青い毒

※冥→夢⇆五

 この世界で、私の部屋に自由に出入りできるのは名前だけだ。私のことを冥と呼ぶのも、わたしにコーヒーを運ばせるのも名前だけ。夜ご飯を食べ終わった頃に名前は連絡もなく訪れた。私が部屋にいなかったらどうするつもりだったんだろう。それを尋ねると、今日は任務ないって言ってたでしょ、と笑う。いつだって名前は身勝手で、ひどくまぶしい。
 コーヒーには角砂糖をふたつ、ミルクもたっぷり。それなら初めからカフェオレが飲みたいと言ってくれればいいのに、名前はこの甘ったるい飲み物のことをコーヒーだと呼んでいた。
 目の前に置いたコーヒーカップに唇を寄せると、熱い、と舌を出す。
「コーヒー飲むためだけに来てくれたの?」
「違うの、マニキュア、塗ってほしくて」
「…いいよ」
「冥、ありがと。どの色がいいかなあ」
 手に持っていた小さい紙袋からは想像よりもたくさんのネイルポリッシュが出てきた。これなんかいいんじゃないかな、私が指差したのはいつか名前にあげた色だ。
「明日、五条くんとデートするから、綺麗な色にしたくて」
「楽しんでおいで」
 平然と、余裕を持ってそう口にする。五条くんとデートすると聞いて、先ほど選んだ色を後悔した。マットなシルバーと淡いブルー。まるで私が五条くんのためにえらんだみたいになってしまった。
「右手の爪がやっぱりうまくぬれないんだよね…」
「名前は不器用だね」
「冥が器用なんだよ、わたしは普通。髪の毛だって、毎日きれいに結ってるけど、それ普通の人じゃできないからね」
 何度も失敗したであろうピンク色の爪に除光液を染み込ませたコットンを被せた。身体にわるい、毒の匂いがする。
「明日はどこ行くの」
「水族館って言ってた」
「そう。…デザインはどうする?」
「冥に任せる」
 コットンの裏側にはべったりとピンク色のマニキュアが付いていた。名前の何も纏っていない爪はほどよく長くて、四角い。甘皮の処理もきちんとしてある。名前は、本当は器用だと思うけれど、頼ってくれたことが嬉しいので黙っておこうかな。
「グラデーションにしようか」
 銀色にひかるガラス瓶に手をかけた。
 筆を爪の上に滑らせて、色をつけていく。彼女の青白い手には銀色も青色もよく似合う。ピンクなんかよりも。
「海みたいで綺麗…」
「しばらくそのままじっとしてて」
「うん」
 じっとしてて、と言ったとおりに名前は指先を眺めて動こうとしない。よほどお気に召したらしい。
 明日になれば、彼女はその麗しい爪先を携えて五条くんのために髪を巻いて服を選んで化粧をして香水をつける。身長差を少しでも埋めるためのピンヒールに足を滑らせる。たぶん、以前私と一緒に選んだあの靴をはいて、五条くんとデートをする。

「ねえ、このコーヒーまだ苦いや」
 もうネイルは乾いたと思うよ、というと名前は冷めたコーヒーに口をつけた。
「…砂糖持ってこようか」
「ありがとう」
 名前はシルバーと淡いブルーに彩られた自分の爪を目をきらきらさせながら眺めて、冥はなんでもできるねと笑った。なんでもできるよ。なんでもしてあげるのは、名前にだけだけどね。
 明日、私が彩った朝方の海のようなその爪が、五条くんの背中に傷をつけるのだとしたら、砂糖の代わりに毒のひとつでも入れてやりたい気持ちになる。楽しそうに爪を眺める彼女に、そんなことをできるはずないけれど。
 ああ、まったく。金銭以外のしがらみは本当にやっかいだ。


20200813
青い毒