ふしだらないのち

 生きるためには気持ち悪くなるしかないのだ。
 たとえば、肺とか、腸とか、生きるために必要なことはわかっているのだけれど、一瞬でも身体の外に出た瞬間におぞましいものの象徴になる。なにも人間に限った話ではなくて、たとえば魚とか鳥とか、植物だって、全部が綺麗なわけじゃない。気持ち悪い部分を、畏れてしまような部分を、必ず持ち合わせている。生きていくために必要なものは気持ちがわるい。

 冥さんはあまりにも美しくて、この人に唾液とか舌とかが存在しているのか疑問だった。この人の中に気持ちわるいと思うようなものはひとつたりとも存在していないのではないか。わたしは初めて招待された冥さんの部屋の中で考えていた。
 確かめてみるかい?
 何を、と聞く前に顎を持ち上げられてキスされた。舌を差し込まれたので、その時ようやく、ああ、冥さんには舌があって、唾液もあるんだな、とわかった。
 本当にとろけるようなキスと言うのは、息を吸うことも、もちろん声を出すことさえも躊躇うのだ。それくらい、一秒、いや一瞬の刹那を支配される。

「キス、初めてだった?」

 冥さんから与えられた衝撃にくらべたら、それまで何人かとしてきたキスなんか忘れてしまったではないか。ようやく呼吸ができて酸素が回り始める前の脳みそで、わたしは咄嗟に、はじめてです、と答えた。冥さんとのキスは、と付け加えれば嘘ではない。

「じゃあ私が責任を取らないとね」
「…責任?」
「わからないふりしてるの?」

 冥さんは楽しそうに笑っている。
 責任という言葉は、冥さんにはあまりに不釣り合いだ。だってわたしはお金を払っていない。お金をはらっていないわたしたちの関係、ただキスをしただけの関係に責任が生じるなんて、そんな。

「責任、取らせてくれるかな」
「わたし、冥さんが望むような金額、払える気がしません…」

 名前は私のことを本当によくわかってるね、でも名前からはお金を取るつもりなんてないよ。冥さんは相変わらず楽しそうに微笑みながらそう言った。

「なんで名前のこと部屋に呼んだと思う?」

 もしかして、暇つぶしのための気まぐれじゃないのだろうか。そんなこと言われたら嫌が応にも期待してしまう。
 臓器とか血とか、わたしの身体を構成するものだけじゃなくて、頭の中で考えていることだってそれはそれは人に言えないくらい気持ち悪い。
 冥さんのあばらあたりの、骨がないところに指を沈めたいだとか、爪の色をお揃いにしたいだとか、今日つけてきた下着はお気に入りだから褒めてほしいだとか、もう一度キスをしてほしいだとか。
 わたしの頭の中で繰り広げられるどろどろとしたランデヴーの計画について、冥さんは気づいているのだろうか。気づいていて笑ってくれているんだろうか。こんなふしだらなわたしのことも受け入れてくれているのだとしたら。

「冥さんなしじゃ生きていけなくなっちゃいそう」
「…私のために生きてくれる?」

 冥さんがわたしの毛先を触れた指先で、瞳の光で、その唇から紡がれる言葉で、わたしごときの生命を奪うことなんて簡単なはずなのに。
 わたしはゆっくりと頷く。冥さんの側で生きていれば、あなたのような美しい生命になれるだろうか。
 



20200527
ふしだらないのち


かなり前から書きかけのまま放置していたのですが、大幅に修正しました。
「不可視の極彩色」、「まばたきは花の降るように」はこの話が一部元になっています。表現が似てるのはそのせいです。(言葉の引き出しが少ない言い訳)