「あんたが死んだら煙草やめる」
名前は久しぶりに僕の部屋に来た。名前の任務先がたまたま僕の家の近くだったからだ。僕の部屋の中で唯一彼女のために存在しているガラスの灰皿をもって、ベランダに出た彼女の後ろ姿はそうこぼした。
「久しぶりに来て、それ?」
名前は何も言わない。答えるかわりにライターを数回鳴らすと、橙色の光が一瞬だけ名前の輪郭を縁取った。
僕が死ななきゃ煙草をやめない?それなら煙草と心中すれば。心の中で毒づく。もちろん言わない。名前にはそんな死に方はふさわしくない。
こうしてふたりで会うこと自体が久しぶりだった。あいにく季節は呪いの繁忙期。猫の手も借りたいくらいにお互い忙しい。そういえば、さっき見た名前の顔にはうっすらとくまがあった。
窓ガラス越しの景色の中、白い煙が群青色の空に溶けていく。硝子はちゃんと禁煙してるのに。そう僕が不満げに言うと、硝子は煙草を吸わなくなった分酒の量が増えたのだと言って笑った。煙草とお酒、どちらが健康に悪いんだろう。僕はよく知らない。
「名前、はやく戻ってきてよ。外寒いでしょ」
「んー」
肯定とも否定ともとれない曖昧な声がベランダから聞こえる。名前に動く気配はなかった。少しだけ空いた窓から刺すように風が吹いた。
「…悟が死ぬ夢を見たの」
「ふーん?」
「詳しくは覚えてないんだけど、死んだの」
ベランダに持っていったガラスの灰皿は月に照らされてきらきらと反射している。その光は、星よりも真っ直ぐに僕の目に届く。
「明日、悟が死ぬかもしれないって思ったら怖くなったの」
聞こえるか聞こえないか、それくらい弱々しい名前の声は夜風に乗ってはっきり僕の耳まで届いてしまった。まるで泣いているような声だ。
「…死なないよ、僕」
「勝手に死んだら呪うから」
「女は怖いね」
名前は僕のつぶやいた言葉に反応することなく、吸いかけの煙草をぐりぐりと押し潰して消した。音も立てずに火は消えていく。
「…煙草をすわなくなった健康な身体で、長生きするの、退屈だと思うんだよね。」
「わかったって、絶対、死なないから。戻ってきて、名前」
ようやくベランダから戻ってきた名前を抱きしめると、すこしひやりとしていて、髪の毛から秋の夜の匂いと煙草の匂いがした。
煙草を吸わない彼女のことを想像する。煙草の匂いがしない名前が別の男に抱かれるところを想像する。
薄く、ぴんと張った白い肌に別の男の指が這う。髪を撫でる。耳の裏の体温が高いところに頬を寄せると、名前らしくもない甘ったるい香水が鼻腔をくすぐる。そういうくだらない想像をした。
「…やっぱり、絶対死ねないな」
胸の中におさまる名前の後頭部を撫でた。泣いてるんだと思ったのにな。息が苦しいと言って胸のあたりを叩く、その声は明るい。ほらね、やっぱり女は怖い生き物だ。
20201129
夜は君にとても優しい