※2017年12月24日
「硝子」
私の名前を呼ぶ声があまりにも切なくて、わかってしまった。ああ、終わったのだ。百鬼夜行と称された愚かしいクーデターがどういう形であれ終焉を迎えたのだと。名前はそれ以上何も話さない。ただ澱んだ空気だけが私たちのあいだにそっと佇んでいた。
「初恋の人と、彼氏ってぜんぜん違うんだよね」
彼氏とは別に、心の片隅で、ずっと好きなままなの。
名前のわらった顔は、例えるなら秋の日差しみたいに暖かで穏やかで、……なんて、私らしくないか。ちょっと詩的すぎた。
夏油が居なくなってから二年後の秋、名前には別の彼氏ができた。
名前の初恋の相手は言わずもがな夏油で、度々相談されていた。私はその度にあんなクズやめときなよと言ってろくに取り合うこともしなかったけれど。
夏油と付き合っていた間、名前は本当に幸せそうだった。同時に、辛かったんだろうとも思う。少しずつ世界との歯車が噛み合わなくなっていく夏油の姿を一番近くで見ていたのは間違いなく彼女だ。
「名前さー、あの時、夏油についていくかと思った」
「んー……」
「あんなに好きだったじゃん」
「……今でも、好きだよ」
「馬鹿だなー」
「たぶん、ずっと好きなままだと思う」
名前が目を伏せると長いまつげが頬に影をつくった。壊れたガラス細工すら、愛おしいと言って微笑む。戻らない悲しみも、寂しさも全部抱きしめて。
「……私には、わかんないよ」
コップから溢れた水は元には戻らないし、枯れた花が再び咲くことはないのに。馬鹿だなあ。夏油みたいな話し方をするようになった五条も、夏油のことをまだ好きだと言って目を伏せる名前も、馬鹿だ。
「五条が、傑のこと殺したって」
重苦しい空気を溶かしたのは、事実を淡々と告げる名前の声だった。
「……そうか」
「よくわかんないけど、納得しちゃった。……傑のこと殺せるのは、五条くらいだよね」
言葉にすることで自分を納得させているのだろう。わたしには治せない透明な傷口を、名前は自分自身で確かに抉った。
「わたしは、あの時、傑についていくべきだったのかな」
「……さあ」
たぶんこの十年で何度も考えたであろうもうひとつの人生の可能性を、遥か彼方を眺めながら名前はつぶやいた。私はポケットの中に入っているぐしゃぐしゃになった煙草の箱とライターを取り出して、火をつける。じりじりと先端が橙色に光っている。
「でも、私は名前が側にいてくれて良かったよ」
「……硝子がいなかったら、わたしの命日はたぶん今日だったかも」
「悪い冗談だな」
名前、あんたのまつ毛についた煙草の匂いがこのままとれなければいいのにね。大きな瞳からあふれる涙を拭うと長いまつ毛が指に触れてくすぐったかった。
同じものを失ったのに、私には五条の気持ちも名前の気持ちも、一ミリもわからない。私は、五条に、そして名前に、この十年でなにをしてあげることができたんだろう。これから何をしてあげることができるんだろう。その答えはもう十年見つかっていない。これから先も、きっとどこにもない。
本当はもう煙草に火をつけたくなんてなかった。冬の澄んだ透明な空気に、白煙が混ざっていく。
20210425
ないものねだり