※七→夢→←五
「あの人が嫌になって、別れて、そろそろ結婚してもいいと思った時に声をかけてくれたらそれでいいです」
「わたし、七海になにもできないと思うよ」
「もちろんそれでいいです、私が好きで言ってるだけなので」
「…わたしが七海のところに行った時、七海に彼女がいたらどうするの」
「決まってるじゃないですか、別れますよ」
七海が呪術師を辞めると聞かされたのは最近のこと。じゃあ三人でご飯食べに行こうよ、僕がお店予約しとくし、と言ったのは悟だった。七海が呪術師を辞める前夜にわたしたちは流行りのカフェに集まることになった。悟に店選びを任せたのをわたしと七海は後悔する。メニューはパンケーキばかりで、ご飯らしいご飯がなかった。どう考えてもいい歳をした大人三人が夜に来る店ではない。送別会って、普通お酒と共に語り明かすもんじゃないの。パンケーキとソフトドリンクじゃ、とてもじゃないけどそんな気分になれない。相変わらず、悟は咎めるほどではない遅刻をしてくる。そのおかげで、わたしは七海と久しぶりにふたりきりで話すことになった。
七海は店員さんに生クリームがたくさん載ったパンケーキとカフェオレを注文する。らしくないじゃない、いつもはブラックしか飲まないのに、なんて軽口が叩ける雰囲気でもなかった。わたしはアイスコーヒーだけを頼んだ。夜ご飯にパンケーキだなんて、重罪だ。
「この先何年も待たせて、結局ダメになるかも」
「その間、あなたが呪術師を辞めて暮らせるくらいのお金を貯めて、家を建てて、待っています」
どうしたらこの気持ちに報いる生き方ができるんだろう。その答えはどれだけ探しても見つからない。こんなに優しい執念がほかにあるだろうか。少なくともわたしは知らない。
あなたが笑ってくれたら、私はそれでいいんです。それだけ言い残して七海は出て行った。さよならを言う隙もなかった。そこでようやくわたしは彼が頼んだパンケーキは悟のためだと知る。
パンケーキとカフェオレ、わたしの分のアイスコーヒーが運ばれてきて、しばらくした頃に悟は来た。
「あれ?七海は?」
「…悟が遅れてくるから、怒って帰っちゃったよ」
「あ、そうなの。悪いことしたなあ」
まあ一生会えなくなるわけじゃないし、なんて言いながら悟はへらへらと笑っている。とてもじゃないけれど仲が良かった後輩の門出を祝う気持ちがあるとは思えない。
あの人のどこがいいんですか、と前にも七海に聞かれたことを、ふと思い出した。あの時わたしはなんて答えたっけ。
「わたし、あんたのせいで普通のお嫁さんになれないんだわ」
「なに言ってんの。あ、パンケーキ頼んどいてくれたんだ」
悟は、これが食べたかったんだよね、と笑っている。上機嫌だ。生クリームに埋め尽くされたパンケーキは見ているだけで胃もたれしそう。銀色のフォークとナイフに光が当たって、百色にひかる。躊躇わずに、けれど穏やかに白い海がナイフを飲み込んでいく。
「ねえ、普通のお嫁さんになれると思った?残念でした、名前はなれないよ、僕が手放さないから」
この瞳を拒むことができたのなら、わたし、普通のお嫁さんになれたんだわ。海が見える小高い丘に白い家とか建てちゃって、ガーデニングを趣味にして。そんな幻想から突き落としてくれたのが悟で良かった。何かに惹かれるのに、理屈なんか存在しない。諦めよりも美しいなにかがわたしの思考を支配した。
世界に祝福されなくたって、わたしはきっとあなたに手を伸ばす。あなたの隣にいられるのなら、泣きながらだって笑っていられる。
20200422
海のほかに溺れるもの
title by オーロラ片