そばにいる

※伏⇆夢→七


 雨の多い七月だった。ようやく風がぶあつい雲を流して、現れたのは絵の具みたいな水色。アスファルトが白い熱を孕む。
 部屋の電気がつかないというメッセージが来たのがついさっき。もし今日俺が行かなければ、あの人は電気のつかない暗い部屋でベッドの上から動かないのだ。しかたなく、スニーカーに手をかけて夏の空気の中を歩いていく。

「自分の家に帰ってくるみたいにわたしの家に来てくれるね」
「電気くらい自分で変えてくださいよ」
 俺が部屋に入ってからも、名前さんはベッドの上から降りる気配がない。壁の方を向いてベッドの上に寝転んでいる。
 酷い有様だ。電気がつかないのにカーテンを閉めているせいで部屋の中は暗かった。
 たとえば洗濯機の前には脱ぎ散らかした服が散らばっているし、台所の光景には目を覆いたくなるほど。
 それでも任務や高専で会う名前さんはいつもきっちり黒い服を身につけて年齢に適切な化粧をしている。女の人は見かけだけでは何もわからない。
「何日この状態なんですか」
「恵が前来た時から台所に立ってない」
 前回名前さんの部屋に来たのは、たぶん一週間前。たった一週間でこれだけ部屋を汚くできるのはある意味才能だと思う。ベッドの上以外をゴミ箱とでも思っているのか。
 どうせ冷蔵庫の中には何も入ってないだろうと思って簡単な食材を買ってきてよかった。この部屋の冷蔵庫にはミネラルウォーターしか入っていない。
「電球買ってきてください、付け替えはするんで」
「…暑いからやだ」
「はやくベッドから出てください、叩き起こしますよ」
「顔見られたくないからやだ」
「はあ?」
 あんたのすっぴんならもう何度も見てる。これだけ散らかった部屋に住んでおいて、今さら何を恥ずかしがるんだろう。
 無遠慮に彼女が寝ているベッドに近づいて、薄い掛け布団を剥がした。

「…七海さんと、なんかあったんですか」
「なんで、…七海さんの名前が出てくるの」
「あんたがそんな顔する理由なんて、七海さんくらいだろ」
 たぶん昨日は夜通しで泣いたんじゃないか。そういう顔だ。
 見ないでって言ったのに、と顔を塞ごうとする手を掴んで、額、頬、唇の順に口付けた。
「恵、本当にわたしのこと好きだね」
「…悪いかよ」
「ううん、かわいい」
「馬鹿にしてます?」
 好きだから、電気がつかないなんてくだらないSOSにも呼ばれてやるし、甲斐甲斐しく料理まで作ろうとしている。好きだから、泣き腫らした顔さえも愛おしいと思える。
 名前さんはゆっくり口を開いた。
「七海さんね、結婚するの」
 ああ、それで。
 彼女が七海さんのことを慕っているというのは有名な話で、それに気付いていないのは七海さん本人くらいだ。そして、名前さんが誰を好きでいてもいいと言ったのは俺だった。
「…恵、甘えてばっかりでごめん」
「年下に甘えてる自覚あったんですね」
「こんな情けない姿を見せられるのは、恵だけだよ…」
 そうじゃなかったら困る。化粧をしていない顔、乾いた唇の感触、休みの日はろくに動こうとしない名前さんの休日のこと。他の男が知っていてたまるか。
「ちゃんと起きて、電球買ってくるね」
「…その間に、部屋片付けとくんで」
「わたし恵がいなきゃダメだ…」
 その言葉通り、俺がいなきゃだめになってしまえばいいのに。
 名前さんは着替えて化粧をする。いつもの顔だ。正しくて、強い、名前さんの顔。
 彼女が電球を買いに行っている間にゴミを捨てて台所を片付けてベッドリネンを洗っておいてやった。夏の日差しが差し込むベランダに、白いシーツがゆらゆらと揺れている。



「選べなかった」
 一時間ほど経った後、帰ってきたのは数種類の電球を抱えた名前さんだった。掃除もそこそこ終わり、フローリングの床が姿を表した。鍋にカレーのルーを入れた頃合い。
「使い終わった電球渡したじゃないですか、あれを店員さんに見せたら同じやつ出してもらえたでしょ」
「…ゴミだと思った」
「嘘だろ」
 買ってきた電球はどれも部屋を照らすことはできなかった。呆れた。この人は今までどうやって生きてきたんだろうか。これから俺がそばにいない時どうやって過ごすんだろう。心配になる。
「恵、カレー作ってくれたの」
「食べられますか」
「食べる」
「もうすぐできあがるんで、座っててください」
 まるで他人の家に来た時のように大人しい。米が炊き上がれば、あとは盛り付けるだけだ。

「おいしい」
「…よかった、こぼさないでくださいよ」
「わかってるよ、子供じゃないんだから。…やっぱり、恵がいなきゃわたし無理」
 作り終えたカレーを食べながら名前さんは泣いた。
 結局部屋の電気はまだつかないこと、この人の親指のペディキュアが半分くらいぽろぽろと剥がれていること、泣いているせいでマスカラの繊維が頬に落ちていること、そういうの全部がばかばかしくなる。
 窓の外からは青空の下で遊ぶ子供たちの声が聞こえる。カーテンの向こう側では白いシーツがはためいている。名前さんの左手を右手で強く握った。
 あんたが、どんなにだめになっても俺だけはそばにいる。七海さんへの気持ちを忘れるまでそばにいる。泣き疲れて眠るまで、そばにいる。


20200807
そばにいる