「その女とわたし、どっちが大切なのよ!」
隣で歩く傑さんの携帯電話からはぎゃんぎゃんと泣き喚く女の声が聞こえた。ああ、またか。
傑さんがお付き合いしている女の人の顔も名前もわたしは知らないけれど、向こうはわたしのことを知っている。彼が恋人と会う約束を断る時、必ずわたしの名前を出すからだ。一回、二回はものわかりのいいふりをしてきた人たちも、最後にはこうして泣きだす。
「…名前のことをその女だなんていうのはやめてくれないか」
明らかに怒気を含んだ声に、わたしまで背筋がぴりっとした。涙まじりの情けない声をものともせず、傑さんは通話を切る。そしてため息をつきながらボタンを数回押した。正確にはわからないけれど、たぶん着信拒否をしたか、連絡先を消したんじゃないだろうか。
「大丈夫、ですか」
「名前は気にしないでいいから」
またひとつ恋を失ったとは思えないくらい、電話していた時とはまるで違う、いつもと変わらない穏やかな声だ。わたしの心はこんなにもざわざわと音を立てているのに。
「女の人ですよね」
「そう。付き合ってみるんだけど、なかなかうまくいかないんだよね…」
当然だと思った。傑さんの中では、お付き合いしている女の人よりもわたしの優先順位が高い。たとえば、夜に出かけようとする傑さんに、行かないで欲しいといえばその夜は眠るまでそばにいてくれる。きっと、わたしと恋人どちらか一人しか助けられない状況に陥った時、彼が選ぶのはわたしだ。
「わたしのせい?」
「いや、私自身に至らないところがあるんだと思う」
「別れたくないなら、…もっと優しくしなきゃいけないんじゃないですか」
「優しくしてるつもりなんだけどなあ」
彼は困ったように眉を寄せると、眉間にしわができた。優しくすることは、たぶんとても難しい。
「なら、わたしなんかよりも大切だってちゃんと言葉で言ったほうがいいと思います」
「本当のことを誠実に伝える方が優しさだとは思わない?君の方が大切だって言うのは、当たり前だ。嘘じゃない、本当のことだから。…名前は、私にとってなによりも特別だよ」
傑さんの瞳には迷いのひとつもない。真っ直ぐに人を射抜くような光だ。
わたしとあの女どっちが大切なのよ。その答えをわたしは何度も傑さんの口から聞いている。答えを聞くたびに傑さんにとってわたしは特別なんだって、噛み締めるように優越感にひたることができる。最低だってことはちゃんとわかっている。
「でも、傑さんは、わたしと恋人にはなってくれないんでしょ」
「…名前のことを恋人なんかにはしたくない」
嬉しいのか悲しいのかわからなくて涙が出そうだ。わたしはこの距離感のまま、あなたから離れることができない。今電話していた女が知っているであろう傑さんの手のひらの体温を、わたしは知らない。背伸びをして、首に手を回せばキスだってできるはずなのに、わたしの靴の裏は地面に張り付いたまま動かない。
20201213
知らない