穏やかな眠りにつくための

 あ、しまった、と思うよりも前に枕は汚れてしまった。慌てて瓶を立たせたけれど意味はなかった。枕カバーには深い緑が溢れている。お風呂上がり、ベッドの上でマニキュアなんて塗っていた罰だ。
 マニキュアって、洗濯じゃどうにもならないよなあ。しかたない、この枕カバーは捨てよう。今日のところは大きめのタオルを枕にかぶせよう。幸いカバーの下まで色がしみていることはなかった。その確認をしていたら半乾きのネイルがぐにゃりと崩れた。最悪だ。一から塗り直さないと。
 シングルサイズのベッドの上には枕がふたつ並んでいる。狭いせまいといいながらわたしたちは二人で眠りにつくからだ。柄にもなく、お揃いのものだったのに。汚してしまったのは少し悲しい。

 お世辞にも綺麗とは言えない爪でカバーを剥ぎ取り、台所のゴミ箱に捨てる。そのタイミングで玄関が開く音がした。
「おかえり」
「またそれ塗ったのか、しかもぐちゃぐちゃじゃねえか。匂いも残ってる」
「失敗ちゃったの。甚爾、ごはんは?」
「その匂い嗅いだら食欲が失せた」
「そう」
 帰ってきた彼は冷蔵庫の中からビールを取り出してわたしの横に座った。除光液の匂いに顔をしかめてひどい匂いだと吐き捨てる。コットンに除光液を染み込ませると、指先がひやりとした。あまり擦ると爪に良くないということはわかっている。でも、一刻もはやく失敗した爪をなんとかしたくてごしごしと擦った。十本の指がなんとか健康的な爪の色になるころ、甚爾は空になったビールの缶を机の上に置いた。
「今から塗り直そうか迷ってるんだけど」
「おまえの爪なんて、俺以外見ないだろ」
 蓋を半分開けたベースコートの瓶は、ひょいと持ち上げられてしまった。いつもなら口を尖らせるところだ。
 おまえの爪なんて、俺以外見ないだろ。頭の中で甚爾の言葉を反芻する。
 甚爾の顔を見るとしまった、という顔を一瞬だけして浴室の方へ行ってしまった。わたしはそれがおかしくて、甚爾の背中を見ながら少しだけ笑った。
 照れたとき、表情がわからないようにわたしに背を向ける彼の仕草はたまらなく可愛い。机の上に無造作に置かれたマニキュアの蓋はきっちり閉めて、ポーチの中にしまいこんだ。


「枕、変えたのか?」
 浴室から出た甚爾は、寝室につくやいなやベッドに寝転ぶわたしにそう尋ねた。
「さっき、マニキュアこぼしちゃってカバーは捨てたの」
「…くさい、毒の匂いがする」
「毒って」
「捨ててこいよ」
「えー、カバー変えたからいいじゃん」
「駄目だな」
 甚爾は枕をひょいと持ち上げて台所のゴミ箱に捨てに行く。鼻がいいというのも困りものだ。戻ってきた甚爾は、残りひとつの枕を当たり前のように自分の頭の下に敷いて寝転んだ。
「わたし、枕ないと眠れないんだけど」
 そんなこと知るか、と呆れた顔で吐き捨てるわりに腕を差し出してくれる。甚爾の腕はごつごつとしていてかたい。しかも筋肉が多いせいでわたしの体温よりも熱い。とてもじゃないけれど、いつも使っているふわふわの枕とは似ても似つかない。
「寝るぞ」
「…おやすみなさい」
 腕の上に頭を乗せて、心臓のあたりに手を置いた。どくどくと、腕を流れる血の音。それがわたしをこの上なく安心させることをたぶんこの人は知らない。うん、これなら眠れそうだな。
 もし痛かったら腕どけていいからね、と耳元でつぶやいた。甚爾はお前一人くらいなんてことないと笑う。もう一度おやすみなさいと告げて、わたしたちは、今日も狭いベッドの上で穏やかに眠る。


20200814
穏やかな眠りにつくための