浸かっているのは甘い泥水

 わたしたちの中で誰がいちばん初めに結婚するかなあ。
 もう何年も前に言ったその言葉の答えは硝子だった。もしかしたら夏油はどこかでわたしたちが知らない誰かと結婚しているのかもしれないけれど、それについては知る由もないので、とにかく硝子がいちばん初めに結婚した。

 硝子の結婚式は完璧だった。
 梅雨の時期だったけれど絵に描いたような晴天の元、絵に描いたように幸せそうなふたりの顔。硝子の薬指にダイヤの指輪がするすると落ち着くまでの三秒間で、わたしは退屈の値段はダイヤひとつだという谷川俊太郎の詩を思い出した。硝子、その宝石には退屈が宿っているのよ。硝子はきっと、これからうつくしい退屈の中を生きていくのだ。もう平日の夜にふたりで朝まで飲むなんて馬鹿な真似はできないし、気軽に硝子の家に遊びに行ってだらだら話しながら、うっかりわたしが泣いてしまっても、もう抱きしめてもらえないかもしれない。ダイヤモンドは強い夏の日差しを反射してきらきらとあたりを照らした。綺麗だ。その光には温度がなくて、美しくて、とてもさみしい。
 その場に居合わせた人間の八割くらいは呪いが見える人間で、言い換えればたいへん気難しい人間たちの集まりだった。それなのに皆驚くほど穏やかな顔をしている。多かれ少なかれ、みんな硝子にはお世話になっているし、今日だけは派閥や血筋のことを忘れてお酒を酌み交わしていた。白い肌に黒い髪、ウェディングドレスがよく似合う。誇らしいはずなのに、この場にいる誰よりもわたしは寂しい。親でも兄弟でもないのに。
 最近はブーケを投げずに名指しで渡すのが主流らしい。硝子が名前を呼んだのはわたしだった。白い薔薇の花束。水色のリボン。眩暈がするくらい麗しい匂い。花嫁のブーケをもらったら、結婚できるらしい。退屈なジンクスだ。悟は笑いながらブーケを受け取るわたしの方を見ていた。

 悟を置いてひとりでホテルの部屋に帰った。どうせあの人は術師の上層部に挨拶するとかなんとかで遅くなる。
 ドレスを脱いで、アクセサリーをとって、髪の毛に刺さっている黒いピンをぽろぽろと外していく。スプレーで固めた髪のセットを解いたら、神話に出てくる悪魔みたいになってしまった。目があった相手を石にする、あの悪魔みたいだ。
  白くて美しいバスタブに、白い薔薇の花びらをちぎっては浮かせていく。花が枯れるのを見るのか嫌いだからだ。新しい花びらを落とすたびにゆらゆらと水面が揺れる。
 ゆっくりと頭の半分くらいまで湯船に身体を浸すと、麗しい香りが鼻腔をくすぐった。幸せの匂いがする。やっぱり持って帰らなくて良かった。枯れるのを見るくらいなら、ここに溶かしてしまった方が良い。ゆっくり目を閉じるとまなうらには硝子の笑顔が浮かんだ。泣きそうだ。

「名前、酔ってんの?」
「…酔ってない」
「もったいないじゃん」
「持って帰ったってどうせ枯れちゃうし」

 悟の声で現実に引き戻された。
 洗面台の前には脱ぎっぱなしのドレスとちぎったあとの花束の残骸が転がっている。それをみた彼に、揶揄うようにして声をかけられたのだった。わたしは思わず、帰ってくるの早かったね、と嫌味っぽく言ってしまった。案の定、帰ってきてほしくなかった?と返される。わたしは、なんて可愛くないんだろう。
 ばさばさ、と音がして浴室に悟はずかずかと入ってくる。ふたりで浴槽に入ると、お湯があふれて、白い花びらはほとんど流れてしまった。

「ブーケ、嬉しくなかったの?」
「…わかんない、けど寂しい」
「ほんと、硝子のことが好きだよね、名前は」

 嫉妬しちゃうなあ、呆れた声がする。
 うん、だいすき。わたしは硝子のことがだいすき。目も合わせずつぶやくと、悟はあからさまに不機嫌になって何も言わなくなった。

「昔さ、同期の中で誰がいちばんはじめに結婚するかなって話したじゃん」
「覚えてるよ」
「わたし絶対悟だと思ったんだよね、なんとなく」
「…誰かさんが首を縦に振らないから、僕、硝子に先越されちゃった」

 目は良いはずなのに、悟は女を見る目が絶望的にない。だいすきな友人の結婚式でもらったブーケを、その日のうちにちぎって浴槽に浮かべるような女のどこがいいんだろう。友人の結婚を心から喜べない女のどこがいいんだろう。せっかくのプロポーズにも素直に喜べなかった女のどこがいいんだろう。
 わざとらしくため息を吐きながらわたしの方に近寄る。硝子に言われた、次は名前と五条の番だな、という言葉を思い出した。わたしは本当にこの綺麗な顔をした男と結婚するんだろうか。悟、あなたは本当にダイヤひとつで退屈を買うつもりはあるの。悟となら、この先退屈せずに済むのかな。
 鎖骨あたりについた白い花びらを手に取って、いい香りがすると悟は笑った。濡れた髪の毛から伝う水滴がじわじわと悟の白い指に染み込んでいく。その湿った指先で、顎を持ち上げて唇が重なるまで、あと三秒。名前、結婚しよう、という彼の言葉にわたしが頷くまで、あともうすこし。


20200614
浸かっているのは甘い泥水



引用したのは谷川俊太郎さんの「新宿哀歌」の一編です。