つまびくまどろみ

 ぱち、ぱち。
 やわらかい音を立てながら伸びた爪は紙の上に落ちていく。テレビの中では夏だというのに暑苦しいスーツを着たアナウンサーが猫の動画について解説していた。平和な日本の夏の夜。洗面台の方からはドライヤーの音が聞こえる。はやく戻ってこないかなあ。あ、音がとまった。扉が開く音がする。
「悠仁くん、夜に爪切っちゃだめなんだよ」
 名前さんは髪の毛を乾かし終わって、首筋あたりに香水をつけている。一瞬、部屋に甘い香りが広がって、名前さんの体温に馴染んでいった。日中は上品な香りを身に纏っているのに、夜はまるでお菓子のような香りを纏う。それを知ってるのは、たぶん俺だけだ。
「んー、それ迷信じゃないの?」
「迷信を信じない術師なんて悠仁くんくらいだよ、たぶん」
「そっかあ」
 たくさんの人が信じるからにはなにか理由があるのだろう。納得したふりをして眼下にある紙をくしゃくしゃにまるめてゴミ箱に沈める。
「悠仁くん、はやく」
 一足先にベッドの上に寝転がる名前さんの上に覆いかぶさった。甘くてやさしい、名前さんの香りが鼻腔をくすぐる。はやく、と急かしたかったのは本当は俺の方だ。
 まず耳たぶを触って、後頭部に手を添える。そのまま気持ちよさそうに目を閉じるその瞼に口付けた。
「もう、くちにして」
「…かわいい」
 いつもは可愛いというと口を尖らせるけれど、いまは嬉しそうに笑っている。その顔をみると、やっぱり可愛いと思ってしまうのだ。お風呂から出てすぐ、頬のあたりがあかく色づいている。言われたとおりに唇を重ねると高く短い声が聞こえた。
 服の下から、しっとりと濡れたやわらかい肌に、手のひらを這わせる。胸の下あたりまでシャツをまくり上げたあたりで、腕はやんわりと制止されて自由を失ってしまった。
「…爪、がさがさして痛い、悠仁くん不器用だね」
「ちょっと待って、切りなおすから」
「いい、わたしもう寝る」
 胸のあたりまでまくり上げられていたシャツはおへそのあたりまで戻されてしまった。ええ、と声を漏らしたけれど、名前さんは壁の方を向いて本格的に寝ようとしている。皮膚に触れないようにしなければ。彼女の背骨をなぞるように服の上から爪を立てる。シャツの繊維が爪に絡み付いた。
 くすぐったそうに身をよじらせる名前さんを見ると、なんか、ため息が出そうだ。
「…やっぱり夜に爪なんて切るんじゃなかったな」
 大勢が信じているだけあって、迷信は案外ばかにならない。首筋からは相変わらず甘い香りがする。名前さんは楽しそうに笑っている。


20200812
つまびくまどろみ