あなたを救う呪いとなりますよう

※渋谷事変後


 どれだけ便利な世の中になっても、変わらない習慣があるひとだった。たとえば予定の管理や、メモを取る、そんな時にスマートフォンではなく手帳に書き込む。月額千円払えばどこでも音楽が聞けるのにCDを買う。化学調味料ではなく素材からだしをとる。効率だけを追い求めず、日常の中の無駄な部分すら愛してしまうような人だった。わたしの目にうつる七海さんは、そういう人だった。
「七海さん、その手帳、何が書いてあるんですか?」
「……秘密です」
「わかった、ご飯のことでしょ」
「まあそんなところですね」
 適当なことを言うわたしのことを、七海さんは曖昧に笑ってごまかした。七海さんがたまに眺めるその手帳の中身を、大切に持ち歩いているその中にあるひみつをわたしは知らない。

 五条さんが名指しで渋谷に呼び出されたのはハロウィンの夜だった。五条さんを指名するなんて、明らかに特級相当の呪霊が徒党を組んでいるのだろう。嫌な予感が頭の中にひしめきあう。
「行かないでください」
 わたしは震える声でそう伝えた。でも、彼はゆっくりと首を横に振る。まだ守られるべき立場の子供たちも戦地へ赴くのに、自分が行かないわけにはいかないと、わたしをなだめるように言葉が紡がれた。
「ならわたしも行きます」
「あなたにはあなたの役割があるでしょう」
 私の役目。手薄になった高専の警備というのは、七海さんと離れてまで遂行しなければならないことなんだろうか。
「あなたを置いていくことに不安がないとは言いません。名前さんは、お人好しで、頑固だから、すぐに騙されてしまいそうですし」
「そんなこと」
「あとはちゃんとご飯を食べてください。私がいない時はろくなもの食べてないでしょう」
「七海さん、」
 彼の話す一言ひとことが、まるで別れの言葉のように聞こえた。
「………七海さんが帰ってくるの、ずっと待ってますから」
「泣かないでください」
 七海さんがいない世界のことを愛せる気がしない。あなたがいない世界で、わたしはどうやって生きていけばいいのかわからなくなる。だから、ずっと待っています。わたしはその言葉と掴んだせいでついたワイシャツの皺に、ありったけの呪いと祈りを込めた。


 七海さんがあの日渋谷に持って行ったものの中でほとんど唯一残った手帳を、伊地知はわたしに届けてくれた。もう失うことに疲れたという面持ちで、目の下にはこい隈ができている。この後も、休む暇なく残された人の元へ向かう伊地知のことを考えたら、ここで泣くわけにはいかない。絶対に。わたしは涙をぐっとこらえて、ありがとう、とだけ言って受け取った。その手帳は、長年七海さんが使い続けていたやわらかい皮の手帳だった。
 わたしはこの生涯の中で、できれば、七海さんの手帳の中身を知りたくなかった。でももうわたしには、彼がこの世に存在していたことを思い知る方法がこの手帳しか残されていない。五線譜の隙間を縫うような丁寧さで、わたしは七海さんがいつも手にしていた手帳のページをめくっていく。
 日記とは呼べない、メモに近い言葉の数々は、七海さんと過ごした数年間を思い出すのには十分すぎるくらいだった。いつかの春には井の頭公園で桜を見ながらお酒を飲んだこと。夏には北海道でラベンダーに囲まれて、おいしいご飯を食べたこと。秋は京都で紅葉が降り注ぐ道を手を繋いで歩いたこと。冬は窓の外で雪が降るのを眺めながら、身体を暖めあったこと。忙しい毎日の中、季節が移り変わるグラデーションをあなたの側で眺めることができたこと。
 涙が頬を伝ってぽたぽたと白い紙を濡らす。ぬれた部分だけが灰色になった。なんで結婚しておかなかったんだろう。もしわたしがあなたの妻でいられたら、この先の生涯ずっとあなたの位牌に手を合わせることを許されたのに。
 読み終わりたくない。このまま指を進めたら、わたしは七海さんとの思い出が詰まったこの部屋で、本当のひとりになってしまう気がした。七海さんが好きだと言っていたCDが滲んだ視界の端に映った。まるで溺れているように、息を吸うのもままならなくなる。この部屋に残されたのは七海さんが愛したものばかりだ。
 意を決して最後の頁に手をかけた。
 そこに書かれていたのはわたしの名前と、幸せになってくださいという一言だけだった。
「ずっと、……待ってますから」
 手帳を閉じて、それをぎゅっと抱きしめる。
 誰に愚かだと言われてもいい。誰に笑われてもいい。どれだけおぞましくともわたしはここで生きることしかできない。跳ね上がる心臓をどうすることもできないまま、息をめいっぱい吸い込んで、ふたりで過ごした思い出で肺を満たした。
 七海さん、わたしの幸せはあなた以外にありえない。ねえ、わかるでしょ。

 春の木漏れ日、夏の星空、秋の月、冬の静寂。わたしはここであなたを待つ。


20210425
あなたを救う呪いとなりますよう