二週間ぶりに日本に帰ってくると、なんだか寒いのに空気が肌に貼り付くし、肺にはため息の澱が溜まっていく気分になった。手続きを済ませてキャリーケースを受け取る。はやく行かないと、一秒だって時間が惜しい。時差で狂った体内時計を携えてわたしは歩き出した。
「明日の十八時、表参道で」
昨日の真夜中に冥さんから電話がかかってきた。日本は真夜中ではないかもしれないけれど、ここは今真夜中だった。冥さんと書かれたディスプレイを見て飛び起きた。隣に寝ていた男の脇腹を蹴飛ばしたら、ぐえ、という何とも品のない声がした、冥さんに聞こえていないといいのだけれど。明日ですか、わたしはもう一度確認する。冥さんは明日だよ、聞こえなかったかな、と言って笑っていた。明日の十八時なら、今から荷物を纏めて深夜の便に乗り込めば、なんとか行ける。わたしの脳みそは一瞬だけ躊躇ったけれど、脊髄反射で行きますと答えていた。
なんだよ別の男か? と寝ぼけた声で聞かれたのでもう一度脇腹を蹴飛ばした。こんな男のことを好きだと一瞬でも思った自分が馬鹿だった。冥さんをそこらへんの男と一緒にするなんて、なんて罰当たりな。
とにかく今から日本に帰る、とだけ言ってばたばたとキャリーケースに荷物を詰め始める。ぐちゃぐちゃだ。服も下着も化粧品も薬も。でもそれもどうだっていい。またいびきをかいて寝始めた男を尻目に、髪の毛をとかす。冥さんが褒めてくれた口紅をきっちりつけて、タクシーでシャルルドゴール空港に向かった。その途中で空港券を手配する。これで冥さんに会える。わたしは胸を撫で下ろした。ゆっくり目を閉じる。まなうらにはわたしを見つめる冥さんの姿がたしかに浮かぶ。はやく会いたい。
十八時に表参道で、と言ったわりに冥さんが待ち合わせ場所に着いたのは十八時をだいぶ過ぎていた。わたしが冥さんの時間を奪うのは許されないけれど、冥さんはわたしの時間を好きなように使っていい。わたしのためにここまで来てくれた事実だけで充分だ。
「久しぶり」
「……冥さんが呼んでくれなかったから」
「拗ねてるの? 可愛いね」
密やかに、それでいて大胆にわたしの髪に触れる。所作のひとつひとつが美しくて見惚れてしまう。行こうか、という冥さんの後ろを着いていく。どこに行くのか、皆目検討もつかない。
辿り着いたのは昨日泊まっていたフランスのホテル顔負けのお洒落なホテルだった。何か食べようか。冥さんはルームサービスのメニューをぱらぱらとめくっている。
冥さんは相変わらず長くて白い脚をゆらゆらと動かしている。スカートのスリットからちらちらと健康的で無駄なものが一切ついていないふくらはぎが垣間見える。わたしはそれをずっと眺めていられるなと思った。見過ぎだよ、と冥さんに注意されて、すみません、と謝る。顔をあげる瞬間に、気づいてしまった。かかとの部分が赤い。靴ずれが白い脚の中で浮いていた。
「冥さん、かかとが」
バッグからがさごそと絆創膏を探してみたけれど見つからなかった。使えない! キャリーケースの中だ。しまった。絆創膏なんて、こんな時くらいしか使い道なんてないだろうに。
「舐めてくれる?」
わたしは頷いて、冥さんの足元に跪いた。わたしが、冥さんに触れていいんだろうか。冥さんは白い脚をわたしのほうに差し出す。冥さんの足は見た目以上に硬かった。この美しい身体のどこに、足の甲にキスをして、赤くなっているかかとを舐めた。満足そうにそれを眺めている。
「わたしに、ほかにできることはないですか」
「何してくれるの?」
なんだってする。でも、なんだってしますというのは、なにも特別なことはできませんと言っているようなものだと、わたしは思う。だから精一杯の敬意と愛情を込めて言葉を発した。
「冥さんのために死ぬことも、冥さんのために生きることも、わたしにはどっちも容易いことなのに」
「私は、そんな簡単な命、いらないかな」
冥さんは嫋やかに笑っている。ひどい人だ。ひどくて、美しい人だ。
この人生に運命なんてなくていいから、わたしの命をあなたのために使わせてほしい。それだけなのに。それ以上望むことなんて、本当に何もないのに。
20210727