「わたしのこと、もう忘れちゃったかとおもった」
「…名字さんこそ」
「名字さん、ね」
彼女は細い指に似つかわしくないビールジョッキを傾けて私に微笑んだ。みるみるうちにグラスの中のビールはなくなっていく。
今この場にいるのはおよそ十名の術師たち。顔見知りの先輩から名前も知らない後輩まで、私がこの業界に戻ってきたことを歓迎するための酒の席が催されている。歓迎会というのはもちろん名目上のもので、主役であるはずの私を置き去りに各々気が合うもの同士で盃を交わしている。互いに理解がある者と騒ぎながら酒を飲む理由が欲しいだけなんだろう。
名字さんにならって手持ちのグラスの中身を一息で飲み干した。いつのまに、この苦いだけの飲み物をおいしいと錯覚するようになってしまったのか。
「七海ってお酒強いんだね、知らなかった」
「知らなくて当然でしょう」
私は、あなたとこうして酒を酌み交わす未来が訪れるなんて思いもしなかった。私たちふたりの周囲だけ静まりかえっているような気がする。じっと耳を澄ましていたらまばたきの音すら聞こえそうなくらいに。
名字さんのことを忘れられるわけがない。かつての恋人だ。一年生の終わり頃、二つ上の彼女とどちらともなく付き合い始め、私が高専を離れるタイミングで別れを告げた。恋人らしいことは一通りしたけれど、青春と呼べるような恋ではなかったかもしれない。校内では会話どころか視線を交わすこともなかったし、ふたりで会う時は決まって校外だった。制服でどこかへ出かけたことだって、任務を除いたら一度だってない。たぶん、灰原すら私たちの関係に気づいていなかっただろうし、ここにいる誰しもが私たちの関係を知らないと言い切れる。現に、こうしてふたりでいても誰も気に留めない。
追加で頼んだ日本酒。それに名字さんの分のビールが運ばれてくる。
「まだ飲むんですか」
「いつのまにかお酒強くなっちゃったんだよね」
名字さんはグラスに口付けて喉を鳴らした。泣いているような言葉も一緒に飲み込まれていく。
こんな風に彼女が弱くてやわらかい部分を自分に曝け出す瞬間がくるなんて、あの頃は思いもしなかった。ゆるやかに失われた互いがいない時間が、私たちを大人にした。
「ねえ、七海、酔ってる?」
「さあ」
どちらともなくテーブルの下で繋いだ手はひどく居心地が悪い。はじめてふたりで出かけた帰り道よりも、歯がぶつかるほど性急だったはじめての口付けよりも。
「…わたしは、酔ってないよ」
名字さんの顔は見れなかったけれど、彼女はたしかにそう言った。
「私の名前、覚えてる?」
もちろん覚えてる。忘れられるわけがない。あの頃の自分がどうしても口にできなかったあなたの名前を、私はようやく声に出すことができた。交わった視線が三十六度で溶け合う。このままあなたをさらってしまいたい。行き先はまだ決まってないけれど。
20201224
まだちゃんと覚えてるよ