痛いよ

 今は野薔薇に会いたくない。そう思った時に限って、どうしてか会ってしまう。野薔薇は談話室で楽しそうにスマートフォンを眺めていた。
 いつもなら、きっとなんとも思わないのに。今だけは顔を顰めてしまう。いつもなら、名前を呼んで何してるのと声をかけて、そこから出張先で買ってきたスイーツを一緒に食べる。いつもなら。
「あ、名前、おかえり」
 スマートフォンから顔を上げて野薔薇はわたしに笑いかける。わたしは心臓がぎゅっと握られたように、その場から動けなくなった。

 そういえばさ、釘崎に彼氏ができたんだけど。
 出張からの帰りの電車の中で、別件で虎杖くんとやりとりをしていた時、本当になんの前触れもなくそう送られてきた。お祝いしなきゃね、と当たり障りのない返事をした。
 時間が経つごとに野薔薇に彼氏ができたという事実がじわじわとわたしを蝕む。どうしてわたしには教えてくれなかったの。彼氏って誰なの。どうして付き合うことになったの。そういう疑問がふつふつと湧き上がって止まることを知らない。こんな状態で、野薔薇にあって何を話すんだろう。おめでとうと笑って言える友達であればよかったのに。高専に帰っても野薔薇に会いたくない。わたしは祈りながら電車に乗っていた。

「野薔薇、彼氏できたんだって?」
「あ、なに、虎杖あたりから聞いたの?」
「そうだよ」
「帰ってきたら一番に言って驚かせようと思ったのに」
 ああ、本当だったんだ。そうだよね、虎杖くんがそんな嘘をつくわけないよね。動揺を誤魔化すための言葉がぽろぽろと唇から溢れ出す。
「喧嘩しても彼氏のこと殴っちゃだめだよ」
 わかってる。野薔薇はそんなことしない。
 口からはぺらぺらと嫌味みたいなアドバイスが吐き出された。ろくに恋人がいたこともないくせに。
 デートには遅刻していっちゃだめだよ、デートに高いヒールを履くと相手は気を使うらしいよ。ちがう、こんなことが言いたいわけじゃない。
 一番言いたかったことは、これからも友達でいてねって、それだけだったのに。たまにでいいから一緒に買い物したり、流行りのカフェに行ったり、眠れない夜はそばにいてほしい。できればこれからも一番の友達でいさせて。なんで言いたいことほどうまく言葉にできないんだろう。

「名前、泣かないでよ」
 野薔薇の言葉で、ようやく自分が泣いていることに気づいた。泣いてるわたしの涙をハンカチで拭って、手を取って、それから抱きしめる。首筋あたりから、野薔薇がいつもつけている香水の匂いがする。優しい花束の香り。
 野薔薇の彼氏も、きっと普段の凛とした立ち振る舞いからは想像できないくらい優しい指先のことを好きになったんだろうと思った。でも、わたしの方が先に野薔薇の優しさに気づいていたのに。わたしの方が先に野薔薇のことを好きになったのに。嫉妬だ。おぞましくて、浅ましい。
 そんな男と別れてよと言ったら、野薔薇はどんな反応をするかな。言わないのは、今こうして野薔薇がわたしの髪を撫でて慰めてくれるのがたまらなく心地いいからだ。今だけは、スマートフォン越しの彼氏よりもわたしのことを優先してくれている、それが嬉しい。いつのまにわたしはこんなにずるくなったんだろう。首のあたりに頭を押しつけたまま泣きじゃくるわたしはとても醜い。
 好き、大好き。泣いていたからうまく発音できたかわからなかったけれど、野薔薇は知ってると言って、わたしを一層強く抱きしめた。そんなに力入れたら、野薔薇、ねえ、痛いよ。
 野薔薇は優しい。おめでとうの一言も言えないわたしを飽きることなく慰めてくれる。野薔薇は優しいから、わたしたちは明日もその次の日も、ずっと一番の友達のまま。


20200809
痛いよ