あげくの果て

※暗い


 わたしは、彼の遺体を抱きたかった。
 冷たく、かたく、白くなったその頬に頬を寄せて涙で濡らしたかった。許されるなら、ほんとうの最後のお別れに口づけをして、泣きたかった。氷のように冷たくたって構わないと思っていた。

 五条に対しては不思議と憎しみはわかない。折本里香を手に入れることができなかった場合、唯一の親友である彼によってとどめを刺されるのはある意味で正しいように思えた。どこの馬の骨ともわからぬ乙骨憂太に殺されるよりは。互いに力を尽くし知を尽くし、それでも届かないのであれば仕方がないと、無理矢理、けれど静かに納得して、やり場のない気持ちを代謝していく。五条にあっても大きく感情が動くことはなかった。
「なにしにきたの」
「…傑の葬式に、参列させてください」
 かつての同級生に深々と頭を下げた。黒い靴のつまさきが目に入る。ぴかぴかに磨かれた深い黒。すべてを飲み込むはずの黒色が、雪の上ではぽつりと浮いていた。
「ねえ、自分も処刑対象だってわかってる?…あいつの葬式は高専でやる。おまえはここで帰ってよ、頼むから」
 殺されないだけましだと思いな、と五条は苦虫を噛み潰したような顔でそう告げた。せめて骨だけでも、と食い下がるわたしに、今なら見逃してやると言ったのは、優しさなのか、同情なのか、哀れみなのか、わからなかった。きっと言葉にするよりもずっと複雑な心境で五条はこの場所に立っている。わたしなんかよりも、五条の方がずっと泣きそうだ。
「傑は、笑ってたよ」
「…そう」
 わたしのことも殺して欲しいと、泣いて縋ればよかったかもしれない。踵を返して、雪の中をひとり、傘もささずに歩いていく。
 
 美々子と菜々子が待つビルに帰る道の途中、傑が吸っていた煙草に手をかける。骨張った手で煙草に火をつける仕草が好きだった。美々子と菜々子がいない場所では吸って欲しいとせがんだことが、もう遠い昔のことのように思える。好きだった。なにを犠牲にしてもいいと思えるくらい、傑のことが好きだった。
 わたしたちが壊すはずだった世界は、昨日の夜から降り始めた雪に覆われている。見渡す限りの白と灰色。水と混ざった雪は綺麗だなんて言葉からかけ離れているように思えた。もうすぐ、十二月は終わる。そして、新しい一年が歓声とともに始まる。傑がいない新しい一年は容赦なく始まる。
 十年間ずっとそばにいて、肉親よりも近くにいて、誰よりもお互いのことを知っていたはずだ。それなのに、遺体を抱けないどころか、骨すらわたしの手元には残らない。傑が眠る場所もわたしは知らない。どうやってあなたを愛したことを思い知ればいいんだろう。
 こんなことなら婚姻届を無理矢理にでも出せばよかった。そしたら、生涯あなたの妻として位牌に手を合わせることができたのに。
 灰色をした冬の空に、希望と名付けられた煙草の煙が溶けていく。まつげの上に雪が乗った。ゆっくりと確かに溶けていく。まばたきをすると頬に水が落ちてきた。冷たい。指も、爪先も、つめたい。雪が冷たいと感じられるくらい、わたしの身体はまだあたたかい。

20200823
あげくの果て