心臓の隙間にさえ入り込むような雨が降った。呼吸が苦しくなるほどの雨音から逃げるために近くにあった公園の屋根付きベンチに入る。それでも遥か高みから地面を叩きつける水音は耳に張りついてはなれなかった。今朝部屋を出るときは晴れていたせいで、傘は寮に置いてきたことを後悔する。
「急に降ったね……」
「大丈夫ですか?」
「ちょっと濡れちゃったけど、暑いし、すぐ乾くでしょ」
息を吸い込めばぬるく湿った空気が肺を満たした。風が冷たい日もあれば太陽が発する熱に辟易する日もあるし、今みたいに突然に大粒の雨が通りすぎることだってある。まったく、この時期の天候は変わりやすくて好きになれない。
となりに座る名字さんとは目を合わせることなく、他愛もない会話を続けていく。
「傘持っててもこの雨じゃ寮まで帰るの無理だったな」
「そうですね」
「今日、用事とかなかった?」
「特にありませんけど。名字さんは、大丈夫ですか」
「わたしも何にもない」
私はこの人のことをどれだけ知っているだろう。術式の相性の都合上、こうしてふたりで任務に出向くようになってから数回、未だに名字さんのことをほとんど何も知らないような気がする。後輩の自分にも、先輩たちにも、分け隔てなく優しい人だ。笑顔が似合う人だ。それ以上のことを私は知らない。
「あ、」
ざあざあと音を立てていた雨の音が弱くなって、少しだけ太陽が顔をのぞかせた。濡れたワイシャツを少しだけ疎ましく思いながらぐっと伸びをする。
「七海くん、帰る前にちょっとだけ寄り道しない?」
「いいですよ」
どうせ今日この後の予定なんて何もないのだ。名字さんの気まぐれに付き合うのも悪くないと思った。
「よかった、まだ咲いてた」
「綺麗ですね」
「今週で見納めかなって思ってたけど、……きれい」
「紫陽花、好きなんですか?」
「散歩してる途中で探しちゃうくらいすき」
さっき任務に行く途中で見かけて、気になってたんだよね。名字さんは大切なものを眺めるように紫陽花を見つめながら話した。
空色とは違う鮮やかな青色と、それから削り出した石英を思わせるような高貴な白い紫陽花が道沿いに並んでいる。
「紫陽花って、桜と違って花びらが散る前に枯れるよね。わたしは、枯れた紫陽花の色も好きだよ」
少しだけ色が抜けた紫陽花を眺めながら、この名前をつけることができない曖昧な季節の終わりを思う。そして、静かに迫り来る夏を。
太陽が夕陽に名前を変えて、地平線に沈む手前。私の影と名字さんの影が重なった。あたり一面が橙色に染まる。
「いつもは七海くんの髪の色も目の色も特別だって思うけど」
ようやく、名字さんと視線が交差した。
「今だけは七海くんの髪の毛の色も、特別じゃないよ。わたしと同じ色してる」
「……何色ですか」
「あんずとか、マンゴーとか?」
「美味しそうですね」
「甘くて、夏って感じの色」
名字さんが口にした果物の味なんて、ずっと前から知っているはずなのに、どうしてかそれらがたまらなく甘いものであるような気がする。
「果物の話してたら甘いもの食べたくなったな。このあとさ、まだ時間ある? ……せっかく、七海くん誕生日だし甘いもの食べに行こうよ」
「知っていたんですか?」
「ちゃんと、言うつもりだったんだけど……」
「名字さん、こっちを見て言ってくれませんか」
「やだ。恥ずかしい、見ないで」
すっと息を吸い込む、夕焼けが照らす名字さんの横顔をただ見つめていた。くちびるの動きひとつ見逃さないように。
「誕生日おめでとう、七海くん」
「名字さん」
目を合わせようとしない彼女の腕を掴んだ。雨で濡れた彼女の肌が冷たいせいで、自分の体温の高さを知る。
覗き込んだ彼女の瞳は、燃えるような夕映えの色。
20210727
まざる夕焼け
七海さんお誕生日おめでとうございます記念