよう。こんな雨の日にバイクで帰ったら、きっとふたりともこの黒い服は濡れてしまって気持ち悪いだろうな。五条さんの部屋についたら一番はじめに服を脱いで、寒いですねなんて言い合いながら一緒にシャワーを浴びる。それで、彼の大きなTシャツをワンピース代わりにしてベッドに誘いこむのだ。
 わたしが頭の中で世界一小賢しい計画を立てていることだって、五条さんにはお見通しなんでしょう。五条さんが投げたヘルメットは緩やかな弧を描いて手元に落ちてきた。わたしたちは指を絡めて部屋を出て行く。



20200618
ちなみに少し楽しんでいます

title by にこごり