※五←夢←虎
二月に入る手前、チョコレートの香りがあちこちからするようになって、ようやく名字のことが好きだと気づいた。なんでいまさら。たぶん、チョコレートの匂いのせいだ。いろめき立つ街のせいだ。バレンタインデーなんていうイベントのせいだ。
「へんな感じだ」
そうつぶやいた声は白くなって空気に溶けていった。冬だ。マフラーを右手でぎゅっと掴む。これが恋か。もっと、雷が落ちたような衝撃を受けて恋に落ちるんじゃないかと思っていた。映画の見過ぎだろうけど。なんとなく目で名字のことを追ってしまうこと、釘崎と話してる内容すら気になってしまうこと、怪我をしていないかついつい確認してしまうこと、その理由が彼女のことを好きだからだと気づいてすっきりした。恋。へんな感じだ。手袋をしているとうまくスマートフォンを扱えないので手には何もつけていない。つめさきが痛いくらい冷たくかじかんでいる。
好きだと伝えるつもりは毛頭ない。言ったところでどうにもならないことを知っている。ただ、二週間後に名字からチョコレートをもらえたりしないだろうか。名字が本命のチョコレートを渡す相手が自分ではないことなんてとうの昔に知っているけど。百貨店の広告の中で、赤いハートが飛び交うイラストを背に少女が踊っていた。
「…どうしよっかなあ」
バレンタインデーというイベントに縁がなかったわけじゃないと思う。中学生の頃は、毎年何個かは義理だとか友達用だとかそういった類のチョコレートをもらっていたし。でも、好きな人がいるバレンタインは初めてだなあ。
行くあてはないけれど、寮に帰るのはもう少しだけ後にしよう。今名字に会ったら、ぜったいに変な顔をしてしまう。
去年の六月に高専に入学して、およそ八ヶ月。
名字は五条先生のことが好きだと知ってから、半年。
俺が名字のことを好きだと自覚してから三日。二月になった。
三日間の間に、片思いの辛さを痛いほど思い知る。まず、名字が先生と話しているところを見ると逃げ出したくなるし、先生に話しかけられるとよそよそしい態度をとってしまった。ちくしょう、呆れるくらい、馬鹿だ。
名字はこんな思いをもう半年間してるのか。よく耐えれるなあ。それとも、慣れるもんなのか。名字が先生のことを好きだと気づいたきっかけはなんだったっけ。たしか、五条の背中をみつめる瞳だった気がする。
五条先生、かっこいいよなあ。わかる。わかるよ。俺がもし女で、五条先生がそばにいたら好きになってると思う。見た目ももちろんだけど、なんていうか年齢のわりに余裕がある。どうしようもないくらい五条先生は他人を助ける余裕のあるかっこいい大人。逆立ちしても敵わない。
叶わないけど、名字が好きだ。自覚すると好きという気持ちはとめどなく溢れるような気がする。自分が自分じゃなくなるようで怖い。好きだと伝えることはできないけれど、それでも好きだ。今の自分の状態はなんて言葉が適切なんだろう。恋は盲目?惑溺?なんか、しっくりこない。
二月十四日。五条先生や名字との接し方が不自然ではなくなってきた頃。
高専の近くのコンビニでバイトをする女の子に告白された。お会計したあとにありがとうって言ってくれるところが好きです、らしい。たぶん、何回も会ってるはずだった。それでも、ネームプレートを見て初めて名前を知った。
「悪いけど」
目の前の彼女は顔を伏せている。手に持っている赤と白の可愛らしいラッピングが施された小さな箱。おそらくチョコレート。せめてこれだけでも受け取ってくれませんか、という言葉に、ごめん、ありがとうと返して断った。
ごめん、ありがとう、か。
たぶんそれは俺がフラれた時に名字に言ってほしい言葉だ。
「名字」
「あ、虎杖」
声をかけてから気がついた。名字は五条先生がいるであろう部屋の近くにいたこと。紺色と白の上品なデザインの箱を持っていること。ああ、声をかけるタイミングを間違えたな。
「…それ、先生に?」
「誰にも、言わないで」
「言わないって」
「馬鹿だって思ってるでしょ、わたしだってわかってるよ、でも、好きなの…」
知ってたよ。名字が先生のことを好きだってことは。見てたからわかるよ。俺、そういうの、そこそこわかっちゃうんだよ。半年以上誰にも言えなかったんだなあと小さく震える肩を見て思った。あんなに仲の良い釘崎にも、頼りになる伏黒にも、先輩たちにも言わずに大切にしてきた名字の感情に触れて胸が痛くなる。名字が馬鹿なら、俺だって馬鹿だよ。
泣きそうな顔。そんな顔初めて見た。緊張していることが伝わる。頑張れ、とだけ小さな声で言い残して部屋に帰った。
「チョコね、受け取ってもらえなかった」
「え?」
「生徒からはもらえないんだって、そういう決まりらしくて」
頑張れと告げてから数分後に名字は俺の部屋にきた。手にはさっき持っていたチョコレートが握られたままだ。自分じゃ捨てられないから一緒に食べてほしいという。断ればいいのに、断れない。やっぱり俺は馬鹿かもしれない。
この日のために彩られたであろうピンク色の指先が包装をほどいていく。そして、紺色の紙はくしゃくしゃになって俺の部屋のゴミ箱に沈んだ。
「はやくおとなになりたいなあ」
こんな形で名字からチョコレートを受け取りたくなかった。フラれるなら、ちゃんと好きと言ってから、ごめん、ありがとうと言ってほしかった。名字のことがこんなにも好きだと気づきたくなかった。
口の中に入れたチョコレートがゆっくりと溶けていく。シックな見た目に反して喉が焼けつくように甘い。へんな感じだ。
「これ、甘いな」
「思ったよりも甘いね」
名字が先生のために選んだもの。本当なら俺が口にすべきではなかったもの。
さっき告白を断った時の自分の顔をなんとなく想像してみる。深刻な面持ちで眉を寄せて、口をぎゅっと結んでいる自分の顔。今、名字に好きだと言ったら名字も同じ顔をするんだろうか。できれば、名字には、そんな顔永遠にして欲しくない。
名字はまたひとつチョコレートを口に運ぶ。もう一度はやくおとなになりたいと言って涙を流した彼女にかけるべき言葉を俺は知らない。本当は、俺だって泣きたい。
20200726
濁るほど甘い