あなたを眺める不幸せ

 空気を吸って、吐く。当たり前のことのはずなのにこの国ではとても難しい気がする。
 スカウトされてこの業界に入るまで、まわりの空気を読んで生きてきた。相手の欲しいタイミングで欲しい言葉を言う、大袈裟に笑う。人間関係で悩んだことなんてほとんどなかった。でもどうやらそれだけじゃこの業界はだめらしい。
 同僚から名字さんって個性がないよねと言われたんです。へらへらと笑うわたしに、名前はたぶん、本気で誰かと関わろうと思ったことないんだね、と五条さんは言った。腹は立たない。言い返すこともできない。事実だ。

 ついにあの喫茶店でも煙草を吸えなくなった。しかたなく炎天下の下喫煙所に行く。喫煙所の空気は心地がいい。これだけすみのほうに追いやられると、見知らぬ喫煙者たちと不思議な連帯感が生まれる。煙草なんてやめなよ、そんなことを言う人はひとりもいない。煙草を持つ爪先の無難なピンクのジェルネイルがつやつやと光っている。
 ちゃんと、息を吸って、吐いて。煙草を吸ってる間だけは当たり前のことを当たり前にできると思っていたのに。
 十月からまた煙草が値上がりするらしいよ、という赤の他人の声を聞いて耳を疑った。すぐにスマートフォンで調べたら、手に持っているパーラメントもついに五百円の大台に乗ってしまうことがわかった。千円になったら辞めるか、だなんて呑気な声が聞こえる。わたしはネイビーと白の箱を握りしめた。ぐしゃり、濁った音がする。


「海外に行きたい?旅行じゃなくて?」
 五条さんはわたしが作った異動願をぺらぺらと眺めている。目を隠していてもわかる。たいして真剣に取り合うつもりもないであろうことは。
「日本よりも煙草が安い国に行きたいんです、中国かメキシコ。たぶんどっちでも呪術師としての需要はあると思うんですよね」
「馬鹿だなあ、名前。煙草やめればいいじゃん、僕煙草嫌いなんだよね」
「知ってますよ、そんなこと。…五条さんなら、わたしひとりを海外に飛ばすくらい、なんてことないでしょ」
「そうかもね、でも困るかな」
「なにがですか」
「名前みたいな優秀な術師がいなくなるのは。それに」
「…それに?」
「海外に行っちゃったら、名前と簡単に会えなくなるでしょ、寂しいじゃん」
 長い腕が伸びて、わたしは部屋のすみの壁に追いやられる。腕を掴まれるといよいよ動けない。目隠しを外して五条さんはわたしに笑いかける。わたしはこの顔にめっぽう弱い。迫ってくる唇を拒むことはしないが、それ以上の応酬はしない。つれないなあと五条さんは白い歯を見せる。

「そんなに日本がきらいなの」
「…嫌いですよ」
 煙草の値段はまた上がるし。一緒に働く術師はみんな変な人ばかりだし。空気を読めと言われて育ったのに、この業界では個性がないって言われちゃうし。
 五条さん、あなたもわたしだけのものになってくれないし。
「…僕がいるのに?」
 壁に抑えつけられたまま動けない。もう一度唇を重ねて舌を絡めた。
「やっぱさあ、煙草やめなよ、キスするとき苦いし」
 やめたところで、五条さんはわたしだけのことを好きになるわけじゃないのに。でも、まあ、わたしが海外に行ったら寂しいと言ってくれたので、よしとしよう。首の後ろに腕を回して、深く口付けた。酸素が脳みそに回らなくなって正しい判断ができなくなる。けれど、わたしの頭の遥か上の方で昨夜必死に作った異動願がぐしゃりとにぎり潰される音は、確かに聞こえた。


20200817
あなたを眺める不幸せ