※硝←夢←夏
※暗い
青い空に白い煙が溶けていく。硝子は最近煙草の銘柄を甘くて重いものに変えた。なんで変えたの?と聞いたら、彼氏と同じ銘柄にしたと言って顔を綻ばせた。そんな硝子の顔、わたしは知らない。
硝子に彼氏ができる。いつかこの日がくるんじゃないかと、恋をしたあの日からずっと思っていた。とうとう来てしまった。硝子のいちばん近くにいるのがわたしじゃなくなる。
晴れた冬の日の午後、彼氏ができたと聞いたのが本人からというのがまだ救いだった。もし他の誰かから聞いていたなら、そう考えるとぞっとする。たぶん人目も憚らず泣いていた。
「…彼氏、どんな人なの」
「えー、年上」
「それだけ?」
「…わたしのことめっちゃ好きかな」
絶対、その男よりも、わたしのほうが硝子のことが好きだ。ぜったい。
煙が、吐く息が、白くなっていく。硝子の、焦点が合わないように遠くを見つめる横顔を眺めるのが好きだ。
名前も顔も知らない男のことを考えて、やっぱり泣いてしまいそうになる。泣くのを我慢したら鼻水が出てきた。こんな顔、誰にも見られたくない。鞄の中のポケットティッシュを探したけれど、うまく見つけられなくて硝子に笑われてしまう。寒くて手がかじかんでる、と言い訳をした。
「寒がりだねえ、名前」
わたしの指を握って冷たいと硝子は笑う。硝子の手は温度を感じさせないくらい白いのに、やわらかな温かさを携えていた。
すき、だいすき。わたし、硝子のことがすきなの。一生本人に言えない言葉は、このままわたしの体内をぐるぐる巡って、いつか代謝されていくんだろうか。
不器用な慰め方がすき。黒くて艶のある髪の毛がすき。右目の下の涙ほくろがすき。めんどくさそうな声が好き。硝子がいるなら東京がどんなに悪い街でも騙されてあげる。
いつか真夜中に急に思い立って自転車で東京タワーに行ったの、硝子、覚えてるかなあ。わたしは昨日のことのように思い出せる。ぬるい風が吹いている夏の夜、硝子の秘密を知ったあの日のこと。銘柄はラッキーストライク。暑くて黒いどろどろした夜、唇から溶け出す煙の白、暗闇で濁る赤い東京タワー。この時間は、この場所はきっと硝子のために存在していると錯覚できるほどうつくしかった。
仲のいい女友達のはずだった。冗談を言い合えて、時には助け合える。唯一の女友達。親友。その関係はどちらかが死ぬまでずっと続くのだと信じて疑わなかったのに、憧れも何もかも飛び越えて、一瞬で恋に落ちた。それから何ヶ月も、硝子のことを目で追って、親友という立場を利用して、一番近くにいたのに。
やっぱり寒いから部屋に戻ってるね、硝子も風邪引かないようにね。わたしはようやく探し出したティッシュで鼻のあたりを抑えて、寮の方に戻る。これでも医者の卵だから心配しなくていいよ、と言う硝子の声がずいぶんと遠くの方で聞こえた気がした。わたしは、おめでとうの一言も伝えられなかった。
「どうしたんだ」
「すぐ、る、見ないで」
「…放っておけるわけないだろ」
部屋の鍵が見つからなくてと言って名前は談話室の隅でうずくまって泣いていた。見つけたのが自分で良かったと、心底そう思う。いつも、水のようにしなやかに笑う彼女が、ここまで感情を乱すところを初めて見た。その理由も、だいたいの検討はついている。硝子だ。
「なにがあった?」
「…硝子に、…彼氏ができた」
名前と硝子は仲がいい。それは私と悟が親友だと互いを認め合うのとはたぶん違うことを知っている。名前をずっと目で追っていたらわかってしまった。きっと、名前は硝子のことが好きだということを。
現に今だって、友人に彼氏ができた時の反応ではないことは明らかではないか。…まるで、失恋したような。
「名前」
背中をそっと撫でる。呼吸すらままならない名前が腕を掴んだ。
「…傑からは、わたしが好きだった硝子と同じ匂いがする」
「馬鹿だなあ」
「傑の部屋に行きたい」
ここで泣いてる名前のことを見捨てられるはずがない。腕に縋り付いて離れない彼女のことを落ち着くまでなだめてやるだけのつもりだった。けれど、結局、慰めて、と言う唇を自分の唇で塞いで、細い腕をベッドに縫い付けた。
「なんでわたし、女なんだろうね」
同じ人間なのに、なんで男と女がいて、男と女で愛し合うことしか認められないんだろう。なんでわたしは女なんだろう。なんで硝子も女なんだろう。
その言葉に、私は何も言えない。彼女にかける正しい台詞を、あいにく持ち合わせていなかった。
時が解決するだなんて言うけれど、時間はいつだって平等に誰も救わない。
下腹部あたりの、ふわふわと吸い付く皮膚に手を当てる。さっきまで自分の身体の一部がこの中に入っていたなんてことは、とても信じられなかった。ひとつになれた気がしていたけれど、それでも私は男で、名前は女だ。同じ人間なのに、どうしたってひとつになることなんてできやしない。そんなことくらいで彼女の気持ちを紛らわせたとも思えない。想像していた以上に、寂しい。
名前は眠たそうにしながら、煙草を吸ってるところを見たいと言った。部屋の中では吸わないようにしていたけれど、それで彼女を少しでも笑顔にできるなら、自分で決めたルールのひとつくらい破ってもいいかと思った。
脱ぎ散らかした制服のポケットから煙草とライターを取り出して、火をつける。
一連の行動を見ながら、硝子と同じ匂いがすると、彼女は笑った。その言葉がどれだけ私を傷つけているのか、名前は知る由もない。
「傑のことを好きになれたら良かったのに」
なんて無邪気で、なんて残酷なんだろう。煙で肺の隅々を満たす。さらには、頭のてっぺんから、つま先まで。毒に侵される私のことを、彼女だけが見ている。
20200716
ふぬけども